86章 ベルゼブル論争
マタイ9章32〜34節/同12章22〜30節/マルコ3章22〜27節/
ルカ11章14〜23節
【聖句】
イエス様語録
1さてイエスは口を利けなくする悪霊を追い出した。
2悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。
3しかし、ある人たちが言った「彼は悪霊の頭ベルゼブルによって悪霊を追い出している」。
4しかしイエスは、彼らの思いを見抜いて彼らに言った。
5「どんな国でも分裂して対立し合えば荒れ果てるだろう。
6どんな家でも、分裂して対立し合えば立ちゆかないだろう。
7もしもサタンが、自分の内で分裂したなら、
8どうして彼の国は立ちゆくだろうか?
9もしもわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すのなら、
10あなたたちの子らは何によって追い出すのか?
11だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
12だが、このわたしが神の指で悪霊を追い出しているのなら、
13神の国はあなたたちのところにすでに来ている。
 
14強い人の家は略奪できない。
15しかし、さらに強い人が彼に勝てば、略奪する。
 
16わたしと共にいない者はわたしに対立し、
17わたしと共に集めない者は散らしている。
 
マタイ9章
32二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。
33悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。
34しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。
同12章
22そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
23群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
24しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
25イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
26サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
27わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
28しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
29また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
30わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
 
マルコ3章
22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」
 
ルカ11章
14イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。
15しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、
16イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。
17しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。
18あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。
19わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
20しかし、わたしが神の指で追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
21強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。
22しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。
23わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
                       【注釈】 
 
【講話】
■サタン病
 「サタン」のもともとの意味は、ヘブライ語で「敵対する者」です。ですから、これは名前ではなく、イエス様にあるわたしたちの霊性を邪魔する働きをする力、あるいは、御霊のお働きを妨げようとする力のことです。「邪魔する」「妨げる」と言いますと、わたしたちの祈りが妨げられたり、せっかくイエス様との交わりの集会に出ようと思っていたのに、邪魔が入って出られなくなったり、聖書を読もうと思い立ってお言葉を開くと、お言葉を否定したりする人の言葉や、聖書の言葉は「当てにならない」という意見などが気になって、もろもろの「小さな」(?)邪魔や妨げが生じるものです。
 言葉の語源から見れば、これらの邪魔や妨げも「サタン」の働きに入るのかもしれません。実際、クリスチャンの中には、日常のちょっとした邪魔や差し障りを「サタンが働いた」と受けとめる人たちがいるようです。この人たちは、四六時中「サタン」と出遭っているわけで、言わば「サタンの仕業に」囲まれて生活していることになります。こういう「サタン病」にかかっている人たちには、今回の、イエス様の「ベルゼブル論争」は、少し薬が効きすぎて、病状をいっそう悪くさせるのではないかと懸念します。
 わたしの言う意味はこうです。イエス様の時代までさかのぼらなくても、16〜17世紀のイギリスでは、悪魔/サタンは、悪霊どもの頭として「恐ろしい」存在でした。しかし、そのサタンの下には、いろいろな「悪鬼ども」"fiends"や「子鬼たち」"goblins" がいて、日常の生活の中で、いろいろな悪さをしたのです。魔法使いさえいましたし、花の妖精、木の妖精、川の妖精たちもまだ健在でした。なにしろ「魔女」が実在していた時代ですから。これらの「悪霊ども」は、台所の火を消し忘れた程度の小さな「いたずら」から、火事や犯罪のような大きな「悪さ」まで、実にいろいろなことをしました。中には、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』に登場するパックのように、「恋のいたずら」をしかける愛嬌者もいました。しかし、彼らはサタンや悪魔とは区別されていたのです。人々は、日常生活で、こういう大鬼、子鬼、いたずら鬼に囲まれて暮らしていたわけです。
 ところが、このような妖精たちもいなくなり、魔女も魔法使いも姿を消すと、悪鬼どもも子鬼たちもどこかへ行ってしまいました。残るのはサタンと悪魔 "the devil"だけになったのです。こうなると、サタンは大暴れです。日常生活に入り込んだサタンは、今にこの日本でも、大きなサタンだけでなく、いたずらサタン君や「かわいい」サタンちゃんたちに変身して、ポケモンみたいな「サタ君」が、アニメの人気者になる日が来るかもしれません。こうなると、ほんとうに恐ろしいサタンも日常のサタ君も区別がつかなくなって、毒蛇や危険なサソリを「かわいい」と勘違いして手を出して、咬まれて死ぬ日本人が多くならないかと気になります。聖書が警告する「サタン」のほんとうの姿を見失う危険があるからです。
■この世病
 もう一つクリスチャンがかかりやすい病気に「この世病」があります。聖書に「この世」は、悪だと書いてあるから、自分の信仰生活の邪魔になることは、ことごとく「この世」の人や「この世の」仕組みのせいだと思いこむのです。自分がやることがうまくいかないと、これを人のせいにしたり、この世の仕組みのせいにすることは、だれにでもありえますが、クリスチャンは、これを「サタン」と結びつけたり、「この世」のせいにするのです。「資本家はサタン」「権力者はサタン」「金持ちはサタン」「自分を批判するものはサタン」、ざっとこんな調子です。
 こういう「この世病」の人にしてほしいことは、一体、自分自身は、「この世」の者ではないのか? という疑問を自分に向けて問いかけることです。聖書では、わたしたちの体のことを「自然のからだ」と呼んで、これをキリストから与えられる「霊のからだ」と区別していますが、これを聞いて、自分はクリスチャンだから、自分の体は「自然の体」ではナイと思いこんだら、とんでもない間違いです。わたしたちは、間違いなく、「自然」の中に活かされている「自然の体」の持ち主だからです。
 霊的な生活を妨げる要因は、自分の弱点や欠点によるもの、さらに根が深く、生まれ育つ環境によって植え付けられた人格的な欠陥によるものなど、自分が原因となる場合が少なくありません。これらは「自業自得」です。ところが人間のプライドは、そのような自分の罪や弱点を認めることができないために、これを「この世」や「サタン」のせいにして、あたかも自分は、「この世」や「彼」の被害者だと思いこむようになりがちなのです。こういう「サタン病/この世病」の人たちに注意してほしいことは、「サタン」が「あなたに」働くのは、「あなた」のほうにも、何か問題がある、と言うことに気づくことです。「サタンは実にいい教師だ。いろいろ教えてくれる。」かつてあるアメリカの著名な宣教師さんが、わたしにこう言ったのを覚えています。この方は、「サタンの働き」を感じ取るたびに、自分には、今まで気がつかなかった欠陥や欠点があること、あるいは見落としていた問題があることを、サタンが丁寧に「教えてくれている」と考えていたのです。このようにして、自分の欠点や弱さや罪から出ていることを「サタンの仕業」にすり替えていたことに気がつくようになったのです。かつて、自分が職場で人とうまくいかないのは、自分が受けた教育のせいだと思いこんで、恩師がいる中学校へ出かけて、先生をナイフで刺し殺した若者がいました。わたしたちも、うっかりすると「サタン病」という名の「自己かわいがり病」にかからないとは言えません。 
 わたしが、「サタン病」や「この世病」などという呼び方で、クリスチャンに注意を促したいのは、うっかりこの病気にかかると、自分以外の人たち、あるいは自分が親しくしている信仰の仲間たち以外の人たちが「信頼できなく」なるからです。「サタン病」や「この世病」は、往々にして、人をして「人間不信」に陥らせる危険があります。「神を信じることは、人を信じないことだ。」クリスチャンにこう思い込ませることに成功したら、その成功者は、ほんもののサタンから功労賞をもらうでしょう!
■分かれ争う国
 では、クリスチャンに「サタン」は働かないのか? あるいは「この世」にサタンは存在しないのか? こう反論するクリスチャンがいると思います。わたしは「サタン」が存在しないと言っているのではありません。そうではなく、「ほんらいサタンとは関係がない」ことをサタンと結びつけるならば、逆に、「ほんもののサタン」を見失うのです。病気にも、軽度の風邪から命を落とす脳梗塞や心筋梗塞や癌にいたるまで、無数にあります。これらを十把一絡げに「病気」と呼んだり、癌や脳梗塞とただの風邪とを同じ名前で「病気」と呼んで区別しないならば、人は絶えず「病気」に脅かされて生活しなければならなくなります。だから、風邪と深刻な病気とは、「正しい名前」で呼び分けて区別しなければなりません。そうでないと、話が混乱するばかりです。ここからが、今回の聖書の箇所に関係してきます。
 わたしたちが今回の箇所から学ばなければならないことが二つあります。一つは、サタンも、そして神も、決して「分かれ争う」ことがないことです。イエス様は、敵対する人たちから「ベルゼブルの頭」とぐるになっていると非難されました。そこでイエス様は、サタンの頭が、自分の手下の悪霊を追い出すような矛盾することをするだろうか? こう反論しておられます。「サタンがサタンを、あるいはその手下どもを追い出したり否定したりすることは決してしない」と言い切っておられるのです。その上でイエス様は、敵対する者たちに向かって、「もしもわたしの悪霊追放が悪霊の頭の働きだとすれば、いったいあなたたちの仲間の悪霊追放はだれによって行なっているのか?」と鋭く問いかけておられます。悪霊が悪霊を追い出すことなどありえないからです。
 イエス様の時代、特にガリラヤでは、様々な悪霊追放が行なわれていました。ギリシアには、医療のカミとして名高い「アスクレピオス」という医神がいました。アスクレピオスの神殿は、現代の医療施設にあたります。そこでは、医学的な治療だけでなく、音楽や宗教など、様々な精神療法を組み合わせた優れた医療が行なわれていたのです。このように、パレスチナでも、イエス様以外に、いろいろな仕方で病気癒しや悪霊追放を行なう人たちがいました。中には、魔術師やまじない師もいたと思われます(使徒8章9節)。
 ユダヤ教は、まじないや魔術を禁じていましたから、ある人が悪霊追放や病気癒しを行なうと、はたしてそれが、聖書の神から出たものなのか、それとも魔術やまじないによるものかを調べて、魔術やまじないによる行為は処罰されました。同じ癒しや悪霊追放を行なっても、それが神から出たと判定されると許されて、魔術によると判定されると逆に罰せられたのです。イエス様の行なう悪霊追放を「調査する」ためにエルサレムから来た人たちは、マルコ福音書によれば律法学者たちです。彼らは、イエス様の悪霊追放が「悪魔の頭」から出ていると判定したのです。おそらくイエス様は、悪霊どもを驚くほど簡単な仕方で、いとも容易に追い出しておられたと思います。これを見て人々は「こんなことは見たことがない」と言い、敵対する者たちは、あっけにとられて、「悪霊の頭」でなければ、とてもこんなことはできない判断したのでしょう。
 これに対してイエス様は言われました。「もしもわたしが、悪魔の頭を使って悪霊追放を行なっているのなら、あなたがたファリサイ派や律法学者たちの仲間が行なっている悪霊追放は、だれによっているのか?」さらにこう言われました。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところへ来ている」とね。イエス様は、ご自分の業だとは言われなかった。そうではなく、「神の指」、すなわち「神様ご自身の業だ」と言われたのです。
 病気がそのまま悪霊やサタンの仕業だというのではありません。人が病気になることと、その人が罪を犯したかどうかは、直接関係がありません。しかし、悪霊が追放され、病気が治るのは「善いこと」です。祈りによって癒やされても、医者によって癒やされても、両方によって癒やされても、それは「善いこと」です。病気が治ること、悪霊が出ていくこと、これは天地を造り、人を生かしておられる神様から出ていることだからです。どんな方法によっても、神様がお働きにならなければ、病気が治ったり、悪霊が出ていったりはしません。人の口からでる言葉は、巧みに飾ったり、ごまかしたりすることで、善いことを悪いと言い、悪いことでも善いと言うことができます。しかし、悪霊追放の「出来事」は「善い」か「悪い」かがはっきりしています。人の言葉ではどうにもなりません。
 イエス様に敵対する人たちは、出来事が善いか悪いかは、「聖書によって<自分たちが>判断するのだ」と考えていました。だから、「イエスは悪魔の頭だ」、こう<自分たちが>言いさえすれば「そうなる」。こう思い込んでいたのです。しかし、彼らがどのように言い、どのように判断しようとも、イエス様の悪霊追放の業が、神から出ている善い業であることは、少しも変わらないのです。「樹が善ければその実も善いとし。悪ければ、その実も悪いとせよ。樹の善し悪しは、その実で分かる。」マタイが、イエス様のこのお言葉を今回の悪霊追放の出来事の後に置いたのは、このことをはっきりさせるためです。
 「善い」ことは、どこの国のだれがやろうと「善い」のです。「悪い」ことは、どこの国のだれがやろうと「悪い」のです。クリスチャンのやる病気癒しは「善い」けれども、仏教徒がやる病気癒しは「悪い」。キリスト教の祭りは「善い」けれども、ヒンズー教の祭りは「悪霊」から出ている。アメリカの核実験は「善い」けれども、ロシアの核実験は「悪い」。自国の戦争は「聖戦」で、敵の国の戦争は「正義に逆らう」。神も悪魔も、人間がやるように「分かれ争う」ことはしないのです。イエス様自身の悪霊追放と同じように、どんな悪霊追放ももまた、同じ神の恵みのお働きとして、決して「分かれ争う」ことはしないのです。善いことは、どこのだれがやっても善いことであり、癒やしも医療も、どこのだれがやっても、神の御心に沿った療法であり癒やしなのです。日本でも、キリスト教以外の様々な宗教の人たちが、神癒や悪霊追放をやっていて、その結果が出ている場合が数多くあるようです。キリスト教の悪霊追放は正しいけれども、それ以外の悪霊追放は邪教だから間違いだという理屈は通りません。善い樹は善い実を結び、悪い樹は悪い実を結ぶからです。
■イエス様の敵対者
 イエス様の出来事を否定する方法は三つあります。(1)イエスの出来事は、ほんとうでは「なかった」、こう思いこませることです。その理由や方法はなんでもいいのです。とにかく、こう思い込ませることに成功すれば、それでサタンの目的な達成されたことになります。イエス様の出来事は、ほんとうに起こったのか? あるいは福音書の作者は、起こらなかったことをまるで起こったかのように思いこんで、偽りの情報を信じ込んで記事を書いているのか? もしもそうなら、福音書の作者たちは、出来事の信憑性を自分では吟味していないことになります。これに似た状況は、現代でも起こっています。聖霊の働きや癒しが現実に生じても、そういうことは「起こるはずがない」と思いこんで、あるいはそう断定して、「出来事それ自体を否定する」のです。
(2)ところが、今回の場合は、上に述べたのとは状況が違います。なぜなら、ここでは、敵対する者たちは、イエス様が悪霊を追い出す「その場に」居合わせているからです。だから彼らはイエス様の行なった業そのものの目撃者であり、それがほんとうであることの証人となることができる人たちです。イエス様のみ業に感嘆して神を賛美している民衆がまさにそれを行なっていますね。イエス様を通して神のみ業が行なわれ、御栄光が顕われたことを、これを見ていない人たちに伝えるのに最もふさわしい人たち、これが律法の知識もあり、賢明で人を教える立場にあるこれら「敵対する者たち」なのです。彼らがイエス様のみ業の場に居合わせたのは、ほんらい「このため」です。
 ところが、イエス様の出来事を証しする最も重要で、最もふさわしいこれらの人たちが、イエス様の出来事を目の前にして、こともあろうに、全く正反対の行動に出たのです。彼らは、イエス様の業を目撃して、神の栄光をたたえるどころか、人々に向かって、「この出来事は神から出ているのではない。悪霊の頭ベルゼブルから出ているのだ」と言い切ったのです。出来事それ自体を否定しているのではありません。それは彼らの目の前で起こったからです。人々はみんなこれを見ているからです。そうではなく、起こった出来事の「意味そのもの」を否定したのです。神の栄光を証しする代わりに悪魔の仕業だと宣言し、救いの業を呪いの業だと宣告し、父から遣わされたイエス様を悪魔の手先と呼び、命の創造を人間の滅びだと断定したのです。
 出来事それ自体が起こったかどうか? これを問う真偽があります。しかしここでの真偽は、そうではありません。起こった出来事の「意味」を問う真偽なのです。出来事の意味そのものを否定することは、神のお働きを根本的に否定することです。神の創造の御業全体が、神が働かれたみ業の価値観と御栄光ともどもに、悪魔の業として根源的に否定されるからです。神の証しに最も適した人たちによる、最も不適切な対応の仕方がここに見られます。
 
災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。
彼らは闇を光とし、光を闇とし
苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。
           (イザヤ5章20節)
「光を闇と呼び」「闇を光と呼ぶ」転倒が、このようして起こるのです。彼らは、創造を滅びと呼び、命を死と呼び、神を悪魔と呼ぶのです。これがイエスの言われる「赦されない罪」です。
(3)さらにもうひとつの方法は、イエス様の「業」ではなく、イエス様それ自身を攻撃することです。マルコ福音書によれば、「エルサレムから下ってきた」律法学者たちは、イエス様に対して「彼はベルゼブルに取り憑かれている」という恐ろしい判定を下します。彼らは、安息日に人を癒やしたとか、麦の穂を摘んだとか、イエス様の弟子たちの言動を非難しているのではありません。それ以上に、イエス様の霊性そのものが、最も悪質な悪霊だと宣言して、このことを繰り返し人々に語り聞かせていたのです。ほんもののサタンとは、「イエス様ご自身に敵対する者」なのです。すなわち、イエス様の御人格が宿る霊性それ自体を否定すること、これが敵対するサタンの真のねらいなのです。敵対する者たちが言うのは、イエス様の行なう悪霊追放が、「サタンの助けを借りている」ということだけではありません。「イエス様自身が、サタンそのものである。」こう言ったのです(マルコ3章22節前半)。ここに、サタンのほんとうのねらいが言い表わされています。この言葉から判断すると、イエス様に敵対する者たちにとって、病気癒しや悪霊追放は、ほんとうはどうでもいいのです。彼らのほんとうのねらいは、「イエス様ご自身」なのです。敵の軍隊を打ち破るためには、敵の大将ただ一人を狙えばよい。悪賢いサタンは、このことをちゃんと見抜いています。
 福音書で言う「悪霊」とは、病気から精神的な病までも含む広い意味で用いられていると言われています。現代でも、この辺が曖昧です。もしも、病気や精神的な症状を「悪霊」の働きにするならば、そういう病気の人たちを不必要に傷つけることになりましょう。まして、祈りによる病気癒しが「悪霊的だ」などと言うのはもってのほかです。実際には、福音書の記者たちは、「悪霊/汚れた霊」と身体や精神の悩みを引き起こす「悪い霊の働き」とを区別しています。特に今回、マルコ福音書が引用している律法学者たちの言う「悪霊」は、ほんらいの意味での「悪霊」を指しています。そもそも、悪霊の頭であるサタンが、病気を引き起こす直接の原因になることはありません。ほんとうの悪魔とは、ごく正常で健全そうに見える人に働いて、恐ろしい悪巧みを抱かせるからです。だから、律法の知識があり、頭も良くて、人々の上に立つ人たち、こういう人たちが、イエス様に敵対して、「彼はベルゼブルだ」と言ったのです。だからわたしたちは、「悪霊の頭/悪魔」と言う言葉をよほど注意して遣うべきです。
 旧約聖書の預言書の時代からイエス様が来臨される時代までの中間の時期、「旧新約中間期」は、「悪霊」や「サタン」などが、はっきりとした姿を帯びて登場する時期です。『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)には、悪霊どもの頭が、200人の悪霊の首領たちと、それぞれの下にいる無数の悪霊たちを引き連れて、神に背いて天から地上に降り、地上において人間の女性と交わって、ネフィリームと呼ばれる巨人たちを生んだとあります。この巨人たちから地上で暴虐が始まり、ついに神からの洪水を招いて、ノアの家族を除く人類が滅びたとあります(創世記6章1〜8節)。伝承によれば、これらの巨人たちこそ悪霊が生じた源です。
 スペインのプラド美術館に「エル・コロソ」(巨人)と題されている絵があります。1808〜1810年のもので、スペインの画家ゴヤ(1746〜1828年)の作と伝えられていますが、確かなことは分かりません。ゴヤは、現実の世界の背後に潜む悪霊的なものを描き出した画家です。1808年に、ナポレオンの率いるフランス軍がスペインに侵攻して、大勢の市民を殺戮しました。この絵は、その時の有様を人々を踏みにじる巨人の姿で描いています。この巨人こそ、『第一エノク書』のネフィリームであり、暴虐を行なう悪霊のほんとうの頭なのです。あらゆる暴虐が行なわれている画面の全体を覆うように、一人の巨人の姿が描かれていますが、これこそイエス様のほんとうの敵であるサタンの実像なのです。
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