【注釈】
■ルカ11章27~28節
イエス様語録では、「汚れた霊の戻り」と「真の幸い」と「ヨナのしるし」とが、この順序になっています〔ヘルメネイアQ242~246頁〕〔マックQ91頁〕〔『四福音書対観表』174頁参照〕。共観福音書の今回の箇所はルカだけですから、イエス様語録への復元はルカ福音書と同じです。ただし、「イエスがこれらのことを話しておられる」と、「高く叫ぶ声がした」とが、はたしてイエス様語録にあったかどうかが疑問です〔ヘルメネイアQ245頁〕。『トマス福音書』(79)にもこれの並行箇所がありますので参照してください。『トマス福音書』のほうは、ルカ11章27~28節と同23章29節とが組み合わされています。
おそらく『トマス福音書』が最も古いイエス様語録の形を伝えているのでしょう。だとすれば、ルカは、『トマス福音書』のこの項の後半だけを23章29節に移したことになります。「あなたを宿した胎は幸いだ」と言うのは、イエスの目覚ましい霊の働きを見て、このような人を産んでくれた母親をほめたたえているのですが、これに対して、イエスは「父の言葉を聞いてこれを守る人のほうが、もっと幸いだ」と答えたのです。
[27]【声高らかに】原文は「突然声を上げた女がいた」という意味です。
【なんと幸いな】この言い方は、ルカ1章45節と14章15節にもでてきます。特に1章14節は、イエスの母マリアについて言われていることですから、今回の箇所との関わりが注目されます。
【吸った乳房・・・】「胎」と「乳房」で母性を象徴するこの言い方は旧約以来の伝統です(創世記49章25節)。原文は「このような息子の母はなんと幸いでしょう!」という意味です。
[28]【むしろ】原語は相手を否定する場合と、一応認めて肯定する場合と、さらに相手を訂正する場合にも用いられます。ここでは、相手の言ったことを否定するのではなく、これを認めた上で、「しかし、むしろ」と幾分訂正するように言い直しているのです。おそらくルカはここで、1章48節の「今から後、わたしを幸いな者と言うでしょう」というマリアの言葉を念頭に置いているのでしょう。ここでのイエスの発言は、一見するとイエスの父と母とを対照させているようにも見えます。しかし、マリア自身もイエスの父である神の言葉に身を委ねたのですから、イエスの言葉は、母マリアが、イエスを産み育てただけでなく、彼女が謙虚に神の言葉を聞いて信じたことをも思い出させるものです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』〕。
【神の言葉を聞いて守る】「(神の)言葉」は単数 "the Word" で、イエスの語る言葉全体を意味しますから、これは、父なる神の言葉を宿すイエス自身を指しています。したがって、神の言葉を「守る」というのは、イエスに従うことです。自力で神の言葉を「実行せよ」と命じているのではありません(ルカ18章18~27節と比較してください)。なお、ルカ8章21節では「わたしの母とは神の言葉を聞いて<行なう>人」ですが、ここでは「守る」となっています。
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