【注釈】
■イエス様語録
 復元は主としてルカによっていますが、マタイもルカとほぼ同様です。ただし「人の子に<対して>悪口を言う」の前置詞が、ルカ福音書では「エイス」で「向かって言う」"speak (ill) to"とあるのが、マタイ福音書では「カタ」で「言い逆らう」"speak against "です。また、後半での「聖霊に<言い逆らう><者>」は、マタイの言い方ですが、ここはマルコとルカに準じて「聖霊を<冒涜する>こと」と訳すことも可能です。イエス様語録では「聖霊に向かって(悪口/冒涜を)言う者」とマタイとマルコとルカを含めています〔ヘルメネイアQ310頁〕。
 イエス様語録の今回の言葉は、マタイ福音書とマルコ福音書では、イエスと反対者たちとの間のベルゼブル論争の最後に置かれていて、論争を締めくくっています(マタイ12章32節/マルコ3章28~29節)。しかし、マタイ福音書では「人の子(イエス)に<対して>言い逆らう」ことですが、マルコ福音書では「<人の子たち/人々のほう>が悪口を言う」のですから、マタイとマルコでは、言うほうと言われるほうが逆になります。ただし後半の聖霊に関する部分では、マタイは、マルコ福音書とイエス様語録の両方を採り入れたのでしょう(マタイ12章32節の「この世でも来たるべき世でも」はマルコ福音書から)。マタイとマルコに対して、ルカ12章10節は、イエスを言い表わす者と拒む者とが対照された後に続いていますから、これも文脈が異なります。ただし、このルカ12章8~12節全体が、ほんらいのイエス様語録の配列に近いと考えられます〔マックQ〕〔ツェラー『Q資料注解』〕。なお今回の箇所の文献的な問題については、先に出てきた「聖霊の助け」の章の注釈をも参照してください。
 今回のところには「人の子」と「聖霊」がでてきます。始めに確認しておきたいこと、それは、イエスの十字架と復活の「後に」聖霊が降ったのだから、それ以前には聖霊は存在していなかった。こう考える人がいることです。これは大きな誤りです。なぜなら、聖霊はイエスが地上にいた間も、<すでにイエスを通じて>働いていたからです。イエスを通じて働いたその聖霊は、旧約聖書が証ししている天地を創造した神からの霊です。
 こういうことを言うのは、人の子と聖霊を<時期的に>切り離して、地上にいたイエスに対する悪口は赦されるが、イエスが復活してキリストとされたその後で降った聖霊に対しては、その悪口を言う者は赦されないという解釈があるからです。これが誤りであることは少し考えれば分かります。なぜなら、ここで語られている言葉と出来事は、地上にイエスがおられて悪霊追放を人々の目の前で行なっていたその時に、イエスに向けられた「言い逆らい」であり「悪口」だからです。したがって、ここでは、地上のナザレのイエスを通して働いている聖霊に向けられた悪口/冒涜を指しています。
 言うまでもなく、ナザレのイエスの聖霊は、イエスの復活以後にも働いて、弟子たちに降ります。それは現在でも働いています。前回指摘したように、イエスの悪霊追放の方法が、ほかのもろもろの「悪魔払い」の仕方と比べてあまりにも簡単で、一見するといとも<たやすい>ように見えたために、人々は驚嘆したのです。逆に言えば、イエスの言葉あるいは按手による方法で、いとも簡単に悪霊が「従う」のは、イエス自身が悪霊の頭だからではないのか? という疑念を反対者に抱かせるほどだったのです。
 「人の子」という用語は、イエス自身が自分を指して用いた言い方ですが、それと同時に、「人の子」は、地上のイエス以後に、終末に来臨/再臨する「人の子」をも意味するという不思議な二重性を帯びています。このために、「人の子」は、イエスの十字架と復活後のエクレシア"the post-Easter community"においても、イエス・キリストを表わす称号として用いられました。だから新約聖書の「聖霊」は、ナザレのイエスに働いていた「神の霊」であると同時に、イエス復活以後のエクレシア(教会)においては、イエス・キリストの御霊として神が地上のキリスト者たちに遣わす「霊」をも指します。このように、「人の子」も「聖霊」も、地上のナザレのイエスから、イエス復活以後のキリスト者の教会へと継承的につながりますから、そのどちらにも当てはまる用語です。
 今回の場合は、イエスが地上で行なった悪霊追放の出来事と関連していますから、「人の子」が生前のイエスのことであり、「聖霊」は、そのイエスを通じて働いた神の霊のことです(「神の指」はイエス自身による言い方です)。聖霊への冒涜を警告する言葉が、イエス以後のキリスト教の預言者たちや教師たちによっても語られたのは事実です。また、共観福音書の記者たちが、特に「聖霊に対する冒涜」を指す場合には、イエス在世当時だけでなく、復活して今も地上において働く「イエス・キリストの御霊」をもこれに含めていると見るべきでしょう。しかし「そのこと」が、今回の言葉が主にさかのぼるものでは<ない>と判断する根拠にはなりません〔デイヴィス『マタイ福音書』〕。
 ここでイエスが言おうとした真意はなんであったのか? これは、アラム語の原語が残されていないために、確かなことが分かりません。「人の子」イエスの人間性に対して、霊的な洞察も啓示もない無知な者が、イエスに向かって様々な悪口を言うのは赦される。しかし、イエスの人間性に隠されたイエスの霊性そのものを体験して啓示を受けた者が、頑なな意図からこれを拒否し続けるなら、それは神の聖霊に対する赦されざる冒涜になるという意味なのでしょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)184-85〕。
 イエスのこの言葉は、以後の教会で様々な形で「悲劇的な誤解」〔デイヴィス『マタイ福音書』〕を生みました。この言葉は、エクレシアに加わる以前の状態でイエスに逆らったことは赦されるが、洗礼を受けてキリスト者となってからは、神とキリストに言い逆らうことは赦されない、と解釈されたこともあります。また、聖霊体験による霊感を受けた者が聖霊を冒涜する言葉を吐くなら赦されないという解釈もあります。またかつては、福音に敵対する罪や神の奉仕者を中傷する罪なども、この「赦されざる罪」に加えられたことがあります。しかし現在では、このような解釈は行なわれていません。アウグスティヌスは、ここで語られている罪を、聖霊の働きに逆らって、最後まで悔い改めることを拒み続ける頑なな意思であると考えました。これがいわゆる「死にいたる罪」(第一ヨハネ5章16節)です。アウグスティヌスがここで言う「聖霊に対する冒涜」は、この場合、ある特定の行為を指すよりもむしろ状態を表わすと言えますが、彼のこの解釈が、一つの標準とされています。
【赦される】一般的に言えば、人間が人間に対して犯すのが「罪」であり、人間が直接神に向かって犯すのが「冒涜」だと考えられます。古代のイスラエルでは、人間に対する罪は、贖いの儀式によって赦されました(レビ19章22節)。しかし、神に対する冒涜の場合は赦されることがなく(出エジプト20章7節)、石打などの刑を受ける場合が多かったようです(レビ24章15~16節)。ただし、処刑に値する「冒涜」とは、具体的にどのような行為を指しているのか、確かなことはまだよく分かっていません。イザヤは、悔い改めることを拒むイスラエル民は赦されることがないと警告しています(イザヤ22章14節)。
 
■マタイ12章
[31]~[32]マタイ12章31~32節を原文に沿って並列すると次のようになります。
 
31人が犯すすべての罪や冒涜は赦される。
 御霊に対する冒涜は赦されない。
32人の子に言い逆らう者は赦される。
聖霊に言い逆らう者は赦されない
  この世でも後の世でも。
 
 同様にマルコ3章28~29節をできるだけ原文に沿って整理して並べると次のようになります。
 
28人の子たちにはすべての罪が赦される
  またどんな冒涜の言葉も。
29聖霊を冒涜する者は赦されない
  永遠に。そして永遠に罪の責めを負う。
 
 これで見ると、マタイ12章31節「人が犯すすべての罪や冒涜は赦される」と、マルコ3章28節「人の子たちにはすべての罪が赦される、またどんな冒涜の言葉も」とは、「人」と「人の子たち」の<内容的な>違いを除くなら、<語法としては>ほぼ一致しているのが分かります。
 「人の子」という用語は、ほんらい「人間」一般を指す言葉で、この用法は「人の子ら」と複数で詩編に多く表われます(詩編8章5節など28回ほど)。ところが黙示思想の中では、これの単数が人間を超えた天的な存在へと変容することになります(ダニエル書7章13節)。やがて「人の子」は、人格的な個人として、終末に来臨する「メシア」を指す用語になりました(マタイ9章6節など)。イエスが自分を「人の子」(単数)と呼んだのは、この意味です(マルコ8章31節など)。マルコ福音書での「人間一般」を指す「人の子たち」とマタイ福音書のイエスを指す単数の「人の子」のつながりはこの辺から出ているのでしょう。イエスのこの「人の子」が、イエス復活以後のキリスト教会に受け継がれて、イエスがキリストであることを表わす称号の一つになり(ヨハネ5章27節など)、終末に再臨するイエス・キリストを指すようになったのです(黙示録14章14節)。ところが、この「人の子」が、パウロ書簡などでは、キリストとして、再び「人」(単数)と呼ばれるようになるという複雑な経緯をたどります(第一コリント15章44~49節/ローマ5章15節)。
 マルコ3章28節の「人の子たち」は、「人の子」ほんらいの意味を留めていますから、ここは「人間同士が互いに犯す罪は、たとえどのようなものでも、神によって赦される。しかし、神の聖霊を冒涜する罪だけは、決して赦されない」という意味になります。マタイ12章31節は、マルコ福音書のこの意味を汲んで、「人が犯すどんな罪でも赦される」と「人の子たち」を「人」で入れ替えたと思われます。マタイは32節でイエスのことを「人の子」と呼んでいますから、31節では「人の子たち」を避けたのです。だから、マタイは、12章31節では、マルコ福音書3章28節を縮めて編集し直したと見ることができます。
 次に、マタイ福音書の12章32節では、前半の「人の子に言い逆らう」は、ルカ福音書12章10節の「人の子の悪口を言う」と類似しています。後半でも、マタイとルカは、「だが聖霊に対しては(動詞省略)」"but to the Holy Spirit" という言い方で共通していて、「赦されないであろう」〔直接法未来形受動〕も両者に共通しています。ただしこの言い方は、マルコの「聖霊に対して冒涜する」や「赦しを持たない」"do not have forgiveness" とは異なります。だから、マタイは、32節のほうでは、ルカと共にイエス様語録を踏まえていると見ることができます。
 このように、マタイは、31節ではマルコ福音書を踏まえており、32節ではイエス様語録に準じているのが分かります。この結果、マタイ福音書の12章31~32節では、ほんらい同じイエスの言葉であったものが、異なる経路を経て二つ並ぶという重複 "doublet" が生じているのです。
 おそらくマタイは、31節において人間に対する罪と神に対する冒涜とをはっきり区別した上で、32節では、さらにこの区別に基づいて、イエス・キリストの人間性に対する非難やそしりは、これを霊的な無知に基づくものと見て、神は赦すけれども、イエスの霊性それ自体を体験したり洞察した上で、なおも頑なに非難と中傷を続ける者たちには、もはや赦しが期待できないことを言いたいのでしょう。
【だから】「それだから/そのゆえに」で、12章30節までのイエスのたとえを指します。
【言い逆らう】原文を直訳すれば「逆らって言葉を出す」で、これはイエス様語録から来ています。イエスが用いたアラム語の言い回しが正確にどのようなものなのか、これがはっきりしないところがあります。このような場合、マタイは通常分かりやすく言い方を変えるのですが、事が重大であるためでしょうか、ここでは伝承された言い方をそのまま用いています。マタイ福音書では、この節が、直前のファリサイ派によるイエスの悪霊追放に対する中傷を受けていますから、「言い逆らう」とは、イエスが「神の霊」によって行なう業を正反対のサタンの業だと偽って、明確な意図を持って(民数記15章30~31節)聖霊の働きを中傷し冒涜することになりましょう。
【後の世】「世」(アイオーン)には「時代」の意味も含まれますから、いわゆる「この世」に対する「あの世」のことではなく、現在の世界の終末に神による最後の裁きが行なわれる時のことです。最終的な断罪の宣告を受けて、もはや赦されることがないという意味です。
[33]マタイ12章33~34節は、ルカ6章43~45節と並行しています。なおマタイ福音書のこの33節は、内容的には、同じマタイ7章16~20節とも重複します。
 
木が良ければその実も良いとし、
木が悪ければその実も悪いとせよ。
なぜならその実で、木が分かるから。
 
 聖霊を「言葉」によって冒涜することに続いて、このたとえが語られます。冒涜は、言葉だけの問題ではなく、それを語らせる内面の霊性にあることがここで示されるのです。ここは、内容的にマタイ7章17節と同じように思われますが、この33節では、直説法ではなく命令法〔2人称単数〕になっています。「良い木を育てなさい。そうすれば良い実を結ぶ」と理解することもできますが、ここは、「その木が良いと判断するのなら、その実も良いと判断しなさい」のように理解するべきでしょう〔新共同訳〕。これを逆に言えば、実が良いのなら、その木も良いと判断するべきで、良い実を見ているのに、その木を悪いと判断してはいけないのです。ファリサイ派の人たちのように、人を活かす業が行なわれているのに、その業を行なう人を悪いと判断してはならないのです。
【良い】マタイ7章17節では、「善い」(アガトン)木と「良い」(カロン)実となっていますが、33節では、どちらにも「良い」(カロン)が用いられています。「善い」と「良い」とはほとんど同じですが、実が「良い」とあるのは、「おいしい」の意味をも含みます。
【悪い】7章17節では、「悪い/腐った」(サプロン)木は「邪悪な」(ポネーロン)実を結ぶのですが、33節ではどちらも「悪い/腐った」(ポネーロン)ですから、ここで言う「悪い実」は、食べられない/使い物にならないことです。
【分かる】とある動詞は直説法受動相で、直訳すれば「その木が良いと知られる」です。このように命令法と直説法との組み合わせは、知恵文学のスタイルで、諺/格言などで用いられます。
[34]先には「言葉」による冒涜の罪が語られました。続いて、木とその実のたとえで「心の有り様」の善悪が語られて、ここ34節では「言葉と心」のつながりが語られます。
 
毒蛇どもの生まれよ。
邪悪なあなたたちがどうして善いことを語れようか。
なぜなら、心から溢れて口に出るからである。
 
【蝮】ギリシア語の原語は「エキドナ」の複数属格です。このギリシア語は使徒言行録28章3節にもでていて、マルタ島に上陸したパウロの手に絡みついたとあります。「まむし」と訳されるヘブライ語は6種類もありますから、七十人訳では、遣われているギリシア語が異なります。ギリシア語の「エキドナ」は七十人訳には見あたらないようです。申命記32章33節には、ソドムとゴモラのぶどう酒が、恐ろしい罪の誘惑を意味する「蛇の毒、コブラの猛毒」だとあります。これのヘブライ語「ペテン」は七十人訳では「ドラコーン」ですから、「竜」の意味で巨大な蛇です(英語の"dragon"/"serpent")。詩編140篇3節の「まむしの毒を唇に含む」のヘブライ語は「エフェー」で、七十人訳では「オフィス」ですから、一般的な毒蛇のことです(英語の"serpent")。イザヤ書59章9節「蝮の卵をかえし」とあるヘブライ語は「ツィフォーニ」で、七十人訳では「アスピス」ですから、アフリカの毒蛇あるいはヨーロッパの猛毒のクサリヘビのことです(英語の"asp"あるいは"viper")。なおマタイ3章7節と同23章33節を参照してください。
 ここ34節でも一般的な毒蛇のことでしょう(英語では"viper"[REB][NRSV])。しかし特にパレスチナクサリヘビが内容的に適切です。この蛇は背中に薄い緑の斑点があり、あまり長くはありませんが、素早く舌を出したりひっこめたりして空中のものをとらえます(イザヤ30章6節「蝮や飛び回る炎の蛇」がこれです)。クサリヘビ "viper"の毒は、逆に毒蛇の解毒にも効くとされていました。この蛇は卵胎生ですから、卵は親の体内でふ化して、親の体から5匹~20匹くらいが出てきます(長さは15~20センチ)。言い伝えによるとこの蛇は親の体を食い破って親を殺すと言われていますが、それはこのような理由からでしょう。ただし、小アジアや中央アジアの蛇の中には、卵を産むものもあります。
【心から溢れて】マタイ15章18節を参照。「口が語る」という言い方はヘブライ語の用法です(イザヤ書1章20節/ダニエル書7章9節/ヨハネ黙示録13章5~6節)。
[35]~[37] マタイは、「なぜなら/それゆえに」を終わりに置くことで、33~37節を三つに区切っています。ここ35節から「言葉」と「裁き」について語られます。
 
善い人は、良い倉から良いものを取り出し、
悪い人は、悪い倉から悪いものを取り出す。
あなたたちに言っておく。
  人々は、すべての無益な話について、
  裁きの日には自分の言葉について申し開きをさせられる。
なぜなら、あなたは、自分の言葉によって義とされ、
  また、自分の言葉によって有罪を宣告されるからである。
 
【倉】人の心を倉にたとえていますが、「言葉」だけではなく、その行動や生き方や思想/信仰をも指しています(マタイ13章52節を参照)。神もまた天に「恵みの倉」を持っています(申命記28章12節)。
【あなたたちに言っておく】3人称を用いた知恵文学のスタイルから、ここで突然2人称複数に変わります。「あなたたち」と語るのは、イエスの特徴ですから、36~37節は、マタイの編集ではなく、口伝による伝承から来ているのでしょう。
【つまらない言葉】「つまらない」というのは軽い冗談やうっかりしゃべった言葉のことではなく、「無益な」「空虚な」言葉の意味で、「実行を伴わない」言葉や「真実のない偽りの」言葉のことです(マタイ6章7節を参照)。なお、「むなしい言葉」の反対は神の言葉です(申命記32章47節)。「責任を問われる」とあるのは、裁判の席において、自分の言動を弁明したり釈明することを求められることです。
 
■マルコ3章
 マルコ福音書では、イエスが十二弟子を任命した直後に、ベルゼブル論争が来ます。しかも、イエスの家族や知人たちが、イエスを「取り押さえに」来た出来事の真ん中に挟み込まれるような形で、この論争が置かれています。イエスの親族が最も恐れていたまさにそのことが起こったのです。マルコ福音書では、このように、イエスの伝道の周囲に生じた人々の誤解、非難、中傷の渦のその中心に、この悪霊論争が置かれているのが分かります。その論争も、先ず「分かれ争う国」のたとえで語られますが、ここ28~30節では、最も直截な言葉で、「赦されざる罪」への警告が語られます。
[28]~[29]【はっきり言っておく】原文は「アーメン、わたしはあなたたちに言う」です。これはイエスが大事なことを語る時に言うイエス独自の言い方です。旧約聖書やユダヤ教では、賛美や祈祷の終わりに「アーメン」が来ることがあります。しかし、このように、冒頭にこのような権威を帯びた語り方で始める例はユダヤ教にはありません。マルコ福音書でこの言い方が出てくる最初の例ですから、ここは、イエス自身の「アーメン言葉」が福音書に記録されている最初の例だと言えましょう。
【冒涜の言葉】原文を直訳すれば「人の子たちにとって、すべての罪〔複数〕もどんな冒涜的な冒涜〔複数〕も赦されるだろう〔3人称単数受動相未来形〕。しかしもしも、聖霊に向かって冒涜したなら〔3人称単数アオリスト形〕、永遠に赦しを得ることがなく〔3人称単数現在〕、永遠の罪〔単数〕を免れることがありえない〔3人称単数現在形〕」となります。「冒涜」は、神に対する罪ですが、しかし人間同士でこの言葉が用いられる場合は、偽りの中傷や讒言(ざんげん)の意味になります。また、マルコ福音書のここの冒涜は、通常ユダヤ教のラビたちが言う意味での「冒涜」とも異なります。例えば、マルコ福音書2章7節で、律法学者たちが、イエスは「神を冒涜している」と言いますが、このような「冒涜」は、ここにはあてはまりません。また、マタイ福音書やルカ福音書では、イエスの敵対者たちは、イエスの悪霊追放が悪霊の頭に頼っていると非難しますが、マルコ福音書ではそれだけでありません。彼らは、「イエス自身が悪霊そのものである」と言っているのです。それだけに、ここで言う「冒涜」が、通常の「冒涜」の意味ではないことが分かります。いろいろな形の「冒涜」があるけれども、それらは赦され場合がある。しかし一つだけ赦されない「冒涜」があって、それは「聖霊に刃向かう冒涜」である、というのがここでの意味です。だからここで、「赦される場合があるのはどんな冒涜か?」などと尋ねるのは見当違いです〔フランス『マルコ福音書』〕。
 ここで注目したいのは、「すべての」罪と冒涜が人には赦されるというイエスの驚くべき発言です。さらに、この発言と対照的に、唯一「聖霊に対する冒涜」だけは赦されないという、これもまた従来のユダヤ教の伝統から見れば驚くべき発言だと言えましょう。罪を犯す人間に対するこの慈愛と同時に、聖霊の存在とその働きを重視するこの厳しさ、この二つがイエスの霊性の大事な特長であることが、ここに示されているのです。
【人の子ら】複数形で人類一般を表わす用法です。この用法は旧約聖書、特に詩編に多く見られますが、新約聖書では希で、こことエフェソ人への手紙4章5節に限られています。その理由は、新約聖書では、「人の子」(単数)がイエスについて用いられていて、これがイエスの称号の一つにされているからです。それだけにここマルコ福音書の「人の子たち」が注目されています。イエス自身は「人の子」を自分自身のことをも含んで、広く人間を指す場合にも用いていたと考えられますから、マルコ福音書のここの言葉もイエスにさかのぼるのでしょう。しかし、この言い方は異邦人キリスト教徒にはなじめなかったと思われます。
 特にマタイ福音書とルカ福音書とでは、「聖霊に対する冒涜」と「人の子(イエス)に対する罪」とが比較されていますから、マルコ福音書との違いが注目されます。マタイ福音書とルカ福音書では、「人の子」に対する冒涜が問題にされています。しかし、マルコ福音書では、「人の子たち」が犯す罪や冒涜のことですから、用法が著しく異なるからです。マタイ福音書とルカ福音書とはイエス様語録からの伝承によっていますが、マルコ福音書は、イエス様語録と共通しながらもイエス様語録とは異なる伝承に基づいていると考えられます。
【罪】28節の「罪と冒涜」の「罪」は、通常の原語ではなく、特に「罪の行為」を表わす言い方です。「人の子たち」とは、人間のことですから、人が人に向かって行なう様々な罪の行為を指します。
【聖霊を冒涜する】「聖霊に対する赦されざる罪」とは、どのようなものでしょうか? ここで警告されているのは、イエス自身を通して働く聖霊それ自体を「悪霊」と見なし、イエスを「悪霊の頭」同様に見なすという罪/冒涜のことです。しかもここでは、「聖霊」が「汚れた霊」(30節)と対置されていますから、単なる言葉や行為のことではなく、霊的に根深い意図的な悪意と拒絶を含むと考えられます。この出来事が、現在のわたしたちの場合に、どのような状況に当たるのかを問うのは難しいです。ここで言う冒涜は、未来の罰よりもむしろ現在の状態のほうに目を向けているように思われます。
 むしろわたしたちは、ここで言われて「いない」ことを確認する必要があるでしょう。内容から判断して、イエスに敵対する律法学者たち(マタイ福音書ではファリサイ派)が、すでにこの罪を犯していて、赦されることがないとは言っていません。だから彼らには、思い直すことによって「悔い改める」可能性が残されています。次にここは、死者が、死後の世界において、悔い改めて救いにいたることがありえるかどうか、という問題提起とは直接関係しません。また、「永遠に罪を免れることがない」という言い方も希です。「罪を免れ得ない」とは、「罪に対する罰を免れる」ことができないという意味でしょう。
【永遠に】英語では"to the ages" です。「いつまでも/永遠に」の意味ですが、この「永遠に」を終末に続く来るべき「次の時代」の意味にとる説もあります。しかしここでは、内容が現在の状態をも含んでいますから、終末に限定しないほうがヘブライ語の用法から見ても適切でしょう。
[30]【汚れた霊】「汚れた霊」という言い方は、マルコ福音書に11回もでてきます(マタイ福音書に2回、ルカ福音書に5回)。マルコ福音書では、ほかに「悪霊」がでてきますが、「悪霊」(原語「ダイモニオイン」。英語の"demon")は、悪質な霊力だけでなく、現代の精神的な障害や心理的な病をも含む広い意味で用いられています(マルコ6章13節/同7章26節)。これに対して、「汚れた霊」(原語は「プネウマ アカタルトン」。英語の"unclean spirit" )は、人格的な意味での悪質な霊、あるいは、特にたちの悪い霊力を指すようです(マルコ5章8節/同9章16節)。この30節では、「聖霊」"the Holy Spirit" に対立するものとして「汚れた霊」"an unclean spirit" が用いられていますから、これは神の聖霊に敵対する悪魔の霊を意味すると思われます。先にも述べたように、ここで敵対者たちは、イエスが汚れた霊の力を「利用して」悪霊追放を行なっていると言っているのではありません。そうではなく、「イエス自身が」その汚れた霊(ベルゼブル)の体現者だと中傷しているのです。言うまでもなく、マルコの意図は、ナザレのイエスに神の聖霊が働いていたことをはっきりさせることです。なお、30節に「言っていた」とあるのは、イエスに敵対した律法学者たちのことなのか、それとも一般の人々がそう言っていたのかがはっきりしません(新共同訳では「人々」とあります)。もしも「人々」が言っていたのなら、それは彼らが敵対者たちから聞かされたことをそのまま噂していたことになりますから、それらの人々が、直接ここで言う裁きの対象にされるという意味ではないでしょう。
 
■ルカ12章10節
 すでに述べたように、マタイ福音書とマルコ福音書では、「赦されない罪」が、イエスと反対者との間のベルゼブル論争の締めくくりに置かれいます。ところがルカ福音書では、「赦されない罪」が、12章8~12節のまとまりの中にあって、全く違う文脈の中に出て来ます。このような場合に、ともすれば、ルカ福音書のほうが後からの作であり、内容的にもヘレニズム世界を意識しているから、イエスほんらいの言葉なり出来事から変容していると見る傾向があります。しかし、これは誤りです。今回の場合も、実はルカ福音書のほうが、イエス様語録の配列に近い構成をとっています。そこで改めて、ルカ12章8~10節を直訳して、その並列関係を見ると次のようになります。
 
「だれでも人々の前でわたしにあって告白する者は、
  人の子も神の天使たちの前で、その人にあって告白しよう。
しかし、人々の前でわたしを否定する者は、
  神の天使たちの前で否定される。
人の子に悪口を言う者は皆赦される。
  しかし、聖霊に(対して)冒涜する者は赦されない。」
 
 ここで「人々」と「人の子」と「わたし」と「聖霊」とが、並列されてでて来るのに注意してください。「人の子」は、ほんらい人間一般を表わす「人々」の意味ですが、間接的に自分を指す場合もあります。その場合の「わたし/自分」とは、他人と区別された「わたし」ではなく、多くの人々を代表する意味での「わたし」であり「自分」なのです。だからここでは、「人の子」は、大勢の人々を代表する内容を含みながら、「わたし」すなわちイエス自身を指していることになります。ここでは、人類を代表する「人の子」と、その人の子がイエス個人であることが語られています。しかも、人類の一人一人が、全人類を代表する「人の子=わたし」、すなわちイエスと自分との関係を他の人たちに向かってどのように告白するのか? このことが問われているのです。
 これに続いて「聖霊」が来ていますから、聖霊は、「人の子」と「わたし=イエス」と並列関係に置かれていることが分かります。なお、「聖霊<に>冒涜する」というおかしな日本語に訳しましたが、これは、「冒涜する」という動詞がほんらいは自動詞で目的語をとらないからです。だからこれは、聖なる者/物に対して、これを汚したり侮辱的な扱いや振舞いをすることです。
 人の子イエスを通して聖霊が働くことをルカは「神の指」というこれもイエスにさかのぼるヘブライ的な言い方で表わしています。すなわち、人の子イエスを通して、神の聖霊ご自身が働いていること、それが、イエス個人としてではなく、人類を代表する人間としてであること、しかも、その人間に神が直接に働きかけて救いの業を「造りだして」いること、このことを並列関係から読み取ることができます。ここには、イエスを通じて働く神の創造の業が、すべての罪をも克服する神の慈愛と赦しの業として言い表わされているのです。
 このような神の赦しの創造の業を「冒涜し」、これを拒み続けることは、赦しそれ自体をないがしろする行為にほかなりませんから、このような「冒涜」に対しては、そもそも神の「赦し」そのものが意味を成さなくなるのです。これが、「赦されない罪」の本質であり、「神の聖霊を冒涜する」という言い方が意味することです。
 なお、人の子と聖霊とのこの関係は、ヨハネ福音書にいっそうはっきりと表わされています。ヨハネ福音書では、「人の子」がでてくるのは13章までで、14章からは、「人の子」に代わって、パラクレートス、すなわち「真理の霊」あるいは「聖霊」がでてきます。このパラクレートスは、イエスの生前に弟子たちには与えられませんが、イエスの十字架・復活の直後に弟子たちに授与されます。すなわち、ナザレのイエスに働く聖霊とイエス復活以後の聖霊(パラクレートス)とが、その働きにおいて区別されながらも、つながっているのです。同様のことが共観福音書の場合にも言えましょう。イエスが「人の子」と言う場合、それは、在世中の自分を指すと同時に、自分以後に顕われる「人の子」をも指すという不思議な関係にあるからです。
 ルカはおそらくここで、イエス復活以後の教会の立場を踏まえて語っていると思われます。そうだとすれば、「人の子」イエスに悪口を言うことと「聖霊に」悪口を言うこととが、どうして区別されるのか? その理由がはっきりしなくなります。聖霊の働き、特に聖霊の賜を重視する人たちが、地上に在世していた時のイエスよりも復活以後の聖霊のほうを重く見て、「人の子」よりも「聖霊に」逆らうほうが罪が重いと主張したという説もありますが、このような時間的あるいは時期的な区別によって解釈するよりも、人間としてのイエスの存在とそのイエスを通して働く神の御霊それ自体とを区別していると見るほうがより適切でしょう。イエスの生前であろうとその復活以後であろうと、人間としてのイエスとそのイエスを通して働く神の御霊は、本質的に変わらないからです。したがって、ナザレのイエスに対する罪の性質も変わりません。この点でマルコのほうは、マタイやルカと異なって、「人の子たち」が、人に向かって犯す罪や冒涜は赦されるが、神の御霊それ自体に逆らう罪は赦されないとあります。おそらく、こちらのほうが、イエスのほんらいの言葉に近いと思われます。
 おそらく今回の出来事は、もともとユダヤ教で、人間に対する罪は赦されるが、神への冒涜は赦されない、という戒めだったと思われます。それが、イエスの在世の時に、人間イエスへの無知な発言は許されるが、イエスを通して働く御霊の働きを冒涜する者は、決して赦されないことになりました。イエスの復活以後では、昇天したキリストが遣わす御霊だけは、これを冒涜することが赦されないと理解されたのでしょう。
 まとめとして付け加えるなら、マタイは、冒涜を防ぐには、己の心をイエスに向けなさい。そうすれば、よい樹はよい実を結ぶように、決してそのような罪を犯すことがないと言うのです。マルコは、家族が恐れていたとおりに、イエスの悪霊追放が、ユダヤ教の監視役の人たちから「悪霊的な業だ」という判定を受けたことを伝え、そういう監視役のほうこそが、逆に大きな誤りと取り返しのつかない大罪につながる恐れがあると警告しているのです。ルカは、イエスに接するときには、謙虚になって、神がお遣わしになった方をうけいれなさいと教えています。イエスを通して訪れる父の絶対的な愛と赦しを拒み続けると、もはや、赦しそのものが、意味を持たなくなると告げているのです。
*ルカ福音書の今回の箇所は、先の「聖霊の助け」の章の注釈でも採り上げています。
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