【注釈】
■マルコ3章20~21節
マルコ3章20~21節と同31~34節は、イエスとイエスの家族に関する記事です。同3章22~30節は、ベルゼブルについての論争と聖霊を冒涜する罪について語られていますから、マルコは、家族の記事を前後に分けて、その間にベルゼブル論争を挟み込んでいることになります。ここにもマルコ独特の「サンドイッチ」方式が見られます。
ここ20~21節で語られるイエスの家族に関する記事は、マタイ福音書にもルカ福音書にもありません。マルコ福音書でも、イエスの家族について記されているのは、3章のここ2箇所とマルコ6章3節だけです。しかも、今回の3章では、イエスの家族が、イエスの伝道活動に反対していた様子がうかがわれます。マルコ福音書には、イエスの十字架の場面でも、他の福音書と異なり、イエスの家族が一人もでてきません。このことから、マルコ福音書は、イエスの家族がイエスの伝道活動の「外にいた」という印象を与えます。イエスの母が崇められるようになり、弟であるヤコブが、後にエルサレム教会で指導的な位置を占めるようになったことを思うと、イエスの家族についてのマルコ福音書のこのような扱いには、謎が残ります。
けれども、このことがマルコの記事の信憑性を疑わせるものではありません。マルコ福音書の今回の記事は、逆にそれだけに貴重であり、特に6章3節がなかったとしたら、わたしたちはイエスの家族の名前さえ知ることができなかったでしょう。なお、ここは、注釈で述べるように代名詞の用い方にも問題があり、謎の多いところです。
[20]【家に】冠詞がなく「家」(オイコス)だけで、ここには、ふたとおりの解釈があります。
(1)マルコ福音書では、これまでに「家」が2箇所でてきます。カファルナウムにある「シモン(ペトロ)とアンデレの家」(1章29節)と、イエスが食事に招かれた「レビの家」(2章15節)です。群衆が「またもや」集まってきたとありますから、この場所は、先の2章1~2節にあるカファルナウムのことでしょう。イエスはカファルナウムを伝道の根拠地にしていましたから、今回の「家」もこのペトロの家のことだと考えられます。「食事を採るいとまもなかった」とあるのは、今までにない騒ぎになったからでしょう。「一同は」とある原語は「彼らは」で、これはイエスと十二弟子を指しています。
(2)もしもこの「家」がイエス自身の家を指すとすれば、イエスの家族は、長男のイエスに従って、ナザレからカファルナウムに移っていたことになります〔D.J.Kilpatrickによる説(1982年)〕。マルコ6章3節には「姉妹たちはここで(ナザレ)で我々と共に暮らしている」とありますが、母とイエスの兄弟たちがナザレに「住んでいた」とは言われていません。このことから、イエスの姉妹たちはすでに結婚していたためにナザレに残り、母と兄弟たちだけがカファルナウムへ移住していたのではないかと推理するのです〔P.R.Kirk〕。もしもそうだとすれば、イエスはカファルナウムにある「自分の家」に戻ったことになります。ただしこれは推定ですから、確かではありません。
【帰られる】原文には主語がなく、「(彼が)家に帰ると」とある「帰る/来る」の動詞は3人称単数現在形です。これが3人称複数現在形になっている異本がかなりあります。直前に十二弟子の選びがあり(3章16~18節)、彼らを含めて主語を複数と考えたために、後から訂正したのです。マルコはイエスだけに目を向けて単数動詞を用いたのでしょう。
[21]【身内の人たち】原文は「彼の仲間/知り合い」ですが、「彼の親族/家族」の意味にもなります。おそらくイエスの兄弟たちとイエスの友人たちのことで、彼らは、イエスに会おうとして出てきたのですが、イエスが大勢の群衆に囲まれて、律法学者たちと論じ合っていたために、近づくことができなかったのでしょう。なお、イエスが「正気を失った」とあるのも、このために家族が出てきたのも、イエスにふさわしくないと考えたからでしょうか、ここを「彼(イエス)について律法学者たちと他の者たちが聞いて(取り押さえに来た)」と言い換えてある異本があります。続く3章22節の律法学者の言葉から見て、このほうが合理的だと考えたのでしょうが、これでは、イエスの家族についてのせっかくの貴重な証言が失われます。
【気が変になって】原語には「我を忘れる」「興奮のあまり自分を見失う」「正気を失う」などの意味があります。あまりの大騒ぎのために「少し頭がいかれた」のように、これを比較的軽い意味に取る説もあります。しかし、続く律法学者たちとの論争では、「悪霊の頭」が出てきますから、21節も「正気を失う」あるいは「気が狂う」のような深刻な意味に採るほうがいいでしょう(ヨハネ10章20節参照)。マルコは、悪霊問答を真ん中に挟んで、その前後にイエスの家族/友人を配置して、イエスが、親しい人たちや指導者たちからも誤解と非難に曝されたことを語ろうとしているのです(詩編69篇8~9節参照)。
【取り押さえに】原文には主語がなく「彼らは彼/それを取り押さえに来た」です。「彼/それ」を「群衆」と考えて、「興奮のあまり収拾がつかなくなった群衆を鎮めようと十二弟子たちが出てきた」という受け取り方もありますが、これでは、イエスの家族とベルゼブル論争と組み合わせてあるマルコの意図と合わなくなります。3章31~32節から逆に判断して、イエスの家族と親しい人たちがナザレから「出てきた」のでしょう。彼らは、律法学者たちと対立を招くような深刻な事態になることを恐れたからだと思われます。
【言われていた】原語は「彼らは言っていた」〔3人称複数不定過去〕です。イエスが正気ではないと「言っていた」のは、カファルナウムの群衆でしょうか? イエスの故郷のナザレの人たちでしょうか? それともイエスの家族と友人たちでしょうか? マルコ2章12節から見ると、カファルナウムの人たちは、イエスの業に驚き興奮したかもしれませんが、大部分の人たちは、イエスが「正気でない」と非難したり誤解したりした形跡はありません。だとすれば、「彼らが言っていたのを聞いた」とある家族や友人は、誰から何を聞いたのでしょうか? マルコ福音書では、イエスがナザレで人々から退けられる出来事が6章1~6節にでてきますが、そこにはイエスの兄弟の名前が記されています。だから、今回の段落は、カファルナウムで起こっている大勢の群衆の騒ぎが、遠いナザレにも伝わって、ナザレの人たちは、イエスが「正気を失った」と噂していたのでしょう。「彼らが」そのように言うのを聞いて、イエスの家族や友人たちが、イエスを「取り押さえようと」わざわざナザレから「出て来た」のです。伝統的な解釈ですが、これが最も適切だと思われます。イエスの伝道が律法学者たち指導層と衝突するという、イエスの家族が最も恐れていた事態が起こったことをマルコのサンドイッチ方式は伝えているのです。
マルコ同章31~35節
ここは3章21節からの続きです。先に述べたように、家族によるイエスの「気違い扱い」が、律法学者たちによるさらに悪い「ベルゼブル扱い」を挟み込むように配置されています。イエスの家族、特にマリアとヤコブが、イエスの十字架以後の教会で重要な役割を果たしていることを思うと、マルコがイエスの家族を「外の人たち」と見ているのが、やや不思議な感じがします。これは「霊の家族の重要性をひたすら強調するマルコの熱意」〔フランス『マルコ福音書』〕からでしょう。ただし、神のため福音のために家族を「捨てる」なら、必ずその家族の「100倍が報われる」とあるのもマルコ福音書だけです(10章30節)。なおヨハネ福音書には、イエスの母への思いやりが記されています(ヨハネ19章26~27節)。
[31]【母と兄弟たちが来て】21節で兄弟たちが「出て来た」〔アオリスト形〕とあるのが、この31節でイエスのいる所へ「来ている」〔現在形〕のです。彼らはおそらくナザレからはるばる歩いてきたのでしょう。「父」が抜けているのは、この時ヨセフはすでに亡くなっていたからでしょう。
【外に立ち】マルコは家族が「外にいる」ことを31節と32節で2度繰り返しています。これに対して「イエスの傍近くに」いる人たちのことも2度繰り返します(32節/34節)。十二弟子を中心にしてイエスの「周りにいる」信じる人たちと、この「周りの人たち」の「外にいて」イエスを批判/非難する人たちとを区別しているのです。
[32]【母上と兄弟姉妹が】原文は「あなたの母とあなたの兄弟たちとあなたの姉妹たち」です。さらに「あなたを捜している/求めている/呼んでいる」と続いて、この節には「あなた」が繰り返し表われます。マルコは、呼び求めているのがイエス自身の家族であることを強調しているのです。ここで、有力な写本を含むかなりの異本では「あなたの姉妹たち」が抜けています。31節にも34節にも「あなたの姉妹たち」がありませんから、ここだけが意図的な挿入だったのでしょうか? しかし、もしも意図的であるのなら、31節にも挿入がなければなりません。それとも6章3節と並行させようとした「思い違い」から出たのでしょうか? 先に指摘したように、姉妹たちまでが出てくるのは、この場合ありえないことでしょう〔新約テキスト批評〕。「知らせた」とある原文は「彼らはイエスに言った」です。「彼ら」とは20節の「大勢の人/群衆」のことで、十二使徒のことではないでしょう。家族は大勢の人のために家の中へ入ることができなかったのです。
[33]~[35]【周りに座っている人々】34節の原文は「そこで彼(イエス)をぐるっと囲んで座っている人たちを見回して言う」です。ここでは「群衆」ではなく「囲んでいる人たち/サークル」という原語が用いられています。イエスはここで、十二弟子を含む周りの人たちのことを指しているのでしょうが、ここでイエスが意図しているのは、周囲に座っている人たちだけではありません。十二弟子をも含む、さらに広い意味で、イエスを信じて「神の御心を行なおうとする」人たちの「集まり」そのものを指しているのです。そこには、イエスを中心とする「神の支配/御国」が現臨していること、そのことを指しているのです。その場に「居合わせている」人たちは、家族や律法学者たちなどを含む様々な人たちです。しかし、御心を行なう人たちのサークルとその「外にいる」人たちとが、ここではっきりと区別されるのです。しかもその「区別」は、目に見える形ではなく、霊的な働きによるものですから、「原理的には」その場にいる「だれでも」が入ることのできるサークルです。だから、ここでは、イエスの家族に対する「礼儀」以上に大事なことが語られているのです。
【神の御心】この言い方はマルコ福音書ではここだけですが、イエス・キリストを通じて働く神の国の支配/現臨のことで、内容的には「福音」と同じです(マルコ1章15節)。なおこの35節は、ほんらい別個の独立した伝承ではなかったかと見る説もあります。
【姉妹】ここでイエスの言葉に「姉妹」が加えられているのが注目されます。「御心を行なう人たちのサークル」には、女性たちもいたからでしょう。おそらくマルコは、自分の教会の人たちのことも念頭に置いているのです。後のキリスト教会で、互いに「兄弟姉妹」と呼び合うようになったのは、ここから出ているのでしょう。35節で、「御心を行なう人なら<だれでも>」とあるのも、「兄弟」も、「姉妹」も、単数ですから、イエスは一人一人に呼びかけているのです。
■マタイ12章46~50節
マタイは12章で、イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだという理由でイエスを非難し、安息日に片手の萎えた人を癒やしたと言っては彼を殺そうと図る人たち、彼を「ベルゼブルの頭」と呼ぶ人たち、またイエスにしるしを求める人たち、などについて記してから、それらの終わりに、今回のイエスの家族の記事を置いています。続く13章からは、神の国についての一連の譬えが続きます。だから今回の出来事には、イエスを信じる人たちとそうでない人たちと、その両方が登場することになり、そのまま種まきの譬えにつながるのです。
マタイは、ここでもマルコの記事を踏まえていますが、マルコでは曖昧だった幾つかの点をよりはっきりさせています。彼は、マルコほど「イエスのサークル」を強調しないものの、イエスの家族のことをイエスたちの「外にいる」者として見ている点ではマルコと同じです。しかし、マタイは、イエス自身の家族よりも、むしろイエスの「弟子たち」のほうに視線を向けていると言えましょう。
[46]【その母と兄弟たちが】原文は「見よ。彼の母と兄弟たちが、外に立っていて~」です。「見よ」は、新たな出来事を導入する時のマタイの常套(じょうとう)句です。「立っていた」〔過去完了形〕とありますから、彼らは、かなりの間外にいて、中へは入れなかったようです。マタイは、イエスと共にその家族もカファルナウムへ移っていたと考えているのでしょうか?(マタイ4章13節)。ただし、マタイ福音書でも、姉妹たちがナザレに残っていることがはっきり分かります(13章56節)。
マルコでは、母や兄弟たちがイエスを「取り押さえに来た」とありますから、彼らがナザレから出てきた理由も、イエスが彼らに会おうとしなかったわけも読者/聴衆に分かります。ところがマタイ福音書では、1~2章以後にイエスの家族は全くでてきません。また、46節には、家族がなぜイエスを尋ねて来たのかも述べられていません。家族が「イエスを取り押さえる」というマルコ3章20~21節は、マタイ1~2章で語られるイエスの母マリア像とはそぐわないと考えたからでしょうか。このため、読者は突然現われたイエスの家族にやや戸惑います。また、家族がイエスを尋ねてきた理由がはっきりしませんから、それだけ、イエスの彼らに対する態度が「水くさい」という印象を与えるかもしれません。
[47]この節が抜けている有力な異本があります。この節がないと前後の内容がうまくつながらないこと、また、マルコにはここに相当する箇所がありますから(マルコ3章32節)、おそらく写筆の誤りから生じたと考えられます〔新約テキスト批評〕。なお、マルコ福音書では複数の人々によって家族の来訪が知らされますが、マタイ福音書では個人です。
[48]~[49]【弟子たちの方を指して】原文は「その手を自分の弟子たちの上に伸べて」です。マタイの言う「弟子」は、8章21節にでてくる「弟子」から判断すると、十二弟子よりも広い意味で用いられています。50節に「姉妹」とあるように女性たちをも含んでいるのはマルコ福音書と同じです。「手を伸ばす」という行為には、イエスの弟子たちを「保護する/守る」という意味も含まれていると考えられています。イエスが弟子たちを「兄弟」と呼ぶのは、ヨハネ20章17節を除くと、新約聖書中ここだけです(ただし、28章10節で、復活のイエスが「わたしの兄弟たち」と言います)。「父の御心を行なう」とありますから、「父」を同じくする人たちは「兄弟」なのです。ただし、イエスは「わたしの父」と言い、また「あなたがたの父」とは言いますが、「わたしたちの父」という言い方はしていないようです(ヨハネ20章18節参照)。マタイ6章9節の主の祈りにある「わたしたちの父」は、「あなたがたの父」の意味です(同章14節を参照)。イエスを「父」の長子と見て、イエスの父の「子」となる者たちは全員兄弟であるというこの考え方は、ローマ人への手紙8章29節やヘブライ人への手紙2章11節にも見られます。
[50]【天の父の御心を行う人】「天の父」を同じにする人たちこそ「兄弟」であるというのは、マタイ福音書の基本的な考え方です(マタイ5章21~26節その他)。肉親よりも「神の家族」を大事にするというこの考え方は、イエス以前にも、例えばエッセネ派のユダヤ教にも見られます。ただし、ここで言うのは「イエスの天の父の家族」のことですから、イエスの「弟子」たちにとって、「師」は独り、「父」も独りです(マタイ23章8~10節)。ここで言う「弟子」とは、父の御心を「行なう」人たちのことです(マタイ7章21節)。ここに、今まで地上に存在しなかった、全く新しい「父の家族」が誕生したのです。この「家族」は、「父の御前に」肉親のそれよりも優先されなければなりません。ヘブライ語の「~を憎む」とは、「~よりも多く愛さない」という比較の意味を含みますが、ここでも、肉親の情<よりも>天の父の御心を大事にすることが、「天の父の家族」に求められているのです(マタイ10章37節)。ただしこのことは、肉親を「排除する」ことを意味するのではなく、自分の肉親たちさえをも、今まで以上に大きな「家族」の中にあって、新たに「発見し」、神から新たに「与えられる」ことなのです(マタイ19章29節)。この点で、マルコ福音書には、「捨てた」その家族が、「百倍」になって新しく与えられるとあるのに対して(マルコ10章29~30節)、マタイ福音書(19章29節)では、家族を「捨てた」者には、「そのことをさらに上回る」百倍の報いを受けるとあって、マルコ福音書のように、報いの内容に限定がなく、肉親の家族をも含めて、それよりもさらに報いの内容が拡大されています。
■ルカ8章4~8節
ルカは、ルカ福音書8章4節~18節で、一連の種まきの譬(たと)えと灯火の譬えで、「お言葉を聞く」ための心得を語っています。この部分はマルコ福音書4章1~25節の順に従っています。ところが続くマルコ福音書4章26~34節の部分が、どういうわけか、ルカ福音書には抜けています。ルカの手元にあったマルコ福音書は、現行のマルコ福音書とは違った短いものだったのか? という疑問もありますが、ルカは、種まきの譬えとこれの説明によって、「お言葉を聞く」ことへの説明はすでに十分であり、マルコ4章26~34節は必ずしも必要がないと考えたのかもしれません。その上でルカは、ほんらいマルコ福音書では、種まきの譬えの「前に」置かれていたイエスとその家族の記事を種まきの譬えの「後に」置いて、「お言葉を聞く」心得の締めくくりとしたのです。
だからルカ福音書では、今回の出来事は、その順序においても、さらにその内容においても、マルコ福音書やマタイ福音書とは違った意味を帯びています。ルカにとっては、この出来事は、「イエスの父の真の家族」とは何か? を伝えるというよりは、「お言葉を聞く」人こそが、イエスの真の家族である、という意味に解釈されるのです。
したがって、ルカ福音書では、イエスの家族が訪れた理由も、イエスの肉親への否定的な態度もいっさいでてきません。むしろ、ルカ福音書では、イエスの「母と兄弟たち」も、「神の言葉を聞いて行なう人たち」に含まれていると解釈する説さえあります〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』〕。そこまでいかなくても、イエスの母と兄弟が、真の「母と兄弟」と区別されていないのは確かです。ルカ福音書1~2章で語られるイエスの母と誕生物語から見ても、マルコ3章20~21節のような出来事はふさわしくないと考えたからでしょうか。
[19]~[21]【母と兄弟たちが来た】ルカは「彼(イエス)の」を省いています。また「来た」とある動詞の原語は「やって来る/姿を現わす/登場する」で、マルコの用語とは異なります。ルカは、先立つ一連のお言葉の譬えの続きとして、この出来事を見ているのです。また、イエスに「近づく」とある動詞も「出会う/近寄る/面接する」という意味で、やや特殊な言い方をしています。
【お会いしたいと外に】原文は「あなた(イエス)を見たい/に会いたいと外に立っている」です。ここで言う「外に」には、イエスと交わりを形成している弟子たちから家族を区別する意味はないでしょう。ただし、ルカは、この出来事の意味を「お言葉を<聴く>」ことの重要性に置いています。だから、家族がイエスを「見る/会う」ために来たと告げられて、イエスはその「見る」を「聴く」ことと対照させたのです。ここでは、家族の問題ではなく、イエスを「見る/会う」よりは、むしろ神のお言葉を「聴いて行なう」ことのほうが大事であることを言いたいのです。
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