82章 ガリラヤの町々を叱る
マタイ11章20〜24節/ルカ10章12〜15節
【聖句】
イエス様語録
コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。
お前たちのところでなされた力ある業がティルスやシドンで行われていれば、
これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたことだろう。
しかし、裁きに際しては、お前たちよりまだティルスやシドンの方が堪えやすい。
また、カファルナウムよ、お前は、天にまで上げられるとでも思うのか。
陰府にまで落とされるだろう。
 
マタイ11章
20それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
21「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。
22しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
23また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
24しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」
 
ルカ10章
12言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。
13コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。
14しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。
15また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。」
【参照】
「言っておくが、かの日には、その町よりもまだソドムのほうが耐えやすい。」
                         (マタイ10章15節)
「だれでもあなたたちを受け入れる者は、わたしを受け入れている。
だれでもわたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れている。」
                       (マタイ10章40節)

                        【注釈】
 
【講話】
■霊のお言葉を肉で読む
 今回の出来事もずいぶん厳しい内容です。「不幸だ」と訳されている原語は、「わざわいだ!」という意味です。でも、イエス様は、父の御心のままにお語りになったのですから、ご自身から出た言葉と言うより、父なる神から出た厳しさだと受けとめておられたのでしょう。イエス様は、ヨハネ福音書でも、父の御心を受けて、ずいぶん厳しいお言葉を敵対する「ユダヤ人」たちに語っておられます。
 こういうところを人間的に判断して、イエス様をただの人だと見るなら、「イエスがせっかく情熱を傾けて伝道し、その上弟子たちまでも派遣したのに、ガリラヤの町々は、期待していたほどには反応を示さなかった。このためにイエスは感情を害して、激情のあまり呪いの言葉を吐いた」、という見方もでてくることになります。そこまでいかなくても、イエス様のガリラヤ伝道は、初めに期待しておられたほどにはうまくいかなかったから、その期待と結果とのギャップが、挫折感となってここに表わされている、という見方がされています。イエス様の伝道は失敗だったというわけでしょうか。
 イエス様以後の歴史から見ますと、このような見方は誤りで、カファルナウムを中心とするこの地帯は、1世紀のユダヤ戦争の後でも、多くのキリスト教徒たちが住むようになったと思われます。特に、4世紀にキリスト教がローマ帝国の公認宗教になり、その後ローマの国教になりますと、カファルナウムには様々な民族のキリスト教徒が住んでいて、この町は聖地の一つになり、巡礼に訪れる人たちも多かったようです。たぶんペトロの家があったからでしょう。カファルナウムが、「キリスト教のゆりかご」と呼ばれるゆえんです。
 もしもイエス様が、歴史に残る神様の不思議な御業を見通すことができなくて、目先の結果に左右されて腹を立てたと思われたとすれば、「人間イエス」もずいぶん見くびられたものです。同様に、イエス様が十字架におかかりになったのも、惨めな大失敗で、社会革命に挫折した結果、惨殺された哀れな人間だと見なすのでしょうか。こういう人たちに、「ヨハネ福音書には、イエス様が、自ら進んで十字架の道を選び取って歩まれたと証しされていますよ」、といくら言っても、彼らは、そんなことは、後から教会が作り上げた嘘だと言うだけでしょう。このように思いこんで、そのように書き、そのように読んで、好奇心を満足させている人たちが、今の日本に大勢います。福音書が、イエス様の御霊にあって書かれた文書で、それは霊的な出来事を証しするものであり、そのようなものとして読むようにわたしたちに呼びかけていることが、こういう人たちには、なかなか理解できないのです。このような現状を見ていると、わたしでも「わざわいだ!」と叫びたくなります。
■霊のお言葉の重層性
 このように言うと、わたしが、客観的で学問的な読み方を軽蔑するか、これを批判しているように思われるかもしれません。しかし、学問が「真理」を求めるものなら、福音書が伝えようとしているのは、どのような「真理」なのか? この点にもっと謙虚な姿勢で向き合うべきではないかと思います。信仰や聖霊の問題を伝える書物を扱う場合にも、歴史的かつ実証的な方法を用いる必要があるのは言うまでもありません。けれども、そういう実証的な方法は、人間の肉眼で確認できる範囲に限定されますから、聖書のような霊的な書物の場合には、自ずとそこに限界が生じることもまた、同時に覚えておかなければならないのです。
 福音書が伝えるのは、イエス様の霊性から生じたお言葉であり出来事です。霊性から出たお言葉や生じた出来事は、その性質上、常に新たな解釈を呼び求めますから、史実として語られ行なわれた事が、その時その場で帯びていた意義だけではなく、同時にそれ以後の解釈も重ねられてくるのは当然です。こういうことを言うのは、今回の場合でも、イエス様のお言葉とその業とを記(しる)した記事には、マタイあるいはルカの教会の人たちの解釈なり見方なりが反映していると見られるからです。イエス様が、ガリラヤの町々に厳しい警告を発したのは事実です。その事実とは、福音書に記されている辞義通りなのか? それとも、後の教会の信仰もそこに反映しているのか? いったい、どちらの見方が正しいのか? と問うこともできます。しかし、このように問うことによって、福音書の記事が真正でないと思いこむとすれば、それは適切な読み方ではありません。なぜなら、物事の霊的な意義は、それが真正なのか、そうでないかをきちんと振り分けできるほど明確ではないからです。また、ある出来事を語る記事が、後の教会の見方や解釈がその上に重ねられているから真正ではないと判断するのも正しい聖書の読み方とは言えません。なぜなら、イエス様の霊性それ自体が、イエス様以後の教会に新たな解釈を呼び込むよう働くからです。イエス様のお言葉もイエス様の出来事も、このように常に新たな意義づけを招き寄せるよう人々に働きかけるのです。わたしたちは、福音書の記者たちが、イエス様の出来事をどのように解釈し編集したのかを知ることによって、伝えられたお言葉や出来事を解釈する「その方法」を学ぶことができるのです。聖書は、お言葉や出来事を伝えているだけではなく、それらをどのように解釈し、読みとるのかという、聖書解釈の方法をも伝えているのです。
 イエス様は、ガリラヤの町々に、力ある御業によって、終末的な御国が「すでに」到来していることを証しされました。したがって、地上において、裁きが「すでに始まっている」ことをはっきりと見据えておられたのです。同時に、その「すでに」は、御国の到来とこれに伴う裁きが、「まだ」完全に成就してはいないことをも含んでいて、イエス様はそのこともまた、はっきりと知っておられたのです。イエス様は、神殿の崩壊を予告しておられますから、ユダヤの国の滅亡がすでに間近であることを予知しておられたのでしょう。だから、目の前のカファルナウムの現在と終末に降される裁きの宣告とを重ねて語らずにはおれなかったのです。そのお言葉は、終末の裁きの宣告でもあり、同時に、ガリラヤの町々に対する警告ともなるのです。
 わたしたちは、ここでイエス様が警告しておられるのが、紀元1世紀のパレスチナのガリラヤのことだと思い違いをしてはなりません。神の裁きは、いつの時代のどの所にも及ぶからです。古(いにしえ)のソドムとゴモラがそうでした。栄華を誇ったフェニキア地方のティルスやシドンもそうでした。マタイの教会の人たちが見聞きしたであろうエルサレムの滅亡(紀元70年)もそうでした。だから、「もしもわずか2年間ほどしかイエスの福音を聞かされなかったガリラヤの人たちに、このような厳しい裁きが来るのであれば、何世紀にもわたって福音を聞かされてきた欧米の国々は、いったいどうなるのだろう!」〔ルツ『マタイ福音書』〕という懸念も十分理解できます。
■力ある御業
 注釈をお読みくだされば分かるように、マタイは、イエス様のお言葉から、狂信的なユダヤ民族主義がもたらしたユダヤの滅亡という悲惨な出来事と、これに対する神からの警告を読み取りました。ルカのほうは、神の民イスラエルとは逆に、異教世界にある現在の自分たち異邦人キリスト教徒の教会も、ガリラヤの町々と同じような裁きに出合う危険性があることを読み取っています。
 イエス様は、ご自分にあって働く力ある御業が、神の御霊が働いた結果であることをよくご存知でした。もしも人々が、このようなイエス様を注意深く観るなら、イエス様を通して働く神の御力と御栄光を認めることができたはずです。そうすれば、イエス様を深く信じることで、イエス様が伝えておられる神の国を垣間見ることができたにちがいありません。たとえ人々の理解の仕方がどんなに不確かで不十分でも、御国が現実に臨在している出来事を<イエス様の存在を通して>体験することができたからです。イエス様が求めておられたのは、まさにこのことだったのです。しかし、現実は必ずしもそうではなかったようです。だからイエス様は、人々の悟りのなさを独特の鋭い表現で警告されたのでしょう。
 今回の箇所で特に大事なのは、イエス様が、ご自分を通して行なわれている力ある御業を人々がどのように受けとめたのか? というところに注目しておられることです。おびただしい人たちが、イエス様が行なわれた癒しや悪霊追放の御業を見たり、あるいは実際に自分も体験したりしています。では、彼らは、これらの力ある御業をどのように受けとめたのでしょうか?
 癒しや不思議などの霊的な出来事を耳にしても、出来事それ自体を自分で見ようとはせず、また見ても信じようとしないで無視してしまう、こういう一部の指導者たちがいるのは残念ながら事実です。しかし、そのような無関心で無知な人たちだけではなく、霊的な現われを見たり聞いたり、実際に体験したりした人たちもまた、ここで問われているのです。
 ある人たちは、自分の目の前で起こっている御霊の不思議な御業を「ただ黙って眺めて」います。自分が今見ていることが、まるで、自分とは無関係であるかのようにです。どうしてそうなるのでしょうか。彼らには、目の前で起こっている出来事が、「聖書のお言葉や証言」と結びつかないからです。おそらくこの人たちは、聖書を全く知らないか、あるいは知っていても、聖書で語られている出来事を遠い昔の伝説のようにしか考えていないのでしょう。だから、生きて働く神ご自身が、今目の前で働いておられることを悟ることができないのです。
 次に、こういう不思議な出来事に接して驚いたり感動したりして、一時的に、イエス様のお言葉を受け入れて、その御業を信じる人たちがいます。ところが彼らは、すぐに、そのみ恵みと神様からの働きかけを忘れてしまうのです。このような人たちは、イエス様が復活されて、今もその御臨在を通して働いておられることを知らないのです。すなわち目の前の出来事が、「復活のイエス様」と結びついていないのです。
 また、イエス様をある程度信じ、自分でも御業を体験していながら、いつの間にか、その時の信仰や感動を忘れてしまう、あるいは見失ってしまう人たちがいます。これは、すでにクリスチャンになっている人たちに多いようです。彼らは、起こっている出来事が神の御業であることを信じます。またイエス様が復活されたことも知っています。ところが、せっかくの体験も、いつの間にか薄れて、色あせてしまうのです。なぜでしょうか。それは彼らがその時に体験したことが、「自分に与えられた啓示」であることを見過ごしているからです。彼らは、せっかく与えられた啓示を「自分に向けられている」とは思わないで、牧師や他の信者のたちの言うことやすることに気を取られたり、人の意見を聞いて回ったりするのです。
 こういう人たちは、それが自分に与えられた啓示であり、しかも、復活したイエス様が「自分に与えてくださった啓示」であることを悟って、そこに「とどまり続ける」ことを<しない>のです。留まり続けるためには、出来事を生じさせてくださった神と、それを行なわれたイエス様と向き合わなければなりません。あの出血を癒してもらった女性のように(マルコ5章25節以下)、1対1でイエス様と「人格的に」出会わなければならないのです。イエス様を「眺める」人、イエス様の話を「聞く人」は大勢いますが、「出会う」人は少ないのです。出会ったら、その出会いを自分のこととして大事にし、イエス様に「祈り続け」なければなりません。これを怠ると、せっかく与えられた御霊の啓示が、その人から失われてしまうのです。
 霊的な出来事に接して実を結ぶ人は、それが神から自分に与えられたメッセージであることを悟る人です。また、復活したナザレのイエス様の御臨在から出ていることを洞察する人です。啓示とは、常に祈ることによって、啓示され続けることで初めて、ほんとうに実を結ぶ結果をもたらすからです。こういう人たちは、イエス様ご自身が、永遠に変わらないことを自分の祈りによって知りえた人なのです。
■霊能より霊性
 以上述べてきたことは、力ある御業を逆に悪用すればどうなるのか? ということをも示唆してくれます。「力ある御業」とは、いわゆる「霊能」のことです。この霊能の業をイエス様に近づく道とはしないで、これを自分の欲のために利用する、例えば、売名のための人集めの手段とか、最悪の場合は、お金儲けの手段にすることさえ考えられます。そこまでいかなくても、霊的な体験を「霊能」の力としてしか見ないで、これを「自分の利益のために」利用しようと考えるのは、わたしたちだれもが陥りやすい誘惑です。
 霊能は御霊の働きであり、御霊とは三位一体のイエス様の御霊のことですから、霊能は、人をイエス様へと導くための手段です。人とイエス様との「交わり」のために与えられているものが、聖霊のお働きとしての霊の賜、すなわち霊能です。三位一体とは、人格(ペルソナ)の神のことですから、御霊は人格としてその人に働き、その人を変容させていきます。これが、イエス様の御霊の御臨在にあって与えられる「愛の働き」なのです(ガラテヤ5章6節)。パウロが、「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛であり、そのうちで、最も大いなるものは愛である」(第一コリント13章13節)と言うのはこの意味です。このようにして、イエス様の御霊にあって、その人のうちに形成されていく霊的な人格、これをわたしは「霊性」と呼んでいます。大事なのは、「霊能」より「霊性」です。
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