87章 聖霊を冒涜する罪
マタイ12章31〜37節/マルコ3章28〜29節/ルカ12章10節
 
イエス様語録
人の子に悪口を言う者、その人は赦される。
しかし、聖霊に向かって(悪口/冒涜を)言う者、その人は赦されない。
 
マタイ12章
31だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、゛霊゛に対する冒涜は赦されない。
32人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
33「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。
34蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。
35善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。
36 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。
37あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
 
マルコ3章
28「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
29しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
 
ルカ12章
10人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」
 
〔参照〕
『トマス福音書』(44)
イエスが言った、
「父を汚すであろう者は赦される。
そして、子を汚すであろう者は赦される。
しかし、聖霊を汚すであろう者は、
  地においても天においても赦されない。」
 
                   【注釈】 
                  【講話】
■恐るべき誤解
 今回は恐ろしい箇所です。それはここで言われている「赦されない罪」が恐ろしいだけではありません。イエス様のこのお言葉を巡って、悲劇的とも言える誤解が生じてきたという意味で、二重に恐ろしいのです。
 ジョン・バニヤン(John Bunyan: 1628〜88)というイギリスの伝道者がいました。鋳掛(いか)け職人でありながら、妻が持参した聖書を読んで回心し、説教者として有名になり、『天路歴程』The Pilgrim's Progress. という寓意小説を書いた人です。この人が、回心してから、今回のイエス様のお言葉を読んで、自分は罪深いからこの「赦されない罪」を犯したのではないか? と長い間悩んだという有名な話があります。彼はついに、イエス様の恵みが、自分のような罪人にも注がれていることを知って、『恩寵溢れる』Grace Abounding (1666) を著わしました。よほど嬉しかったのでしょう。けれども、彼のこのような誤解は、今回の箇所にまつわる悲劇のほんの一例にすぎません。この聖句を読んで、自分が赦されない罪を犯したに違いないと思いこんで、自殺した人たちがいるそうです。
 バニヤンの場合は個人的な例ですが、ルターの場合はもっと深刻です。彼はこの箇所について「われわれは、われわれの主イエス・キリストが真実なお方であると信じたい。このお方は、彼を受け入れず、十字架につけてしまったユダヤ人に対して、『お前たちは蛇がはらんだ子であり、悪魔の子らである』という判決を言い渡されたのだ」と述べてから、ユダヤ人を「有毒の、苦い、執念深い、陰険な蛇」と呼んでいます〔ルツ『マタイ福音書』(2)350頁〕。聖書を辞義通りに読むならルターの言うとおりです。そもそもユダヤ人であるイエス様が、ユダヤとガリラヤで行なった出来事ですから、登場するイエス様も、イエス様に敵対する人たちも、ユダヤ人なのは当たり前です。けれども、こういう聖書解釈が、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺につながる精神的土壌となったことを思えば、ルターの聖書解釈は時代錯誤だと片付けるわけにはいきません。
 洗礼を受けて教会のメンバーになったら、それ以後に犯す罪は「赦されない罪」になる。今回のお言葉がこう解釈されたこともあります。これでは、うっかりクリスチャンになったら、罪の赦しを受けることができなくなります。あるいは、教会の聖職者に対する罪だけは赦されないと解釈されたこともあります。これに類する様々な解釈が、今回の聖句について言われてきましたし、これからもないとは言えません。個人の誤解も困るけれども、教会による誤解や神学的な誤解は、さらに大きな惨事を招くことにもなりますから、よほど注意しなければなりません。
■「聖霊」の名による指令
 このような解釈の仕方が怖いのは、だれかが、あるいはどこかの宗団の指導者たちが、「聖霊の示しを受けた」という名目で、自分たちの信条なり教義なりを信者たちに布告した場合に、これに逆らうことが聖霊に対する冒涜と見なされて、「赦されない罪」を犯すことになるのではないか、という恐れを抱かせることです。事実このように、「聖霊とわたしたちは」(使徒15章28節)で始まる命令や指令を出すことが、現在のプロテスタントの宗団や協議会でも行なわれる場合があると聞いています。
 学問的な会議や学会であれば、提起された学説に対して、たとえそれが権威ある人や団体からの説であっても、これを批判したり否定する自由が許されます。言うまでもなく、それらの批判や否定が正しいとは限りません。中には突飛な、あるいは的外れな批判もありえます。けれども、そのような批判や反論を経ることで、学説がより深くより真実に近づくというのが、学問的な方法なのです。その時点では、どんなに正しく有効に思われる学説や理論でも、時が経てば崩れたり、修正を余儀なくされるのが常ですから。
 しかし、どうしてそのような「聖霊の名による指令」が、宗団や組織の指導者たちから出されるのでしょうか? そこにそのような指令がなければならないと考えられる理由があるはずです。では、その理由とはなんでしょうか? 実は、この問題は、聖霊の働きと個々のクリスチャンと間に問題があるからです。個々のクリスチャンが、それぞれ与えられた状況の下で、祈りとお言葉を通じて示された「聖霊の導き」も、その時には正しくても、時が変われば、修正したり、変更したりしなければならないことがあります。主の導きには、今日は右へ行けと言われながら、明日は左に向かえと言われる場合があるからです。
 さらに悪いことに、自分勝手な空想や思いこみを「聖霊の示し」だと勘違いして、これを自分だけでなく、人に押しつける場合さえありえます。離婚するのが聖霊の示しだと主張して、妻と子供を捨てて別の女性と出ていった伝道者がいたそうです! 残念ながら、わたしたちは、これに類する例を現在でも見聞きしたり、体験したりすることがあるのです。だから、そういう誤った御霊への判断や勝手な思いこみを封じるために、宗団や教派の指導者たちによる「指令」が必要だと考えられるのです。
■赦されない罪
 ところが、個人の場合に生じるこのような誤りが、宗団や教会の場合には起こりえないという保証はないのです。実はこれが、今回の箇所なのです。イエス様は、人々の間で悪霊追放を行なっておられました。これに対して敵対する人たちは、イエス様が「悪霊の頭」によってその業を行なっていると中傷したのです。悪霊を追い出している者を悪霊呼ばわりするのは、強盗を命がけで逮捕しようとしている警官を強盗の頭目だと主張するのと同じですから、逃げている強盗にとってみれば、こんなに有り難い話はありません。だから、こういう主張をする者こそ、手下の強盗をかばおうとする強盗の頭目だと疑ってみる必要があります。もっとも、イエス様はここで、このような中傷者たちこそ、悪霊の頭だとは言っておられません。ただし、彼らを呼び寄せて、そんなことを言うあなたたちこそが、ほんものの悪霊の頭にされる危険があると警告されたのです。「罪の赦し」を与える神のお働きが、悪霊の頭の業だと言うのなら、あなたたちの頭は、いったい何によって「罪の赦し」を与えるのか? そのような偽りを言う者たちには、もはやどこからも「罪の赦し」は期待できない。イエス様は、彼らにこのように警告しておられるのだと思います。話がややこしいのは、起こっている出来事がややこしいのですから仕方がありません。
 わたしは、現在の段階においてのキリスト教が、、必ずしも絶対的な正しさに到達しているとは考えていません。人類の歴史は神が導いておられますから、神と御子と聖霊による三位一体の交わりから発する啓示は、さらにこれからも人類を新しい啓示へと導いて、ついには終末にいたると信じています。
 このことを逆に言えば、イエス・キリストの福音と言えども、現在わたしたちに与えられている啓示の範囲においては、人間的な欠陥や誤謬や偏見から免れていないことになります。キリストの福音でさえそうであるのなら、モーセ律法を遵守するユダヤ教を初めとするそれ以外の諸宗教も、同様な誤謬や偏見や原始的な迷信を抱えているのは、仕方がないと思われます。それらの諸宗教には、時には悪霊的な働きが見られる場合もありましょう。しかし同様に、キリスト教の中でも、人間の思いこみや、それよりももっと怖い「思い上がり」によって、自分の信じている宗教以外の宗教を悪霊的だ断じる「悪霊的な誤り」が生じないという保証はないのです。
 ■悪魔の企み
 個人にせよ組織にせよ、このような大小様々の「誤った聖霊観」から生じた歪みやひずみが、積もり積もって、聖霊の働きに対する正しい認識を歪めたり、聖霊の働きに対する偏見を醸成する原因になったのではないでしょうか? わたしはそう考えます。泥棒が自分で泥棒だと名乗ることがないように、悪魔が自分から悪魔を名乗ることはしません。ほんものの麦の間に毒麦を蒔いておくように、聖霊の働きの中にさまざまな誤謬や思いこみや偏見の「偽もの」を混ぜ合わせて、人々がこれらを見て、聖霊それ自体を疑わしく思いこみ、あれが偽物ならこれも偽物に<違いない>と疑うようになれば、それで悪魔の企みは成功したことになります。17世紀の物理学者であり熱心な修道士であったブレーズ・パスカルは、「偽物があるのなら本物もあるに違いない」と考えましたが、人々は彼のようには考えないのです。
 その結果、何が正しくて何が誤りかを決めるのは、特別に訓練を受けた知識階級の人たちの手に委ねられることになり、彼らだけに聖霊か悪霊かを見極める資格が認定されて、彼らの判断によって、「聖霊」か「悪霊」かが判定され、聖霊の働きだと判定されるならその人の悪霊追放の業は賞賛されますが、逆に悪霊の働きだと判定されたら最後、その人の行なう悪霊追放だけでなく、その人自身が悪霊から出ているとして断罪される。こういう制度が成立したのです。今回のイエス様の悪霊追放の出来事においては、まさにこのことが行なわれたのです。イエス様の悪霊追放に対する非難と中傷は、このような根から出ていたのではないでしょうか?
 イエス様を非難した人たちは、マタイ福音書ではファリサイ派、マルコ福音書では律法学者、ルカ福音書では「ある人たち」とありますが、その違いはそれほど問題ではありません。大事なのは、彼らが、イエス様の悪霊追放の出来事を判定し、その判定を人々に公表して、その結果、イエス様の悪霊追放が、「悪霊の頭による」ものとして断罪されたことです。神の聖霊を判定する資格と権威を持つ人間たち、この人たちこそ、実は、イエス様から「赦されない罪」を犯す危険性があると警告された人たちだったのです。
■毒麦と真の麦
 毒麦のたとえにあるように、何が聖霊の働きで、何が悪霊の働きなのか? これは、世の終わりの裁きの時まで、真相を顕わすことがないでしょう。事の真偽を裁くのは、神だけであり、その神の委託を受けた御子だけです。御霊とは、イエスの父である神が、ご自分の御子の名によってこの世にお遣わしになり、御父の創造の御業を行なう方です。神の霊のことは、神だけが知るのです(第一コリント2章11節)。
 このような話を聞くと、利口な日本人は、「触らぬ神に祟りなし」というわけで、聖霊にはうっかり近づくな。聖霊のことは口にするな。そのほうが無難だから、こう考える傾向があります。このいかにも人間的な利口さが、パウロの言う「人間の知恵」です(第一コリント1章20節)。ところが、御霊と言い聖霊と言いますが、これは三位一体ですからイエス様ご自身のことです。だから、御霊を口にするな、聖霊に近づくなと言うのは、イエス様のことは、いっさい見ざる、聞かざる、話さざるで通しなさいということになります。教会も一般の人々も、こう思ってくれれば、悪魔は大成功です。わずかばかりの毒麦のお陰で、ほんものを全部ダメにすることできたのですから。
 でも、神の愚かさは利口な人よりも賢く、神の知恵は悪魔に勝りますから、あれこれ自分で打算したり、損得勘定をするよりも、全部主様に任せて、ただ黙ってついていく。そうすれば、身の回りの小さなことから始まって、だんだんと主様の御霊のお働きが分かってきます。神様がお遣わしになるイエス様の御霊のお働きを「自分勝手に」ああだ、こうだと判断する(これを「裁く/判断する」と言います)のを止めるようになります。これを「謙虚」と言います。これで悪魔の働きを封じ込めることができます。大事なのは、人々へ向ける愛の心です。御霊は、これをわたしたちが<利用しよう>とすれば、必ず誤った方向へ向かいます。誤った方向が、誤った批判を招き、これが人々を御霊から遠ざける原因になります。だからわたしは思うのです。個々の人間によるこのような大小様々の無数の「聖霊への小さな冒涜」が、積もり積もって巨大な聖霊冒涜の組織を産み出したのではないかと。こうなると、御霊の働きをチェックする監視役が必要になり、その監視役が大きな誤りをして、イエス様に警告されることになったのです。その同じ組織が、今もなお生きていて、かつてのイエス様の時のように、聖霊の働きを妨げているのではないだろうかと。
 御霊の働きを誤用し悪用する小さな誤りが、積もり積もって大きな誤りとなって、御霊のお働き全体が妨げを受けることが、このようにして起こるのです。だから皆さん、祈ってください。祈りながら、小さくても確かなことから、御霊のお働きを確認していきましょう。大丈夫です。愛の心が誤りを覆ってくれます。わたしたちが、己の思いにとらわれず、「主様、あなたのみ心をお示し下さい」と祈り、こう歩むなら、聖霊を冒涜する大きな罪を犯す心配はありませんから。大丈夫です。安心して歩みましょう。「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコ3章18〜29節)。これが今月の御言葉です。
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