88章 汚れた霊の戻り
ルカ11章24〜26節/マタイ12章43〜45節
 
【聖句】
イエス様語録
 汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、「出て来たわが家に戻ろう」と言う。戻ってみると、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。
 
マタイ12章
43「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
44それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、
掃除をして、整えられていた。
45そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」
 
ルカ11章
24「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。
25そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。
26そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
                       【注釈】
 
【講話】
〔今月のお言葉〕「戻ってみると、掃除をして、整えられていた。」
                   (マタイ12章44節)
■主客一如
 今回で悪霊問題は3度目になります。でも、今回で終わりです。今日のところもあまり気持ちのいい話ではありません。霊の問題をあつかうのは難しいです。よほど注意しなければなりません。かつて、オズボーン先生がこう言っていたのを覚えています。「霊」というものは、それだけでは自分を表現することができないものだから、自分の存在を表現するために、悪霊(ども)は、人間(とその体)を必要としている。だから、霊は、自分が入り込むことのできる人間の「からだ」を「ほしがって」いる。人に入り込んで初めて、自己の存在を外に現わすことができるからだと。
 人間の弱さを意味する「肉」と、そこに宿る「罪」と、罪のはびこる「この世」と、この世を支配する「悪魔」(サタン)、古来キリスト教では、この四つが結託して人を堕落させ、罪を犯させ、人々を苦しめると言われてきました。だから、イエス様は、この四つを十字架の四つの隅に磔(はりつけ)にして滅ぼしてくださった(コロサイ2章15節)。こういう説教を聞いたことがあります。古代ギリシアの人たちは、人それぞれに「よい霊」(エウダイモニオン=幸せ)と「悪い霊」(カコダイモニオン=不幸)とがついていて、どちらが勝つかで、その人の幸不幸が決まると考えていたようです。聖書には、主なる神の下で、キリストとサタンとが争っていて、やがてサタンはキリストによって完全に滅ぼされる時が来るとあります。これがヨハネ黙示録の世界です。
 こうなると、人が犯す罪や、人に降りかかる災難や不幸は、その人個人のせいなのか?それとも個人を超えた力から来るのか? というやっかいな疑問が生じてきます。悪いことが起こるとすぐ人のせいにするのはよくないことです。でも、何か不幸が起きると、それを自分のせいだと思いこんで、くよくよするのも間違いです。実は、そのどちらでもありません。個人のせいであって、個人だけではない。だからといって個人の責任も免れません。人間に起こることは、個人と人の世とその両方が関係するからです。だから、人の不幸も幸福も、その人の心がけ次第だから、他人は関係ないと言うのは誤りです。逆に、その人を取り巻く環境が人の運命を決めると言うのも誤りです。一方は主観的にしか、他方は客観的にしか、自分のことを見ていないことになります。実態はそうではありません。「主観」と「客観」とを超えたところにほんとうの「自分の姿」があります。「超えたところ」と言うのは、主観であって主観でない、客観であって、客観でないことです。わたしが「霊性」と言うのは、このことなのです。
 「霊性」という言葉は、「イエス様の霊性」のように、わたしはこれを良い意味で用いることが多いのですが、今日は逆に悪い意味です。「悪の力」は、自分の主観の働き、自分自身の思いこみだと思ったら大間違いです。では、どこか「外から」来るのか? そういう場合もあるかもしれません。しかし、自分と周囲の人たちや状況が一つになって「悪の力」が自分に働く場合が多いのです。だから、霊性の場では、主観と客観とが一つになって働く「主客一如」の出来事が生じるのです。「汚れた霊の出戻り」も、こういう主客一如の世界で起こるのです。
■時空一如
 ではどういう時に悪が働くのか? 人類の最初の殺人を犯して、弟を殺した兄のカインが、主なる神からこう言われます。「もし、あなたが正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せていて、お前を求める」(創世記4章7節)。ある英語の聖書では、「罪は戸口に潜み隠れている悪霊である」〔REB〕と訳しています(”Sin is a demon crouching at the door.”)。だから悪霊は、「隠れて待っている」のです。どこに隠れているのかと言えば、「あなたの心の戸口」でです。「戸口」ですから、あなたの心の中ではない。心の戸口の「外」です。だから、罪があなたを必ず襲うとは限らない。「もしもあなたが神様に向かって顔を上げられないのならば」です。自分の状態が神様の前に「正しくないのなら」、罪の悪霊があなたを襲う危険があるのです。
 「待ち伏せする」というのは、隠れてじっと機会を待つことです。何かのきっかけがあれば、突然襲うことです。だから罪は奇襲をかけるのです。「奇襲」は英語で言えば"surprise"「驚き」です。意外な時に意外なところから襲うことです。人が油断していると、思いがけないところから悪霊に襲われるのです。だからこれは、その人の普段の霊性の状態のことではありません。一般に人の霊性について言う場合に、その人の霊性それ自体が「善い」とか「悪い」とか、これを判定することはできません。ただ、「もしもあなたが主の御前に正しくないのならば」、その時は注意しなければなりません。悪霊は「あなたをほしがっている」からです。突然やって来て、あなたを襲い、あなたはその悪霊に動かされて操られるおそれがあります。だから、悪霊の働きには、「その時」があります。また、「その場」があります。悪霊はあなたを「その時その場で」襲うのです。実は、このことは神様からの恵みの場合にもあてはまるのですが、今日は残念ながら、悪霊の働きについてです。
 霊的な世界では、時間と空間とはひとつです。時空一如です。時空一如の「時の場」だから「時場」です。霊はこの「時場」で働くのです。前もって計画したり、予測したりはできません。その時その場でどうなるのか、人はだれも分からないのです。
■信行一如
 では、悪霊に襲われないためには、どうすればいいのか? これはわたしにも分かりません。なにしろ、こちらの想い(主観)だけでは、相手の動き(客観)は分かりませんから。「時」も「場」も分からないからです。ただし、襲われたその時にはどうするのか? これは、心構えができます。
(1)まず、罪の悪霊が襲ってくる場合があること、このことを心に入れておくべきです。そうすれば、たとえ奇襲をかけられても、あわてなくて済みます。ここでマタイ先生が、部屋が「空いていた」と加えていることがとても大事です。きれいに飾り付けがしてあって、それなのにイエス様の御霊が住んでいない状態は、悪霊にねらわれやすいからです。
(2)襲われたらあわてて自分で何とかしようなどと考えてはいけません。自分の力で解決しようとしないことです。主客一如の世界の出来事ですから、「あなた自身」もその一部に組み込まれているからです。動けば動くほど、ますますその罠にはまりますよ。だから、黙ってそのまま主にお委ねする。主様のお働きに任せることです。いざという時に、これができるためには、普段の祈りが大切です。イエス様の御霊を信じてお委ねする。これです。だからここでも、いつも申し上げていること、小さなことでもおろそかにしない心構えが大切です。どんな小さな罪でも、主の御霊のお働きに任せて、これに「支配されない」ように心がけることです。「あなたはその罪を支配しなければなりません」とあるのがこれです。負けてはいけない、支配するのです。罪の奴隷になってはいけない。罪に勝つのです(ヨハネ8章34〜36節/ローマ6章16〜19節)。
(3)固くならないで、全部任せてください。これが、いざというときに働く信仰です。そうすれば、御霊が自然に働いてくださいます。「恐れるな」とイエス様が言われるのはこういう場合です。自然にあるがままでいれば、多少のことがあっても、なんとかなりますよ。だから、じたばたしないほうがいいです。「あなたがたはこの世では苦しみがある。けれども元気を出しなさい(怖がるな)。わたしはすでにこの世に勝っているのだから」(ヨハネ16章33節)と言われているとおりです。だから先ずイエス様の御霊に信頼してお委ねする。これすなわち信仰です。そうすれば、あとは御霊が何とかしてくださいますよ。とにかく御霊に導かれるとおりに行なうのです。信行一如です。あなたは、もう自分一人ではないのです。イエス様が共にいてくださる。あなたは、「あなた」であって「あなた」ではないのです。「あなた」とは、その時々に、その場その場で、「御霊の働く創造の時場」なのですから。
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