【注釈】
■イエス様語録
復元はマタイ福音書からです。ルカ福音書との違いは、「見つからない→見つからなかった」、「出てきた我が家→我が家」、「戻って→逆戻りして」、「空き家になっており→ルカでは脱落」、「一緒に連れてくる→連れてくる」です。これらのどの場合でも、マタイ福音書の代わりにルカ福音書の読みを採ることも可能です。ただし、最大の違いは、「この悪い時代の者たちもそのようになろう」がルカにはないことです。
復元はマタイ福音書によっていますが、この箇所が置かれているイエス様語録の中の位置は、ルカ福音書11章23~28節の通りです。イエス様語録では、イエスは、「分かれ争う国」のたとえを語り、このたとえを「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」で締めくくります。これに今回の箇所が続いて、次に、女が群衆の中ら声高く「なんと幸いなことでしょう」と叫ぶ出来事が続きます。「ヨナのしるし」のたとえは、これの後にでてきます。この順序は『四福音書対観表』では174頁にあります。筆者もこの点を考慮して、「ヨナのしるし」を「真の幸い」の後で扱います。
今回のイエスの言葉は、悪霊についての忠告/教えなのか、それともこれは「たとえ」なのか? この点が議論されています。ルカ福音書に置かれた位置から判断するなら、11章23節で、イエスに対する曖昧な態度が戒められていますから、これに続く今回の箇所は、たとえ一時的に悪霊追放や癒やしに与ったとしても、その状態に満足するだけで、それ以上にイエスの伝える神の国に入ろうとしないならば、その人たちの状態は、以前よりもさらに悪くなる可能性があると警告していることになります。だからこれは、悪霊の働きを教えるもので、「たとえ」ではありません。
ただし、マタイは、ここを「ヨナのしるし」のたとえの次に置いています。もし今回の箇所をこの「たとえ」の続きとして読むなら、ここも「たとえ」として解釈されることになりましょう。ここを「たとえ」と見るならば、ユダヤ民族は、神を知る以前の悪霊憑きの状態から、モーセ律法によって悪霊から解放された。しかし、再び罪を犯したためにいっそうひどい状態になった、などという解釈も出てくることになります。あるいは、ユダヤ人は、イエスの悪霊追放によって、一時は救いに与ったけれども、最終的に悔い改めることをせず、イエスを信じることをしなかったから、彼らの状態はそれ以前よりもなお悪くなった、という反ユダヤ的な解釈も生じることになります。言うまでもなく、このような解釈は支持できません。
ここはやはり、たんなる「たとえ」ではなく、悪霊についてのイエスの教えであって、たとえ一時は、イエスによって悪霊追放や癒しが体験できても、真にイエスを受け入れて、イエスとの霊的な交わりに入らないならば、将来、なお悪い状態に襲われるかもしれないという警告と受け取るべきです。なお、ここをルカ11章19節と関連づけて、イエス以外の人たちの悪霊追放だけでは、真に悪霊から解放されたとは言えないから、イエスのもとに来ることによって初めて、悪霊からの完全な解放が生じるという解釈もあります(ヨハネ8章34~36節参照)。以下に、それぞれの福音書で、イエス様語録の語句の説明をします。
■マタイ12章
[43]【汚れた霊】「汚れた霊」という言い方は、マタイ福音書では、ここと10章1節の2回だけです。マルコ福音書では11回、ルカ福音書では5回です。しかし、「汚れた霊」と「悪霊」とを併せると、マタイ福音書では18回、マルコ福音書では13回、ルカ福音書では37回になります。特にルカ福音書では「汚れた霊」と「悪霊」とが同じ状態を指す場合が2回でてきます(ルカ8章29節/同9章42節)。さらにルカ福音書4章33節には「汚れた悪霊」という言い方がでてきます。「汚れた霊」と「悪霊」とは、どちらも、身体的な病(やまい)や精神的な病、さらに道徳的な「悪」の意味をも含んでいるようです。ただし、「病気や悪霊」という言い方から分かるように、身体的な病気と「悪霊/汚れた霊」とは、一応区別されています。「汚れた霊」が追い出される悪霊追放の出来事は、イエスによっても、その弟子たちによっても行なわれています(マタイ10章1節)。「悪霊」が追い出されて別のものに入り込む例は、マタイ福音書では8章32節にあります。しかし、今回の場合は、逆戻りして再び同じ人に入り込むのです。
【砂漠】原語は「水のないところ」です。第二ペトロの手紙2章17節に「水のない泉」とあり、ユダの手紙12節には「水のない雲」とあって、どちらも神の真理から離れた人間の比喩として用いられています。彼らには神に呪われた「深い暗闇」が用意されています。イザヤ書44章3節から判断すると、「水がないところ」とは、神の霊も注がれず祝福も及ばないところ指すのでしょう。古代バビロニアの悪霊追放の呪文には、「海の水も甘い水も、チグリスの水もユーフラテスの水もないところへ出ていけ!」とあり、「悪霊よ砂漠へ行け」と唱えられています〔アレン『マタイ福音書』ICC (1907年)140~41頁〕。このように、「荒れ野」は、古来から悪霊がさまよう場所とされてきました。汚れた霊/悪霊は、いったん追い出されると、このように神の祝福の及ばない「水のないところ」(荒れ野/砂漠)を通過する/さまよい続けると考えられたようです。しかし、そこには「住み着く」場所を見いだすことができないのです。
[44]【戻ってみると】汚れた霊は、かつて自分が住み着いていた人間の居場所を再び「求める」のです。一般に霊的な存在は、それ自体では、自分の存在を「外へ現わす」ことができません。だから、自分の存在をはっきりと現わすためには、人間の身体と心を必要とするのです。彼が「休み場を見いだせない」というのはこの意味でしょう。なお、「戻ってみると」とあるのは、「戻ってみて、もしも~だったら」の意味です。戻ると必ず再び取り憑く、という意味ではありません。
オーラル・ロバーツの『第四の人』にでている「悪霊憑き」という説教には、彼が非常にたちの悪い悪霊に憑かれた婦人のために祈る場面が出てきます。ロバーツは、祈る前に、大きな天幕一杯の聴衆に向かって、頭を垂れて敬虔な態度をとるように注意しました。ところが、一人の男が、せせら笑いながら、彼の言うことを聞かなかったようです。ロバーツが婦人に按手して祈ると、その婦人から悪霊が出ていきました。ところが、追い出された悪霊は、その男に「取り憑いた」ので、彼は座席から地面にたたきつけられ、歯ぎしりして泡を吹き始めました。5分ほどかかって、やっと彼も悪霊から解放されたとあります〔Oral Roberts, The Fourth Man. Healing Water (1951).118~19.〕。ただし、これは汚れた霊が「戻る」場合ではなく、不敬虔な者に取り憑く例です。
【空き家】原語は「空いている家」のことです。この句はイエス様語録にありません。マタイによる付加だと思われます。一般に霊的な状態は、ちょうど空気のように、「空いた場所/真空」を嫌いますから、せっかく汚れた霊や悪霊が出ていっても、その後に神からの霊の宿りがなければ、その人の状態は、言わば「ほかの悪い霊ども」に対して無防備な状態になっていると言えます。かつてオズボーン師の神癒伝道の通訳をしていた頃、彼が、耳や口や目の不自由な人たちに手を置いて祈る際に、「耳を聞こえなくしている霊よ出ていけ!」と強く祈った後で、「二度と来るな」を付け加えていたのを思い出します。その悪い霊が、再び戻ることがないようにとイエスの御名によってその霊に命じていたのです。
「汚れた霊が入ることのできない場所がただ一つあります。それは神の子の心です。それ以外のすべての人たちは、悪霊の力に曝されています。つまり、汚れた霊どもに対して無防備だということです。これに対するただ一つの防御が、神の御子、イエス・キリストの御名です」〔Oral Roberts, The Fourth Man. 123〕。
【整えられ】原語は「飾り付けがしてある」という意味にもなります。外見的にはきちんと整えられて、いろいろな飾りがされているのですが、肝心の中身が空っぽな状態なのです。
[45]【ほかの七つの霊】「七つ」とあるのは、文字通りではなく、「ほかのいろいろな悪霊ども(を連れてくる)」の意味にもなります(ルカ8章2節を参照)。だから、その人は、身体的、精神的、道徳的な面で悪の力に縛られることになります。
【前よりも悪く】外側がきれいで見栄えがするから、そこに汚れた霊どもが住んでいるとはだれも思いません。だから、以前よりなおいっそう始末が悪いのでしょう(ヨハネ5章14節/第二ペトロ2章20節)。数が多ければそれだけ追い出すのが困難になるという意味もあります。
【この悪い時代】原語は「この悪い時代」で、「の者たち」〔新共同訳〕はありません。ここは、イエス様語録にはありませんから、マタイの編集による付加だと思われます。この付加は、マタイが、イエス以後に起こったエルサレム滅亡やユダヤ人への迫害を、イエスによるイスラエルに対する裁きの預言の成就だと見たからだという説もあります。確かに、マタイたちの教会がシリアのアンティオキアにあったとすれば、マタイ福音書が書かれていた頃(90年頃)に、アンティオキアの近くにあるピエリア山の麓の港では、大勢のユダヤ人奴隷たちが、オロンテス河の水流を二つに分割するためにトンネル掘りに従事していたという事実があります。マタイは、ユダヤ戦争以後のこういう苛酷な現実を目の前にして、イスラエルの民に対するイエスの警告が正しかったことを悲しみをこめて付加したのかもしれません。ただし、ここを全体としてみれば、そのような具体的な出来事を指すよりも、神の霊の働きを受けた人たちへの一般的な警告だと受けとめるほうが適切でしょう。
■ルカ11章
マタイ福音書とルカ福音書とは、ほとんど同じです。幾つか異なる箇所がありますが、イエス様語録の解説を参照してください。ルカは、ここのイエスの言葉をそのまま受け取っています。したがって、悪霊追放を行なう人は、その後で、癒やされた人に二度と同じ状態に陥らないように注意を促し、そのための予防措置を講じておかなければならないと考えたのでしょう。「逆戻りする」という動詞が示唆するように、ルカは、汚れた霊と人間との関係を重視しています。「水のない場所」とは、「荒れ野」のことで、そこは伝統的に悪霊の住む場所と見なされていました(イザヤ34章14節)。しかし、ルカはむしろ、「水のない場所」とは、追い出された霊が住み着く場となる人間がいない場所だと考えているのかもしれません。この言葉の直前にあるイエスの言葉と考え合わせるなら、人が悪霊/汚れた霊から解放された後でも、その人は、イエスに対して曖昧な態度をとったり、癒やされた自己満足に浸ったりすることなく、イエスを自分の心に受け入れるよう勧めているのです。
[24]【戻ろう】マタイとは異なる動詞が用いられていて、「逆戻りする」ことです。
[26]【七つの】原文では「自分よりもなお悪いほかの霊を七つも」となっていて、「七つ」が強調されています。全部で八つの汚れた霊が住めば、簡単に追い出されることがないという意味もあるのでしょう。
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