90章 ヨナのしるし
マタイ12章38〜42節/マルコ8章11〜13節
ルカ11章16節/同29〜32節
【聖句】
イエス様語録
 さて、彼(イエス)からしるしを求める人たちがいた。だが彼は言った。「今の時代はよこしまな時代である。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々へのしるしとなったように、人の子も今の時代へのしるしとなるだろう。」
 
 「南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるだろう。彼女はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。見よ。ソロモンにまさるものがここにある。
 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるだろう。彼らは、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。見よ。ヨナにまさるものがここにある。」
 
マタイ12章
38すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。
39イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
40つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
41ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
42また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
 
マルコ8章
11ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
12イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
13そして、彼らをそのままにして、また船に乗って向こう岸へ行かれた。
 
ルカ11章
16イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。
29群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
30つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。
31南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。
32また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」
                        【注釈】
                       【講話】
 もしもわたしが、「コイノニア会の信仰とは何ですか?」と訊かれたら、「ナザレのイエス様の御霊にある御臨在を信じることです」と答えます。イエス様の福音は、この世をその文化、その様々な営みもろともに、全体として救ってくださいます。これがイエス様の御霊のお働きです。わたしたち人間がこれだけ悪いことをしていても、こうして平和がなんとか保たれているのは、神様の恵みのお働き以外に考えられません。人間の力だけで平和を維持するのは不可能です。
 ヨナの話では、このような神の恵みが、悔い改めと裁きの終末的な黙示思想として表わされていますが、南の女王の話では、御霊の知恵の働きとされています。ところが、このイエス様の教えに反対する人たちがいました。ファリサイ派や律法学者と言われている律法の指導者たちです。彼らはイエス様に向かって、「あなたの言っていることはほんとうに神からでているのか? そのしるしを証拠として見せてほしい」と迫ったのです。
 「しるし」と言いますと、皆さんは、霊能的な業のことだと思うかもしれません。けれども、ここではそれよりも、もっと根本的に「確かな」証拠のことです。現代でも、聖書学者や神学者たちが、「確かな証拠」を要求しますね。確実なことを求めるのは、それ自体で間違ってはいません。けれども、それがないと信用しないのです。確かな証拠を「見せてほしい」と言っていますから、「だれが見てもはっきりそれと分かる客観的な目に見える証拠を出しなさい」と要求しているのです。聖書解釈でさえも、証拠、証拠と、客観的なことばかりを求めると、大事な霊的な視野を見失ってしまう恐れがあります。学問的な探求は大事ですが、目に見える客観的なことだけにとらわれて、その奥に潜む見えない存在に気がつかなければ、ほんとうの意味での「サイエンス/科学」(知ること)とは言えません。
 人間は弱いから、目に見えるものに頼りたがるものです。霊能的な奇跡を求めることも、学問的という名の下に目に見える証拠を求めることも、根っこにおいては同じでしょう。霊能のしるしは目に見えますから、人々が集まります。学問的な証拠も目に見えますから、人々は信用します。でもこれではイエス様の御霊の御臨在から目をそらす危険があるのです。南の女王が悟った知恵、ニネベの人たちが悟った御霊のお働きから来る罪への恐れ、こういう霊的な知恵とそのお働きは人間の力ではどうにもなりません。見える現象ばかりを追い求めていると、こういう大事なものを見失ってしまうのです。
 これに対してイエス様は、「ヨナのしるしのほかには、与えられないよ」とお答えになった。「ヨナのしるし」とは、突き詰めると、イエス様の御霊が御臨在して働いてくださることです。これ以外に「しるし」はないんだよと、イエス様はおっしゃっているのです。だからマタイはこのことを「三日三晩大きな魚の腹の中にいた」と表わしています。イエス様が、死んで墓の中に葬られたことによって、そこから復活された。このことを言いたいのです。復活は目に見えませんから、客観的なしるしにはなりません。けれども、復活は、これが見える人にはしるしです。見える人には救いのしるし、見えない人には裁きのしるしです。信仰と希望と愛、皆さん、この三つが目に見えますか。目に見えるものは信仰とは言えません。愛も目に見えません。希望を取りだして見せることもできません。「信仰」も「愛」も「希望」も価値観です。何が善いのか悪いのか、何が正しいのか誤りか、こういう価値観は見えないのです。価値観で一番大事なのは、その人の人格です。それを失えば、その人がその人でなくなるという、そういう価値観で人の人格は成り立っています。大事なものは目に見えないのです。隠れたものなのです。
 今回のところでは、マルコ福音書には「しるしが与えられない」とあり、ルカ福音書には「ヨナのしるしのほかには与えられない」とあり、マタイ福音書には「ヨナが三日三晩大魚の腹にいた」のと同じしるしが与えられるとあります。この三つは別々のようですが、実は一つにつながっています。見える証拠を求める人にはしるしは与えられない。けれども信じる者にはヨナのしるしが与えられる。ヨナのしるしとはイエス様ご自身の存在のことです。それが「しるし」であるとは、ナザレのイエス様が三日三晩墓の中におられてから復活されたことです。大魚の腹にいるのなら、そのしるしはだれにも見えませんね。シバの女王がソロモン王に謎をかけたとありますが、「謎/たとえ/比喩」も目に見えないことを言う知恵の言葉です。
 イエス様は、地上におられた間に、その霊性を通して御栄光を顕わされました。復活して今も御臨在くださって、わたしたちに御栄光を顕わしくださいます。わたしたちを通して人々に御栄光を顕わしてくださいます。どうぞこのお方を信じて、御霊にある知恵を受け容れてください。そのお導きに従って歩んでください。それ以外の目に見えるものに頼ろうとしないでください。祈ります。
                       戻る