92章 たとえと奥義
マルコ4章10〜12節/同25節/同8章18節
マタイ13章10〜17節
ルカ8章9〜10節/同18節/同10章23〜24節
 
【聖句】
イエス様語録
「幸いだ、あなたがたの見ているものを見る目は。
なぜなら、あなたがたに言っておく、
多くの預言者や王たちは、
あなたがたが見ているものを見たいと願ったが、
見ることができなかった。
あなたがたが聞いていることを聞きたかったが、
聞けなかったのである。」
 
マルコ4章
10イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
11そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」
同章
25「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
12それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」
同8章
18「目があっても見えないのか。
  耳があっても聞こえないのか。
  覚えていないのか。」
 
マタイ13章
10弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
14イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
15この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
17はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
 
ルカ8章
9弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。
10(a)イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。
18だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。
10(b)それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」
同10章
23それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。
24言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
                       【注釈】
 
【講話】
■映画「ヴィヨンの妻」
 御言葉の意味とその解釈は注釈で解説しましたので、前回に続いて、御言葉を「解釈する」ことについてお話ししたいと思います。そこで、やや突飛な例ですが、太宰治原作の映画「ヴィヨンの妻」を採りあげてみることにします。この映画は、根岸吉太郎監督、田中陽造脚本の映画です。カナダでグランプリを与えられた作品だというので、わたしたちも見に行ってきました。
 原作『ヴィヨンの妻』は、大きな文字で印刷されたわずか30頁ほどの短編です(1947年初版)。けれども映画のほうは、太宰の原作とは全く違っています。脚本の田中陽造は、原作の始めの部分と終わりの女主人公の言葉を映画全体の枠組みとして用いていますが、その始めと終わりの間に、太宰の別の作品「思い出」「灯籠」「姥捨」「きりぎりす」「桜桃」「二十世紀旗手」などから、太宰作品のエッセンスを採り出して挟み込んで制作しているからです。だから、これは、田中陽造氏のオリジナル作品で、題名も「ヴィヨンの妻:桜桃とタンポポ」となっています。
 この映画は、原作をそのまま映画化したものではなく、太宰のいろいろな作品から集めてきて、独自の「太宰の世界」を描いたもので、これが功を奏して国際的にも認められ、グランプリが授与されたのでしょう。「太宰の世界」というのは、人間太宰のことではありません。そうではなく、太宰が作家として描こうとした人間世界をスタッフの理解に基づいて映画化したものです。作家自身と、作品を通して彼が描こうとした世界と、この二つは区別しなければなりません。太宰のいわゆる暗いデカダンスな世界ではなく、暗い世界にあっても、タンポポのように強く明るく生きようとする独特の太宰の世界が映画を通じて描かれているという印象を受けました。
■マルコと福音書
 この映画の鑑賞読本を買ってきて、その制作過程を知ったときに、わたしはマルコがその福音書で用いるサンドイッチ方式を思い出したのです。マルコは、イエス様の出来事を語るときに、一つの出来事の中に別の出来事を挟み込んで、サンドイッチのように構成していますね。これは、福音書の一部だけのことではなく、マルコは、福音書全体も、洗礼者ヨハネの登場とイエス様の洗礼から始まって、十字架の死と埋葬で終わる出来事を全体の枠組みとして、その間に、イエス様のいろいろな出来事を挟み込むようにして福音書全体を構成しています。
 ちょうど田中陽造たちが、「ヴィヨンの妻」を枠にして、その間に太宰のいろいろな作品から抜き出したものを挟み込んで、自分たち独自の太宰の世界像を映画化したように、マルコも、イエス様の伝道活動の始めと終わりとを枠にして、その間に、マルコの手元に伝えられている様々な伝承や資料を自分なりに整理して挟み込み、このようにしてマルコのイエス様像を描きだそうとしたのです。
 もちろん、太宰の描く世界像とマルコ福音書の描くイエス様像とは全く異なります。太宰は作家ですから、自分が想い描こうとした世界を作品の中で「創作」しているのであって、彼の作品を基にした映画の世界も心中未遂を含むかなりでたらめな人間の世界です。これに対してイエス様のほうは、御自分とは別の創作の世界のことではなく、御自身が現実に生きて語り行動された記録、その歴史的な出来事と、そこに顕われた神のみ業を証ししています。これを描こうとするマルコも、イエス様が生きた「現実の出来事」を通じて顕現された神の啓示を伝えようとしています。ですから、内容もその世界も全く異なります。
 しかし、マルコが映画と共通しているのは、マルコが、イエス様の出来事の始めと終わりとの間に、イエス様のいろいろな出来事を自分なりに整理して、これらを挟み込んで、そこにマルコが見たイエス様像を描き出そうとしている点です。マルコはこうして「福音書」という独特の作品を産み出したのです。マタイもルカもヨハネも、マルコのこのやり方をモデルにして、それぞれに自分が見聞きしたイエス様像を自分なりの資料を用いて福音書にすることができました。
 田中陽造たちは、太宰が「創作した」人間世界を描こうとしましたが、福音書の記者たちは、イエス様を通じて生起した「現実の出来事」を「神の霊的な出来事」として伝えているのです。それは、イエス様の霊的な御人格を通して啓示された世界です。
■文献批評による福音書の分析
 ところが、1920年代に始まった聖書の文献批評は、マルコやマタイやルカが編集した様々な伝承を、もう一度、ばらばらに区別することを可能にしたのです。ちょうど太宰の映画が、太宰のどの作品のどの部分を採りだして構成したのかが分かるように、マルコ福音書が、どんな資料をどのように組み合わせたのかが分かってきたのです。
 その結果、三つの福音書を構成する資料を再度ばらばらにして、元の諸伝承や資料に戻して、そこから、三つの福音書を構成している伝承や資料を、今度は、イエス様の「一つ一つの出来事別に」組み合わせて再構成することができるようになったのです。これのギリシア語の原文はドイツから出ていて、1983年版です。これのギリシア語と日本語の対訳『四福音書対観表』が出たのは2000年で、わたしが67歳の時ですから、退職する3年前です。これが出たので、わたしは「共観福音書」という今まで読めなかった「福音書」を読むことができるようになったと思ったのです。
 こうして、従来三つであった共観福音書が、一つにまとめられることになりました。わたしたちは、今まで誰も手にすることができなかった「共観福音書」という「ひとつの」福音書を手にすることができるようになったのです。ここには、マルコとマタイとルカそれぞれが描くイエス様像が、一つ一つの出来事ごとに重ね合わされています。これが、現在わたしたちが読んでいる共観福音書講話と注釈です。
 ただし、わたしは、共観福音書の学問的な成果を総合しようなどと大それた思いを抱いているのではありません。また歴史的に見たイエス、いわゆる「史的イエス」です、これを再現しようとしているのでもありません。結果として、これらの二つも含まれるかもしれませんが、わたしのほんとうの願いは、共観福音書が伝えているナザレのイエス様像を、できるだけ福音書が伝えているそのままの姿で自分なりに確認したい、お伝えしたい、こういう想いから試みているのです。
■御国の奥義/秘密
 わたしたちがこの「共観福音書」という福音書を通して知ることができるのは、ナザレのイエス様の歴史的でかつ霊的な出来事です。それは、外から観た歴史の事件ではなく、神のみ業が啓示されている「霊的な出来事」です。この霊的な出来事の「奥義/秘密」を悟るためには、イエス様御自身の御人格、すなわち「イエス様の霊性」の世界を知る必要があります。これは、イエス様が現実に生きられたその御人格に働く霊性の世界です。
 今回のところで、イエス様は、弟子たちに「あなたがたは幸いだ。神の国の奥義/秘密を知ることが許されている」と言われていますね。この「神の国の秘密」とは、イエス様の御人格に宿る霊性のことにほかなりません。イエス様の御霊の働くところ、そこに神の国が現実に臨在するからです。これが「見える」人、このような霊的な出来事を語る御言葉を「聴いて分かる」人、これがほんとうの意味で「幸いな」人です。だからわたしたちは、共観福音書が伝えてくれる出来事を「この視点」から聴き、読み、悟ることができるように祈るのです。主イエス様の御霊の御臨在にある愛と喜びと平安、この御霊の実を結ぶ世界こそ「神の国の奥義」です。
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