【注釈】
■イエスの譬え話
 イエスを古代ギリシアの「賢者」や「哲人」に近づけようとする見方があります。これは、イエス様語録の語り方や教えが、例えば古代ギリシアのストア哲学のキュニコス派の人たちに似ているという理由からです〔バートン・マック著『失われた福音書:Q文書』58頁〕。これに対して、イエスを「賢者」としてではなく、むしろ預言者として見る、それも黙示思想的な預言者だという見方があります。イエスが差し迫った神の国の到来を伝えるだけでなく、終末における神の裁きが近いことを人々に警告したからです〔バート・エアマン著『イエス:新千年王国の黙示的預言者』21~22頁〕。
 これらの見方はどちらも「イエス」であり「ノー」です。なぜならイエスは、確かに旧約聖書の知恵思想(例えばシラ書/知恵の書)の流れを汲むパレスチナの賢者の側面を具えていますが、同時に、旧新約中間期のユダヤ黙示思想(例えばダニエル書/『第一エノク書』)の流れを汲む終末的な預言者の霊性をも受け継いでいて、賢者と黙示的預言者と、両方の霊性を兼ね具えているからです。
 このことは、イエスの語る譬えにも当てはまります。「譬え」を用いて語るのは、古来、賢者の語り方の特徴です。この点で、イエスに賢者の風貌を見ることができます。しかし彼は、古代ギリシアの『イソップ物語』の賢者のように、動物を用いた寓意的な語り方はしませんでした。イエスの譬えには、人間世界に共通する教訓や真理が含まれていますが、それ以上に、「神の御国」という霊的な内容が隠されているのです。だからイエスを「カリスマ的な賢者」と呼ぶ人もいます。
 イエスの譬えの語り方は、古代ギリシアの賢者のそれとは異なっていて、パレスチナのユダヤ的な伝統を受け継いでいます。「~をなんに譬えようか」とか「~は~に似ている」のような語り始めは、イエスとそれ以後のユダヤ教のラビの語り方に共通するところがあります。このように霊的な権威と賢者の風貌とを兼ね具えているために、人々は彼を「ガリラヤの賢者であり預言者である」と思ったのでしょう。
 しかし、イエスの譬えは、パレスチナの通常のラビたちのそれとも異なっています。通常のラビは、語る相手に受け容れやすいように、ガリラヤやユダヤの人たちに共通する価値観や倫理・道徳観を譬えで語るのですが、イエスの譬えは、当時の人々の一般常識を覆すような見方や通常の価値観を逆さまにした考え方を伝えようとするからです。この点で彼は「知恵の教師」であるよりも、「終末的な預言者」に近いと言えましょう。
 イエスの譬えの内容も通常のラビのそれとはやや異なっています。ユダヤ教のラビは、ユダヤ教の聖典にでてくる譬えを受け継ぎながらも、これをそのまま忠実に伝えようとするのではなく、譬えを自分なりに自由に「加工して」、語る相手やその場の状況に合わせて用います。イエスの譬えも、このようなユダヤ教の伝統に従って解釈される傾向があります。このために、福音書で語られているイエスの譬えは、イエスが実際に語った譬えではなく、後の弟子たちやキリスト教会によって付け加えられるなどの編集が行なわれているから、元の形が変容していると考えられました。つまり福音書で語られるイエスの譬えの真正性が疑われてきたのです。
 ところが、実際は、イエス以後の弟子たちも教会も、イエス独特の譬えを忠実に伝えようとして、これらを自由に「加工する」ことはしませんでした。その理由は、使徒言行録や諸書簡を読めば分かるとおり、弟子たちも教会も、福音を伝える際に、イエスが語ったような譬えの用い方をしなかったことがあります。彼らがイエスの譬えを保存しようとして、これに変更を加えなかったもう一つの理由は、イエスの譬えには、通常譬えが伝える教訓や真理だけでなく、その譬えが、イエス自身の人格と深く結びついていたからです。譬えは、イエス自身の「人格的な霊性それ自体」を伝えようとする性質を帯びているからです。だから教会は、イエスの譬えをそのままの形で保存しようとしたのです。だから福音書の譬えは、イエスにさかのぼる真正性を持つと言うことができます。
 ところで今回の種蒔きの譬えでは、譬えが語られた後で、イエスは自分でこれを弟子たちに解き明かしています。従来、種蒔きの「譬えそのもの」はイエスにさかのぼるけれども、その後にでてくる譬えの解き明かしは、後の教会による付加であろうと考えられてきました。ところがこの点では、先の場合とは逆に、イエスとユダヤ教のラビたちとは共通するところがあります。ラビたちは、教えとして譬えを語った後で、「その意味は」と続けて、譬えの解き明かしをするのが通例だったのです。だから、種蒔きの解き明かしの部分も、後の教会による付加ではなく、イエス自身にさかのぼる真正性を持つと考えることができます〔クレイグ・キーナー著『福音書の史的イエス』189~95頁〕。
 問題はむしろ、今回の種蒔きの場合は例外で、イエスが多くの場合に解き明かしを「しない」ことのほうにあります。このような場合には、イエスの譬えは、教訓や戒めを分かりやすく伝えるものではなく、「謎」の性質を帯びてきます。「謎」も旧約聖書以来のヘブライの譬え(マーシャール)の大事な分野で、このような「謎」は、しばしば「隠された奥義/神秘」を啓示する、あるいは隠す、という二重の意味で用いられました。クムラン宗団では、書かれた文書に秘められた「謎/奥義/神秘」は、特別に知恵を授かった指導者たちだけに啓示されるもので、それ以外の一般の聖書の読者たちからは「隠されている」と考えられました。このような奥義/神秘を伝える場合には、イエスの「教え」ではなく、その行動でもなく、イエスの出来事でさえもなく、問われてくるのはイエスの「人格的な霊性」なのです。これが譬えに「隠された奥義」です。だからこの奥義は「神の秘められた計画であるキリスト」であり「知恵と知識の宝がすべて隠されているキリスト」(コロサイ2章2~3節)なのです。
 こういうイエスの譬えは、その解釈の仕方にも問題を投げかけてきました。従来のイエスの譬え解釈は、譬え全体が、ある一つの中心/焦点となる意図に従って構成されていると見なされました。だから、譬えの解釈は、その中心となる意味に焦点を合わせて全体を理解しなければならない。したがって、そこから多様な意味を読み採ることは避けなければならないとされました。このような解釈の仕方は、譬えを寓意(アレゴリー)的に読み解くことを意味します。例えば、「善いサマリア人」の話では、旅人は「罪人」を表わし、サマリア人は「イエス」のことであり、ぶどう酒は「聖餐」を意味し、宿屋は「教会」のことであり、その主人は「教会の指導者」のことであるというように、話の登場人物やそこにでてくる具体的な事物のひとつひとつを、一定の方向だけに向けて解釈する方法です。
 しかし、こういうギリシア的な比喩解釈の手法とこれを受け継いだヨーロッパの伝統的な比喩解釈の方法は、パレスチナのユダヤ教の伝統ともイエスの譬えの語り方とも一致しません。イエスの譬えは、ある特定の決まった解釈を引き出すために構成されているのではなく、様々に多様が解釈をそこから汲み取ることができる多義性と柔軟性を帯びているのです。 
■イエス様語録
 今回の箇所は、特定のグループに所属しない断片です。それだけに古く、イエスにさかのぼることが認められています〔デイヴィス『マタイ福音書』394頁〕。ほとんどがルカからの復元です。ただし「幸いだ、あなたがたの見ているものを見る目は」は、マタイの「幸いだ、あなたがたの目は見ている<から>」を採ることもできます。またルカの「多くの預言者や王たちは」も、マタイの「多くの預言者や<義人たち>は」とすることも可能です。
 この断片に似た内容が「ソロモンの詩編」(前63~48年頃)にもあります〔後藤光一郎訳『聖書外典偽典』5「旧約偽典」Ⅲ、教文館(1976年)65頁〕。
 かの日に居合わせて、
 神を畏れる主の「油注がれた者」の懲らしめの笞のもと、
 霊的知恵・正義・力により、
 主がやがて来る世代になさろうとするよいことを、
 すなわち彼が神を畏れ正義の業により人を導き
 彼らすべてを主の前に置くのを、見る者は幸いだ。
          (「ソロモンの詩編」第18篇6~9節)
 ここでは、「油注がれた者」すなわちメシアの到来を予め啓示されて観ることができる者は幸いだという意味になります。だから「ソロモンの詩編」では、メシアはまだ到来していません。しかしイエス様語録では、過去の人たちが観ること、聴くことができなかったそのことを、「今あなたがたは」観たり聴いたりできるから幸いだと言うのです。
■マルコ4章
 マルコは今回の4章12~13節を種蒔きの譬えの真ん中に挟み込んでいます(マルコのサンドウィッチ方式)。しかも、今回の部分では、譬えそのもの(3~9節)とその譬えの解き明かし(13~20節)との間にあって、「神の国の秘密」、すなわちイエスが語る譬えの奥に潜むものが何であるかを聴き取る秘訣を教えています。ここは、種蒔きの譬えだけではなく、これをも含むイエスの譬え全体の解釈について語ろうとしているのです(4章13節を参照)。
 イエスはここで、弟子たちだけに「神の国の秘密」を解き明かすと言っていますが、ここで語られていることそれ自体も「解き明かし」について幅広い解釈を呼び込む内容になっています。特にイザヤ書(6章9~10節)からの短く凝縮された引用が、サンドウィッチに挟まれた部分のそのまた真ん中に入れられていて、これが全体の鍵となります。だから、イザヤ書で語られるほんらいの意味と、イエスがここで引用している意図との両方からこの引用を見る必要があります。
 ただし、このマルコ4章11~12節は、ほんらい別個に伝えられた伝承で、それが、マルコか、あるいはそれ以前の段階で譬えの解釈に結びいたと考えられます。ここの言葉通りがイエスにさかのぼるとは言えませんが、イザヤ書の引用を含んでいるなど、その内容はイエスの真性の言葉に基づいていると考えられます。イエスのほんらいの言葉は「あなたがたには神の国の秘密が明かされるが、外の人たちにはすべてが謎である!」という意味だったのかもしれません〔デイヴィス『マタイ福音書』〕。
[10]【イエスがひとりに】岸にいる大勢の人たちとは別に、十二弟子たちだけがイエスと共に船いたとすれば、10節の内容と合いません。4章10節以下ではイエスが船にいることはもはや忘れられています(ただし36節で再び船がでてきます)。ここで語られているのは、船の上のイエスのことではなく、イエスが群衆から離れて「ひとりになった」時に、このような話が語られる機会が幾度かあったと思われます。「(彼らが)尋ねた」とあるのが不定過去形なのもそのような機会が一度ではなかったことを示しています。
【イエスの周りにいた人たち】イエスの周りには「おびただしい群衆」が集まっていましたが(マルコ3章7節)、その中に、イエスの言葉に注意深く耳を傾けようとする人たちが少なからずいて、彼らは「イエスの心にかなう」(3章13節)人たちでした。十二弟子はこの人たちの中から選ばれたのです(同14節)。10節にでてくる人たちもこのような人たちで、彼らは十二弟子と共にイエスの周りにいたのでしょう。したがって、10~12節でイエスが、一般の人たちと区別して、十二弟子だけに密かに語ったと考えるのは誤りで、彼は十二弟子だけでなく「聞く耳のある人たち」に向けて語っていたのです。マルコのこの分け方は、3章34節でも共通します。「イエスの周り」で話を聞いている人たちと「外にいる」人たち(3章31節)とに分けられているからです。ただし、3章では「神の御心を行なおうとする人たち」と「外の人たち」とに分けられていますが、4章10節では、「聞く耳と見る目のある人たち」と「外の人々」(11節)とが分けられているのです。
[11]【神の国の秘密】「秘密」のギリシア語は「ミュステーリオン」(単数)です。これには「秘訣」と「神秘」の二つの意味があります。「秘訣」(英語の"secret")は、手品の「秘訣/秘密」のように、種明かしをして一度知ってしまえば、秘密でも不思議でもなくなります。ある特定の人にだけ伝えられる「秘伝」もこれに近いでしょう。ヘレニズム時代の神秘宗教には、このような「秘伝」が伝えられていましたから、ここ11節もそれと同じ「秘伝」の意味にとる説もあります。
 しかし、ここで言われている「神の国の秘密」とは、むしろダニエル書2章にでてくる意味での「秘密」(英語の"mystery")から出ていて、人間の知恵や知力では知りえないこと、神からの啓示によって初めて悟ることのできる「奥義と秘義」(ダニエル2章22節)のことであり、それは「神の知恵と力」(同21節)に属すると見るべきでしょう(第一コリント2章9節を参照)。ダニエル書ではこの「神秘」は、王国の未来に関する出来事が顕わされることで、「神秘」はダニエルだけに啓示されました。クムラン宗団でも神の言葉の「神秘」は、知恵の指導者だけに啓示されると信じられました。ダニエル書の「神秘」のヘブライ語は「マステール」(アラム語では「ラーズ」)で、七十人訳のギリシア語では「ミュステーリオン」と訳されています。だからこの言葉には、神によって「隠されている」ことと、神から「啓示される/顕わされる」こととの両方の意味がこめられています。
 なおアラム語の「神秘」(複数)は、クムラン文書にもでていて、「暗闇の天使は義人たちをも唆(そそのか)して、あらゆる罪や不義や恥ずべき行為や反逆を行なわせようと仕向ける。この状況は、神がご自分の神秘(複数)によって許されていることであり、神の時代が来る夜明けまで続くだろう」〔ワイズ、エイベッグ、クックによる英訳『死海写本』120頁。(1QS. Col.3-23.)〕とあり、また光の子らと暗闇の子らとの終末での闘いにおいて「神の神秘(複数)が邪悪な者たちを一掃する」〔前掲書130頁。(1QM. Col.3-9.)〕とあります。
【外の人々】マルコ3章31~35節では、「外にいる人たち」はイエスの家族のことであり、「イエスの周りの人たち」と対照されています。しかしここ11節で言う「外の人たち」とは、イエスの家族のことよりもむしろ「エルサレムから来た律法学者たち」(3章21節)のような人たちを指すのでしょう〔フランス『マルコ福音書』〕。ここではイエスが、御国の神秘を「聴く耳のある人たち」に解き明かそうとしているのですから、「外の人たち」とは、イエスの語る譬えの真意を尋ねようとも求めようともしない人たち全体を指しています。
【すべてがたとえで】「すべて」とは、イエスの語る教えだけではなく、イエスの言動とこれによって生じる出来事全体を指しています(前回の講話「譬えについて」を参照)。「譬えで」はここでは複数です。譬えは顕わすことと隠すことの両方の働きをしますから、これは、語る側よりも聞く側の問題です。人はイエスの譬えによって、その内側が暴かれるのです(4章33~34節)。
[25] マタイ福音書の記述に合わせるとすれば、マルコ4章11節と12節との間に、同4章25節が挟まり込むことになります〔『四福音書対観表』115頁〕。4章24~25節は次の通りです。
 
「何を聞いているかに注意しなさい。
あなたがたがは自分の量る秤で量り与えられ、
さらにたくさん与えられる。
持っている人はさらに与えられ、
持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
 
 内容的に見れば、燭台の上の灯火と秤の譬えは、種蒔きの譬えに続いていますから、イエスの言葉を「聴く」人たちに、霊的な洞察をうながしている点で変わりありません。霊的な賜は、受け取ろうとする者にはいくらでも与えられるが、この賜を軽んじる人は、すでに与えられている分まで取り去られると警告しているのです。先の種蒔きの譬えと併せて読むといっそうよく分かりますが、こちらのほうがより厳しい警告になっています。「持てる者にはさらに与えられる」というこの霊的な真理は、タラント/ムナの譬えにもでています(マタイ25章14~30節/ルカ19章11~27節)。
[12]【なるためである】マルコ福音書はここでイザヤ書6章10節の後半をかなり自由な形で引用しています。引用は「外の人たち」に対する厳しい内容になっていて、「イエスの近くにいる人たち」に語られているイエス様語録とは正反対です。この12節では、「~ために」とある接続詞(ギリシア語の「ヒナ」)の受け取り方が問題になります(英語の"so that..." に似ている)。これを<目的>と解釈するなら「外の人々」に対する厳しい拒絶になります。しかし目的ではなく<結果>として彼らは聞き従わなかったと考えることもできます。ただし、ここはギリシア語ではなくアラム語の「デ」の用法に近く、目的とも結果とも異なって、神の絶対的な意思と摂理(せつり)に人間が支配されていること、だからここには神の拒否と受け容れとの両方が隠されていることを言おうとしていると解釈するほうがいいでしょう(マルコ4章33節を参照)。
 先ずヘブライ語の原典訳から紹介します。
 
たちまち、主の声が響いた。
「だれを遣わそうか、
だれがわれらのために行ってくれようか。」
「どうか、このわたしを遣わしてください」
とわたしは答えた。すると主が仰せられた。
「行け、この民にこう語れ。
『どこまでも聞け、だが悟るな。
どこまでも見よ、だが認めるな』
この民の心を鈍くし、耳をふさぎ、目を閉ざせ。
彼らが目で見、耳で聞き、心で悟り、
悔い改めて、癒えることのないように。」
わたしは言った。「ああ主よ、いつまで・・・」
主が答えた。
「町はすたれて住む人なく、
家はさびれて人影なく、
土地は荒れはて廃墟となるまで。」
 (イザヤ書6章8~11節:中澤洽樹訳)
 
 ここはイザヤが預言者の召命を受けるところです。イザヤはその召命に際して、「主の栄光」、すなわち主の御臨在に接します(イザヤ6章3~4節)。その時彼は、祭壇の火によって罪赦されて汚れを取り除かれます。しかしイザヤの召命の内容があまりに苛酷なので、これは、イザヤが預言活動に失敗した後で、回想的に述べたものだという説もあります。しかし、このような失敗説は、主の言葉が、出来事を創造する力を持つという旧約聖書の信仰を無視した説でしょう。主がイザヤにこのように語るのは、たとえイザヤの語る言葉が民に受け容れられなくても、決して失望することがないためです。イザヤは、民の外に立っているのではなく、民と共に苦しみ悲しんでいます。だが、主の御言葉は最後まで厳しく、ついに国土は荒廃に帰すると告げられるのです。次は七十人訳からの引用です。
 
「なぜならこの民の心は図太くなって、彼らの耳は聞くのに鈍く、彼らの目は閉じられている。その目で見ることもなく、その耳で聞くこともなく、その心で悟ることもなく、回心してわたしが彼らを癒すこともないように。」
                        (七十人訳イザヤ6章10節)
 七十人訳では、ヘブライ語の「心を鈍くし、耳をふさぎ、目を閉ざせ」と動詞の使役形(英語の“make their heart dull”)が、「心は図太くなって、彼らの耳は聞くのに鈍く、彼らの目は閉じられている」と現在の<状態>になっています。それだけ人々の側に責任があるのです。後半は、ヘブライ語原典の「悔い改めることがないために」よりも「悔い改めることもないように」と神の意図がやや弱くなっています(“so that …may not”と“lest …should”の違いに近い)。次はマルコ福音書からです。
 
「それは、『彼らが見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」
                    (マルコ福音書4章12節)
 ここでは人々の頑なさが、ヘブライ語原典の「~ために」とあるように神から出たものではなく、むしろ人間の側にも責任があるという意味に近くなっています。特にイザヤの「癒される」が、ここでは「赦される」に変わっているのが注目されます。だから「~ようになるためである」〔新共同訳〕とある訳は、「赦されることがないからである」のように読むこともできます。マルコ福音書の引用は、イザヤの原典のように決定的な拒否と破滅を神の意図として告知するのではなく、人々は「見ても見えず、聞いても聞こえず、理解できない。彼らは立ち帰って赦されることもないのだから」のように、むしろ批判をこめた皮肉な言い方として受け取ることもできます(イザヤの原文もこのような解釈が可能だという説があります)。イエスのたとえを聞いている「外の人たち」の中にも、御国のたとえを悟る人たちが出てくる可能性があるのです。
 ちなみに、タルグム(アラム語訳旧約聖書)は、紀元前のクムランの時代以後に成立したものですが、このアラム語訳では、「それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できずにいたからである。彼らが、立ち帰って癒されることがないならば』」とあり、ここでは「~できずにいた」とあるように、民の状態がイザヤ預言よりも「以前のこと」になっています。また、「癒されることがないならば」とあるように、民の心がけ次第では癒される余地を残しています。マルコの場合もこのタルグムの解釈に近いでしょうか。
 次に来るマタイの用法も「~からである」と目的ではなく理由に受け取られていますから、マタイとタルグムは、どちらも同じで、この間にあって、マルコの接続詞が「~ために/~だから」とあるので、神の側からの目的なのか?人間の側からの原因/理由なのか?これが問題にされています。マタイ福音書は次のようです。
 
「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは、目で見ることなく、
耳で聞くことなく、
心で理解せず、
悔い改めない。
わたしは彼らをいやさない。」
    (マタイ福音書13章14~15節)
 マタイは、これに先立つ13章13節で、イエスの言葉として「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」とあって、ここでは、ヘブライ語原典とは異なり、「ためである」ではなく「<から>である」とあって、責任が神の意図ではなく、はっきり人間の責任に転移されています。マタイでは、特に「理解する」ことが大切で、この点でも、人間の側にその責任があります。マタイはさらにイザヤの引用を重ねていますが、そこでは、マルコにある「こうして、立ち帰って赦されることがないようになるためである」が抜けています。メシアの秘密を理解できない人間への皮肉をこめたマルコよりも、マタイはさらに一歩人間の側に責任を求めていると言えましょう。
 さらにここのイザヤからの引用は、使徒言行録28章(25~28節)にも次のようにあります。
 
 彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさないように。』だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。
 
 ここはパウロが、ローマのユダヤ人キリスト教徒たちに向けて語る締めくくりの言葉で、引用はほぼ七十人訳の通りです。これはイザヤの預言であると同時に聖霊が「今現在の」聞き手に対して語っています。しかも、その語りは厳しく、イザヤの原典に近いほどです。しかし彼らの頑迷が、予め定められた神の意図の成就であると同時に、聞く側の責任でもあることが、「それゆえに、このことを承知しておくがよい」と続く28節にあるので分かります。彼らがその責任を免れえないことを言い表わしているのです。イザヤ書6章9~10節は、このように、人々が預言者や伝道者の言葉を受け容れない場合に、その理由付けとして引用されることが多いようです。
[18]マタイ福音書の内容に合わせるとすれば、マルコ4章12節の後に同8章18節が続くことになります。4000人に食べ物を与える奇跡の後で、イエスが弟子たちに「ファリサイ派とヘロデのパン種に注意せよ」と警告します。弟子たちが、パンを持ってこなかったために咎められているのでは、と誤解したために、イエスに叱責されるのがこの18節です。この節にも、先の種蒔きの譬えにでてきたイザヤ書6章9~10節が短く引用されています(ただしエレミヤ書5章21節/エゼキエル書12章2節のほうがここの引用に近い)。18節は質問とも叱責とも受け取れますが、これに続くイエスの言葉から判断すると叱責に近いでしょう。ここでは、先の種蒔きの譬えとは違って、御国の秘密を知っているはずの十二弟子たちが叱責されているのです!「覚えていないのか」というのはこのことを指します。「聴くこと」と「観ること」だけでなく「覚えていること」が、イエスの言葉の霊的な意義を「悟る/認識する」ために大事であることが分かります。 
■マタイ13章
 マタイはマルコ福音書4章10~12節を踏まえて、これにマルコ福音書4章25節を加え、さらにイエス様語録(マタイ13章16~17節)を継ぎ足して全体を構成しています。
[10]【弟子たち】マルコ福音書では「12人」と「一緒にイエスの周りにいた人たち」ですが、マタイ福音書では「弟子たち」です。マタイは十二使徒のことを言う場合には、「12人」という紛らわしい言い方を避けて「十二弟子」と言います(マルコ6章7節とマタイ10章1節を比較)。彼はマルコ福音書にある「イエスの周りにいた人たち」を除いていますが、これも言い方が漠然としているからでしょう。
【あの人たち】マタイはマルコ福音書の「イエスが一人になられたとき」を除いていますから、ここで言う人たちとは、文面上はマタイ13章2節の岸辺にいる「大勢の群衆」のことになります。しかし、弟子たちが「近寄ってきた」は、船の中にいる状景とは思えません。また、これ以後も船のことはでてきません。マタイは、13章全体を「天の国」についてのイエスの一連の譬えで構成していますから、こで言う「あの人たち」とは十二弟子以外の人々のことでしょう。冒頭の1~2節の船の場面設定は事実上消えているのです。
[11]【秘密が打ち明けられる】マタイは、マルコとルカとは異なって、「神の国」の代わりに「天の国」を用います。マルコ福音書の「秘密」は単数ですが、マタイ福音書とルカ福音書の「秘密」は複数です。しかもどちらにも「<悟ることが>与えられている」(直訳)とあって、マルコ福音書にはない「悟ることが」が加えられています。マタイとルカは、御国の譬えを霊的な知恵と洞察によって「悟る」ように教えているのです。マルコ福音書のほうでは、譬えの意味が「その時に」示されることを指すのでしょうが、マタイ福音書とルカ福音書では、「神の国の秘密/奥義」は、時間をかけ経験によって学び知っていくことで初めて、その意味が深く理解できるようになると言うのです。ただしこのことは、人間として「賢い/知識の豊かな」人たちだけが悟る、という意味ではありませんから注意してください。そうではなく、ここで言う「悟る」は、どこまでの天の父なる神から恵みとして「与えられる」ことです。おそらくここは、イエスを通じて啓示される「神の国」の臨在が、現在すでに存在して働いていること、同時に、その「神の国」が終末的な意味で将来をも指し示していること(マタイ25章29節)、この両方を「悟る」ことでしょう〔ルツ『マタイ福音書』〕。
[12]この12節は、マルコ4章25節から採られたものです。ところが、これとほぼ同じ内容の言葉がイエス様語録にもあります。イエス様語録のほうは、マタイ25章29節=ルカ19章26節のほうに採り入れられています。したがって、ここと同じ言葉が、マタイ福音書とルカ福音書にそれぞれ重複していますから、共観福音書全体で5回でてきます。ただし、マタイ25章29節では、この言葉が終末での神と人との「決算」のことですから、言葉が置かれている文脈によって意味が変わります。この言葉は『トマス福音書』にもありますから、イエスにさかのぼるのは間違いなく、よほど大事な言葉として伝えられたのでしょう。言うまでもなく、ここで言われているのは「霊的なこと」についてです。しかし、「知識は知識に与えられ、無知は無知に加わる」という一般の格言や、イエスの当時の諺で「金持ちはますます金持ちに、貧乏人はますます貧乏に」というのがありますから、イエスはおそらく誰でも知っているこの諺を引用して、これを霊的な意味で用いたのです。
【人は更に】マルコ福音書は「~する人は」ですが、マタイ福音書では「~する人は<誰でも><さらに多く>」です。「さらに多く/豊かに与えられる」はマタイの挿入ですが、彼はこれをマルコ4章24節から採り入れているのかもしれません。マタイは、霊的な知恵を与えられる人(弟子たち)と霊的なことに無知な人との違いをはっきり対照させようとしています。
[13]この節もマルコ4章12節を踏まえていますが、マタイはかなり編集を加えています。「それだから」は付加でマタイがよく用いる言い方です。「彼らにはたとえを用いて話す」もマルコ福音書にありません。「話す」はむしろ「語る」と訳すほうがいいでしょう。この言葉もマタイがよく用いますが、特にこの13章には5回でてきます(3節/10節/13節/33節/34節)。
【見ても見ず】マルコ4章12節の引用はイザヤ書6章9節に近いですが、マタイ福音書のほうはエレミヤ5章21節「目があっても見えず、耳があっても聞こえない(民)」に近いようです。マルコ福音書の「見るには見るが観ることをしない」とマタイ福音書の「見ても見ず」では、マルコのヘブライ語独特の言い方をマタイは分かりやすくしています。
【理解できない】原語「シュニエーミ」は「認識する」ことで、客観的に見た物事を自分の心情と一致させてそのものを「理解する」ことです。この言葉はマルコ福音書にもでていますが、マルコは、イエスのメシア性を「秘密」として描いていますから、イエスの十字架の最期にいたるまで、人々は言うまでもなく弟子たちからもイエスのメシアの真の霊性が隠されています。マタイのほうは、少なくとも弟子たちには、イエスのメシアの秘密が認知されていたと言いたいのです。この点についてマタイ福音書は、イエス復活以前と以後との区別をはっきりさせていません。なおヨハネ福音書の場合は、地上でのイエスの栄光が弟子たちにはっきりと認識されています(ヨハネ2章11節)。
 なおマタイは、マルコ福音書の「『こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」を省略しています。マルコ福音書のところで説明したように、これは断罪を決定づけるとも受け取れますから、マタイはこれを避けているのです。マタイは、救いと滅びとが、神に対する人間の側の応答にかかっていることをはっきりさせています。
[14]~[15]ここはイザヤ書6章9~10節からの引用ですが、ヘブライ語原典からではなく、七十人訳のギリシア語訳ほとんどそのままです。このためか、14~15節は、ごく初期の段階でマタイ福音書に挿入されたのではないかと考えられます。こう判断するのは、次のような理由からです〔デイヴィス『マタイ福音書』〕。
(1)13章13節から直接16節へつなぐと、「持てる人」と「持たない人」との対照がはっきりして、内容的にうまくつながります。
(2)13節にすでにイザヤ書/エレミヤ書からの引用があり、しかもそれがヘブライ語的な語法を交えて縮小された形ででています。これに対して、類似の内容のギリシア語訳が七十人訳そのままの形で続くのは不自然です。
(3)この部分は使徒言行録28章26~27節にでてくるパウロのローマでの説教の結びとほとんど同じです。使徒言行録のこの部分が、そのままマタイ福音書の13章13節以下に挿入されたのかもしれません。
 この引用部分については、マルコ福音書4章12節の注釈を参照してください。
[16]~[17]ここはルカ10章23~24節と並行する箇所で、どちらもイエス様語録から出ています(イエス様語録の注釈参照)。ルカ福音書のほうがよりイエス様語録に近いとされています。
【あなたがた】マタイは、「あなたがた」で始めて、見えない人とは対照的に「見えるあなたがた」の幸いを強めています。
【目は見ているから】マタイ福音書には「(目が)見ている<から=接続詞>」 幸いだとあります"Blessed are your eyes, for they see."。ルカ福音書のほうは「見ているものを<見る目=関係代名詞>は」幸いだとなっています "Blessed are the eyes that see what they see."。
続く「あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」は、ルカ福音書には抜けています。おそらくマタイは、17節に合わせて「見ること」と「聴くこと」とを並列させて記述を整えたのでしょう。ユダヤ教では、メシアの到来を直接目で観ることができなかった義人や預言者たちは、その実現を「譬えを通して」観ることができたとされていました。マタイはおそらくこのユダヤ教の解釈を知っていたと思われます(ヘブライ11章13節/第一ペトロ1章10~12節参照)。
【正しい人たち】ルカ福音書では「王たち」となっていて、こちらのほうがイエス様語録からです。マタイは「義人たち」と言い換えています。「義人」はユダヤ教の伝統的な言い方で、マタイがしばしば用いる言葉です(マタイ5章6節/同10節)。ただしこの語は、ユダヤ教では「終末におけるメシアの到来を待ち望む人たち」という特別の意味合いを含んでいました。しかし、ここではイエスの言葉として用いられていて、「すでに到来している神の国」を観ることができる人たちのことです(ヨハネ8章56節)。なお17節冒頭の「アーメン」もマタイの編集です。
 以上をまとめると、マタイはマルコの記事を踏まえていて、神の国の「秘密/奥義」についてのイエスの言葉は、結果として民衆に理解されなかったと言おうとしています。それどころか、「結果として」ではなくて、民衆には理解できないこと、まさに「そのこと」を、マタイはイエスの口を通して言おうとしているという解釈さえあります〔ルツ『マタイ福音書』〕。しかし、民衆の理解に対するこのような否定的な解釈は誤りでしょう。
 なるほどマタイは、14節以下のイザヤ書からの挿入によって、「与えられる者」と「取り上げられる者」との差をマルコ福音書よりもいっそうはっきり際立たせているように見えます。「取り上げられる」者が理解できないのは、その「心が肥え太って鈍く」なったからであり、その「耳も聞こえにくく遠くなった」からであり、その目が「閉じられて」しまったからです。
 しかしマタイのイザヤ書からの引用は、さらにマタイ13章16節以下へと続いていて、そこでは再び、豊かに与えられる「幸いな人たち」が採りあげられます(「豊かに」とあるのはマタイだけです)。イエスの譬えは、確かに悟る人と悟らない人との間に境界線を引きます。ところが、その譬えは、その境界線を絶えず「拡大して」いくのです。聞こえない人たちを聞こえる人たちへと引き込むのです。マタイ13章17節の「アーメン」は、このことを指しています。「神の出来事」は、それ自体が「譬え」です。このようにして神は、歴史の始めから終わりまで、人類に語りかけ働きかけることを止めないのです(マタイ13章35節)。 
■ルカ8章
 ルカ福音書では、譬えを用いる理由が8章9~10節にまとめられています。もしもマタイ福音書の記事に合わせるのであれば、10節の前半と後半との間に18節後半が挟まり込むことになり、さらにその後に、ルカ10章23~24節が続くことになります。だからこれは、マルコ福音書の4章11節と12節の間に同25節が挟まるのと同じ形になります。ただし、マタイに合わせると言っても、マタイがほんらいの形だからではありません。マタイのほうがマルコを踏まえており、ルカの10章23~24節のほうがイエス様語録に近いのです。だからマタイは、マルコ福音書やイエス様語録を用いながら、これらを自分なりの文体や形式に編集し直して、全体を総合的に整えているのが分かります。わたしたちは、これら3人の特徴を比べながら、全体として、イエスが語ろうとしたことを読み取ろうとしているのです。
[9]~[10]ルカ福音書には、マルコ福音書と違って「船」もでてきませんし「一人になられたとき」もありません。だから「大勢の群衆」(8章4節)の中にいるときに弟子たちに語ったようにも受け取れますが、続くイエスの話の内容から判断すると、やはりイエスと弟子たちだけになったときのことでしょう。弟子たちが「<この>たとえの意味は?」と尋ねていますから、特に直前の種蒔きの譬えだけを指していることになります。なおルカ福音書の「秘密」はマタイと同様に複数です(マルコ4章11節の「秘密」を参照)。
【弟子たちは】ルカはマルコ福音書の「イエスの周りにいた人たち」を省いています。内容から判断すると、ルカはここで8章1~2節にでている十二弟子と彼らに付き添っている女性たちのことをも考えているのかもしれません。この人たちと「ほかの人たち」とが対照されていますが、「その他の人たち」とありますから、マルコの「外(そと)の人たち」のように「内」と「外」とをはっきり区別しているわけではありません。ルカはここで、教会の人たちと「他の人たち」との区別を考えているのかもしれません。
【見ても見えず】ルカはマルコ福音書のイザヤ書からの引用を短くまとめています。このために、マルコ福音書にあるイザヤ書の厳しさが薄らいでいます。ただし「~ために」とあるのはマルコと同じです(マルコ福音書4章12節を参照)。
[18]この8章18節は、種蒔きの譬えに続く灯火の譬えと共にでてきます。そこでは三つの譬えが語られています。(1)灯火を灯す者はこれを隠さない。(2)隠されたものは必ず明るみに出る。(3)持つ者には与えられ、持たない者からは取り去られる。ルカはこの18節で、マルコ4章25節とイエス様語録(ルカ19章26節)との両方を参照しています。原文の「<だから>どう聞くか」では、神の御言葉をどのように聴くのか?が問われています。ルカはマルコの「<何を>聴くか」(マルコ4章24節)ではなく「<どう>聴くか」、という点に注意をうながしているのです。御言葉はただ「聞いている」だけでなく、あるいは御言葉について/関していろいろな知識を学ぶだけでなく、御言葉を自分自身の生き方において「どのように」聴き取り、どのように実践し、どのように深めていくのか? これが問われているのです。
【持っていると思う】マルコの「持っているものまで取り上げられる」が、ルカでは「持っていると<思っている/思い込んでいる>ものまで取り上げられる」となっています。ルカの言う「持っている/いない」の意味が、外目に見えるものではなく、目には見えない霊的な価値観のことであるのが分かります。
 ほんらいは「金持ちはますます儲かり、貧乏人は持っている物まで取り上げられる」という世間の諺からでた言葉でしょう。言うまでもなく、イエスがこの諺を用いたのはお金のことではなく、集まる人々の数が増えればますます増えるという人の数のことでもなく、また「知識は知識を増すが、無知は無知を加える」という意味での知識のことでもありません。神の国の「神秘/奥義」を悟る人にはますます深くその意味が分かり、これを悟らない人からは、せっかく与えられた機会や知識までも意味を失うことを言おうとしているのです。これは霊的な知恵のことですから、人間の知能や知見のことではありません。
ルカ10章
[23]~[24]この10章23~24節は、神の国を伝えるために遣わされた72人が戻ってきたときに、イエスが聖霊の喜びに満たされて語った言葉の中にでてきます。派遣された72人の帰還を中心にして、その前には、しるしや奇跡に接してもイエスを心から受け容れない町々に向けられた厳しい叱責の言葉が語られています。これに対して、帰還の後には、神の国が、知者たちではなく幼子に啓示されることが、聖霊に満たされた喜びの中で語られるのです。だから、ここにも、イエスの言葉とその霊的な意味を「見る者と聞く者」と、そうでない者との対比がはっきりと表われています。10章21~24節は、「聖霊にある喜び」が語られているためか、イエスの言葉の真正性に疑問が持たれています。しかし、この言葉の真正性を否定する根拠は薄弱です。少なくとも、ここで語られている事それ自体はイエスにさかのぼると見ることができます〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』〕。
 23節前半「それからイエスは弟子たちのほうを振り向いて、密かに言った」はマルコには抜けていますから、これはルカの編集でしょう。またマタイ福音書にある「アーメン」がルカ福音書にはありません。「密かに」とあるのは、特別に秘義的なことを弟子たちに語るのではなく、彼らが、少なくともイエスの伝える神の国の霊的な臨在を悟って、これを「見ており」、その言葉を「聞いている」ことを言うのでしょう。かつての偉大な預言者たちでさえ見ること聴くことができなかった出来事が今臨在するのです〔マタイ13章16~17節の注釈を参照〕。
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