89章 真の幸い
ルカ11章27〜28節
【聖句】
ルカ11章
27イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
28しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
〔参照〕『トマス福音書』(79)
群衆の中から一人の女が彼に言った、「あなたを宿した胎と、あなたが吸われた乳房とは幸いです」。彼が彼女に言った、「父の言葉を聞いて、それを真実に守った人々は幸いである。なぜなら、あなたがたが、『はらまなかった胎と、ふくませなかった乳房とは幸いだ』と言う日が来るであろうから」
【注釈】
【講話】
■マリアさんの子と父の子
今回の箇所では、イエス様の母マリアさんとイエス様の天の父とが比較対照されているようにも見えます。母マリアさんは、イエス様を産んだ女性ですから、群衆の中から出た声は、そのことで彼女を賞賛したのでしょう。だから、この賞賛は、イエス様の母と、その子であるイエス御自身に向けられたものです。イエス様は群衆に語っておられました。その真っ最中に突然声があがったのです。イエス様の御言葉が働いて、御霊が人々に強く迫っていた状態をうかがわせます。御霊が働くと、悪い霊はたまらなくなって声を上げることがありますが(マルコ1章23節)、ここではその逆で、喜びのあまり一人の女性が霊に満たされて叫んだのです。だからその声は、ひときわ高く響いたのです。
これを聞いたイエス様は、すかさず、「むしろ幸いなのは、神の御言葉を聞いている人たち、これを守っている人たちだよ」と言われました。これは、言うまでもなく、女性の叫んだことを否定しているのではありません。大事なのは「母」のほうではなく「父」のほうだよ、とおしゃっているのでもありません。「御言葉を聞いている人たち」とは、イエス様の周りにいる人たちです。だからこれは、自分に向けられた「幸いだ」を周囲の人たちのほうへ向け変えたのです。周りで現在イエス様の御言葉を聴いている人たちのほうへです。ただし、耳で御言葉を聞いているだけの人のことではありませんよ。御言葉を心で受けとめる人、これを「現実の生活の中で生きる」人、こういう人たちのことです。実はイエス様の母のマリアさんこそ、そういう人です。おそらくイエス様は、この意味をもこめて言われているのでしょう。
マリアさんはイエス様を生んでくださった、これはすばらしいことです。だから人々は、マリアさんとその息子を賞賛するのです。でも、そういう賞賛の仕方は注意しなければなりません。イエス様を英雄にしてほめそやすのはいいのですが、それだけで終わったら、大事なことを忘れたことになります。せっかくお語りになっている神様の御言葉をうっかり聞き漏らしてしまうかもしれないからです。
もしもほんとうにイエス様に感心するのなら、先ず何よりも、その御言葉にじっと聴き入ることです。そして、自分に向けて語られる御言葉を心に刻むことです。そうすれば、語っておられるのは目の前にいる人間だけではないこと、そのお姿の背後から、イエス様の父が語っておられることが分かるのです。これが分かった時に、人は初めて、語られている御言葉が<自分に>向けられていることを悟ります。イエス様が「神の御言葉を聴く」と言われるのはこのことなのです。こういう人は、もはやイエス様に「感心」しません。「あんたは偉い」などと賞賛しません。そうではなく、「従う」のです。イエス様の父である神に従うのです。なぜなら、この方こそ、ほんとうに自分の神であることが分かるからです。
■真の幸い
そういう人は、語られる御言葉を通じて父なる神を知るのです。神は目に見えませんが、これまで見えなかった神が、イエス様の父であることが啓示されること、これが、ほんとうの意味で「幸い」なのです。神様に出会ったら、みなさんはどうしますか? ひれ伏して礼拝します。ペトロが、船の中で、突然イエス様の前にひれ伏したようにね(ルカ5章8節)。だから、イエス様の話を聞いて、感心しているだけではだめなんです。「偉い先生だ」と尊敬しているだけでも十分ではありません。それだけでは「真に幸い」とは言えません。
では、「真の幸い」とはなんでしょうか? そのヒントは『トマス福音書』のほうにあります。イエス様は「『はらまなかった胎と、ふくませなかった乳房とは幸いだ』と言う日が来るであろう」と言われました。これはルカ23章29節の御言葉です。イエス様が十字架を担いでエルサレムの道を歩いて行かれると、大勢の女性たちが、イエス様のために嘆きました。するとイエス様は、彼女たちに「わたしのために泣かなくてもいい」と言われてから、「むしろエルサレムのために泣きなさい」と言われて、その後でこの御言葉を告げられた。それは今に恐ろしいことがこの街に起こって、「産まれなければよかった」、「産まなければよかった」、こう叫ぶ人たちが大勢でると予告されたのです。この預言は40年後に現実のものとなりました。
このように、この世の中には、人間をして「産まれてこなければよかった」「死んだほうがましだ」「もう死にたい」と思わせる力が、一人一人の心の内にも、世の中全体にも働いているのです。「心の闇」などという主観的なことではなく、世の中全体の仕組みが、人間をして「死にたい」を思わせるように働く、そういう力が、この世の中には潜んでいるのです。これが聖書の言う「闇の世」「悪魔に支配された世」の正体です。聖書が「死」と呼んでいるのはこういう力のことです。これに対して、「命」は父なる神様から来るのです。世界を創造されたイエス様の父こそ「命の源」であり、「すべてのものはイエス様の霊性によって成り立ち、地上で命あるものの中で、この命の光に照らされないものはひとつもない」とあるのはこれです(ヨハネ1章3〜4節)。闇の力はしつこく働くけれども、イエス様の命にある者は、「死から命へと移されている」(ヨハネ5章24節)のですから、これに負けることがないのです。これこそが、イエス様の言われる「真の幸い」です。『トマス福音書』の言葉の後半部分に「はらまなかった胎は、幸いだ」とあるのは、終末の艱難の時が来て、人々が、産まれてこなければよかったと思うほどの艱難が訪れる時でも、イエス様の父の御言葉は人の救いになるのです。
母から産まれて肉体を具えた方と、父から生まれて御言葉を通して語る方、目に見えるイエス様と、目には見えないイエス様、この二つをわたしたちはここに見ています。わたしたちは、どちらを賞賛すべきでしょうか? 見えるほうでしょうか? 見えないほうでしょうか? 見えるイエス様の内におられる見えないイエス様、その霊性から発せられる御言葉、これを賞賛しなさい。こう語っておられるのです。言葉は霊です。だから、肉体を具えた方を通じて語りかけてくださるのは、御霊のイエス様です。この霊性が見えてくる時に、もはや二人ではなく、一人のイエス様になるのです。
今回は、肉体のイエス様と御言葉と御霊のイエス様、この二人を比較対照するかのようにお話ししました。神学的な聖書解釈では、肉体を具えた方を「史的イエス」と呼び、御霊のイエス様のことを「宣教のキリスト」と呼びます。でもこの二つを分けてはいけませんね。神学的に考える場合は、わたしたちは便宜的に分けることがありますが、ほんとうは、福音書とパウロ書簡を分けてはいけません。四福音書が伝えるのは、地上のイエス様であり、復活されたイエス様でもあるからです。パウロ書簡が伝えているのも、地上のイエス様とは異なる「キリスト」ではありません。一人のイエス・キリストのことです。福音書もパウロ書簡も、伝えるのは神の御言葉を宿した霊性のイエス様、ただお一人です。
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