83章 御父への賛美
マタイ福音書11章25〜30節/ルカ福音書10章21〜22節
【聖句】
イエス様語録
イエスは言われた。
「父よ、天地の主よ、あなたをほめたたえます。
  これらのことを知恵者や知識人に隠して、
  幼子たちに啓示なさいました。
そうです、父よ、こうなるのは御前によいことでした。
すべては、父からわたしに委ねられています。
  父のほかに子を知る者はなく、
  父を知る者もまた、子と、
  子が啓示したいと思う人たちだけです。」
 
マタイ11章
25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 
ルカ10章
21そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
22すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」
                 【参照】
『トマス福音書』(90)
イエスが言った、「私のもとに来なさい。私の軛は負いやすく、私の支配は優しいからである。そして、あなたがたはあなたがた自身に安息を見いだすであろう。」〔荒井訳〕
                       【注釈】
 
【講話】
■イエス様の感謝
 皆さんは、こういうことを考えたことがあるでしょうか? 現在この国では、キリスト教や聖書に関する書物が溢れています。日本人の書いたものから、欧米の先生方の書いたものの翻訳をも含めると膨大な数になると思います。もちろん、これら国の内外の偉い先生たちの書いたものにも、カトリック、プロテスタント、さらに聖霊派やリベラル派や福音主義など、いろいろな傾向があります。だから、おそらく皆さんはこう考えないでしょうか。これらの教団や教派の先生方の中で、どれがほんとうにイエス様とイエス様をお遣わしになった神の御心に最も近いのだろうと。そして、そう言う先生が、「学識ある」先生であり「賢い」先生であると。
 ところが、もしも、ある人が、カトリックからプロテスタントにいたる先生たちの書いたものをことごとく含むほどの広範囲な「知恵」を具えていて、賢者や知者と言われているそれらの先生たちの教えに優る霊的な知恵を持っていて、しかも、その人が、自分に与えられたその知恵の霊性を全く無学で、キリスト教や聖書の知識とはおよそかけ離れた単純な人たちに向かって、巧みなたとえで分かりやすく、しかも鋭く語り、さらにその上で、「先に述べたような偉い先生や学識ある学者たちには、こういうことが全く通じないけれども、あなたがたにはイエス様が啓示してくださったのだよ」と言って、いきなりそこで大きな声で、「父よ感謝します! この福音の真理を無学な人たちに啓示してくださったことを。これらのことは、知識ある人たちや、賢い人たちには隠されているからです」と祈ったとしたらどう思いますか? 実はこれが、今回のところで起こった出来事です。
■神の知恵
 イエス様は、「父よ、感謝します!」という祈りで始めておられます。ただし、イエス様はここで、律法の学識者たちや律法を学んだ知恵者たちには、イエス様の伝える御国の福音を悟ることが「できない」こと、そのことを神に向かって感謝しているのではありません。なぜなら、律法の知識や人間の知恵は、それ自体で大事なものであり、これなしにわたしたちは正しい歩みをすることができないからです。聖書を学ぶことは、聖書「だけ」を学ぶことではなく、聖書を通じて、自然を学び、社会を学び、人生そのものを学ぶことにつながります。もっとも、2000年のキリスト教の伝統が積み上げてきた神学的な知識は膨大なもので、とても一人の人間がまんべんなく学ぶことのできるものではありませんが。
 ではイエス様は、そのような知識も知恵も持ち合わせていない無知で「愚かな人たち」のその愚かさを神に感謝しておられるのでしょうか? そうではありません。「幼子」とあるのは、幼稚(ようち)ということで、これは必ずしもほめられることではありません。一方には、聖書や神学について膨大な知識と知恵を持つ人たちがおり、他方では、そのような知識や知恵とは全く無縁な人たちがいます。
 イエス様がここで感謝されているのは、天地を造られた父なる神が、そのような広大な知恵と知識を含む福音の神秘/奥義をば、そのような無知で単純な人たちに対して啓(ひら)いたこと、このイエス・キリストの福音が、幼子のような人たちに「啓示」されたこと、「このこと」を感謝しておられるのです。なぜならこれは、人には決してできない神の奇跡だからです! わたしが福音の真理あるいは奥義として伝えていることは、いつも言うように簡単なことなんです。ナザレのイエス様は、復活されて今も御霊として生きておられて、信じるわたしたち一人一人と共にいてくださる。これだけです。単純なことです。子供でも分かります。逆に「聖書に詳しい者、職業的に神のことに携わっている者はイエスを受け入れませんでした。彼らはその細部にこだわった知識の茂みに囚われてしまったのでした。全体のことに対する単純な眼、神ご自身の示される現実への眼は、彼らの膨大な知識によって曇らされてしまっていたのでした」〔ローマ法王ベネディクト16世(ヨーゼフ・ラッツインガー)著『ナザレのイエス』里野泰昭訳、春秋社(2008年)〕。
 でも、これを説明するのはものすごく難しい。これについての膨大な聖書註解があり、聖書事典があり、聖書解釈があります。「天地をお造りになった方」からの啓示ですから、これは当然です。たとえて言えば、わたしたち一人一人は、体によって生きています。これはだれにでも分かることですが、さあ、この体の仕組みを調べるとなると、膨大な医学的な知識が必要になります。こんなすごいことが、体という単純な事実として、幼子にも与えられている。このことをイエス様は感謝しておられるのです。「父よ、こうなるのは御前によいことでした」とありますから、これが、「神の知恵」であり父のみ心です。
■イエス様という鏡
 ところが、これに続いてイエス様は、
    「父のほかに子を知る者はなく、
    父を知る者もまた、子と、
    子が啓示したいと思う人たちだけです」
と不思議なことを言われています。「子」とあるのはイエス様のことですから、イエス様が神の御子であることは、天地の創り主である神「だけ」が知っておられて、神以外にだれも知らないというのです。続いて、「父を知る者も、子以外にいない」とあります。「知る」というのは、ここでは霊的な交わりによって「知る」ことです。
 実はこの部分には、イスラエルの知恵思想が反映しています。旧約の続編に知恵の書というのがありますが、そこに次のように書かれています。
  知恵は永遠の光の反映、
  神の働きを映す曇りのない鏡、
  神の善の姿である。
  知恵はひとりであってもすべてができ、
  自らは変わらずにすべてを新たにし、
  代々にわたって清い魂に移り住み、
  神の友と預言者とを育成する。
        (知恵の書7章26〜27節)
 何ともすごい言葉です。ここでは、「知恵」が鏡にたとえられています。知恵とはイエス様のことです。だからイエス様はここでは鏡です。その鏡に「永遠の光」が反映/反射します。この光は神様からの啓示の光です。イエス様という鏡を観ている人は、神を啓示する光がイエス様から反射して自分の方に来るのが分かるのです。すると、素直なきよい心の人の内に、その光が「宿る」と言うのです。光が「宿る」というのは分かりにくいです。イエス様を観ている人の心が、イエス様の鏡からくる神様の光に照らされると、イエス様というその鏡に、自分の姿が映る。自分の心/魂が映る。しかも、その自分の映像は、「イエス様が自分を見ていてくださる」その映像なのです。だから、イエス様という鏡に自分が映ると、それを観ている自分が、全く「新しい」姿にされて映って見えてくるのです。「イエス様にある」自分の姿が見えるのです。もっとも、私たちがこの世にいる間は、その姿もまだ不完全で、はっきりとはしませんが(第一コリント13章12節)。これが、「幼子」のような人に起こる啓示の出来事です。
 鏡とは不思議なもので、鏡から来る映像に映るのは観ている自分です。光が来て、その光が、イエス様の鏡に自分を映すのなら、イエス様から出た光が、自分に当たって反射して、再びイエス様の鏡に向かっていることになります。イエス様を観ているその人の心もまた鏡になっているのです。イエス様からの光がその人の心の鏡に映って反射して、その人の姿が、イエス様の鏡に映るからです。しかも、イエス様の鏡に反射したその光は、今度は元(もと)来た父の方へ跳ね返って、光源へ戻っていくのです。だから、啓示の光は、父から出て、イエス様に反射して、イエス様から人の心に来て、その人の心からイエス様に戻り、イエス様の鏡から父の方へ戻ることになります。始めから終わりまで、光は父から来る光で、イエス様もわたしたちもなんにもしないのです。鏡が下手に動くとうまく映らないのです。
■神を「知る」ということ
 だから、神を「知る」というのは、神様から出た光が、イエス様からイエス様を観る人へと反射して、再びもとの光源へ戻ることなんです。わたしたちは、そして、たぶんイエス様も、なんにも知らない。神様から出た光が神様へ戻るのなら、「知って」おられるのは神様だけです。神様は、神様だけしか「知る」ことができないのです。人間から出た光ではないから、人間はなんにも「知る」ことができません。ただ、神様に「知られている」こと、そのことを「知る」だけです。「光」は「命の光」「真の光」です(ヨハネ1章4節/同9節)。この光に照らされてわたしたちは神様に「知られる」のです。だから、わたしたちに分かることは、自分が神様に「知られていること」、そのことが「分かる」のです(ガラテヤ4章9節)。これが、イエス様の父に「愛される」ということです(第一コリント8章3節)。
 わたしたちがイエス様を観ると、そこに自分自身を観ることができます。これがイエス様に「知られる」ことです。イエス様という鏡なしに、わたしたちは神を「知る」ことができません。だから、「父を知る/父に知られる」ことができるのは、「子が啓示したいと思う人たちだけ」なのです。父の姿を映すのは「子以外には」いないからです(ヨハネ10章14〜15節)。これでわかるように、「光」とは、父から子を通じて働く聖霊のことです。父と子と聖霊、この三位一体の交わりの中に、「知る」という行為が行なわれていることになります。
 こんなこと、説明して、「はいそうですか」と分かることではないですよ。「なにゆえ」、「どうして」と論じたり、あれこれ頭で考えても分かることではありません。まして、「実行できる」ことではないのです。ところが、幼子のような人にはできるのです。イエス様を単純に信じている人たち、こういう「愚かで」単純な人には、現実に生じる出来事なんです。せっかく御霊にあるわたしたちが、イエス様に宿っているのですから、下手に動くとイエス様を見失います。イエス様を見失うと、自分自身を見失います。だから、イエス様の内に「留まりなさい」と言われるのです(ヨハネ15章4節)。大事なことは祈りによってイエス様を見失わないことです(ヤコブ1章23〜24節)。後は、イエス様に導かれるままです。
■優しい軛
 幼子の話から、なんだか難しくなってきましたが、要するに、こういうことは学識者や利口な人にはなかなか呑み込めません。知恵の働く人は、自分でいろいろやろうとしますが、頭で分かっていても自分では実行できないのです。でも、幼子みたいな人にはそんなに難しくないのです。難しい理屈はいろいろあるけれども、信頼して実行するのはそんなに難しいことではない。だからイエス様は「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われたのです。マタイは「学ぶ」が好きですが、これは「従い」なさいということです。信じることと従うことは一つ、信行一如です。このようにして、「愚かな者」が「賢く」なるのです。神様のなさることは不思議です。
 ところが、こうして、イエス様の恵みを受けて「賢く」された「愚かな」人が、自分には、特別に神の恵みが与えられたと思いこんで、そのことを自慢しだすと困ったことになります。だからイエス様は、ご自分のことを「柔和」で「謙遜」な者だと言われたのです。これは、イエス様に従うわたしたちもそうなりなさいという意味です。実は、イスラエルの神が「愚かな者」を「賢く」するというのは、イエス様以前にも知られていたことです。クムラン宗団の人たちは、自分たちのことを「愚かな者たち」と呼んでいました。自分で言うのですから、変だと思いますが、これには「愚かさを誇っている」ところがあります。昔、浄土真宗で、浄土に往くのは弥陀の本願によるのだから、人の悲願によるのではない。ただ「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで浄土へ往くことができると教えられて、逆にそのことを自慢する人たちがいました。これを「本願誇(ぼこ)り」と言います。同じように、「愚か誇り」になっては大変です。これでは、ほんとうの「愚か者」になってしまいます。
 わたしたちは、人の知恵によらないで神の知恵によって、愚か者から御霊にある知恵の人へと導かれたのですから、「柔和」と「謙虚さ」を忘れないようにしたいものです。そうすれば、ほんものの「知恵」に与って、イエス様の軛、これは「知恵の軛」(シラ書51章25〜27節)です、これを負って歩むことができます。「知恵の軛」の特徴は「安らぎ」です。「平安」こそ「愛」と「悦び」と並んで、イエス様の御霊の三大特長ですから(ガラテヤ5章22節)。この三つがある人は、イエス様の福音を「生きている」人です。これを失えば、どんなに立派なことを言っても、それは「福音」とは言えません(ガラテヤ1章7節)。「安らぎ」は、人がイエス様にあることのしるしなのです。
                      戻る