【注釈】
 この譬えはマルコ福音書だけにでてきます。マルコ福音書では、一連の種蒔きの譬えの後で、「灯火」と「生長する種」と「からし種」の譬えが続きますが、いずれも伝えられた伝承にマルコが手を加えたものでしょう。弟子たちにはこれらの譬えの解き明かしが与えられたと思われますが(4章34節)、読者には「隠されて」います。しかし、すでに先の譬えで、神の国の奥義が「隠されている」ことが告げられていますから、「秘められている」もの(同22節)、「気がつかない出来事」(同27節)、「小さな種」(同31節)が、実はそこにとてつもない大きな神様の力が潜んでいること、これがやがて分かるようになるのです。この譬えも、主語が「蒔く人」→「種」→「土地」→「実」へと変わるので、論理的に見ると不自然なところがあります。しかし、すでに先の譬えで説明したように、その場の状景全体が譬えを形成しているのがヘブライの譬えの特徴です。
[26]~[27]26節の「種を蒔く」だけがアオリスト形(過去形)で、これに「寝起きする」「発芽する」などの現在形が続き、27節で「地はひとりでに実をもたらす」とありますから、一度種を蒔いてしまえば後はなんにもしなくても収穫が得られるかのような印象を与えます。しかし実際の農夫の仕事は、こういうわけにはいきません。だから、「神の国」とは、最初に人が蒔いておけば、後は自然に大きくなるのだから、人はただ「夜昼寝起きしていればよく」、最期に終末の刈り入れをするだけだと解釈するのは皮相的でしょう。
[28]種が着実に、しかも徐々に生長していく様をあらわしています。この地上には、人の力や思いの及ばない力が働いているのです。
[29]ここで「実が熟す」とある原語は「実が<許す>」という言い方で、これは「実が刈り入れのできる時期になると」という意味です。このような言い方はアラム語からの翻訳ギリシア語です。続く「鎌を入れる」も、主語が「実」だと意味がつながりません。この譬えはほんらいアラム語で語られたと思われますから、イエスにさかのぼるものでしょう。なお、ここには七十人訳のヨエル書4章13節「鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した。/来て踏みつぶせ/酒ふねは満ち、絞り場はあふれる。彼らの悪は大きい」が反映していると言われています。ヨエルのこの言葉は、ヤハウェの到来の日に下る諸国民への裁きと断罪を預言するものです。旧約では、このように異邦の諸民族/悪人たちへの滅びを指す預言ですが、新約では、諸国民へ広がる「成長する神の国」の譬えへと大きく変容しています。「神の国」の譬えは、イエスによるものでしょうが、この大きな変容は、イエス自身がヨエルの預言を知っていて、これを変容させものではなく、おそらくイエス以前に、すでにある程度の変容が生じていたのでしょう。
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