【注釈】
■マルコ4章
 譬えそのものの性格については、すでに説明しましたので控えます。今回は、種蒔きの譬えについてのイエスの「解き明かし」です。イエスが譬えを解き明かす場面がマルコ福音書には6回ほどあります(7章17~23節/8章16~21節/9章28~29節/10章10~12節/11章21~24節/13章3~37節)。中でも9章と11章では、今回同様、弟子たちだけに向けられています。しかし、共観福音書全体で見ると、解き明かしを<しない>場合も少なくありません。
 マルコ4章3~9節の譬えと同13~14節とを比べると、譬えのほうは種が蒔かれた「土地」のほうに注意が向けられているのに対して、13~14節では蒔かれた「種」に目を向けています。マルコ福音書では、違った土地に蒔かれた種はそれぞれ1粒ずつですが、解き明かしのほうでは、「道端のものとは、こういう人たちのことである」と複数です(マタイの譬えでは、逆に、土地に複数の種が蒔かれているのに、解き明かしは単数の「人」になっています)。また、譬えにも解き明かしにも「種を蒔く人」それ自体についての説明がありません。
 ここの解き明かしは、イエスにさかのぼるものではなく、後の教会による付加ではないかと見られてきました。それは次のような理由からです。
(1)イエスは寓意的な解釈を用いない。
(2)この解釈は終末的でない。
(3)「御言葉」など、用いられている語彙がイエスの復活信仰以後の教会のものである。
(4)「実を結ばない」「一時的」などは、セム語(ヘブライ語・アラム語)的な言葉にはない。
(5)譬えと解き明かしとが一致していない。
 しかしデイヴィスたちは、このような理由に対して次のように反論しています〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)397~98頁〕。
(1)については、イエスの譬えに寓意が含まれていないから、イエスが寓意的な解釈をする「はずがない」という判断それ自体が誤りです。ヘブライの「譬え」に含まれる広範囲な内容から見て、イエスが寓意的な比喩を語ることも決して不自然ではありません。イエスの出来事や言葉が真正かどうかを問う場合に、ある前提に立って「はずがない」と推論することには注意を要します。
(2)解釈が現在のことを述べているのだから終末的で「ない」という判断は、「未来」と「終末」とを区別しないところに生じる根本的な誤解です。「すでに」と「まだ」の両方を含むイエスの終末観を現在か未来かで判断することはできません。
(3)と(4)の理由は考慮に値します。このことは、ここで語られる解き明かしが、そのままで、イエスの真正な言葉では<ない>ことを示すからです。しかしこのことが、解き明かしそれ自体が、イエスにさかのぼるものでないと判断する根拠にはならないことにも注意してください。
(5)すでに説明したように、ヘブライの譬えは、その場の出来事全体を含む「問いかけ」です。だから、種を蒔く人も土地も蒔かれる種も、すべてが相互に関連し合って「譬え」に含まれています。特定の視点や比喩の論理を適用するのは、このようなヘブライ的な比喩解釈の場合には適切でありません。
 イエスの譬えは、多様な解釈を呼び込む潜在性を秘めています。復活以後の教会の状況にうまく適合するから、この解き明かしは後の教会による創作に「違いない」、だから、イエスにさかのぼる「はずがない」という推論は、イエスの譬えが、何時の時代でも、それに対応して様々な解釈に「適合」する潜在性を秘めていることを理解しないところから来る早まった結論です。それなら、後の教会の状況に適合して「いない」場合には、イエスにさかのぼると判断する根拠になるのか? と言いたくもなります。
[13]直前で「神の国の秘密」が与えられている弟子たちに向かって、この13節のイエスの問いかけはつじつまが合わないように思われます。これは10~12節を挟んだマルコ流のサンドイッチ方式から生じる結果ですが、このままで理解すると、「神の国の秘密」はイエスに従う者たちには密かに「打ち明けられる」ものですが、それは、聴いてすぐに悟るものではないようです。御国の奥義は、時間をかけて悟りを深めていく性質のものなのです。
【ほかのたとえ】原文は「すべての譬え」(複数)です。この種蒔きの譬えを悟ることが、外のすべての譬えを悟るための鍵であることを示すのでしょう。
[14]【神の言葉】原語は「御言葉」で、定冠詞付きの単数です("the word")。ここからは、種だけでなく蒔かれた土地のほうにも視点が移ります。蒔かれる「御言葉」は単数で、受ける「人たち」は複数です。「種」である御言葉はイエス自身が語ったものですが、「御言葉」にはイエスの行なった業も含まれます(マルコ2章2節以下を参照)。この「御言葉」は、十二弟子へ受け継がれますが、それ以後も教会に引き継がれて、マルコの時代には「御言葉」は「福音」と同じ意味で用いられていました(マルコ1章1節)。イエスは、御言葉を語るために「いろいろな」譬えを用いました(4章2節)。このために人々の間に様々な反応が生じ、解き明かしは、この「様々な反応」について語られているのです。
[15]【道端のもの】「もの」は原語では複数「ものたち」です。「人たち」の原語も「ものたち」です。だから直訳すると「道端のものたちとは、こういうものたちである」となります("These are the ones on the path")。先の譬えの中では、道端に蒔かれた種は単数の「一粒」でした。ここ15節は複数ですから、これは種のことではなく「ものたち」は人間のことです。人間の状態を種が蒔かれた「土地」に譬えていることになります。
【御言葉】この原語は単数です("the word")。直前に「神の言葉」は「種」だとありますから、これは種のことです。だとすれば、「そこに(蒔かれ)」とあるのは、道端のことで、これは複数の人たちのことですから、一粒の種が複数の人たちを表わす「道端の土地」に蒔かれることになります。英訳では、"These are the ones on the path where the seed is sown."[NRSV] /"With some the seed falls along the footpath."[REB] となっています。このように一つの種が複数の人たちと組み合わされていて、しかも、「種」は御言葉のことであり、蒔かれる「土地」は人たちのことですから、単数と複数、種と土地、これらが混じり合って、譬えの内容が論理的に不自然になっています。しかし、厳密に考えないで、その場の状景を思い浮かべながら読めば、内容が自然に分かります。これがヘブライの譬えの特徴で、西欧的な論理性を持つ比喩構造とは異なります。
【サタンが来て】御言葉を聞いているその最中にも、サタンが鳥のように飛んで来て、せっかく蒔かれた〔完了形受動分詞〕種を食べてしまうのです。「サタン」は、イエスの時代には悪霊どもの頭とされていましたが、マタイはこれを「悪いもの」と言い、ルカは「悪魔」と言い換えています。「彼らに」とあるのは、その人たちの「心の中に」という意味ですから、御言葉を聞いて心を動かされた人、感銘を受けた人たちのことです。この譬えは、せっかく御言葉を聞いて心動かされても、これを実行しない人たちのことだという解釈があります(エゼキエル書33章30~32節参照)。しかし、実行する前に、先ず御言葉を謙虚に「聴く/耳を傾ける」必要があります。自分は利口だとうぬぼれている人は、自己流の勝手な思いこみの鳥に御言葉を聞く端からその種を食べられてしまうのです。サタンが悪いのか、聞く人たちが悪いのか、あるいは蒔いた者が悪いのか? 譬えの中では、この疑問は残されたままです。「蒔いたものが悪い」、こう判断するなら、それこそ人間の高慢につけいるサタンの罠にかかったことになりましょう(第一テサロニケ3章5節/第二コリント11章3節参照)。なお、「悪魔は特に入信したばかりの者をねらう」というキリスト教会の言い伝えがあります。
[16]~[17]先に出て来た譬えのほうでは、重点が石地と芽を枯らす太陽の熱さのほうに置かれていましたが、この16~17節では、種のほうに目が向けられています。
【喜んで受け入れる】これは御言葉を聞いて心が喜びに満たされる体験のことで、譬えの「すぐに芽を出す」にあたります。この点で、直ちに鳥に食べられる場合とは異なっています。
【根がない】これを「しばらくは」と言い換えていますから、せっかくの喜びも一時的で、与えられた喜びを忘れてしまうことです。この点が次の茨の中の場合と異なるところです。「自分の中に」とあるのは、御言葉を受け容れる人の心がけが大事であること、したがって、種の生長の責任は蒔かれた人にあることを言うのでしょう。
【艱難や迫害】原語はどちらも単数です。マルコ2~3章で見たように、イエスの時代でも、これに続く初代教会の時代でも、神の国運動に対する公式あるいは非公式の反対や弾圧が常につきまとっていました(マルコ10章29~30節)。ここには、イエスの伝道活動から教会の初期の時代までの体験が反映しています。
【つまずく】原語の元の意味は「罠にかかる」ことです。「つまずき」それ自体についてはマルコ9章42~48節を、また弟子たちのつまずきについては同14章27節を参照してください。
[18]~[19]この譬えでも、「人たち」と「種」とが重なり合っています。文の構造から見れば、「茨の中に蒔かれる」のは「ほかの人たち」ですが、蒔かれるのは種のほうで、「ほかの人たち」のほうは「茨」(複数)になります。しかしこのような比喩の論理にこだわらずに読むなら、譬えの意図は聞いている人にそのままでも伝わります。
【思い煩い】「心配事」のことです(マタイ6章25~34節を参照)。「この世の」は「この時代」とも訳すことができますが、「来るべき」神の国と神に逆らう現在の「世の中」とを対照させているのです。御国は「すでに」始まっていますが「まだ」成就していませんから、御国を求め続けることがイエスに従う者たちの道です。
【誘惑】原語は「人の目を騙す/欺く」ことで、この言葉は、ヘレニズム時代に目や官能を通じてくる「快楽」を意味しました。「富の誘惑」についてはマルコ10章17~22節を参照。「富」には、金銭や物質だけでなく、人を誇らせる知識や権力や名誉も含まれます(第一コリント3章1節)。
【欲望】原義は「むさぼり/貪欲」「性的な情欲」のことです。「入り込む」とあるのは御国を求めようとする心の前に立ちはだかって邪魔することです。「いろいろな」とあるように、これら三つの言葉をある特定のことだけに当てはめて定義するのはかえって誤解を招きます。ちなみにクムラン宗団の『ダマスコ文書』(4章15節)には、「ベリアルの三つの罠/網」として「第一に姦淫、第二に富、第三に聖所を汚すこと」があげられています。
[20]【受け入れる】ここでも「人たち」は土地のことです。原語の意味は「受け容れて快く迎える」「承認して採用する」ことです。御言葉(単数)を「聞き入れる」→「受け容れて実行する」→「実を結ぶ」とつながります。道端と石地と茨の中に譬えられている人たちは、どの場合も「聞いて」がアオリスト形で、一時的な過去の状態を表わしますが、最後の良い土地にあたる人たちだけが「聞いている」と現在形になっていて、御言葉をどこまでも持続して保ち続けることを表わしています。
[23]マタイ福音書と倍数の順序が逆になっている点については、マルコ福音書4章8節の注釈を参照してください。
 
■マタイ13章
[18]原文では「あなたがた」が強調されていまて、直前のマタイ13章16~17節で、イエスの弟子たちに与えられている祝福を受けているのです。したがってマタイは、マルコの「このたとえが分からないのか」を省いています。マタイ福音書の弟子たちは、譬えを理解するだけの霊的な祝福を受けているからです。だから、「たとえを聞きなさい」とあるのも、語られた譬えの「意味が分かる」からで、この点で、マルコ福音書とは異なります。「こういう人である」が、マルコ福音書では譬えの始めに来ていますが、マタイ福音書では、解き明かしの最後に置かれているの注意してください。
[19]マルコは「彼(イエス)は言われた」で始めていますが、マタイは、いきなり「あなたがたは聞きなさい」と命令形で始めます。マタイにとって、種を蒔くイエスは「人の子」の権威を帯びているようです(13章37節参照)。イスラエルの民が、人の子イエスの譬えの言葉を悟ることが大事だからでしょう。ここにでてくる「だれでも」「悪い者」「奪い取る」などは、マタイ独特の言い方です。
【だれでも】「誰でも」は単数で、マタイ福音書では、譬えを聞いても「悟らない人」のことです(マルコ福音書では複数)。、マタイはどこまでも一人一人の心の中に蒔かれた御言葉が、それぞれにたどる過程を念頭に置います。
【悪い者】マルコ福音書の「サタン」です。サタンが「悪い鳥」だとありますが、「鳥」を「悪い者/サタン/アザゼル/マステマ」などと同一視するのは『ヨベル書』11章やその他にもでてきます(マルコ4章4節の注釈参照)。
【心の中に】マルコ福音書では「彼らに」ですが、マタイ福音書では「彼の心の中に」です。
【奪い取る】マルコ福音書では「取り去る」("pick up")ですが、マタイ福音書はそれよりも強い意味で「奪い取る」です。しかし「心の中に」とありますから、これは聞いた人自身の「心がけ次第」であり、「奪われる」責任はその人にあることを指摘しています。
【御国の言葉】イエス以前のユダヤ教には見られない言い方で、最初期の教会で用いられた用語で、「神の国」に関する教え全体を指しています。「御言葉」はどれも単数ですが、マルコ福音書では「御言葉」であり、マタイ福音書では「御国の御言葉」であり、ルカ福音書では「神の御言葉」です。
[20]~[21]マタイはマルコの「者たち」(複数)を単数に変えていますが、そのほかはほぼマルコ福音書を踏襲しています。ただし、マルコ福音書では、「石地に蒔かれたとは次のような人たちである」とあって、人たちは蒔かれた石地に譬えられていますが、マタイ福音書では、「石地に蒔かれたとは、御言葉を聞いてこれを喜んで受け容れる人である」とあって、その人は蒔かれた御言葉に譬えられています。ただし、マタイはマルコの譬えの曖昧さを意識的に訂正しようとしているのではありません。譬えに含まれる「種」と「土地」との二重性はどちらの場合も同じです。
【根がない】詩編1篇3節に「流れのほとりに植えられた木」の譬えがあります。これは賢者は神の言葉を深く心に刻み、そこに「根を張る」というユダヤ教の思想を言い表わすもので、マタイはここで、このような知恵思想を反映させているのかもしれません〔ルツ『マタイ福音書』〕。
【つまずく】マタイ24章10節には、終末の艱難の時に多くの人たちが「つまずく」とあります。今回の箇所は、直接終末に関連していませんが、マタイは教会の終末の時をも念頭に置いているのかもしれません。マタイたちの教会が、シリアのアンティオキア(あるいはその近辺)にあったとすれば、60年代のユダヤ戦争以降、この地方でもユダヤ人に対する反感が強まり、同時にキリスト教会に対する迫害とこれに伴う艱難が増し加わったと考えられます。アンティオキアの街から離れた岩山に掘られているペトロの聖堂には、いざというときに逃れる抜け道が祭壇の近くにあって、当時の迫害の跡を偲ばせるものです。
[22]ここはマタイ6章19~32節を参照してください。マタイはマルコの「その他いろいろな欲望」を省いています。
【実らない】これの原義は「人を欺く/快楽」で、この言葉は新約の書簡に5回ほどでてきます(第二テサロニケ2章10節/コロサイ2章8節/エフェソ4章22節/ヘブライ3章13節/第二ペトロ2章13節)。したがって、これは初期のキリスト教の用語ではないかと思われます。ただし、富が人の心を「欺く」ことは箴言11章28節/23章4~5節にもでていて、ユダヤ教の知恵思想に深く入り込んでいますから、ここ22節の「欺く」がイエス自身にさかのぼることを否定するものではありません。
[23]マタイはマルコと異なり、全体を単数で一貫させていますから、御言葉を聞いて、これをどう「理解する」のか、またその悟りに基づいて、与えられた能力と状況の中にあって、個々の人間がそれぞれに多様な実を結ぶことを考えています〔フランス『マタイ福音書』〕。「理解する/悟る」というのがマタイの特徴ですから、人が御言葉をどこまで深く理解して、霊的に成長し、これを「実行して実をもたらすか」ということが大事であり、実がどれほど大きいかは問題ではないのです〔ルツ『マタイ福音書』〕。語られているのは、一人一人の多様な実りのことであって、天における神の報酬が多様だという意味ではありません。
 
■ルカ8章
 すでにマルコ福音書とマタイ福音書で見てきたように、イエスの譬えはヘブライ的で、ヘレニズム的な比喩とは性格が異なっています。この点を考慮して、ルカは、イエスの譬えを「神の御言葉」の比喩として解釈します。ルカは、8章5~8節で語られる譬えときちんと対応させて解釈しています。したがって、ルカの解釈には、種を蒔く人としてのイエスの姿は見えません。また、ほんらいこの譬えに含まれていたであろうイエスの終末的な御国の到来も薄らいで、ヘレニズム的な環境における教会に向けた「神の御言葉」の働きに焦点が当てられています。
[11]【こうである】原文は「譬えはこのようである」です。「このよう」とは、8章9節で弟子たちが「その譬えは<どのような>意味ですか?」と尋ねたのに対応しています。「(譬えは)<である>」"The parable is this."[NRSV]とは、譬えを解き明かすときに用いる言い方で、その譬え/夢/幻などが、どういうことを<意味する>のかを説明する場合に用います。「種」は単数で、それが「神の御言葉」であることをはっきりさせています。「言葉」を「種」に譬えるのは、ヘブライだけでなく広くオリエントやヘレニズム世界でも見ることができます。日本語の「徒(あだ)し言葉」も「あてにならない」言葉のことで、これはほんらい「実のない」言葉/種のことです。なおルカはマルコの「御言葉」を「<神の>御言葉」と言い換えています。
[12]【聞くが】原文は「聞いた人たちのこと」(複数)ですから、ルカも単数の種と複数の人たちとを組み合わせています。11節では譬えが「神の御言葉」だとあるのに、12節で突然その譬えが、種から「道端」に移り「聞く人たちの心」になるのは不自然ですが、これはマルコ福音書の影響でしょう。
【悪魔】ルカ福音書と使徒言行録を合わせると、「サタン」が7回、「悪魔」も7回で、ほぼ同数でてきますから、セム的(ヘブライ的)な言い方とヘレニズム的な言い方との両方が用いられています。「サタン」はイエスの言葉の中にでてきます。ルカはイエスの言葉を変更せずに用いています。ただし、1回はペトロの言葉として(使徒言行録5章3節)、もう1回は、ユダとの関係ででてきます(ルカ22章3節)。イエスとサタン/悪魔との関係では、悪魔は、イエスの受洗の後で、誘惑によってイエスを試みます。しかしイエスはこれに勝って、悪魔はいったんイエスを離れます(ルカ4章13節)。しかし、イエスの受難の直前にサタンがユダに入ります(同22章3節)。したがって、イエスの伝道活動の間、サタン/悪魔はイエスに近づくことができず、逆に「追い出され」てしまうのです。しかし、教会の時代に入ってからは、悪魔は、この世の権力や支配者たちと結びついて(ルカ4章6節)、キリストにある教会とその個人を試みるのです(使徒言行録13章6節)。
【その心から】これはマルコ福音書系の資料と異なる資料/伝承から出ています。この資料/伝承は、マタイ福音書とルカ福音書とが共通する源から出ているのかもしれません。
【信じて救われることのないように】これはルカの付加で、悪魔の働きの「目的」を分かりやすく説明しています。逆に「御言葉を信じる」ことこそ、悪魔に勝つ道です。
[13]【根がない】先にでてきたルカの譬えでは、「根がない」の代わりに「水気がない」となっていますが、この13節では、マルコ福音書に従って「根がない」としています。ルカは、譬えの解釈のほうではよりマルコに近いのでしょうか。
【信じても】ルカは、「根がない」ことを説明して「(一時は)信じているけれども」と付加しています。
【試練】原語は「誘惑/試み」です。マルコ福音書の「艱難や迫害」には終末的な響きがありますが、ルカはこれを「試練/誘惑の時に」と言い換えることで、キリスト者がこの世に置かれている状態を想い描いています。「この世」での誘惑や試みにあって、自分の信仰を裏切り、せっかく「信じていた」御言葉から「身を引く」「遠ざかる」「離れて立つ」(原語の意味)のです。マルコの「躓く」よりも意味がやや緩和されています。
[14]「実が熟するまでに至らない」はルカだけの付加です。
【茨の中に落ちた】譬えのほうでルカは、マルコと異なり複数形の「茨」を用いていましたが、この14節ではマルコ同様に単数形です。マルコ福音書とマタイ福音書では「蒔かれた」ですが、ルカ福音書では「落ちた」です。
【快楽に】マルコ福音書では「様々な欲望」ですが、ルカ福音書では「人生の快楽/享楽」です。ヘレニズム世界では、人間の「欲望」それ自体は必ずしも悪いと考えられていませんでした。このためルカは「快楽/享楽」と言い換えたのです。「覆い塞がれる」とあるのは「(煩いや富によって)<歩み>が邪魔される/遮(さえぎ)られる」ことですから("but as they go on their way"[NRSV])、新共同訳では「途中で」を入れているのでしょう。これは「気晴らし」や適度の「楽しみ」を否定しているのではありません。主の御霊に留まり続ける者は、常に新たな挑戦へ向かうよう導かて、これが実を結ぶ結果になるのですが、気晴らしや楽しみは、そのような導きの合間に挿入されることによって、神から与えられる喜びとなり活力になります。
【実が熟する】ルカの原語は、マルコやマタイと異なり「最期まで達成する/成熟にいたる」ことです。マルコは、実を結ぶ「結果」のほうに注目していますが、ルカは、むしろ結実へいたるまでの「歩みの過程」のほうに目を向けているのです。次の15節で「堪え忍んで実を結ぶ」とあるのもこのことを指しています。第一の場合は御言葉が「直ちに」取り去られ、第二の場合は御言葉が「突然」取り去られ、第三の場合は御言葉が「徐々に」命を失うのです。
[15]【立派な善い心で】ルカだけの挿入です。「立派」も「善い」もパウロと同様に、ユダヤ人だけでなくヘレニズム世界の人たちにも理解される模範的な心のことです。
【よく守り、忍耐して】「守る」は受け身でなく「しっかりと握って手放さない」ことです。「忍耐」も我慢することではなく積極的に「堪え忍ぶ/動かない」"steadfast"ことです。ルカは、この文の主語を「だれであれ」で始めていますから、それぞれがそれぞれの在り方において人格として個性的に自分なりの御言葉の実を結ぶことを想い描いているのです。なお「百倍」とあるのは「思いがけない大きな収穫」を意味するのでしょう。
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