91章 種蒔きのたとえ
マルコ4章1〜9節/マタイ13章1〜9節
ルカ5章1〜3節/同8章4〜8節
マルコ4章
1イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
2イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
3「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
7ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
8また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
9そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
マタイ13章
1その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
2すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。
3イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
7ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
8ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
9耳のある者は聞きなさい。」
ルカ5章
1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
ルカ8章
4大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。
5「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
6ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので、枯れてしまった。
7ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。
8また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
【参照】『トマス福音書』(9)〔共観表56頁〕
1イエスが言った、「見よ、種まきが出て行った。彼はその手に(種を)満たして蒔いた。
2 いくつかは道に落ちた。鳥が来て、それらを食べてしまった。
3 他の種は岩地に落ちた。そして、根を地下に送らず、穂を天に出さなかった。
4 そして、他の種は茨に落ちた。それが種をふさぎ、虫がそれらを食べてしまった。
5 そして、他の種はよい地に落ちた。そして、それはよい実を天に向かって出した。それは六十倍、百二十倍になった」。
同(24)
【講話】
■譬えの種類
今回から有名なイエス様の種蒔きの譬えに入ります。この譬えが大事なのは、種の譬えについて教えるだけでなく、ここには聖書を解釈する場合のとても重要なヒントが隠されているからです。ですから、今回を含めて3度に分けて読んでいきたいと思います。今回は、まず種の譬えそれ自体についてです。この譬えが意味するその中身については、後でイエス様が解き明かしをされていますから、その時に扱うことにして、今日は、そもそも「譬え」とはなにか? という根本的なところからお話しします。
一口に「譬え」と言っても、聞く譬えだけでなく、見る譬えも含めると実にいろいろな種類があります。「犬も歩けば棒に当たる」のような諺や「正直は最良の策」のような格言もあります。「獅子のように強く、子羊のように穏和だ」という直喩、「ペンは剣よりも強し」という換喩、「犬猿の間柄」や「八方塞がり」やキリスト教で言えば「キリストは義の太陽」などの隠喩/暗喩があります。「蟻とキリギリス」や「兎と亀」は寓意/アレゴリーです。寓意で有名なのは『イソップ物語』です。ローマ帝国の歴史と太陽の運行を重ねる類比/アナロジーもあります。そのほか、十字架、イエス様の血を現わすぶどう酒、日の丸、卍などの象徴/シンボルもあり、平和の鳩、勝利の月桂樹、菊の御紋などの表象/エンブレムもあります。もう一つ加えると「朝は4本足で、昼は2本足で、夜は3本足になるものは何?」という謎もあります。これは有名なスフィンクスの謎で、答えは「人間」です。いろいろな例をあげましたが、ヘブライ語で「マーシャール」(譬え)というのは、これらすべてを含んでいます。このような「謎」は、夢解きという形でヨセフ物語やダニエル書の物語にもでてきて、ヘブライ語の「譬え」の重要な働きの一つです。
■譬えと連想
譬えは理論や哲学ではなくイメージを伴いますから、誰にでも「分かりやすい」です。誰でもこれを聞くことができます。ではこれらの譬えは、聞く人にどのように働きかけるのでしょうか? 「日の丸」という象徴を例にあげますと、わたしたち日本人なら「白地に赤く日の丸染めて、ああ美しや日本の旗は」という歌を思い出すでしょう。ところが、日本占領下のかつての朝鮮では、人々は陰で「黒地に赤く血の丸染めて、ああうらめしや日本の旗は」と歌いました。これをパロディと言うのですが、同じ象徴でもこれを見る人によってこれだけ違いがあるのです。もっとも最近では、「イルボン」(日本)の印象が変わってきましたから、今の韓国の人たちは、日の丸を見ると実にいろいろな反応を示すと思いますよ。菊の御紋でも、十字架でも同じです。
単純な日の丸の紋様に対して、どうしてこんなに様々な反応があるのかと言えば、それは日の丸が、見る人それぞれに連想を呼び起こすからです。象徴や表象に限らず、譬えは、これを聞く人それぞに、様々に異なるイメージを連想させます。簡単な紋様、短い諺が、実はものすごく多種多様なイメージとこれに伴う意味をそれぞれの人に与えるのです。言うまでもなく、連想は人それぞれの体験から産まれてきます。日本や皇室にたいして良い感情、あるいは悪い感情など、その人の体験が連想を広げるのです。
■人格的な反応
心理学で精神医療の方法の一つに、ロールシャッハ・テストというのがあります。スイスの精神医学者が考え出した方法で、一見なんの意味もないインクの染みのようなものを患者に見せて、患者にそれがなんに見えるか? を聞き出すやり方です。患者は、そのインクの染みの模様を見て、いろんなことを連想しますね。その連想を深めていく内に、その患者の心の中に隠されていたトラウマ(心の傷)を発見するのです。
譬えの働きもこれに似ているところがあります。人は譬えを聞くと、それに対して自分の体験から内面でいろいろな反応を示します。譬えによって、その人自身さえ気がつかなかった自分の奥に潜む感情や想念が露わになるのです。だから、譬えは、これを聞く人の人格を知る上で重要なのです。このように譬えは、人の心に潜む隠れた部分を露わにする働きをします。
■敵対する人にも
もう一つ譬えの大切な働きがあります。それは、自分に反対する人や敵対する人に対しても、譬えで語ると受け容れやすくなることです。昔の賢人たちは、王様や権力者たちに忠告したり助言したりする時に、譬えを用いて語りました。聞く相手は傲慢な人たちですから、率直に警告すると逆に怒り出すからね。イエス様も「盲人が盲人を手引きしたら二人とも穴に落ちる」と言われました。傍にいる人たちはこれを聞いて「なるほど」と感心しました。みんな、自分のことだとは思わないで、人のことを指していると思っていたからです。ところがあるファリサイ派の人は、その譬えが自分たちを指していることだと気がつくとイエス様に対して殺意を抱きます。このように、譬えは間接的に人に対して注意したり助言したりする時に、とても役に立つ言い方なのです。
■譬えが新たな意味を呼ぶ
今までお話ししたことでお分かりいただけたと思いますが、譬えは一人一人それぞれに違った働きかけをして、言わばその人に「似合った」意味を帯びてきます。このことは、譬えが語られたその時のことだけではありません。譬えは、時代が変わっても、いつまでも語り継がれます。日本にも古くから伝わる諺がたくさんありますね。譬えは、その時々の状況に応じて、いろいろな解釈を可能にするのです。善いサマリア人の話は、実話からでているのかもしれませんが、イエス様がこれをお語りになったときには、聞いているユダヤの人たちには相当ショッキングな譬えだったと思います。しかし、時代が変わり、所が変わっても、「善いサマリア人」の話は、語り継がれて今にいたっています。このように譬えはいつまで経っても古くならないのです。それどころか、譬えそのものが、常に新しい解釈を聞く人たちに呼びかけ求めているのです。だから、現代の「善いサマリア人」とは、どういう人なのかをわたしたちは考えなければなりません。
■譬えと出来事
今回のイエス様の譬えは「種蒔く人が」で始まります。だからイエス様の譬えは、種を蒔いている「人」のことだと思うと違うのです。人ではなくて、種のほうに譬えが隠されているのです。では人のほうは関係がないのかと言えばそうではありません。マルコは、「種蒔く人が出て行った」で始めて、次に「蒔いているうちに・・・のようなことが起こった」と続くのです。マルコはここで「種」のことだけを譬えとして考えているのではなく、蒔く人と蒔かれる種と蒔かれる土地と、それら全部を含めてその場の状景全部を譬えとして出しているのです。だから、譬えは、「ことが起こった」"It happened that ..." と、その出来事全体を指しているのです。
神は預言者エレミヤに「陶工の家に行きなさい」と命じられました(エレミヤ書18章1〜6節)。そこでエレミヤが言われるままに陶工の家に行きました。エレミヤはなんのためにそこへ来たのか分からないけれども、黙って陶工のすることを見ていました。すると陶工は、作りかけの粘土で、突然別の物を作り始めたのです。すると神の御言葉がエレミヤに臨みます。「この陶工がしたように、わたしもお前たちにする」とね。
エレミヤは、譬えを聞きに行ったのではありません。なんだか分からないけれども、黙って目の前の「出来事を」見ていたのです。すると、その出来事から神はエレミヤに譬えを語られたのです。ここでは、譬えが初めから与えられているのではありません。与えられているのは、目の前で起こる現実の出来事だけです。エレミヤはその出来事の中から譬えを「示された」のです。言い換えると彼は、出来事から譬えを発見したのです。出来事はなんにも語りません。しかし、出来事は、これを霊的な目で観る人には、実にいろいろなことを語るのです。なぜなら、出来事それ自体が神からの大事な譬えだからです。霊的な人は、出来事から、普通の人には見えない譬えを読み取ることができるのです。
ヘブライの譬えには「謎」も含まれると言いました。スフィンクスの謎のように、人生という出来事は、さまざまな謎に満ちています。しかもわたしたちは、その謎を解かなければ生きていけない場合があるのです。知恵の人とは学識の豊かな人のことではありません。どんなに知識が豊富でも、自分の知識に思い上がった愚かな人や、利口に頭を働かせる利口バカの人たちが大勢います。イエス様の御霊がわたしたちに与える知恵は、そのような知識のためや利口に立ち回るためではなくて、自分と自分の周囲の物事から、いろいろな譬えを読み取ることのできる人のことです。なぜなら、わたしたちの人生とこれを取り巻く出来事こそ、神様から与えられた譬えであり、これを読み解く知恵こそが、イエス様のくださる「知恵の御霊」だからです。
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