84章 イエスの家族
マルコ3章20〜21節/同31〜35節/
マタイ12章46〜50節/ルカ8章19〜21節
 
【聖句】
マルコ3章
20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
マルコ同章
31イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
32大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
33イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
34周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
35神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
 
マタイ12章
46イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。
47そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
48しかし、イエスはその人にお答えになった。
「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
49そして、弟子たちの方を指して言われた。
「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
50だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
 
ルカ8章
19さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。
20そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。
21するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。
 
『トマス福音書』99
 弟子たちがイエスに言った。「あなたの兄弟がたとあなたの母上が外に立っています」。彼が彼らに言った、「私の父の御旨を行なう、ここにいる者たちこそ、私の兄弟、私の母なのである。彼らが私の父の国に入るであろう」
                       【注釈】
【講話】
■イエス様と親孝行
 戦前の教育では、天皇陛下には忠義を尽くし、親には孝行を尽くすこと、「忠孝」の道です、これが最も大切だと教えられました。イエス様の時代のイスラエルでも、モーセの十戒にあるとおり、神を敬うことと父母を敬うこと、これがユダヤ人の生き方の基本とされていました。このように、親子関係というものは、洋の東西を問わず、昔から人間関係の中で、最も大事なこととされてきました。ところがイエス様は、「わたしよりも父母を愛するものはわたしにふさわしくない」、こうおっしゃっています。当時のユダヤの指導者たちは、イエス様のこのようなお言葉を受け入れることができませんでした。わたしたち日本人も、イエス様のこの教えに違和感を覚えるかもしれません。
 今回の箇所でも、イエス様は、神と肉親と、どちらを選ぶべきなのかをはっきりと語っておられます。特に今回のマルコ福音書には、イエス様の母と兄弟たちが、イエス様の気が変になったと誤解して「取り押さえ」に来たとあります。これは、マルコ福音書だけにある貴重な証言ですが、これでは、「聖母マリア」のイメージに合いませんね。だから、ここで言う「イエスの母と兄弟」は、旧約のイスラエルとその会堂を象徴していて、彼らが「外に」いたとあるのは、キリスト教の教会の「外に」いたことを表わしている。教会では、伝統的にこのように解釈されてきました。キリストの教会こそが、「真の家族」であるというのがここの伝統的な解釈です。物語や登場人物をこのように別の意味に置き換えるこういう解釈の仕方を寓意(ぐうい)「アレゴリー」と言います。
■「肉の家族」と「霊の家族」
 こういう解釈は現在では行なわれていませんが、それでも、「肉の家族」と「霊の家族」と言う考え方は今でもキリスト教の教会では通用します。クリスチャンは、「肉の家族」よりも「霊の家族」のほうを優先させるべきだというのです。元々、ヘブライの人たちの考え方には、あるものを捨てたり否定たりして、ほかのものを採ったり肯定したりするという考え方をしません。どちらを「<より>多く愛するのか」、あるいは、どちらを「<より大事に>するのか」というように、比較することによって考えるからです。だから、「より多く愛さない」場合を「憎む」と言い、「より大切だと思わなかった」ほうを「捨てる」と言うのです。
 ではイエス様は親を無視してもかまわないと教えたのかと言えば、そうではありません。「『あなたの父と母とを敬え』とある神のお言葉をあなたがたは無視している」と言われて、親を粗末に扱う人たちを厳しく批判しておられます(マルコ7章9〜13節)。親兄弟よりも神を選んだために、家族を失うのかと思うと、そうはならないんです。エジプトに売られていったあのヨセフさんのように、家族と切り離されたことが、後で家族の救いになります(創世記37章以下)。
 マルコ福音書(10章30節)のほうでは、イエス様のために親子兄弟を捨てるなら、必ずその家族の「100倍が報われる」とあって、この場合には、「捨てたもの」が100倍になって戻って来ることになります。これなら安心して捨てられますね。ところがマタイ福音書のほうでは、家族を捨てる者は、「その百倍を受ける」とあって(マタイ19章29節)、ここで「その」とあるのは、捨てた「家族」が再び戻ることなのか? それとも、肉の家族とは別に、100倍もの「霊の家族」が与えられる、という意味なのか?これがはっきりしません。
 今回の箇所で見ると、イエス様の伝道の前半では、家族や親族たちは、イエス様のしていることに好意的ではなかったことが分かります。これは、イエス様が時の宗教指導者たちから敵視されたことを思えばやむを得ないことだったのでしょう。次回で、イエス様を悪魔の頭である「ベルゼブル」だと呼ぶ人たちのことがでてきますが、イエス様の家族はまさにこのことを心配していたのでしょう。しかし、イエス様の復活以後では、母マリアと弟のヤコブは、原初教会で大きな働きをしました。彼らだけでなく、イエス様の家族は、教会の人たちから尊敬された形跡があります。イエス様のお言葉通り、その家族が100倍になってイエス様のために実を結んだのです。
 けれども、マタイ福音書が言いたいのは、こういう打算的な解釈ではなく、肉親を「排除する」ことなく、これをも含めて、さらに大きな「家族」の有り様を新たに「発見し」、そうすることで「真の家族」が与えられることなのです。そもそも、「霊」か「肉」か、どちらかに分離することがおかしいので、「肉」は「霊」を含まないけれども、「霊」は「肉」をも包むのです。人は神を含めませんが、神は人を受け入れてくださるのです。「父」と言い、「母」と言い、「兄弟」と言い、「姉妹」と言いますが、これらの言葉は、天の父の下にあって初めて、ほんとうにその意味を持つのです。神様の家族の中で初めて、それらの言葉のほんとうの意味が分かるのです。イエス様の御霊にあって、「父」はほんとうの「父」になり、「母」もほんとうの「母」になり、「子」も真の意味で「子」になるのです。これは、家族の問題だけではありません。イエス様の御霊にあって、「教師」はほんとうの意味で「先生」になり、「学生」は、真の意味で「学生」になります。職場の「上司」と「部下」の関係も同じです。いい上司、いい部下になれるんです。
 先にお話ししたとおり、親子関係は、人類の人間関係の中で、最も基本的なものです。イエス様の父なる神は、この関係を父とその御子という関係によって、新しく再創造されたのです。こうして、三位一体の父・子・聖霊の交わりは、あらゆる人間関係を成り立たせる根本的な土台となったのです。
■危機の時
 ところが、最近では、この国でも、母が実の子を殺す、子が母を殺す、父が家族を皆殺しにする、などという恐ろしい事件が起こっています。動物でもやらないようなひどいことをやる人が増えています。家族関係だけでなく、人間関係がどこかで狂っている。そんな感じがします。人間関係だけではない。昨今の未曾有の世界規模での経済の破局も異常です。その上、地球規模での温暖化が人類から食糧と水を奪っています。今後、世界の人口が激増するにつれて、食糧と水の争奪が始まると予告されています。保護貿易に走ってはならないと言いつつ、各国は自国の産業を守るのに必死です。このままでは第三次世界大戦が始まりかねない。すでに、始まっている。こう判断する人たちもいます。
 経済的、政治的、軍事的な争いだけでなく、これらが宗教的な争いとも結びついてくる恐れがあります。ユダヤ教とイスラム教、キリスト教とイスラム教、仏教とヒンズー教、ヒンズー教とイスラム教、このように宗教文化圏を単位とする対立が深まる可能性が、しかもこのアジアにおいて起こりえるのです。わたしたちは、こういう危機における福音の有り様、クリスチャンの生き方をはっきりと自覚しなければならない時に来ています。
 では、どうするのか? こういう危機の時には、まず「守り」の姿勢が大切です。思いつきのアイデアや、自分が実行してもいない理論をいくら並べても、そんなものは「風に吹き払われる籾殻」(詩編1篇4節)みたいなものです。だから、これだけは間違いないというものをしっかりと守り抜く、その覚悟が大切です。最近、今のローマ法王ベディクト16世(ヨーゼフ・ラッティンガー)が著わした『ナザレのイエス』を読みました。驚いたのは、そこで彼が述べている聖書のナザレのイエス像は、わたし自身のと全くと言っていいほど変わらないことです。ヨハネ福音書の見方などは、わたしの見方そのままです。不思議です。キリスト教は、今こそ、福音の原点である「ナザレのイエス様の霊性」に立ち帰るべきです。復活して今も生きておられるイエス様の御霊、これだけです。これさえあれば、カトリックでもプロテスタントでも、西方教会でも東方教会でも、およそキリスト教と名のつく宗団なら、大小、国別、人種別を問わず「一つに」なることができます。今は、キリスト教会も「小異を捨てて大同につく」べき時です。ほんものだけがものを言う。そういう時が近づいています。個人としてもコイノニア会としても、自分に与えられたイエス様を守り抜く。この覚悟が大切です。
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