【注釈】
■毒麦の譬え
 マルコ福音書の「生長する(良い)種の譬え」に続いて、マタイ福音書の「毒麦の譬え」を採りあげるのにはわけがあります。それは、これら二つの譬えが「種の生長」という点で共通しているだけでなく、譬えの内容が、明と暗に分かれていて、二つは表裏を成しているように見えるからです。「成長する(良い)種」はマタイ福音書にはなく、「毒麦」のほうはマルコ福音書にないのも偶然でしょうか? おそらくマタイの教会の人たちもマルコ福音書の「成長する良い種の譬え」を知っていたと思われます。だとすれば、「毒麦」のほうは、「良い種の生長」に対して、これをより深めるために、あるいはこれと対照させるために出てきたとも考えられます〔ルツ『マタイ福音書』(4)417頁〕。ただし、この毒麦の譬えが、マタイ福音書の作者による創作だとは考えられません。エルサレム滅亡の危機的な状態を受けて、キリスト教会にも対立や紛争などが「教会の内部」においても生じた可能性があります。「毒麦」が具体的にどのような人たちなのかを特定するのは困難ですが、マタイの教会にはユダヤ人キリスト教徒が多かったことから判断すれば、「毒麦」もユダヤ人キリスト教徒の間だから出てきた「敵対勢力」を含めているのかもしれません。
■マタイ13章
[24]【持ち出して】原文は「別の譬えを彼らに提示して語った」です。「別の」とあるのは、「もう一つの」の意味にとることもできますが、この譬えの内容から判断すると、今までの譬えとは違って、「悪い毒麦」の種がでてきますから、「善い種」とは「別の悪い種」の譬えという意味にも受けとれます。「提示した」「指し示した」とあるのもこのことに注意をうながすためで、ここでは教えなり律法なりを相手に参考として提起することです。
 なお、原文の「彼らに(言われた)」ついては、13章10節に「なぜ<彼らに=群衆に>譬えで語るのか」とあり、続く11節に「そこで<彼らに=弟子たちに>答えて言われた」とあって、譬えを語る「群衆」とこれを解き明かす「弟子たち」とが区別されています。ここ24節の「彼らに」がどちらを指すのかが問題ですが、続く34節に「これらの譬えを<群衆に>語られた」とありますから、毒麦の譬えは一般の人たちに向けて語られたものです。しかし、続く36節にあるように、これの解き明かしは弟子たちだけに語られます。
【良い種】譬えは、今までと同じように「ある人」で始まりますが、実際の譬えの内容は蒔かれる種のことです。種蒔きでは、蒔く人や蒔かれる土地も譬えの大事な部分でしたが、ここでは、「良い」「悪い」が種だけに絞られています。
[25]~[26]【人々が】種蒔きの譬えとは違って、ここでは、24節に「人」とあるのは、畑の所有者のことで、25節に「人々」とあるのは、その所有者に雇われている僕たちあるいは奴隷たちのことです。彼らが、種蒔きと刈り入れを行なうからです。しかしこの譬えでは、良い種を蒔いた人たちと、30節の実りを「刈り取る人たち」とは別のように思われます。種を蒔くほうはイエスの弟子たちの譬えであり、刈り入れるほうは天使たちを指すからです。
【毒麦】ヘブライ語で「ツーン」、ギリシア語で「ジザニオン」です(英語はdarnel/tare)。丈(たけ)が70センチくらいで、10~30センチほどの細い葉を持っています。5月頃に15~25センチくらいの穂を生じます。これの実にはテムレンという有毒のアルカロイドが含まれていて、食べると頭痛、目まい、吐き気などをもよほし、重症の場合は虚脱状態を起こして死亡します。家畜が食べると中毒状態になります。一説では、毒は、草そのものではなく、これに菌がつくことで草が毒化するとも言われています。種の発芽の時期も実を結ぶ時期も小麦と同じですが、実をつけると、「毒麦も現われた」とあるように小麦とは異なることが分かります。しかし、小麦と一緒に育つと両方の根が絡み合っていて、除去するのが難しいようです。やっかいなのは、この毒草は数年間も発芽能力があり、雨の年には、それまで発芽しなかった種までが発芽して出てきます〔廣部千恵子著『新聖書植物図鑑』教文館(1999年)92~93頁〕。古代のパレスチナの人は、雨の年には小麦が毒麦に変わると信じたり、小麦が悪霊の呪いを受けて毒麦に変じると信じていたようです。
【敵】原文は「彼の敵(単数)」ですから、畑の所有者に敵対する者のことで、これはキリストに対立するサタン(悪魔)を指しています。サタンもまた人の子のすることを真似して種を蒔くのです。出てくる芽もよく似ています。実際に、畑の所有者に敵意を持つ者が、復讐のために相手の畑に「寝ている間に」夜密かに来て、毒麦の種を蒔いて「立ち去っていく」ことがあったようで、ローマの法律はこの種の報復を禁じていました。パレスチナでも同様のことが行なわれたのでしょう〔フランス『マルコ福音書』525頁〕〔デイヴィス『マタイ福音書』413頁〕。
[27]【だんなさま】原語は「主」です。地主の家の主人ですからこの呼び方は自然ですが、ここにはイエスを「主」と呼ぶ初代教会の思いがこめられているのでしょう。
[28]【敵】原語は単数で「敵の人」です。これはセム的な言い方で、「敵対する人」「敵意を持つ人」のことです。ここで「敵」というのは、一般的な意味で憎しみや嫌悪を抱く人たちのことではありません。個人的に敵対して深い恨みを抱く「不倶戴天の敵」のことです。
【僕たち】これも先の「主人」と同じで、その家の使用人たちのことですが、「主イエスの僕たち」の意味がこめられていると見ていいでしょう。
[29]~[30]【麦まで一緒に】毒麦の数が多いことと、その根が麦と同じ株の中に育っているので根が絡み合って両方とも抜けてしまう恐れがあることです。なお「両方とも育つ」は一語で、ここだけにでてきます。
【刈り入れ】「刈り入れ」は終末の譬えとしてしばしば用いられます(ヨハネ4章35~37節/ヨハネ黙示録14章15~16節)。
【焼くために】毒麦だけを集めて燃料として使うことです。しかし、パレスチナで実際にこのように行なわれたかどうか、はっきりしません。先に麦の穂を刈り集めた後で、その畑に生えているものを全体を焼き払うことも行なわれました。どちらにせよ、ここでは神に敵対する堕天使たちも人間たちも「焼き滅ぼされる」ことです(マタイ3章12節/同22章7節など)。
[36]ここからは、毒麦の譬えの解き明かしになります。譬えそのものは、マタイ福音書以前からの伝承に基づくと考えられますが、譬えの解き明かしのほうは、マタイによる編集の手が加えられていますから、マタイ以前の伝承がどの程度保持されているのかを見分けるのは難しいようです。
【家にお入りに】種蒔きの譬えと(マタイ13章1節)とこれの解き明かし(同10節)のように、毒麦の譬えでも、大勢の人に譬えを語った後で、イエスは群衆を「後に残して」、家の中で弟子たちにその解き明かしを語ります。
【説明して】暗いところを明るくする/明らかにする/謎などを解き明かすの意味で、この動詞はここだけです。
[37]~[38]【人の子】ここでの「人の子」は、明らかにイエス自身を指しています。しかし、その場合でも、「人の子」とナザレにイエスとが全く同じだというわけではありません。なぜなら、「人の子」はイエス・キリストの再臨の際にも顕われるからです。特にここでの「人の子」は、終末に再臨して裁きを行なう「人の子」をダブらせていると思われます(マタイ10章23節)。
【畑は世界】伝統的にここの「畑」は、イスラエルのことだと解釈されることが多いようです。しかし、ここでは、毒麦が蒔かれる畑は「世界」のことだとはっきり説明されていますから、畑はイスラエルのことだけでなく、ギリシア・ローマをも含む全世界を含みます。キリスト教の教会では、「畑」をエクレシア(教会)のことだと理解して、「毒麦」は教会(エクレシア)の<内部で>真のキリスト教徒と混ざり合って育つと解釈する場合もあるようですが、ここの解き明かしではエクレシアの内にも外にも毒麦が存在することになります。
【悪い者】原語は「悪」と「悪い者/悪魔」との両方の意味があります。「御国の子」とは「神の子たち」(ヨハネ1章13節)のことですから、これに対して「悪魔の子たち」と解釈することもできます。しかし「悪の子たち」と解釈することもできます〔ノゥランド『マタイ福音書』〕。第四エズラ記(=ラテン語エズラ記)で、イスラエルが異邦の諸民族の手に引き渡されて不名誉をこうむり、全世界に悪と不法とがはびこる中で、エズラが天使に尋ねると、天使は彼にこう答えます。
「あなたがわたしに尋ねているその悪はすでに蒔かれた。しかしその(悪の)摘み取りはまだである。蒔かれたものが刈り取られ、悪が蒔かれた畑が消え去らなければ、善が蒔かれた畑は来ないであろう。悪の種が最初にアダムの心に蒔かれたために、今までどれほど多くの不信仰を実らせたことだろう。それは、脱穀の時が来るまで実らせ続けるだろう」(ラテン語エズラ記4章28~30節)。
 ここでは、人間の心に蒔かれた「善」と「悪」とが蒔かれた種に譬えられていますから、マタイ13章の毒麦の譬えでも、イスラエルあるいはキリスト教のエクレシアを含みつつ、より広い意味で人類全体を指していると解釈するほうがいいでしょう。「善の子」「悪の子」という言い方は、善を「宿す」人間、あるいは悪を「宿す」人間のことです。
[39]~[40]【蒔いた敵】動詞がアオリスト(過去)形で、「蒔く者は人の子」(37節)とある現在形と対照されています。イエスが、今この時に譬えで語りかけても、これに応じようとしないイスラエルの人たちは、すでに悪魔によってその心が固くされていることを示唆するのでしょうか。
【終わり】原語は「シュンテレイア」で「完成」「成就」の意味です。これはユダヤ黙示文学の用語で、特に「この世(アイオーン)の終結/終末」を意味します。このギリシア語を用いるのはマタイだけですが、ヘブライ人への手紙に1度だけ「日々の終わり/終結(シュンテレイア)」(ヘブライ9章26節)がでてきます。マルコ福音書とルカ福音書では「テロス」が用いられ、これは「終結/終点」「成就/完成」「目的地/目標」の意味です(マルコ13章7節/ルカ21章9節)。ただしこの「テロス」はマタイ福音書にもでてきます。「終末」を表わす言葉には、このほかに「ヘスカトス」(最終の/最後の)という形容詞があり、「終わりの日」のように用いられますが、これはヨハネ福音書に多くでてきます(ヨハネ6章39節/同40節/同44節/同54節など)。福音書以外では「終わり(ヘスカトス)の日々」(使徒2章17節)や「終わり(テロス)」(第一コリント15章24節)や「終わり(ヘスカトス)の時」(第一ペトロ1章5節)などがあります。
 「この世(単数)の終わり」"the end of this age" という言い方はマタイ福音書だけで、ヨハネ福音書では「終わりの日」です。「終わりの日々(複数)」(使徒2章17節/ヘブライ1章2節/ヤコブ5章3節)もあり、「時(複数)/世々(複数)の終わり」(第一ペトロ1章20節)もあります。ほんらいのヘブライ的な思想では、時代/世が次々と続き、「終わり/終末」は、それらの諸時代の最終の到着点("the end of ages")を意味すると考えられます。しかし、マタイ福音書では、「今のこの世(単数)」の終末観が強くでていると言えましょう。特に譬えの解き明かしでは、譬えで大事な意味を帯びていた「夜昼寝起きしている」間の種が成長する中間の時期が抜け落ちていますが、それだけ「今のこの世」と「来るべき世」とが対照されています。「この世」の終末には裁きが行なわれて、義人は神の祝福に与り、悪人や罪人は火に焼かれて滅びるというのが、黙示思想ですから、マタイはこの伝承に従っているのです。
【天使たち】原文は「彼(人の子)の天使たち」です。終末に裁きに顕われるのは人の子で、裁きはその人の子が遣わす天使たちです。だから、「人の子」はほとんど神と同じ権威を帯びているのが分かります。人の子がみ使いたちを遣わして善人/義人たちと悪人/罪人たちを裁くのです(マタイ16章27節/24章31節を参照)。
【焼かれる】譬えのほうでは、「焼かれる」は主人の命令でしたが、ここでは人の子による現在形です。「火で焼かれる」とあるのは、集められた毒麦を燃料として焼くという比喩的な意味ではなく、続く42節の「火の炉で焼かれるだろう」という未来形へつながりますから、これは終末の「裁きの火」を指しているのが分かります。
[41]~[42]【天使たちを】41~42節は譬えの30節にあたります。原文は「彼(人の子)は、彼の天使たちを遣わして彼の御国から集めるだろう」です。「御国(支配)<から>」とあるので、毒麦に譬えられる者たちは、御国の「外へ」一纏(まと)めにして追い出され、人の子(イエス)の支配する御国には「良い種」に譬えられる「御国の子たち」だけが残されるのでしょう。ここにはユダヤ黙示思想の「人の子」伝承が受け継がれています。「人の子」による「支配/王国」は、かつてのダビデ王朝の支配/王国にさかのぼります。しかしここには、ダビデの地上の王国ではなく、この王国思想が天の「神の王国」にまで高められて、神から全権を委託された「人の子」が栄光を帯びて地上に降るというダニエル書7章13~14節の預言が反映しています。人の子は「メシア」として、イエス在世当時のパレスチナの人たちに受け継がれていました(マタイ20章21節/同25章31~36節参照)。
【つまずきとなるもの】ここにでてくる「躓き」と「不法」には、七十人訳の詩編140(141)篇9節「彼らがわたしに仕掛けた罠からわたしをお守りください。不法を働く者どもの躓きから」が反映しています。この詩編140篇では、ヤハウェの支配に逆らう不法/暴虐な者たちの罠と激しい攻撃によって虐げられる貧しく正しい人たちが、神に向かって訴えています。「不法」とは暴虐(しばしば流血を伴う)のことですが、「つまづきとなる<もの>」は中性名詞なので、不法な行為それ自体のほうに目が向けられています。なお「つまずき」についてはマタイ18章6~9節を参照してください。この解き明かしから見ると、「人の子の御国」とあるのは、特定のエクレシア(教会)や選ばれた民のことよりも、むしろエクレシアを含む全世界が「畑」であって、善悪、正/不正が混然と入り交じった状態から人の子による仕分けが行なわれることになるのでしょう。
【炉の中に】ダニエル書3章6節には、バビロンのネブカドネツァル王が金の像を作り、これを拝まない者たちを「燃え盛る炉に投げ込む」と宣言します。しかし、3人のイスラエルの若者がこれに従わなかったために、王は彼らを「火の炉」に投げ込みます。ところが、第四の人(メシア)が共に立って彼らが救われたとあります。マタイ福音書では、ほんらい圧制者が作った「火の炉」が、神の民を虐げる圧制者や暴虐な者たちを投げ込むための「火の炉」へと逆転しているのです。この42節は、50節でもう一度繰り返されます。
【泣きわめいて】「泣きわめいて歯ぎしりする」は、マタイ8章12節にもでてきました。ただし8章で「泣きわめく」のは、ほんらい御国に入るはずであったイスラエルの「御国の子たち」のほうなのです。イエスを受け容れようとしなかったイスラエルの民に向けるマタイの激しい憤りと悲しみが表われているのでしょう。マタイのこの言葉には、70年のエルサレムの滅亡が背景にあると考えられます。ただし、ここの解き明かしでは、イスラエルだけでなくより広い意味で「不法と躓きもたらす」者たちのことが語られていて、権勢を誇った者たちと虐げられた者たちのとの間の逆転を見ることができます。
[43]【その父の国】直訳は「彼らの父の国」です。「神の国/天の国」をこのように呼ぶのはここだけです。主の祈りに「わたしたちの父」とあり「あなたの御国」とあるのを想い出します(マタイ5章9~10節)。
【太陽のように】ダニエル書12章1~4節には黙示思想の終末観が表わされていますが、そこに「目覚めた人々は大空の光(太陽)のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえの星と輝く」(同3節)とあります。またラテン語エズラ記7章には「いと高き方(天の神)の道を守った人たちの霊が、その朽ちる体から離れる時には」、7段階を経て神のみ顔の輝きを仰ぐことになります。その第6段階で「彼らの顔は太陽のように輝き、彼ら自身は星のようになる」(同7章97節)とあります。これは終末の状態を指しますが、現在この地上にあっては、神の子たちが光のように照らすとあります(マタイ5章15~16節)。イエスの場合には、このような姿が山上の変貌において現われます(マタイ17章2節)。
【聞きなさい】この締めくくりの言葉で、始めの13章9節に戻ります。ただし、9節では一般の人たちに語ったのに対して、43節ではイエスの弟子たちに語られています。彼らもまた他の人々同様に、御国の御言葉を祈りを持って聴くように求められているのです。
 
■『トマス福音書』(57)
 『トマス福音書』(57)は、今回のマタイ福音書の譬えととても似ています。しかし、ここにはマタイ福音書13章26~28節が抜けています。また譬えの解き明かしの部分もありません。『トマス福音書』の作者がマタイ福音書の26~28節を除いて縮小したのでしょうか? それとも、マタイ福音書の作者のほうが『トマス福音書』(57)の伝承に書き加えたのでしょうか? この問題は、『トマス福音書』とマタイ福音書と、どちらが先に書かれたかに関係してきます。わたしはおそらく『トマス福音書』のほうがマタイ福音書よりも先に書かれたと考えています。もしも、マタイが『トマス福音書』の伝承に書き加えたとすれば、26~28節は、マタイ自身の教会の状況を反映していると受けとることもできましょう。なお、『トマス福音書』にはグノーシス的な傾向があるという前提に立って、毒麦とは人間の肉体のことであり、良い種とは人間の霊魂を意味するという解釈もあります〔荒井『トマス福音書』209~10頁〕。
                         戻る