【注釈】
 今回の「ベルゼブル論争」と次回の「聖霊への冒涜」と「汚れた霊が戻る」は、資料的に見ても内容的にも関連し合っていますので、これらを今回から扱うことにします。ルカ福音書では、「ベルゼブル論争」(11章14~23節)に続いて「汚れた霊が戻る」(同章24~26節)が来ていますが、「聖霊への冒涜」(ルカ12章10節)は、少し後にでてきて、人々の前でイエスを告白する時の教えに含まれています(ルカ12章8~12節)。ルカ福音書の説明から始めたのは、実は、これがイエス様語録(Q)に最も近い順序だったからです。
 ただし、『四福音書対観表』では、「ベルゼブル論争」に続いて「聖霊への冒涜」が来ていて、その後に「ヨナのしるし」があり、次に「汚れた霊が戻る」が置かれています。これに対し、マタイ福音書とマルコ福音書では、「ベルゼブル論争」と「聖霊への冒涜」とが併せて語られています。マタイはマルコに準拠していますから、マルコ(あるいはマルコ以前の伝承)は、「人々の前でイエスを告白する」の部分から、「聖霊への冒涜」の言葉だけを抜き出して、これを「ベルゼブル論争」の締めくくりとして置いたのでしょうか。マタイ福音書では、「ベルゼブル論争・聖霊への冒涜」の後に「ヨナのしるし」が来て、「汚れた霊が戻る」がこれに続きます。マルコ福音書には「汚れた霊が戻る」が抜けています。以上を視野に入れながら、わたしは、『四福音書対観表』に従って、今回は「ベルゼブル論争」を扱い、「聖霊への冒涜」と「汚れた霊が戻る」とをこの順序で扱うことにします。
 
■イエス様語録
 今回の復元箇所は、マルコ福音書にも並行箇所があります。また、マタイ福音書には、同じような内容が重複した箇所があるので複雑です。イエス様語録の1~3行は、マタイ福音書9章32~34節からです。4~6行はマタイ福音書12章25節からです。7~8行では、マタイ12章26節が主ですが、ルカ11章18節はマタイとほぼ同じです。9~13行では、マタイ12章27~28節とルカ11章19~20節が一致しています。14~15行は、マルコ3章27節に並行箇所があり、内容的に見ると共観福音書全部に含まれており、その上、『トマス福音書』(35)にも並行箇所があります。それだけイエスの真正の言葉からでていると思われますが、語句が三者の間で一致していません。だから、ここは、イエス様語録に含まれていたのか、あるいはマタイとルカとがマルコ福音書から採り入れたのかよく分かりません〔ヘルメネイアQ〕。16~17行では、マタイ12章30節とルカ11章23節がほぼ一致しています。ただし、この2行は、イエス様語録ではほんらい別の項目だったようです〔マックQ〕。
[1]【口を利けなくする】ギリシア語の原語「コーフォス」は、もともと「愚鈍/愚昧」を意味していて、この語は同時に、「口が利けない」ことと「耳が聞こえない」ことの両方、あるいはそのどちらかを指していました。ヘブライ語の「ハーレーシュ」も同じように、これらの両方を指しました。ここでは、「ものを言いだした」とあるから、口が利けないほうだったのでしょう。マタイ11章5節では、同じ用語が「耳が聞こえない」ことにも当てられています。なお、ここでは、これが悪霊の仕業とされていますが、「コーフォス」が、悪霊によるとは限りません(マタイ12章22節では「癒やされた」です/マルコ7章32~35節参照)。
【悪霊を追い出し】悪霊追放はイエスの伝道活動において重要な意味を持っていました。イエス様語録10行目のイエスの言葉から判断すると、悪霊追放は、必ずしもイエスだけではなく、イスラエルにおいても当時のオリエント地域全体においても行なわれていました。それだけに、イエスの悪霊追放を目撃した人たちが、「驚嘆した」とあり、さらに「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と噂していたのは、イエスの業がいかに際だっていたかを物語るものです。
[3]【悪霊の頭】悪霊追放とこれに対する人々の「賞賛」ぶりは、この出来事だけでなく、イエスの伝道開始以来続いているものです。イエスに敵対する人たちの言葉は、イエスに向けてではなく、そのような民衆に向けられています。特にここでは、何らかの姿で悪霊が「追い出される」現象がはっきりと人々の目に印象づけられたのでしょう。この人たちは、「そのこと」を指して、「悪霊の頭が働いている」と人々を説得しようとしていたのです。ここでは、悪霊追放それ自体が「現実に起こった出来事」として否定されているのではありません。逆に、そのような出来事が現に起こっているという事態を指して、その出来事の「意味そのもの」を民衆に向かって否定しているのです。敵対する彼らの言葉は「今までこんなことは見たこともない」という人々の賞賛とちょうど反対の「否定」と「呪い」をイエスの業に向けているのです。後で述べるようにファリサイ派を含むユダヤ教でも悪霊追放が行なわれていました。しかも、モーセ律法は、まじないや魔術による治療を禁じていましたから(歴代誌下33章6節)、いったい、その人の悪霊追放は、神から出たものなのか? それとも魔術やまじないによる悪魔から出たものなのか? これが問われることになったのです。今回の箇所はこの意味で、共観福音書全体の中で、悪霊追放の意味そのものが、最も鋭く問われている箇所です。
【ベルゼブル】ベルゼブルは、カナンのエクロンの神バアル・ゼブブ(列王記上1章3節)に由来する名前で、「いと高き住まいの主/神/王」の意味です。ところがイスラエルでは、これを「蝿の王=ベルゼブル」と言い換えて貶(おとし)めたのです。この名前のもとは「住まい/家の主」ですから、イエスは、このベルゼブルを「その家の主人」と結びつけたのかもしれません。なお「ベルゼブル」については、「弟子は師に見習う」のマタイ10章25節「ベルゼブル」の項目を参照してください。
[4]【思いを見抜いて】イエスが人の思いを見抜くことについてはの中風の人の癒しの出来事(マルコ2章8節)を参照してください。「見抜いて」は、辞義どおり「見てとる」ことです。「思い」は、マタイ福音書では「気持ちをこめて想いめぐらす」こと、ルカ福音書では「考える/理解する」ことです。ここでは、イエスを非難する者たちのイエスに対する「見方/考え方」だけでなく、彼らのそのような判断が「意図している」ことをも指しています。「彼らに言われた」とありますが、この「彼らに」とは、はっきりとは口にしないが内心イエスに敵意を抱く者たちを指すのか、それとも、悪霊追放を見ている群衆のことなのかがはっきりしません。後のほうに「あなたがたの子らは」とありますから、イエスはファリサイ派を含む聴衆全員に言ったことになります。
[5]~[6]【どんな国でも】これは内乱あるいは内戦状態の国のことです。内輪もめは外からの支配を招く最も危険な原因です。
【家でも】マタイ福音書では「分かれ争うどんな町や家でも」で、マルコ福音書では「もしも家が分かれ争うなら」で、ルカ福音書では「国が分かれ争うならその国の家々は次々に重なり合って倒れる」です。「家」とはこの場合そこに住む「家族」をも含むのでしょう。ここでは、イエス様語録が、先ずマルコ福音書に採り入れられて、おそらくマタイは、マルコ福音書を踏まえて「どんな町も家も」のように言い換えたと思われます。「町も」とあるのはマタイの編集でしょう。
[7]【サタン】
〔イエス以前〕これは固有名詞で人格的な存在です。このような固有名詞としての「サタン」が表われるのは歴代誌上(21章1節)が初めてです。歴代誌が書かれた時期は、編集を含めると前450~前157年と幅がありますが、前350年~前200頃と考えていいでしょう〔聖書事典〕。したがって、「サタン」が固有名詞として用いられるようになったのは、旧新約中間期の前3世紀頃だと考えられます。この時期は、捕囚以後で、イスラエルがエジプトのプトレマイオス朝の支配下にあった時期の末にあたります。イエスと以後の新約聖書の教会は、「サタン」をこのユダヤ教から受け継ぎました。
 「サタン」という言葉それ自体の起源は、ヘブライ語の動詞「サータン」から出ていて、「敵意を抱く/敵対する」の意味です(詩編38篇21節「彼らはわたしに敵対する、わたしは彼らの幸いを願うのに」)。詩編38編は「第一ダビデ詩集」に入りますから、ダビデ王国の時代(前900年~前600年)にさかのぼるでしょう。しかしここは、「わたしを告発する/訴える」あるいは「(わたしが善意で行なったのに、彼らは偽って)わたしのことを中傷する」とも訳すことができます。だから、「サータン」には、「敵対する」「告発する/訴える」「中傷する」という意味があります。「告発する」は、何らかの事実に基づいてこれを暴いて非難することですが、「中傷する」は、事実でない偽りの理由で非難することです(他に詩編71篇13節など)。「サータン」の名詞形が「サーターン」で、「敵対する者」「告発する者」「中傷する者」の意味です(例えば詩編109篇6節「彼の右に敵対する者を立たせてください」)。これらの動詞も名詞も、固有名詞ではなく普通名詞です。だから、前3世紀頃までは、このヘブライ語は、通常の動詞あるいは名詞で、そこに固有名詞としての人格性はありません。
 では、「悪魔」とか「サタン」とか呼ばれる超人間的な存在はどこから来たのかと言いますと、これの起源は古く創世記6章2節の「神の子たち」にさかのぼります。彼らは神に仕える天使たちで、その中には、人間を監視して、人間の悪行を神に「告発する/訴える」役目を与えられた天使たちがいました。ヨブ記(1章9~12節)やゼカリヤ書(3章1~2節)の「サタン」がこれにあたります。彼は神に奉仕する天使ですから、ゼカリヤ書では、サタンが大祭司の欠点を告発しようとすると、主/神は、大祭司への恵みのゆえに、サタンに向かって「沈黙せよと叱って」います。ヨブ記もゼカリヤ書も最終的に成立したのは3世紀前半と考えられますから、これらの例は、先の歴代誌上21章で、初めて固有名詞の「サタン」が表われるのとほぼ同時代か少し以前でしょう。なお、七十人訳では、ヨブ記の「サタン」もゼカリヤ書のそれも冠詞付きで「ホ・ディアボロス」(悪魔)"the devil" と訳されています。
 神に仕えるこのような「見張りの天使たち」が、神に背いて堕落したことによって「堕天使」の伝承が生まれました。この伝承は、創世記6章2節の「神の子たち」が人間の女性と関係を結んで堕落したという解釈から生じました。その結果彼らの子孫ネフィリームから悪霊が出てきて暴虐を行なったために、ノアの時代に洪水が起こったとされています。この伝承は『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)の中の「見張りの天使たちの書」に詳しく語られています(第一エノク6章~36章)。『第一エノク書』の「見張りの天使たちの書」も、ゼカリヤ書や歴代誌とほぼ同じ前3世紀ですが、「神の子たち」の堕落伝承それ自体の起源は古く、この伝承は、おそらくイスラエルが、捕囚期にバビロニアの神話から受け継いだと思われます。
 『第一エノク書』15章では、堕天使たちが、ほんらい「永生の身でありながら、人間の血によって情欲に燃え」巨人たちを産み落とします。この巨人たちが、地上では「悪霊」と呼ばれます。悪霊が彼らの体から出たからです。彼らは「天の霊」と「地上で生まれた地の霊」とを混交させたところから生じたのです。『第一エノク書』では、これら堕落天使たちの頭は、サタンではなくシェミハザです。しかし、『第一エノク書』54章5節では、「アサエル/アザゼルが率いる天使の軍勢を捕らえて地獄の深みへ投げ込め」と神が天使ミカエルたちに命じていますから、エノク伝承では、堕天使たちの頭が、シェミハザからアサエル/アザゼル(レビ記16章6~10節参照)に移っています。
 アサエルの名は『第一エノク書』の全体に表われますが、サタンが登場するのは『第一エノク書』の40章7節です。しかしここは、「サタンども」と複数ですから、これはまだ「中傷する者ども」のことで、固有名詞ではなく普通名詞かもしれません。ところが、同54章6節には、「サタン」が固有名詞として出てきて、しかもアサエル/アザゼルは、サタンの手下になっています。『第一エノク書』の「たとえの書」(37~71章)の部分は成立年代が新しく、54章は「ノア書」よりも後ですから、固有名詞化されたサタンは、後にアザゼルの頭になったのでしょう。『ヨベル書』(前150~前100年頃)の10章では、ノアが、今の時代にはびこる悪霊どもを滅ぼしてくださるよう創造主に祈ります。すると悪霊の使いであるマスティマが創造主のところへ来て、どうか悪霊全部は滅ぼさないでくれるよう懇願します。神は、地上の悪霊どもの10分の1は残しておいて、地上でサタンに仕えるようにしようとマスティマに告げるのです。このことから判断すると、サタンが本格的に登場するのは紀元前2世紀後半頃からで、サタンは、それまでに、悪霊どもの頭であったアサエル/アザゼルに取って代わったと見ることができます。
 サタンに先立つ悪霊どもの頭としては、アサエルのほかに、マスティマ(「非難する者」の意味。旧約聖書にはでません)やベリアルがいます。申命記13章14節に「ベリヤアルの子ら」とありますが、これは「無価値な/邪悪の子たち=ならず者たち」の意味ですから、旧約聖書では、「ベリヤアル」はまだ普通名詞です。『ヨベル書』(1章20節)には、「ベリアルの霊にあやつられる人たち」のことがでていて、ここでは、イスラエルの民をヤハウェ以外の神々へと「誘う/罠にかける」半ば人格的な存在とされています。ベリアルが固有名詞になるのも旧新約中間期(前4世紀~前1世紀)でしょう。
 ベルゼブルは、エクロンの神バアル・ゼブブ(列王記上1章3節)に由来する名前で、「いと高き住まいの主/神/王」の意味です。悪霊の頭「ベルゼブル」は、旧約聖書において、「バアル・ゼブブ」というこの呼び方を貶めて、「蝿の王」(バアル・ゼブル)と呼んだことから来ています。この名前は、アサエル=サタン伝承とは別個に出てきた名前ですが、カナンのバアル神は古くからイスラエルに知られていましたから、「ベルゼブル」は、王国時代から知られていたのかもしれません。なお、イザヤは、堕落天使の頭を「輝く明けの明星」と呼んで、これを滅亡するバビロンへのたとえとして用いています(イザヤ14章12~15節)。これが、サタンと結びついて、彼は「神に背いた悪の大天使」として、「ルシファー=明星」(英語"Lucifer">ラテン語「ルシフェル」から)とも呼ばれるようになりました。
 以上のことから分かるように、サタンは比較的後になって(主として紀元前1世紀か)、それ以前のさまざまな悪霊どもの頭たちの名前を引き継ぐ形で、悪霊どもの頭領と見なされるようになったと考えられます。
〔イエス以後〕新約聖書には、「サタン」が全部で35回でてきますが、そのうちで、共観福音書が14回、ヨハネ福音書が1回です。その他第一/第二コリント書簡を通じて6回、ヨハネ黙示録に3回です。しかし、新約聖書では、サタンは「悪魔」として30回以上もでてきます。ヨハネ福音書では「サタン」は13章27節にでてくるだけですが、この福音書は、サタンを「この世の支配者」"the prince of this world"とも呼んでいます(12章31節/14章30節/16章11節)。サタンは闇の王国の支配者であり、神の国と対立します(使徒言行録26章18節)。サタン/悪魔は「敵対する者」(マタイ13章39節)であり、「騙し誘惑する者」(マルコ1章13節/第一テサロニケ3章5節)であり、「偽りと人殺しの父」(ヨハネ8章44節)です。サタンは「光の天使に変装し」(第二コリント11章14節)、「年老いた蛇/竜」(ヨハネ黙示録12章9節)とも呼ばれます。以上で分かるように、新約聖書の「サタン」は、旧約聖書以来の伝承を受け継ぎつつ、さらにその人格的な働きを拡大しているのです。
[10]【あなたたちの子ら】ここで「子」というのは、その宗派に属する人たちを指しています。だから、マタイ福音書の中では、この言葉は「ファリサイ派に属する人たち」のことです。イエスだけでなく、イエス以外にも、またイエスに批判的なファリサイ派の中にも、「悪霊追放」の祈りや追い出しをする人たちがいたことが分かります。しかし、イエス様語録には、ファリサイ派がでてきませんから、「あなたたち」は辞義どおりには、イエスの聴衆のことです。「あなたたちの仲間」と「あなたたちは」とは事実上同じです。だから、イエスは、おそらくユダヤ教以外の宗教の人たちをも含めて、自分以外の人たちが行なう悪霊追放をある意味で同列に置いていたことになりましょう。ただし、ファリサイ派の人たちの悪霊追放のやり方は、律法の定める儀式に従う伝統的な方法によるものであり、ヘレニズム的な悪霊追放は、呪文や供え物による儀礼を伴うやり方でしたから、イエスのように、言葉その他のごく簡単な方法で行なうやり方とはずいぶん異なっていました。イエスの場合は、その人格的な霊性の働きが重要な意味を持っていたからです。イエスがこのように、一般の悪霊追放をも神の業と認めたその背景には、知恵思想があると思われます。「知恵」は、古来あらゆる国々や諸民族の間で、その業を顕わしたのですが、どこにも受け入れられず、ついにイスラエルにその「宿り」を定めたとあります(シラ書24章9~10節)。
[11]【あなたたちを裁く】あなたたちの仲間があなたたちに反論することです。イエスは、反対者たちの自己矛盾を突いているのです。ここで言う「裁き」とは、続く「赦されない罪」の場合と同様に、終末的な意味の「裁き」のことでしょう。
[12]【神の指で】これはルカの言い方で、マタイ福音書ではここが「神の霊で」になっています。ルカ福音書のほうがイエスの真正の言葉だと考えられます〔デイヴィス『マタイ福音書』〕。10行では、イエス以外の一般的な悪霊追放と自分のそれとを同列に置いているのに、12行では、イエスの悪霊追放が特別に神からのものであることを強調するのは、矛盾しているという見方もあります。しかし、この見方は適切でありません。なぜなら、イエスはここで、今行なわれているのが、単なる悪霊追放の業だけでは「ない」ことをはっきりと宣言しているからです。イエスを通じて顕わされている悪霊追放は、「神の指」、すなわち、神ご自身の直接の介入によって行なわれているのであって、このことは、イエスを通じて初めて可能なことであり(マタイが「わたしが」を入れてイエスを強調しているのはこのためです)、「神の国」がすでに現在実現していることを示すものだからです。イエスを通じて初めて、神の国が終末ではなく今この時に現実しているというこの出来事が、「神の指」が指し示すことです。しかも、「イエスを通じて」ということが、イエス自身の人間的な業では「ない」こと、まさにこのことが「神の指」という言葉が示していることです。それはイエスに働いている「神の御霊」によることを証ししているのです。マタイが「神の御霊にあって」と言い換えているのは、このことを明確にするためでしょう(ヨハネ10章37~38節)。マタイが、通常の「天の国」と言わず、「神の国」を用いる時には、このように地上において御国が実現していることを示そうとする時です〔ノゥランド『マタイ福音書』〕。「神の指」が指し示す「神の国」は、「サタンの王国」への挑戦であり、同時に、神にファリサイ派への脅威となるものですから、このことが次に語られるのです。
[13]【神の国はすでに来ている】「来ている」の原語は動詞「プタノー」のアオリスト形で、「すでに到着している」「先に来ている」ことで、「その時に先立ってすでに来ている」ことを意味します〔ノゥランド『マタイ福音書』〕〔デイヴィス『マタイ福音書』〕。この意味で神の国は、イエスと共に「来臨している」のですが、同時に、「神の国は<近づいた>」とも言われています(マルコ1章15節)。「近づいた」の原語は「エギゾー」の完了形です。神の国がイエスの出来事において「すでに」現実していることを言い表わそうとしている点では、これら二つの動詞は同じことを意味しています。
[14]~[15]マルコ=マタイの版とルカの版とは内容的にかなり違いますので、それぞれ別個に伝承されたと考えられます。おそらくルカの版が、真正に近く、したがって、ほんらいのイエス様語録からでしょう。「強い人」とはサタンを指し、「その家」とはサタンの王国とその支配下にいる人々のことです(ルカ13章16節参照)。ここでもイエスは、神の国がすでにサタンの王国を征服していることを告げています。イエスの言葉の背後にはイザヤ書49章24~25節があるのでしょう。ユダヤ黙示思想には、悪霊どもは「すでに」縛られていて、神の裁きを待っているという考え方がありました。ただし、後の教会は、イエスの言う「神の指」を十字架の贖いと理解し、サタンの王国の敗北を終末での出来事と位置づけました。
 12~13行は、内容的に見ると、先の「分裂」のイメージから、今度は「支配」のそれへと違った仕方で説明しています。一見簡単なやり方で行なうイエスの悪霊追放が、そこに働く「神の指」のものすごい力によることを説明するために、この2行が追加されているのです。「縛る」という動詞はヘレニズム世界では、呪文によって悪霊を「縛る」ことを意味しますが、イエスの前には、悪霊の頭であるサタンも「縛られて」いるのです。ただし、このことは、サタンが、現在この地上において、すでに「縛られている」ことを必ずしも意味しません(マタイ17章14節以下=マルコ9章14節以下参照)。イエスにあって、サタンはすでに裁かれ、縛られることが定まっていますが、これが最終的に成就するのは終末においてです(ヨハネ黙示録20章1~3節/同7~9節)。イエス・キリストにあって勝利はすでに定まっていますが、戦いは未だ続いているのです。
[16]~[17]この2行もほんらいは独立した「主の言葉」だったのかもしれません。しかし、この文脈に置かれることで、イエスと共に立つのか? イエスの敵対者の側に与(くみ)するのか? そのどちらかを選ばなければならないことを迫る内容になります。「共にいる/いない」は、戦場において敵か味方かどちらに与(くみ)するかを問うもので、そこに「中立」の立場は存在しません。「集める/散らす」は、羊の群を飼う牧者のイメージだと考えられます(イザヤ40章11節/エレミヤ23章1~2節/エゼキエル34章12節)〔デイヴィス『マタイ福音書』〕〔フランス『マタイ福音書』〕。「離散した/散らされていった」とあるのをイスラエルの民を「集める/散らす」という意味に拡大して解釈する説もあります(マタイ24章31節)〔ノゥランド『マタイ福音書』〕。ただし、今回の箇所は、悪霊追放という「霊の戦場」での発言ですから、意味をあまり拡大しないほうが適切かもしれません。
 イエスの伝える「神の国」か、それとも「サタンの国」か、悪霊追放というごまかしのきかない出来事をめぐって、この二つ見方が対立しているのです。イエスの霊性が神から出ていると信じるのか、それとも、イエスにファリサイ派の側に立って、イエスは「悪霊の頭」の側にいると見なすのか? もしもイエスが神の働きをしているのなら、これに反対するほうこそが、サタンに味方することになります。ここでは、「どちらとも言えない」ふりをして、「黙って判断を控える」ことで、自分を第三者の立場に置くことは許されません。戦場では、味方でない者は敵だと見なされ、神の国とサタンの国とが「霊の戦場」で衝突する時には、「何もせず何も言わない」者は、神に敵対する者と見なされるからです。いざという時に「助けてくれない者」は、敵に味方するのと同じです。なぜなら、敵は、まさに「そういう者たち」が大勢いる/でることを計算に入れているからです。イエスがベルゼブルの側だと「脅しておけば」、人々は、少なくとも、イエスの味方にはならないだろう。これが、イエスに反対する者たちのねらいだからです。ここでは、自分が人に「どう見られるか」ではなく、自分自身の霊性が問われるのです。だから、イエスのここの言葉は、敵対者たちに向けられているのではなく、「どちらとも決めかねている」曖昧な人たちに向けて語られているのでです。
 マルコ9章40節には「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方である」とあります。これと今回のイエスの言葉とは相矛盾するように見えますが、マルコ福音書9章の場合は、イエスの弟子ではないまでも、イエスを尊敬してその名を用いて悪霊追放を行なっている者たちについての発言です。しかもイエスは、その言葉を「弟子たちに」向けて語っているのですから、今回のように、敵対者からの激しい非難を受けて、一般の人たちに向けられた発言とは異なっています。
 
■マタイ9章
 マタイ9章32~34節は同12章22~25節との重複 "doublet" です。マタイがこの箇所に重複部分を置いたのは次のような理由からでしょう。
(1)8章~9章を通じて、マタイは「イエスの癒やし/奇跡+イエスの教え」を3度繰り返していますから、口の利けない人の癒しを最後に置いて、これに続けて、イエスの伝道全体のまとめ(9章35~38節)を置いて締めくくっています。
(2)9章34節で、ファリサイ派がイエスを「悪霊の頭」と関連づけていますから、この対立が10章以下へとつながり、12章のベルゼブル論争へと発展することになります。
 イエスの「力ある業」を賛美する民衆と、これと並行するように、民衆を制御してイエスを民衆から切り離そうとする指導層の思惑とが、このように同時進行するのです。
[32]【二人が出て行く】盲人の癒やしに続いて、口が利けない/耳が聞こえない人の癒しが来ます(原語は両方の場合を含みます)。ここでは、「ものを言い始めた」とあるので、口が利けないほうです。
[33]【悪霊が追い出される】ここでは悪霊に対して「追い出す」という動詞が用いられていますが、12章22節では「癒やす」です。ただしファリサイ派はイエスの「癒し」を悪霊追放と同じに見なしています(12章24節)。悪霊に対しては通常「追い出す」が用いられますが、ここの場合のように、病気とほとんど同じ場合でも、広く「悪霊の仕業」だと見なされていたのでしょう。
【群衆は驚嘆し】これが、8章~9章を通じて語られてきたイエスの癒やしを特徴づけています。これらの悪霊追放や病気癒しは、パレスチナおよびヘレニズム世界で広く行なわれていましたから、必ずしもイエスだけではありません。しかし、マタイは「イスラエルで起こったためしがない」という人々の声を最後に置くことで、ここでの癒しだけでなく、これまでの癒やしや奇跡すべてを含めて、イエスの卓越した権威とその人格的霊性を伝えようとしているのです。これが逆にファリサイ派の反発をも招く結果になることが、以後の展開で明らかになります。
[34]ここでのファリサイ派の言葉は、直接イエスに向けられているよりも、「驚嘆している」群衆のほうに向けられているのでしょう。しかも、この言葉は、イエスの「教え」ではなく、イエスの行なう「業と出来事」に対して言われていることに注意してください。イエスの業/出来事は、神からのものなのか? それとも、悪霊からのものなのか? この問題が、ここから浮上してくることになります。
 
マタイ12章22~30節
 先ずマタイ福音書12章全体の構成を前半〔A〕と後半〔B〕とに分けて見ます。
〔A〕「安息日に麦の穂を摘む」(1~8節)+「手の萎えた人を癒やす」(9~14節)+「神が選んだ僕」(15~21節)となっています。このように、始めの二つの出来事では、イエスとファリサイ派との対立がでてきて、三つ目には、一般の人たちへの語りかけが来ていて、ファリサイ派はでてきません。
〔B〕「ベルゼブル論争」(22~32節)+「木とその実」(23~36節)/「人々はしるしをほしがる」(38~42節)+「汚れた霊が戻る」(43~45節)/「イエスの母」、兄弟」(46~50節)となっています。
 12章の後半の構成は、斜線(/)で三つに区切ってあります。始めの二つの区切りでは、イエスとファリサイ派との対立がでてきて、これらそれぞれに、「木の実」と「汚れた霊」の説話が加えられています。三つ目の区切りは、一般の人たちへの語りかけで、ファリサイ派はでてきません。マタイはこのように、12章を前半と後半とに分けて、「イエスとファリサイ派の対立」+「一般の人へのイエスの教え」という対称形の構成をとっています。ただし、〔B〕の後半では、〔A〕と異なって、二つの記事が一つにまとまって一区切りになっていますから、正確に「対称形」とは言えません。
 したがって、内容的に見るならば、マタイは、「ベルゼブル論争」と「聖霊を冒涜する罪」と「木とその実」との三つをひとまとまりにしており、続いて、「人々がしるしをほしがる」と「汚れた霊が戻る」とをひとまりにしているのが分かります。
 マタイは、今回の「ベルゼブル論争」では、ほぼイエス様語録を採り入れていますが、マタイ12章29節では、彼はマルコ3章27節(=イエス様語録)を採り入れています。ルカ福音書(11章21~22節)は、この部分が全く異なっています。
[22]【目が見えず】これはマタイの付加です。マタイは、9章の重複部分と区別するためにこれを加えたのでしょうか? 
【いやされる】マタイはここでは、悪霊から「癒やされる」と言っています。「目が見えるようになった」はマタイの付加です。
[23]【ダビデの子】これは、イエス様語録にはなく、マタイの付加です。イスラエルのダビデ王(前1000年頃)は、現在のエルサレムの神殿跡の南に位置する「ダビデの町」の建設者であり、ダビデ王朝の創始者です。彼からソロモン王の時代にかけて、イスラエル王国は繁栄の絶頂を迎えました。神はダビデに「あなたの子孫(単数)は、わたしのために家(神殿)を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」(サムエル記下7章12~13節)と約束しています。ユダヤ教では、この約束に基づいて、イスラエルの民を外国の支配から解放する「油注がれたメシア」がダビデの子孫から生まれるという希望を抱くようになりました。旧約聖書では「ダビデの子」という称号は、コヘレトの言葉1章1節と箴言1章1節にでてくるだけで、通常「ダビデの子孫」という言い方をします(エレミヤ33章22節)。
 原初キリスト教会は、ダビデが詩編を通じて預言している「メシア」とはイエスのことだと解釈しました(マルコ12章36節/ルカ1章32節/使徒2章27~32節)。この預言に基づいて、イエスがイスラエルに約束された「ダビデの子」メシア(キリスト)であることが、原初教会の大事な伝承になりました(使徒言行録13章23節/同33~35節)。パウロもこれを受け継いでいます(ローマ1章3節/なお第二テモテ2章8節参照)。
 マタイ福音書でも、イエスが父ヨセフの系図によって「ダビデの子」であることは、冒頭の系図(1章16~17節/同20節)にあるとおりです。新約聖書で「ダビデの子」は全部で23回でてきますが、マタイ福音書(11回)、マルコ福音書(4回)、ルカ福音書(4回)です。ヨハネ福音書、使徒言行録、ローマ人への手紙、第二テモテへの手紙には、それぞれ1回ずつです。マタイ福音書では、9章27節に初めて、盲人の癒やしと関連して「ダビデの子」が表われますが、これはイエスのメシア性を明らかにするためです。マタイが特にのこの称号を重視しているのは、マタイの教会が、当時のファリサイ派とイエスのメシア性について論じる際に、このことを強く主張したからでしょうか。
[24]【ファリサイ派】「ファリサイ派」はマタイの編集です。マルコ福音書の並行箇所では「エルサレムから降ってきた律法学者たち」で、ルカ福音書では「ある人たち」です。マタイは、「律法学者たちとファリサイ派の人々」という言い方もしますが(マタイ24章)、「ファリサイ派」と「律法学者たち」とを内容的に分けている場合が目立ちます(マタイ7章29節/8章19節/9章3節)。ファリサイ派が「これを聞いて」とあるのは、人々がイエスに驚嘆している声のことですから、以下のファリサイ派の発言は、直接イエスに向けられたものではなく、この人たちに向けて語られたのでしょう。
[25]~[26]【内輪で争う】辞義どおりには、「分けられて、その中で互いに(対立するあらゆる国は)」です。"Every kingdom divided against itself."[NRSV]。なお「荒れ果てる」についてはイザヤ書6章11節を参照。ここで想定されているのは、サタンが支配する統一した王国があり、神が支配する王国がこれと戦っている状態です(マタイ4章8~10節)。
[27]~[28]【神の霊で】マタイ福音書では、「神の霊によってわたしが(悪霊を追い出す)」とあって、主語「わたし」が強調されています。マタイは、一般的に悪霊追放が行なわれていることを認めた上で、ここではそれが、特に「イエスによる」業であることを強調し、そうすることで、悪霊追放が単なる霊能の業ではなく、イエスの人格的な霊性に基づく神からの「しるし」であって、魔術的な性格のものではないことを強調しているのです。ルカ福音書では、イエス自身は、悪霊追放の業が「神の働き」であることを明言していて、その業を自分自身と結びつけることはしていません。しかし、マタイはここで、悪霊追放の業が、イエスこそ神から遣わされたメシア(キリスト)であることを証しするしるしだと見ており、したがってマタイは、「イエス」を強調すると同時に、イエスが行なうその業が、「神の御霊による」ことを証しするのを忘れないのです。だからマタイは、この出来事のすぐ後に「木の実」のたとえを置いて、「善い業」は「善い霊性」から出るものであり、「悪い業」は「悪い霊性」を証ししているから、その人の霊性(木)は、その業(実)によって、判断しなければならないことを読者/聴衆に理解させようとしています。
 ルカ福音書では「神の指によってわたしが(悪霊を追い出す)」とあります。マタイの「神の霊」を「神の指」に変えたとは考えられませんから、ルカのほうがイエス様語録のままであり、イエス様語録=ルカ福音書は、イエスの真性の言葉を保持していると考えられます。ルカ福音書では、「神の指」とあって、イエスよりも、むしろ神自身の働きのほうに重点が置かれています。ルカ福音書でも「わたしが(追い出す)」と強調の主語「わたし」がでていますが、これが抜けている異本がかなりあります。あるいはマタイ福音書に倣って、後から「わたし」を挿入したのかもしれません。なお、27~28節は、マルコ福音書にはありません。
[29]イエス様語録のところで説明したように、この節は、内容的にルカ福音書とずいぶん違っています。マルコ福音書(3章節27)=『トマス福音書』(35)「イエスが言った、『誰も強い人の家に押し入って、彼の両手を縛りあげなければ、それ(家)を強奪することはできない。そうすれば、彼は彼の家を押し倒すであろう。』」=マタイ福音書(12章29節)の系統と、ルカ福音書(11章27節)の系統との二つの異なる形で伝承されたと考えられます。ルカ福音書のほうがイザヤ書49章24~25節に近いことから、こちらのほうがイエス様語録から出ていると見ていいでしょう。ここのイエス様語録もイエスの真正な言葉だと見なされています。イエスは、神の働きが、今すでに現臨していることをこのたとえで告げているのです。「強い人」はサタンを指しますから、イエスが来てサタンを「縛る」ことになります。サタンが「縛られた」という記事は新約聖書には見あたりませんが、神のみ使いがサタンを「縛る」という伝承は、『第一エノク書』(10章4節)にでてきます。サタンを「縛る」のは、サタンを「追い出す」以上の権威がイエスに授けられていることを意味します。
 
■マルコ3章
 今回の箇所は、イエス様語録と共通する伝承が、マルコ福音書にも入り込んでいる場合です。なお、マタイ12章27~28節=ルカ11章19~20節は、マルコ福音書では欠けています。
[22]【律法学者】ヘブライ語では「ソーペール」(書記官)、ギリシア語では「グランマテウス」(学者)で、英語は "scribe" です。「ソーペール」は、ほんらい、王室で文書を作成したり管理する書記官/秘書官のことです(列王記下22章3節以下にでてくるシャファンがその例です)。彼らはまた、王や祭司や預言者などの秘書/書記の役目も務めました(エレミヤ36章4節以下のバルクや同11~13節のミカヤ)。しかし、イスラエルが捕囚から解放された時に、律法学者として重要な役割を果たしたのが、ペルシア帝国の書記官あるいは宗教的な法務官としてユダヤに遣わされたエズラです(エズラ記7章6~10節)。エズラは神の律法に精通しており、捕囚後のイスラエルで律法による教育と裁判人の選定に当たりました(同25~26節)。このエズラの役目は、レビ人たちに受け継がれることになります(ネヘミヤ7章8~9節)。ただし、この時期には、学者と祭司と政治的な指導者とは、それほど区別されていません。
 旧新約中間期のヘレニズム時代になりますと、セレウコス王朝のアンティオコス3世は、ユダヤの議員(ゲルーシア)、神殿祭司、神殿に奉仕する律法学者、神殿合唱隊などに免税の措置を執っています。このことから、この時期には、上級の律法学者たちは、祭司たち共に神殿制度に組み込まれていたことが分かります。これに対して、シラ書の著者のように、「知恵の教師」として律法を教える学者たちもいて、中には市井の律法学者たちもいました(シラ書38章24節)。
 ギリシア系の王アンティオコス4世によるユダヤ教への弾圧に反抗してマカバイ戦争(前167~前164)が起こりましたが、これに多くの「律法に熱心な者たち」(第一マカバイ記2章42節)が加わりました。これがいわゆる「ハシダイ」と呼ばれる敬虔主義的なユダヤ教徒です。この戦いを機に、ファリサイ派やサドカイ派やエッセネ派(クムラン宗団を含む)が生まれることになりますが、この戦争の結果、律法学者たちもかなりの政治的な力を得たようです(第一マカバイ記7章12節)。しかし、彼らが全体として独立した教派を形成することはなく、このため、律法学者たちは、ファリサイ派やサドカイ派、エッセネ派など、どの宗派にも属していたようです。新約聖書で、「ファリサイ派と律法学者」(マタイ23章)あるいは「長老、祭司長、律法学者」(マルコ8章31節)のように、様々な組み合わせで登場するのは、一つにはこの理由からでしょう。律法学者/律法の専門家として単独で登場する場合ももちろんあります(マタイ22章35節/マルコ9章11節/ルカ11章52節)。
 律法学者たちで著名な人物は、前20年頃のヒレルとシャンマイ、後35年頃のガマリエル1世(使徒5章34~40節)、後70年頃のヨハナン・ベン・ザカイなどです。彼らの教育は、神学、法学、哲学など多岐にわたっていました。イエスの時代には、律法学者たちは、地方の会堂制度にまで組み込まれていましたから、祭司と同様に、身分的にはエルサレムの支配層に属する律法学者たちだけでなく、地方の身分の低い律法学者たちもいて、特定の階層や特定の宗派によらない存在でした。彼らは、会堂で律法の教育や律法に基づく裁定などに携わりましたが、その律法解釈は、聖書それ自体に留まらず、これにまつわる先祖からの口伝的な伝承に基づく解釈(「ミドラシュ」と呼ばれる)によって聖書の解釈を補完するものでした。これがイエスによって彼らが批判された理由の一つです(マタイ15章2節/同6節/マルコ7章5節/同8節)。
 新約聖書では、マルコ福音書は「律法学者たち」を主としてエルサレムの指導層や議員と関連づけていますが、これに対してマタイ福音書は、律法学者たちを肯定的に見ているところがあります(マタイ13章52節/23章34節)。マタイの教会では、ユダヤ人キリスト教徒が多数いたこともあって、彼の教会には複数の律法学者たちがいたと思われます。したがって、マタイ福音書は、彼らの影響を強く受けています。
【ベルゼブルに取りつかれて】ここでは以下の三つの点に注意してください。
(1)マルコはここで、「エルサレムから下ってきた」律法学者たちと言っていることです。このことは、「律法学者たち」の項目で指摘したように、ガリラヤ在住の律法学者たちのことではなく、より高位のエルサレムの指導者たちから遣わされてきた律法学者たちを指すと思われます。それだけ、彼らは、イエスの言動に厳しい監視の目を光らせていたことが分かります。
(2)マルコ福音書では、律法学者たちからイエスに向けられている非難が二つあります。一つは、イエスには「ベルゼブルが取り憑(つ)いている」(原文は「ベルゼブルを持っている」)という非難です。これはマタイ福音書にもルカ福音書にもないマルコ福音書だけの非難です。ここで彼らは、イエスの言動だけではなく、イエスの霊性それ自体が、サタンと同一視される「ベルゼブルの霊性」だと見なしているのです。これは、イエスに向けられた様々な非難の中で、最も悪質で、根源的な敵意を意味します。マルコ福音書が、この律法学者たちの非難を「聖霊を冒涜する赦されない罪」に当たると見ているのはこの理由によります。イエスに対するもう一つの非難は、共観福音書に共通するもので、イエスの悪霊追放は、「悪霊どもの頭」の霊力によっているというものです。だから、ここで言う「悪霊」とは、病気や精神的な病を起こす「悪い霊」の意味ではなく、正真正銘の「悪霊」であり、しかもその頭である「悪魔」のことになります。
(3)マルコが、イエスの家族の誤解の記事を二つに割って、その間にこの律法学者たちの非難を挟んだ理由がこれで分かります。家族は、イエスの「気が変になっている」と聞いて、あわててイエスを「取り押さえに」来ました。しかし、今回の箇所では、事態はそれよりもはるかに深刻であることが分かります。エルサレムの指導層から来た律法学者たちが、イエスの霊性を「ベルゼブルの霊」だと断定したからです。この非難は、直接イエスに告げられているのではなく、イエスの霊性とその霊能に驚き神を賛美している人々に対して、彼らが、このような彼らの判断を繰り返し「説明」したり「告知」したりしていたからです(「言っていた」〔不定過去形〕はこの意味)。
[23]【彼らを呼び寄せて】マタイとマルコとの大きな違いは、イエスが、続くたとえを一般の人たちに向けて語るのに対して、マルコ福音書では、イエスを批判している「律法学者たちだけを呼び寄せて」語ることです。マルコ福音書では、「呼び寄せる」は、イエスが何か大事なことを語ろうとしていることを意味します。この際にイエスは、弟子たちだけに語る場合と(9章35節/18章31節)、「その他の人たち」をも同時に呼び寄せる場合とがあります(マルコ3章13節/7章14節/8章34節)。しかし、今回のように、特にイエスと対立する人たちだけを「呼び寄せる」のは、珍しい場合です。ここで告げられることが、それだけ「彼らにとって」大事な意味を持つからです。ただし、イエスは、一般の人たちには「たとえ」で語り、弟子たちにだけはそのたとえの秘密を明かしています(マルコ4章11節)。ところが、今回の場合は、呼び寄せた律法学者たちに、イエスは「たとえ」で語るのです。このように、マルコ福音書では、イエスのたとえは、一般の人たちや敵対者たちに向けられているのが分かります。「たとえ」は、これを聞く者の心に様々な連想を呼び起こしますから、この方法によって、たとえは、これを聞いている者の「心の内面」を暴露する働きをするのです。「たとえ」そのものについてはマルコ4章に説明されています。
[24]~[25]【国が内輪で争えば】このたとえは「サタンの王国」と関係しています。律法学者たちが言う「ベルゼブル」とは「サタン」のことです。サタンは悪霊どもの頭であって、彼の国は分裂していません。だからここでは、「サタンの国」とイエス・キリストの霊性を通じて働く「神の国」とが、真っ正面から衝突しているのです。イエスは、悪霊どもの頭<で>戦っているのではなく、悪霊どもの頭<と>戦っているのです。ユダヤ教の黙示思想では(特に『第一エノク書』などでは)、サタンのほかにいろいろな名前の「悪霊ども」がでてきます。これに対して、新約聖書では、「悪霊ども」はひとまとまりにされて、サタンの支配下に置かれていますので、戦いは、もっぱら、「サタンとキリスト」との対決であり、「サタンが支配する王国」と「神が支配する王国」との間で戦われるのです。
 なお、ここでのたとえの語り方では、マルコ3章24節だけが、共観福音書で共通しています。これ以外では、マタイとマルコとルカとでは、語り方がそれぞれに違います。マタイ福音書では「どんな国でも~」「どんな町でも家でも~」とあり、マルコ福音書では「国が~」「家が~」であり、ルカ福音書では「どんな国でも~家が~」となっています。
[26]ここでは「もし~ならば」と仮定的に語られていますから、サタンは「まだ」滅んではいないかのようにも聞こえます。しかし、ここでは、今現在起こっている出来事を基にして語られているのですから、サタンの王国は、「すでに」現実として「立ちゆかなく」なっており、サタンも「消滅」を味わいつつあるのです(ルカ10章18節参照)。
[27]マルコのこの節は、マタイにほとんどそのまま受け継がれています。ただし、マタイ12章30節はマタイによる付加です。
 
■ルカ11章14~23節
 ルカ福音書11章も、ルカ9章に始まるエルサレムへの旅の途中の出来事とされています。ただし、場所は特定されていません。11章の前半には群衆も人々もでてきませんが、後半には人々とファリサイ派が登場します。ルカ11章は驚くべき章です。前半(1~4節)では主の祈りが与えられ、続いて、熱心に求める者には聖霊の賜が授与されることが、たとえを用いて語られます(5~13節)。ところが、11章の後半からは、突然、それまでの祈りと聖霊から、悪霊問題とファリサイ派との論争に変わるのです。特に今回の「ベルゼブル論争」(一般にこのように呼ばれています)は、直前の聖霊授与と正反対の対照をなしています。聖霊から、突然悪霊に移るからです。
 今回のルカ11章14~23節で、ルカはほぼイエス様語録に従っています(例えば「神の指」)。と言っても、所々にルカの編集が見られますが(例えば16節)。ここのイエス様語録の伝承はマルコ福音書にも入り込んでいますが、ルカは、マルコ福音書(とイエス様語録)とは別個に語っていて、この点で、マルコ福音書とイエス様語録の両方を取りこんでいるマタイとは異なります。特にルカ11章21~22節の部分は、ルカ福音書だけですから、ルカがこの資料にどこまで編集を加えているのかは不明です。
[14]冒頭は、「イエスは口を利けなくする悪霊を追い出しておられたが、悪霊が出て行くと~」のように短い読み方をする異本もあります。こちらがほんらいの読みに近いのかもしれません。この節はまた、「イエスがこう語っておられると、口を利けなくする悪霊に憑かれた者が、人々に連れられてイエスのもとへやって来た。そこでイエスが悪霊を追い出すと、人々は驚いた」と読む異本もかなりあります。どちらにせよ、ここで「群衆/人々」が登場します。なお、「イエスが悪霊を追い出して<おられると>」とあるのは、ルカだけです。また、ルカの原文では、マタイやマルコのとは違っていて、「悪霊が出て行くという<出来事が起こると>」です。
[15]【言う者や】原文は「ある人たちが言った」です。ルカ福音書では、ここにファリサイ派も律法学者たちもでてきません。ここで論じられる「悪霊問題」は、パレスチナでの出来事だけではなく、ヘレニズム世界でもどこでも起こりえることだからでしょう。
[16]この節はルカの挿入です。次の17節とうまくつながらないようですが、おそらく、11章29節以下の「しるし」を求める人の記事とつながらせるためにここに挿入したのでしょう。「者がいた」とある原文は、「またほかの人たちは(試そうとして)」です(マタイ16章1節参照)。彼らは、イエスの悪霊追放が、神からのものである「しるし」あるいは「証拠」を求めたのです。
[17]原文は、「イエスのほうは、この連中があれこれ思いめぐらしているのを見抜いて~」です。この節の後半「家は重なり合って~」は、意味がはっきりしません。マタイやマルコと異なって、ここは「国が分裂して内乱が生じると、家々が重なり合うように倒される」という意味でしょう。ここで言う「家」とは、「一族」あるいは「家族」のことで、内戦/内乱の場合には、家族や親族の間にも亀裂が入り、このため「家々が重なり合うように倒れる」のです。
[18]~[19]ルカもベルゼブルとサタンとを同一視しています。19節の原文は「万一、サタンが互いに分裂させられるようなことになれば、彼の王国/支配は、どうして立ちゆくだろうか? なぜなら、あなたたちは言う、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると」です。ルカは「万一」と仮定を強めています。ルカの視点から観ると、イエスが地上に実在していた期間は、神からの特別の啓示の時であって、神の国がそこに「すでに到来して」いた期間になります。だから、イエスの在世中は、サタンもその力を封じられていたのです。
[20]【神の指】マタイ福音書では「神の霊によって」ですが、「神の霊」が「神の指」に変更されたとは考えにくいので、ここはルカ福音書のほうがイエスの真正の言葉に近いでしょう。「神の指」とは、人間の力によらず、主なる神ご自身が、直接に働くことを意味します(出エジプト31章18節/申命記9章10節/詩編8篇4節)。したがって、ここでは、魔術やまじないや供え物など、いわゆる「悪魔払い」の儀式に用いられる道具立てはいっさいなく、イエスの簡単な言葉だけで悪霊が追い出されていったことが分かります。このあまりに簡単で「容易な」悪霊追放を見て、イエスに敵対する人たちは、イエスが「悪霊の頭(かしら)」を使って悪霊を追い出しているのだと誤解したのかもしれません。しかしこれは大きな曲解で、事実は、イエスを通じて、主なる神ご自身が、直接働いていること、イエスが行なう悪霊追放は、このような「神の出来事」を証ししている「しるし」であること、これがここでイエスが告げていることなのです。
【来ている】神の国が「すでに来ている/始まっている」ことは、四福音書に共通しています。「あなたたちのところへ/の上に」とあるのは、神の国が、イエスの霊性を通じて、今すでに「あなたたち」に対して「働いて/覆って/襲って」いることです。ルカは、イエスの到来までの時期とイエスの在世の時期と復活以後の聖霊の働く時期というように、啓示を時期的に分けて観ていますから、イエスの在世当時は、神からの特別な啓示の期間であったと考えられています。
[21]「武装して」とあるのは「完全武装で、鎧に身を固めて待ちかまえる」〔動詞の完了形分詞〕状態を指します。「屋敷」とあるのは広い邸宅や城の中庭(英語の"court")のことで、ここでは「館(やかた)」や「砦(とりで)」に近い意味でしょう。「持ち物」とは、その人自身の「所有物」「財産」のことで、ここでは「強い人」(サタン)が、自分のものとして完全に掌握している「手下/下僕/奴隷」など人間のことです。以上の用語はルカだけのものですから、ここはマタイ=マルコとはずいぶん違っています。マタイが用いていたイエス様語録とルカのそれとが同じであったかどうかが問題になりますが、イエス様語録それ自体も流動的な口伝から来ていますので、必ずしも同一の版かどうかは分かりません。
[22]この節を直訳すれば「ところがその後で、彼よりもさらに強い者が襲ってきて、彼に打ち勝った時には、(勝ったほうは)、彼が安全だと思いこんでいたその武具を全部はぎ取って、彼が身につけていた武具の分捕り品ををほかの者たちに分配する」となります。「さらに強い者」とは、ここでは、神から遣わされる「メシア」のことです。ここで用いられている用語は、ルカ当時のヘレニズム世界でもヘレニズム化したユダヤの世界でも通用します。「分捕り品を分配する」とありますが、この比喩は、サタンに支配されていた人間を指しまから(イザヤ49章24節)、ここには、イエスが、主からの御霊の働きによって、サタンとその支配下の者たちを完全に「征服した」ことがイメージされています。したがって、「武装を解除された」サタンは、もはやこれ以上戦うことができない状態になります(コロサイ2章15節)。マタイ=マルコのほうでは、家に押し込んだ強盗のイメージが比喩として用いられていますが、ルカの比喩は戦争のイメージです。「万軍の主」である、神自身が、敵対する悪と闇の国の王に戦いを挑んで、これを打ち破るという比喩は、クムラン文書などにも見ることができます(例えば『戦いの書』)。
[23]これはほんらい別個の伝承から出た言葉でしょうが、この文脈では、神(=キリスト)と悪魔(=サタン)との両王国の戦場においては、「中立」などありえないことを指しています。「散らす」と「集める」は、羊の群れを飼う牧者の場合を想定した比喩です。ここには、「散らされた」イスラエルの民が再び「集められる」という旧約聖書のイメージが背後にあります(ヨハネ10章12節/同11章52節参照)。
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