【注釈】
■イエス様語録
 イエス様語録のこの項でも、マタイとルカはほぼ一致していますが、全体は、主としてマタイによって復元してあります。なおここの私訳はギリシア語原文の構成に沿って改行し、直訳してあります〔ルツ『マタイ福音書』を参照〕。ルカとの違いをあげると、マタイの「イエスは言われた」に対してルカは「イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた」です。マタイの「認識する/識別する」に対してルカのほうは「知る」です。さらに、マタイの「子を(認識する)」に対してルカは「子がどういう者かを/だれであるかを(知る)」となっています。
 なお、マタイ13章28~30節は、独立した伝承だと考えられますが、これがはたしてイエス様語録に含まれていたかどうか疑問が持たれています〔ヘルメネイアQ注〕。この項を省いた版もありますので〔マックQ〕、今回のイエス様語録からもはずしてあります。。
 イエス様語録では今回の項が、先のガリラヤの町々を叱るイエスの言葉の次に来ます。さらにその前には神の国を宣べ伝える際の指示がありますから、今回の項も福音伝道に関係すると思われます。しかしこの項は、伝道への具体的な指示ではなく、イエスを受け入れる者と受け入れない者との区別について語るものです。特に前回と今回の項とは、内容的にちょうど反対であることが注目されます。前回では、人々はイエスのしるしを受け入れませんが、今回は、「幼子」のように素直に受け入れます。前回、イエスは人々に「断罪の裁き」を警告しましたが、今回は「喜びにあふれて」父をほめたたえます。これら二つの言葉を通じて、イエスが伝える神の国をめぐって、人々の明暗二つの反応が浮かび上がり、これに対するイエスの喜びと悲しみがはっきり伝わってきます。
 イエス様語録の前半に「これらのこと」とあるのは、「神の国がすでに始まっている/現臨していること」(ルカ10章9節)を指すのでしょう〔ツェラー『Q資料注解』〕。ここではまず、イエスの父である神を「知る/認識する」ことが「できない」人たちのことが告げられます。それは「賢い人/知恵ある人」たちであり「聡明な人/学識者」たちです。原語の「賢い人/知恵者」とは、自分に具わる人間的な「知恵/利口さ」を誇りに思う人たちのことです。続く「学識者/知者」というのは、おそらく、律法への理解力とこれについての知識を有する人たちのことで、彼らは律法の解釈の権威者たちでしょう。たとえ宗教に関するといえども、人間的な「知恵/賢さ」に誇りを抱く者たちは、すでに旧約の預言者たちによっても批判されていました(イザヤ5章21節/エレミヤ9章22~23節)。イエスも預言者たちのこの伝統を受け継いでいるのです。
 このような人たちに対して、イエスを受け入れて福音の啓示に与る人たちは、幼子のように素直で単純な人たちです。この人たちは、識者や律法学者から見れば、いわば「愚かな人たち」です。イエス様の伝える御国の福音をめぐって、このように、常識で考えると正反対のことがどうして「起こる」(原語)のでしょうか? 同じことは、パウロの宣教の場合にも生じました。「世の人は<自分の知恵>で神を知ることができなかったが、そのことは、<神の知恵>にかなっていた」とパウロは言います(第一コリント1章20~29節)。イエスもパウロも、「神の愚かさ」は「人の賢さ」よりも、なお「賢い」ことを言いたいのです。
 イエスは、「愚かな人たち」に御国が啓示され、「賢い人たち」に隠されるのは「神の御心にかなっている」と告げてから、項の後半では、さらにこの問題を発展させます。このことは、「父」が「子」を知り「子」が「父」を知ること、すなわち、父なる神とその御子との「交わり」にかかわることです。父と子との交わりにあって初めて、「子」が、自分を受け入れる人々に、その「父」を顕わすことができるからです。この関係はヨハネ福音書の「父と子」に共通するものです。父が子に「すべてを委ねた」とあるのも、ヨハネ福音書と同じです(ヨハネ3章35節/同13章3節)。ヨハネ福音書によれば、父が子に「すべてを委ねた」のは、子が「父の栄光を顕わす」ためです(同17章2~8節)。だから、このイエス様語録でも、子が父から「すべてを委ねられた」からと言って、そのことがイエス自身の栄光や権威をことさらに強調することにはならないでしょう。
 ただし、前半の「父よ!」という2人称の呼びかけが、後半では「父」が3人称へ移行しています。この部分は、イエス以後のイエス様語録の人たちから出ているのかもしれません。そうだとすれば、この項の後半で、イエス様語録の人たちは、父である神がその全権を御子に委ねたことによって、「子」の栄光を強調しようとしている、という見方もでてくることになりましょう〔ツェラー『Q資料注解』〕。しかし、マタイ11章27節の注釈で後述するように、「すべてを委ねた」は、ヨハネ福音書にもクムラン文書にも『トマス福音書』にも、内容的に並行箇所がありますから、たとえ前半と後半とが別個の伝承であったとしても、後半はイエス様語録の人たちの追加であるからイエスにさかのぼるものでは「ない」ことにはなりません。ヨハネ福音書でもクムラン文書でも、その並行箇所の内容は、その人を通じて「父/神の栄光が顕われるためである」となっていますから、マタイ11章27節がイエス様語録の人たちによる付加であったとしても、ことさらにイエスの権威を高めようと意図したと見るのは適切でないでしょう。
 今回の項の後半には、旧約聖書の知恵思想が入り込んでいることが指摘されています。先に、イエスに対する人々の反応を述べた「広場の子供たち」のたとえでは、「人の子」イエスの「知恵の正しさ」が語られていました。今回の項でも、「父だけが子を知る」は、知恵思想の「神だけが知恵を知る」に通じ(ヨブ記28章12~28節/コヘレトの言葉3章11節)、「子だけが父を知る」は「知恵だけが神を知る」に通じます(知恵の書8章3~4節/同9章11~18節)。イエスがその弟子に御国の秘密を明かすように、知恵もその秘密を「知恵を愛する人たち/主を畏れる人たち」に明かします(箴言3章13~19節/同8章10~12節/知恵の書10章9~10節)。イエスが自分の軛を負うように呼びかけるのと同じように、知恵もまた人々に「知恵の軛」と「安らぎ」を呼びかけます(シラ書51章25~27節)。このように見ると、この項の後半では、イエスがイスラエルの伝統的な「知恵」と同一視されているとも言えましょう〔ハグナー『マタイ福音書』〕〔フランス『マタイ福音書』〕〔デイヴィス『マタイ福音書』〕。
 このような「知恵」とイエスとの同定は、イエス自身にさかのぼるのでしょうか? それとも以後のイエス様語録の人たちや共観福音書系の教会によるのでしょうか? 言うまでもなくこれの答えは、その「どちらか一方」ではありません。イエス自身が知恵思想を受け継いでいたのであれば、当然以後の教会もこれを受け継いでいるからです。逆にイエス自身には知恵思想が欠けていたのを後の教会がこれを「補修した」、言い換えると、イエス自身には「なかった」ものを後の教会が旧約聖書の伝統から取り込んで、これをイエスの霊性として「創出した」と考えることもできなくはありません。しかし、後述するように、イエス様語録の人たちとは違って、マタイは、今回の項では、「知恵」よりも、むしろイエスをモーセに結びつけようとしていると見ることができます〔ノゥランド『マタイ福音書』〕〔デイヴィス『マタイ福音書』〕。ともあれ、マタイも、「イエスの弟子」となることを目指したイエス様語録の人たちも、どちらも旧約の知恵思想を受け継いでいること、イエス様語録(Q)と『トマス福音書』とヨハネ福音書とに内容的な並行関係が見られることなどから判断して、知恵思想はイエス自身にさかのぼるものであり、イエスの霊性に具わっていたと見るほうが適切です。
 では、イエスの知恵思想とはどのようなものだったのでしょう? 近年、歴史的なイエスをギリシア哲学のキュニコス学派(犬儒派)の流れを汲む「知恵の人/賢者」と結びつける見方があります。しかし、わたしがここで言う「知恵」は、そうではなく、旧約聖書の伝統に基づく「イスラエルの知恵」のほうです(これも紀元前にギリシアの影響を受けていますが)。神の「知恵」は、世界にあまねく行き渡っていましたが、世界のどこにも安住の地を見いだすことができず、ついにイスラエルに宿ることになったとシラ書にあります(シラ書24章9~12節)。神の知恵とは、ほんらい天にあって人間には隠されているもので(『エチオピア語エノク書』42章)、だから天来の知恵は、神から特別な恵みを受けた少数の人にだけ「啓示される」性質のものでした。これの典型的な例がダニエルに啓示された「知恵/秘密」です(ダニエル2章19~23節)。イスラエルでは「知恵」(ギリシア語の「ソフィア」は女性名詞)は、しばしば擬人化されて女神に近い貴女の姿で描かれます(知恵の書8章2節以下/シラ書15章)。「知恵」はほんらいイスラエルの律法思想とは別個に発達したものですが、旧新約中間期には、ユダヤ教のラビたちの間では、「知恵」と「律法」とが一つであると見なされるようになりました。
 このように、少数の人たちへの秘義として啓示される「神の知恵」が、やがて、「愚かな者たち」や単純な者たちに向かっても広く「呼びかける」ようになります(箴言8章1~5節)。また、これに伴って、神からの知恵に与った人たちは、自分たちのことを「愚かなもの」と自称するようになります。これはちょうど、神が「貧しい者」「虐げられた者」に特別の恵みを注いだことによって、恵みに与った人たちが、自分たちを「貧しい者」と自称するようになるのと同じ事情です。クムラン文書の「感謝の祈り」には「愚かな者たちが永遠を理解し、御霊の助言を得るように」(1QH4.Col5)とあって、自分たちを「愚かな者たち」と呼んでいます。知恵はこのように少数者や権力者たちの手から解放されて、次第に人々に広く「呼びかけ」るようになります。イエスの知恵思想もこのようなイスラエルの知恵の伝統を受け継ぐもので、しかもイエスは、従来「知者」や「学識者」や権力者たちに独占されてきた「知恵」が、「幼子」のように単純で素直な者たちこそ、これに与ることができると告げたのです。そうすることで、イエスは、通常の知恵概念を逆転させたと言えます。これは、律法に照らして正しい者たちではなく、むしろ「罪人」とされていた人たちこそ、神の国へ招かれるというイエスの告知と一致するものです。しかもイエスは、自分の全存在を通して、その「知恵」を体現したのです。イエスは、「賢者たちが(人々に)勧めてきた神の知恵の役割を、自分の全人格を通じて引き受けた」〔フランス『マタイ福音書』〕と言えましょう。ここに、イエスの知恵思想の独自性があります。
 なおここでは、「子」がイエスを指す称号として用いられていますが、「神の子」と「人の子」のどちらなのかははっきりしません。「神の子」でも、終末的なメシアとしての「人の子」でも、それらが称号として用いられるのは、イエス復活以後の教会においてです。
 
■マタイ11章
[25]【そのとき】マタイの文脈では、「そのとき」とは、イエスがガリラヤの町々の不信仰を嘆いた直後のことです。今回は、これとは正反対に、イエスの伝える御国を素直に受け入れる人たちへの感謝が語られます。このような対照は、後で述べるルカと異なります。
【こう言われた】原文は「応答して言われた」ですが、これは質問に「答えた」という意味ではありません。この言い方はセム(ヘブライ語)的で、その場の状況に応じて「述べた/語った」という意味です。
【天地の主である父よ】原文は「父よ。天と地の主よ」です。旧約には「我らの父」(マタイ6章9節参照)という言い方がありますが、「父よ」と1語で呼びかけるのはイエス独自の親しみをこめた語り方です。これに続く「天と地の主」は、逆に重々しい言い方で、親しさと荘重さが重ね合わされています。この言い方は、世界の創造主としての神を思い起こさせます(創世記1章1節)。新約では、今回のマタイとルカとの並行箇所のほかに使徒言行録(17章24節)に1度で、3回だけでてきます。旧約では、続編のユディト記9章12節にでている程度ですから、旧新約中間期(前4世紀~前1世紀)の比較的後期に用いられるようになったのでしょう。
【あなたをほめたたえます】「ほめたたえる」の原語はマタイ3章6節の「(罪を)告白する」と同じです。七十人訳のギリシア語では、この動詞は、神の業などを「告げ知らせる」の意味で用いられ、そこから「(だれかを人前で)ほめる」の意味が出てきたと思われます。
【これらのこと】マタイ11章2節/同19節にあるようなイエスの業と振舞いのことでしょう。しかし、イエスが終末に到来するメシアであることを思えば、ここには終末的な意味もこめられているのかもしれません(ハバクク2章14節/ホセア6章2~3節)。
【知恵ある者】これについてはイエス様語録の注釈を参照してください。
【幼子のような者】原文は、腕に抱きかかえる「幼子」の1語です。ヘブライ語で「幼児」は、大人に依存する幼稚な未熟者の意味で、決してほめ言葉ではありません(特に第一コリント3章1節/ローマ2章20節/エフェソ4章14節)。しかし、旧約聖書には「御言葉が啓かれると光が差し出て、無知な者にも理解を与える」(詩編19篇8節/同119篇130節)とあって、「幼児」は、自分にではなく、全く他に依存する単純で素直な人のたとえとされています。イエスの弟子になるのは「小さな者」たちです(マタイ10章42節/同18章6節/同25章40節)。なお、幼子に「示した」とあるのは「啓示した」ことです。
[26]【御心に適う】原文は「神の御前によしとする」というセム的(ヘブライ語的)な言い方です。25~26節には、特にこのようにヘブライ語的な語法が目立ちます。「幼子」を肯定的に見ていること、「無知で素直」な者こそ神に喜ばれるという独特の逆転した見方など、ここは、全部が辞義通りにイエスの言葉ではなくても、イエスにさかのぼる真正な内容だと見ることができます〔デイヴィス『マタイ福音書』〕。
[27]前節では、「父よ」と2人称で呼びかけていますが、この節では「父」が3人称に変わります。だから、この27節は、26節にある「これらのこと」を説明するために、イエス復活以後にイエス様語録の人たちによって加えられたと見ることができます。しかし、「任せられている」の所で説明するように、27節にも、25~26節のイエスの真正の言葉が受け継がれて「いない」と判断することはできません〔デイヴィス『マタイ福音書』〕〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』〕。
 この27節は、「ヨハネ福音書という空から共観福音書へ落ちてきた隕石」だと言われています。特にヨハネ10章15節と同17章2節との共通性が注目されています。両者の間に接点があったのは確かですが、具体的に確定できません。おそらく、ヨハネ福音書を構成する伝承から共観福音書の方へ流れたと思われます〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』〕。このことも、27節が、その内容において、イエスにさかのぼることを示唆すると言えましょう。
【任せられている】「任せる」とある原語は、「委ねる」「引き継ぐ」「伝承する」ことです。新約では「受け継ぐ/伝承する」の意味で用いられることが多いのですが、ここでは、この意味をも含みつつ「委ねる/信託する」の意味に近いでしょう。「私の父から」とあるように、ここにはイエスの受洗の時(マタイ3章17節)に与えられた父の言葉が反映しています。そこに「父の愛する子」「父の心にかなう者」とあるのは、父から特別の啓示を授与され信託されていることで、父なる神のほんとうの御心がイエスに知らされていることを意味します。イエスには、一切の霊的な知恵と知識が委ねられているのです。
 同時に、この「任せられている」は、マタイ福音書の終わりに来る「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(同28章18節)をも指していると見ていいでしょう。だからこれは、御子イエスに委ねられた一切の権能、すなわち霊的な権威と能力をも指しています。このように、父からの啓示による霊的な「知恵」と「力」の両方が、イエスに「委ねられて」いるのです。「子が示そう/啓示しようと思う者のほかには、父を知る者はいない」とあるように、子に具わる知恵と権能が、父なる神と「幼子」のような人たちとを結ぶ働きをすることが分かります。だから、「子を知る者たち」、すなわちイエスを信じるすべての人たちもまた御子の手に「委ねられている」のです(ヨハネ17章2節)。
【子】「子」"the Son"[NRSV][REB]と定冠詞がついて単独で用いられていることが注目されます(マタイ24章36節/ヨハネ5章19節/同21節)。
(1)イスラエルでは、子が父の仕事その他一切を「受け継ぐ」ことが当然のこととされていましたから、ここでも、この意味が基本にあると見ることができましょう。
(2)福音書では、イエスについて言う場合に、単独の「子」ではなく、「人の子」として出てくることが圧倒的に多いようです。したがって、ここでも、「人の子」の意味で用いられていると見る説があります。この場合特に、天の至高者から一切の「権威と威光と王権」を受け継ぐとされる「人の子」(ダニエル書7章14節)の伝承が大事な意味を持つことになります。
 ただし、イエス様語録の人たちが「人の子」を単に「子」と言い表わしたかどうかは確かでありません。また、生前のイエスが自分のことを「人の子」と呼んだことが福音書で証言されていますが(マタイ8章20節/ルカ9章26節など)、イエス自身が、「わたし」と「人の子」とを完全に同一視していたかどうか? この点については問題があります(マタイ24章30節など)。また、イエスの「わたし」言葉を後の教会が「人の子」言葉へと変えたと考えられる場合があります(マタイ10章32~33節とルカ12章8~9節を比較)。「人の子」は黙示思想の影響を受けた用語ですから、この解釈だと、今回のイエスの言葉も終末的な内容を含むことになります。
(3)「神の御子」の意味で用いられていると見ることができます。この場合、「神の知恵」がその「知恵の子」に宿るという旧約の知恵思想を受け継いでいるのでしょう(マタイ11章19節/ルカ7章35節)。
 したがって、ここで語られている「子」とは、「神の御子」のことですが、内容から見ると「父と子」の間の関係を重視していますから、(1)の意味も根底になっているのでしょう〔ルツ『マタイ福音書』〕。この場合、「子」が、どこまで黙示的な終末性を帯びているかは即断できないようです。
【知る】原語は「認識する/識別する/選ぶ」の意味です。ここでは「選ぶ」よりも「認識する」の意味に近いと考えられます。特に父と子とが相互に「知る」とあるのが、ヤハウェとモーセとの相互関係を想わせるという見方があります(出エジプト33章11節/申命記34章10節)。モーセは主と「謎によらずに<目の当たりに>」(ヘブライ語「マレー」)語り合うとありますが(民数記12章8節)、ここで「目の当たりに/はっきりと」とある「マレー」を「鏡」(ヘブライ語「マラー」)と読み替えるラビの解釈があります〔デイヴィス『マタイ福音書』285頁〕。だとすれば、パウロが、イエスを信じる者たちがキリストの御霊の働きによってキリストを「見る」時に、「鏡のように」その栄光を映し出して見ると述べていることに関連してきます(第二コリント3章13~18節/第一コリント13章12節。なお「鏡」については講話をお読みください)。おそらくマタイも出エジプト33章12節以下に基づくこのようなユダヤ教的な解釈に準じて、ここ27節の「知る/認識する」を用いているのではないかと思われます。したがって、ここで言う「知る」は、ヘレニズム的な意味ではなく、マタイはイスラエルの伝統的な神の啓示に基づく知恵思想の「認識」に立っていると見ていいでしょう。ここでの「イエスは、特にモーセを想わせる仕方で、完全な賢者として、また預言者として、父である神を知り、かつ啓示している」〔デイヴィス『マタイ福音書』287頁〕ことになります。
[28]28~30節はマタイ福音書だけにでてきます。「わたしのもとに来なさい」という呼びかけで始まるのは、イスラエルの知恵文学の語り方から来ています(箴言1章20~21節)。おそらくマタイは、28~30節において、イスラエルの知恵思想と律法とを一つにしたシラ書51章23~27節を念頭に置いているのでしょう。「わたしのもとに来る」「魂」「休らぎを見いだす」「軛」「労苦」(新共同訳では「努力」と訳されています)などが、ここ28~30節と共通しています。イスラエルの「知恵」は擬人化されていましたから、そのままイエスの人格的霊性へと転位することが容易だったのです。25~27節では、イエスだけが父からの真理を啓示された者であり、彼だけが人々に「父」からの真理を伝える「子」であることが語られていました。マタイは、このイエス様語録の言葉を受けて、さらにイエスこそ人々に真の「安らぎ」を与えてくれる方であることを語ろうとするのです。なおこの部分がほんらいイエス様語録に含まれていたかどうか、確かなことは分かりません。
【重荷を負う者】「重荷」の原語は「荷物」ですが、マタイはこの言葉で、特にファリサイ派や律法学者たちが人々に課していた律法の細則を指していると思われます(マタイ23章4節/使徒15章10節)。しかし「重荷」は、それだけでなく、イスラエルの民が負わされた数々の政治的、社会的な「重荷」をも意味すると考えられます(出エジプト6章6節/列王記上12章4節/エレミヤ28章2節など)。ここはマタイだけに伝えられた伝承による箇所ですが、知恵思想はイエスにもさかのぼるものですから、この伝承が、必ずしもイエス以後の教会による創出だと判断することはできません。だから、伝承の源にあるイエスのほんらいの言葉には、イスラエルを苦しめている宗教的、政治的な束縛と重荷からの解放が意図されていたと考えてもいいでしょう(ここは当時のローマ帝国の圧政からの自由を意味するという解釈もあります)。イエスは、悪霊やサタンによる「呪縛」(ルカ13章16節)やこの世に生きる個人の「罪の重荷」から人々を自由にすることを求めていました(ヨハネ8章34~36節/なおガラテヤ6章2節を参照)。したがって、「荷物/重荷」の内容をあまり限定する必要はないと思います。
【休ませて】モーセに率いられたイスラエルの民にとっては、「主が共に臨在してくださる」ことが「休み」でした(出エジプト33章14節)。マタイはここで、モーセに優る「メシア」であるイエスが到来したことによって、イスラエルに約束されていた「安息」がついに訪れたことを言おうとしているのでしょう(ヘブライ3章16節~4章7節)。この「休み/安息」は、終末において救われる者に与えられる完全な「休み/安息」へつながるものです(ラテン語エズラ7章36~38節)。
[29]~[30]【軛】軛はほんらい農作業などにおいて、重い鋤などを引かせるために、2頭の牛の両方の首に太い棒を乗せて縛るものです。人間について言う場合は、軛は、荷物を両肩で支えるために用いる枷のようなものだったようです。これは一人用で、ふたり同時に使用するものではありません。ここの「軛」は譬え(隠喩)ですから、家畜に使用する軛をイメージしていて、束縛、隷従、服従などの意味があります(イザヤ10章27節/エゼキエル34章27節/シラ書28章20節など)。
 ところが「軛」には、それだけでなく、神が人間のために課した「主の掟」「律法」など、よい意味での制御をも意味する場合がありました(エレミヤ5章5節/シラ書51章26節)。このことから、ユダヤ教では「律法の軛」あるいは「知恵の軛」と言うように、軛は、人を悪から守る望ましいものとも考えられたのです。ここでは、「わたしの軛」とあるように、イエス自身も「軛」ですから、この場合は、軛を「砕く」あるいは「取り去る」ことではなく、「新しい軛」を負うことになります。だからマタイはここで、イエスを新しい意味での「知恵の軛」あるいは「律法の軛」と見ていると解釈できます〔デイヴィス『マタイ福音書』289頁〕〔ルツ『マタイ福音書』288頁〕〔フランス『マタイ福音書』449頁〕。おそらくマタイは、シラ書にあるように、知恵と律法とが一つになった「軛」のことを考えているのでしょう。したがって、ここで言う「軛」は、隷従のことではなく「服従」を意味します。イエスが、「柔和」で「謙遜」であるというのは神の御心にどこまでも従うイエスの姿を述べたもので、マタイはおそらくここでも、柔和の模範とされたモーセ(民数記12章3節)をイエスと比較しているのでしょう。イエスが「わたしの軛」と言い、「学びなさい」と言うのも、主に従う謙虚さを求めていると考えられます。
【安らぎ】原文は「あなたがたの魂/命に休みを見いだす」で、深い霊的な平安と安らぎを指します。
【負いやすい】原語は「良い/心地よい/楽な」の意味です。ここで語られているのは、「軛を取り除くことではなくて、重荷を軽くする新らしい優しい/親切な軛である」〔フランス『マタイ福音書』〕ことになります。イエスの軛はなぜ「負いやすい」のでしょうか? ここで、従来のモーセ律法の「軛」とイエスのそれとが比較対照されることになります。律法は人に努力を強いるものですが、イエスは、罪ある人弱い人の重荷にのもとに自らを置いて、その柔和によって「共に行動する」からです〔デイヴィス『マタイ福音書』〕。
 あるユダヤ人のラビであるヤーコブ・ノイスナーは、その著書『一人のラビによるイエスとの対話』(A Rabbi Talks with Jesus, Doubleday,1993) の中で、今回のイエスの言葉「天地の主である父よ」以下を神が七日目に創造行為を休んだ「安息」(創世記2章1~3節)と結びつけています。このことは、イエスが「わたしの軛は負いやすい」という時の「イエスの軛」とは、<終末の安息>のことに他ならないことを意味するのです〔教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー著『ナザレのイエス』(2008年)150~51頁〕。イエス様に委ねきって、主の御霊にある安らぎを見いだす者は、主の安息、すなわち終末を見いだす者です。イエスは、わたしたちが、終末での安息と自由を求めて歩むように導くと同時に、現在この地上において「現実に働く力」としてわたしたちを「安らぎの安息」を通して助けるからです〔ルツ『マタイ福音書』〕。このイエス以外のだれに向かって「あなたにお仕えすることこそ、完全な自由です」と言うことができるでしょうか?
 
■ルカ10章
[21]【そのとき】マタイ福音書の場合と異なって、ルカ福音書では、ガリラヤ伝道でのイエスの嘆きと叱責、これと今回の感謝との間に、72人の弟子たちがイエスの名によって悪霊追放の業を行ない、サタンが天から墜落するのをイエスが見たことが挿入されています。したがって、イエスの感謝も「この伝道活動の成功」を指しているようにも見受けられます。しかし、この成功の前には、マタイ同様にガリラヤで行なわれた奇跡(しるし)への不信仰が置かれていますから、ルカ福音書でも、「賢い者たち」の悟りのなさと「幼児」の素直な信頼とが対照されていることに変わりないでしょう。
【聖霊によって】ルカは、直前の弟子たちの働きとサタンの墜落が「聖霊の働き」であることを示そうとしたのでしょうか? しかし、続く言葉から判断すると、人間的な知恵に頼らず、素直にイエスを受け入れる単純な人たちにこそ「聖霊が働いて」、このような人たちに啓示が与えられたことを指すのでしょう。なおここの原文は「聖霊にあって(喜ぶ)」"in the Holy Spirit"です。しかし、定冠詞と「聖」が抜けている異読があり、これにしたがうと「霊で/において(喜ぶ)」"in spirit"となります。英訳聖書では"in the spirit"という読みが欄外に載せてあります[NRSV][REB]。「聖霊において喜ぶ」という言い方がほかに見あたらないことから、これはルカによる言い換えかもしれません。
【喜びにあふれて】ルカでは特に聖霊による強い悦びを意味します(ルカ1章47節/使徒2章46節)。
【賢い者には隠して】「隠し通した」(アペクリュプサス)〔直説法アオリスト形〕は、続く「啓示した」(アペカリュプサス)と対応しています。「隠し通した」はマタイの「隠した」とは少し違う原語です。マタイ福音書では、人間的な知恵と賢さ「にもかかわらず」神からの啓示を受け取ることができなかったという意味になりますが、ルカは、マタイとは異なり、「知恵ある者、賢い者」たちが、その「賢さへの傲慢」ゆえに、神からの啓示が、彼らには拒否されていることを言いたいのでしょう。
[22]【すべてのこと】ルカ福音書の場合、この言葉は、ガリラヤの町々への断罪、サタンの墜落、弟子たちの天における記名という終末的な様相を帯びてくることになります。
【知る】マタイ福音書の原語は「識別する/見分ける」(エピギ゙ノースコー)ですが、ルカ福音書では「知る/認識する」(ギノースコー)です。マタイの用語に含まれる「選ぶ」あるいは「知る機会を得る」という意味を避けて、父と子とが互いに深く「知り合う」ことを言おうとしています。マタイでは「父/子」とあるのを「父/子がどのような方かを」と言い換えているのもこのためでしょう。
 22節の原文は、
 すべてのことは、父からわたしに任せられています。
 父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、
 子のほかに、父がどういう方であるかを知る者はない、
 子が示そうと思う者を除くなら。
と4行構成になっています。ヘブライ語には、「互いに」という言い方が欠けているので、ここの意味は、要するに「父と子だけが、互いにほんとうに知り合っている」こと、それゆえ、「子だけが父を人に啓示することができる」ことを言いたいのです。
 なお、ルカ福音書では、10章21~22節に同23~24節(=マタイ13章16~17節)が続いています。しかし、同23~24節は、これだけで独立した伝承だと考えられます。この伝承は、イエス様語録においても、ほんらいどこに位置していたのかがはっきりしません〔ツェラー『Q資料注解』〕。イエス様語録の版では、一応、今回のイエス様語録の項の後に置かれていますが〔ヘルメネイアQ〕〔マックQ〕、マタイのほうは、この伝承を13章の「譬えを用いて話す理由」の結びに置いています。ルカのほうが、ほんらいのイエス様語録の位置に近いの「かもしれません」。この場合、ルカ10章21節の「これらのこと」は、イエスのみ名には「サタンのあらゆる霊的な力に勝つ」終末的なイエスの権威を指すことになります。一方、マタイの配列だと、「これらのこと」は、これに先立つ御国の譬えに隠された秘義を意味します。「預言者たち」とありますので、マタイの配列のほうが内容的により適切であろうと思います。この伝承は、文献的に見れば、ルカに従うべきかマタイに従うべきかを決めることができませんので〔ヘルメネイアQ注〕、わたしはマタイ福音書に従って、譬えを用いて語る項目の結びとして、マタイ13章15節にこの伝承部分を続けることにしました。
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