95章 毒麦のたとえ
マタイ13章24〜30節/同36〜43節
【聖句】
マタイ13章
24イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
 
36それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
37イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、
38畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
39毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
40だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
41人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、
42燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
43そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
 
〔参考〕『トマス福音書』(57
イエスが言った、「父の国は、(良い)種を持っている人のようなものである。彼の敵が夜来て、良い種の中に毒麦をまいた。その人は彼ら(僕たち)に毒麦を引き抜かせなかった。彼は彼らに言った、『お前たちが毒麦を引き抜きに行って、それと一緒に麦を引き抜かないように。なぜなら、収穫の日に毒麦が現われ出るであろうから。それらは引き抜かれ、焼き尽くされるであろうと』」〔荒井献訳〕
 
                       【注釈】 
 
【講話】
■似ていること
 似ているというのは怖いことです。ガン細胞は健康な細胞とそっくりです。偽札とほんものの札を見分けるのは難しいです。圧制者や暴君は、始めは慈悲深い為政者の姿をまといます。野心家も謙虚な衣をまとって登場します。人を傷つけ幸せを奪う「愛」があり、人を救う愛があります。これらの例で共通するのは、似ていることは「同じ」ではなく、ちょうど正反対の性質を持っている場合があることです。これが「偽りと真理を見分ける」という大事な問題を呼び起こすのです。
 ジョン・ミルトンというイギリスの詩人が「善と悪とは双子のように似て生まれてくる」と言っています。人の心には、善と悪とが絡み合って宿っていて、見分けることができないからです。人が何か「良いこと」をしようとする時には、それに反対する思いが必ず湧いてくるのはこのためです。はたしてそれがほんとうに「良い」のか? 自分にとって益となるのか? 疑問が生じてくるのはこのためです。何が正しくて、何が正しくないのか? 何が善で、何が悪なのか? 何が自分と人を益するのか? あるいは害するのか? これを見分けるのは必ずしも容易ではありません。特に、将来のことについて考える場合には、その真偽が判断できないからです。信仰者にとって最大の試練は、困難や苦しみではなく、何が正しくて何が間違っているのかが分からなくなることだ。こう言ったのは、確かキェルケゴールだったと思います。
■偽る者
 毒麦の譬えは、人の子(イエス様)に敵対する悪魔もまた、人の子の真似をして「種を蒔く」ことを教えくれます。「学ぶ」ことは「真似る」ことから始まると言われますが、相手を倒して殺すために「真似る」場合と、相手を尊敬して師と仰ぐために「真似る」場合とがあります。「真似」にもほんものと偽物と、ふたとおりがあるようです。
 イエス様は、毒麦を抜いてはいけない。良い麦も毒麦も両方ともそのまま育つまで待ちなさいと言われました。なぜでしょうか? それはどちらも「成長する」からです。だからこれには「時間」がかかるのです。いい麦も毒麦も、どちらもそのままではいないのです。時と共に変わるのです。だから、物事を見た目で判断してはいけません。わたしたちは、ともすれば「これは毒麦だ」と判断して、それを抜こうとする傾向があるからです。イエス様がこう言われるのは、毒麦を抜こうとすれば、ほんものまで抜いてしまう危険があるからです。もしもイエス様の言われることがほんとうなら、本物と偽物、毒麦と真の麦とは、容易に見分けがつかないはずです。だとすれば、人が誰かを非難して、「偽善者だ」「悪霊だ」「異端だ」と言うのは危険です。イエス様が言われることから判断すれば、この場合わたしたちは、非難される人よりも、非難する人のほうに目を向けなければならないでしょう。ほんとうに危険なのは「その人」のほうだからです。
 泥棒が、自分が泥棒であることを隠す最もいい方法は、誰か別の人を泥棒呼ばわりすることです。そうすれば、人は名指しされている人のほうに目を向けて、まさか告発する本人のほうが泥棒だとはだれも思わないからです。嘘をつく時には、小さな嘘ではいけない。大きな嘘をつけば人は信じる。こう言ったのは確かヒットラーです。「正反対」のことを言えば、人は案外信じるのです。だからこの論法を用いるなら、人が誰かを悪霊呼ばわりしたり、異端だと決めつける場合には、悪霊呼ばわりするその人のほうこそが、<ほんとうは>悪霊であり、異端者ではないか? こう疑ってみる必要があります。人が人のことを暴こうとする時には、<それとは気づかずに>自分のことを暴くからです。毒麦だから抜こうと主張する者は、内心では、ほんものの麦を抜いてやろうと企んでいるのかもしれないのです。
■悪魔の仕業
 癒しの奇跡についても同じことが言えます。神のお働きによって癒しが起こるのはほんとうです。人間の体には、健康を取り戻そうする働きが、体そのものに具わっていることを医学はよく知っています。医学は、人間の体に潜むこの不思議な働きと「共に働く」ことによって、回復する力を助長し、健康を妨げようとする力と闘うのです。人の体は神がお造りになったのものですから、医学は<神と共に>働いているのです。だから、神のお働きによって病の癒しが起こるのは不自然でもなければ不可能でもないのです。
 しかしながら、治っていないのに治ったと偽り、起こっていないのに癒しが起こったと偽る人たちいたとすれば、どういう事が起きるでしょうか? ほんとうに神癒の事実があったのか、なかったのか、これを見分けるのは必ずしも容易でありません。悪賢い悪魔は、この点を利用することを忘れないでしょう。その昔、誰かに復讐しようとする人は、わざと相手の畑に毒麦をこっそりと蒔いたそうです。悪魔は、このように、ほんものの麦の間に偽りの毒麦を混ぜるのです。こうすることで、ほんものまでが、偽物ではないかと疑われるように仕向けるのです。偽札がばらまかれると、ほんものまでが疑われますから、戦時中には、敵国に偽札を大量にばらまいて、敵国の経済を混乱させる作戦がありました。
 このように、「敵」は、わざと偽物を混ぜておいて、後でそれが偽物であることを暴露すれば、その偽物だけでなく、ほんとうの癒やしまでも全部が疑われるのです。これを見て癒しを否定する人たちは、「それ見たことか」と喜び、癒しを信じた人たちは二度と癒しを信じなくなるのです。これによって、癒しを否定して喜ぶ者たちは、ほんものがあることに気づくことがなくなり、信じた人たちは、本物も偽物だと思い込んで、両方共にまんまと騙されるのです。悪魔は「偽り者」であり「人殺し」だからです(ヨハネ8章44節)。「偽物があるのなら、ほんものもあるはずだ。」フランスの哲学者で物理学者でもあり、神の奇跡を信じたパスカルはこう考えました。しかし、人は通常パスカルのようには考えないのです。
■真理と真相
 聖書は真理について語っていますが、この「真理」は、わたしには、「信仰」という言葉と同じほどに深い意味を持っています。なぜなら「信じる」とは「真理」を信じることであって、真理でないものを信じては<いけない>からです。うっかりするとわたしたちは「偽り」を信じこむことになりかねません。しかし「真理」という言葉は、なにも聖書だけに限定されているわけではありません。この言葉は広く一般に用いられているからです。聖書で「真理」と訳してある言葉は、旧約では「エメッツ」、ギリシア語では「アレーテイア」です。
(1)旧約聖書では、「真理」という言葉は、ごく大ざっぱに言うと、「信頼できる」「裏切らない」という意味です。神が「真理」であるとは、神は裏切らない、信頼できる、嘘をつかない。だから、神が言われたのなら、その言葉は必ずそのとおりに成就する。こういう意味です。この場合、「真理」は「真実」あるいは「誠実」に近い意味になります。
(2)「真理」のもう一つの意味は、現代科学で言う「真理」です。これは「論理的に正しいこと」を意味します。ある自然現象を説明する場合に、一つの理論を立てる。その理論にしたがって、実際に実験をすると、そのとおりのことが立証される。そこで、その理論は「真理」だと見なされるのです。これは論理的な推論によって証明された真理です。現在では「真理」という言葉は、ほとんどこの意味で用いられています。
(3)ところがもう一つの「真理」があります。それは、文学や芸術で言う「真理」です。例えば詩人が、その詩によって「真理を語る」と言う場合です。この場合は「理論的に正しい」という意味ではありません。また「信頼できる」とか「真実」の意味とも異なります。文学の場合の「真理」とは「本質を見抜く」ことです。物事や現象は表面的に見ていては、なかなかその本質が分からない。ところが詩人は、そういう事物や出来事や現象の奥に潜んでいる「真理」を見抜く。こういう「真理」の使い方です。物事の「真理」はなかなか見えてきません。始めは、表面的なところから始まって、だんだんとほんとうのことが見えてくるからです。このような真理は、必ずしも「理論」によって到達できるとは限りません。理論的な思考も入るけれども、それ以上に大切なのは「直観」です。ある種の霊感、ひらめきで物事の「真理」を見抜くことです。ですから、この真理は「真相」と言い替えてもいいでしょう。このような真理に到達するためには「想像力」が重要になります。しかしながら、人間の想像力はしばしば当てにならないことも多いのです。自分かってに「想像して」物事をでっちあげる。こういうことがよくあります。これは「幻想」であり「空想」です。幻想はほんとうの意味の「想像力」とは違います。すぐれた詩人の想像力とは、このような気ままな「空想」ではなく、深く「真相」を見抜くのです。
 そうは言うものの「空想」と「想像」との区別は難しいです。わたしたちはいっぺんに物事の真相に到達することができません。始めは、物事の表面だけを見る。そこからだんだんと真相へと近づくわけです。時間をかけてゆっくりと見ていくうちに、物事の真相が「見えてくる」のです。皮を剥ぐように少しづつ「真理・真相」が姿を現わすのです。ここで注意しなければならないのは、その真相に至るまでの過程で、未だ事の真相に到達していないからといって、すべてが「偽り」だとは限らないことです。皆さんは、真理の反対は偽りだ思うかもしれない。しかし、こういう「真相」の場合はそうではありません。なるほどわたしたちに「見えている」ものは究極の真相ではないかもしれません。しかし、その偽りとも思える映像でも、真相に到達するための大切な一歩となる場合があるのです。だから、それは必ずしも全面的に「偽り」だとは言いきれません。もしもこれを「偽り」「間違い」だと言うのであれば、この場合の「偽り」とは、真理に到達するためにはどうしても通らなければならない「偽り」であることになります。
■ほんものを抜く誤り
 例えば、ある人がイエス様にお祈りしたら病気が直った。あるいはお金が与えられた。ところが、病気が直るとかお金が与えられて喜ぶのは、正しい信仰とは言えない。それはご利益宗教だ。だからそのような信仰は<間違っている>。こう言われたら皆さんはどう考えますか? お金が与えられることを願って信仰するのは、確かに間違っているかもしれません。しかし、そういう具体的な体験を通じて、生きた信仰を体得する。イエス様が自分を愛しておられることを実感するならば、それはさらに高い信仰へと到達するための一つの階段なのです。その人と一緒にそのことを喜んで、さらに深くイエス様を求めるようにその人に語るほうがいいのです。これは一つの例ですが、同じ体験に対しても、「真理」をどう考えるかによって、このように全く反対の評価を下すことが実際にあります。こういう場合、わたしたちはうっかりして、毒麦を抜くつもりでほんものまで抜いてしまう危険があります。だから、「偽り」と思えるものもある程度の「真理」を含んでいることがあるのです。
■真理/真相を探り求める
 先に旧約聖書では、「真理」は「真実」の意味に近いと言いました。しかし、今述べた「真相」も、聖書の「真理」に含まれる場合がでてきます。コヘレトの言葉や箴言などにもみられますが、新約聖書、特にヨハネによる福音書でも、「真理」は、「真実」と「真相」の両方の意味で用いられています。聖書では、現代的な意味での「真理」、すなわち「理論的に正しい」という意味は比較的少ないようです。ただし、パウロの手紙などを読んでみると、独特の霊的な「論理性」で貫かれています。おそらくパウロは、現代のわたしたちが、科学的に真理だと言うのと類似した意識で、物事を「立証」しようとしてこの言葉を用いているのでしょう。
 ですから、聖書の「真理」には、「真実」と「真相」、それに「理論的にも正しい」の三つの意味が一体となっていると見ていいのではないかと思います。真理のこの三つの相は、「真実」から「真理」へ真理から「真相」へという過程をとると見ることもできますが、それ以上に、この三つの意味が、それぞれ異なりながらも、重なりあって一つになっているように思います。ですから、聖書で言う「真理」を求めるには、真実を求める「誠実さ」と誤った推論を避ける「論理性」と事物の奥を見抜こうとする想像力の源、すなわち御霊にある「霊感」とが一つにならなければ、これに到達することができないと思われます。
 このように言うと、聖書の真理とは何かとても難しいことのように聞こえますが、実はそうではないのです。なるほど頭で言葉を分析している間は、難しく思われるかもしれません。しかし、実際にこの真理を実行すると、この三つは切り放せないことが分かります。福音の真理を現実の中で生きようとすれば、その人の内に、この三つが含まれてくるのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)や詩編119篇8〜11節の「律法」「定め」「命令」「戒め」「裁き」などは、こういう観点で理解しなければならないと思います。
■御国と毒麦
 最後にもう一度、前回出てきた「成長する神の国の種」の譬えに戻りましょう。今回の毒麦の譬えは、良い種とは反対の悪い種のことですから、<そのままにしておいても>成長する「良い種」と対照されています。だから、前回の譬えを否定しているように思われるかもしれません。けれども、今回の毒麦の譬えを基にして、もう一度、成長する良い種の譬えを読み直しますと、そこに神の不思議な摂理を読み取ることができます。地上の「神の国」では、毒麦も混じって育ちます。エクレシアと言えども、所詮「この世に」存在していますからね。しかし、毒麦とほんとうの麦、御国の子たちと悪魔の子たちとが<同じになる>ことは決してありません。「時は真理の味方」です。時期が来れば、本物と偽物とは、ガン細胞と健康な細胞のように、はっきりとその姿を現わすのです。それでも御国は確実に成長するのです。間違いなく完成に至るのです。だから偽物、悪霊、異端などと騒ぎ立てないで、主の御手にお委ねすればいいのです。神のみ手に委ねておくならば、時期が来れば自然と分かるからです。
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