96章 からし種とパン種
マルコ4章30〜32節/マタイ13章31〜32節/ルカ13章18〜19節
【聖句】
イエス様語録
神の国は何に似ているか、
また何にたとえようか?
からし種に似ている。
人がこれを取って庭に蒔いた。
すると成長して木になった。
そして空の鳥がその枝に巣を作った。
 
マルコ4章
30更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
31それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
 
マタイ13章
31イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、
32どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
 
ルカ13章
18そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
19それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
 
【参照】『トマス福音書』(20)
 弟子たちが言った、「天国は何に似ているか、わたしたちに言ってください」。彼が彼らに言った、「それは一粒の芥子種のようなものである。(それは)どんな種よりも小さい。しかし、それが耕されている地に落ちると、地は大きな枝をつくり、空の鳥の隠れ場となる」〔荒井献訳〕
パン種の譬え
マタイ13章33節/ルカ13章20〜21節
【聖句】
イエス様語録
また、語られた。
「神の国を何にたとえようか?
パン種に似ている。
女がこれを取って
三サトンもの粉に混ぜた。
やがて全体が発酵した。」
 
マタイ13章
33また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
 
ルカ13章
20また言われた。「神の国を何にたとえようか。
21パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
 
【参照】『トマス福音書』(96)
イエスが〔言った〕、「父の国は〔ある〕女のようなものである。彼女が少量のパン種を取って、粉の中に〔隠し〕、それを大きなパンにした。聞く耳ある者は聞くがよい」
譬えで語る
マルコ4章33〜34節/マタイ13章34〜35節
【聖句】
マルコ4章
33イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
34たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
 
マタイ13章
34イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。
35それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
                     【注釈】
【講話】
■ミクロからマクロへ
 からし種の譬えで一番印象に残るのは、なんと言っても種の「小さい」ことと、それが見た目とは想像もできないような大きな「木」になることです。ミクロの種とマクロの樹木、このコントラストが強く印象づけられます。神様の御言葉のお働きは、どの時代でもどの国でも、始めはあるのかないのか分からないほどちっぽけな、と言うよりも人の目には「見えない」スタートなんです。
 現代の人は生物学的に考えますから、種は小さくても成長すれば大きくなるのをそれほど不思議に思いません。けれども古代の人にとって、小さな種が大きな野菜、マタイとルカに言わせると「木」になるというのは、実に不思議でした。だから、現在のわたしたちは種の成長を先ず考えますが、古代の人たちは、「死んだ」ように見える種が「復活した」ように見えるのです。パウロも種を復活の類比で用いています(第一コリント15章42〜44節)。小さく死んで大きく復活するんです。ルカ福音書には「庭」に蒔かれたとありますから、これはガリラヤの人たちのどの家にでもある家庭菜園を思わせます。神の国の譬えが、家庭菜園の野菜では、今ひとつ見栄えがしないと思うかもしれませんが、イエス様は、ガリラヤの民衆なら誰でも知っている野菜作りの庭を譬えにとって分かりやすくお語りになったのでしょう。口頭で伝えられたものですから、初めから真性なものが一つだけとは限りませんが、あえて推測すればそうなります。
 けれども、小さな始まりと大きな終わりとの間には、当然「成長」があるはずです。目立たない存在から誰の目にも入る大きな存在へと成長するまでには時間がかかります。だから「成長」とは時間のことです。ナザレのイエス様という一つの種には、ものすごく大きな「神の国」の霊性が秘められていたのです。この霊性は始めは人の目から隠されていました。ところが、御復活があって、それから様々な迫害や困難があった。それでもどんどん成長を続けて、2000年たってみると世界中に広がる大きな樹木になっていたのです。イエス様には、このように、今は見えない小さな種が、やがては全人類を覆う大きな樹木になって、それから終末が訪れる、という神の国の不思議な働きがその目に映っていたのでしょうね。小さなものから大きなものへ変身し、死んだような状態から復活のからだに生き返り、始めの時には見えないものが、この世で「ひそかに」成長して、いつの間にか誰の目にも見えるような巨大なものになって終わりの時を迎えるのです。
■霊のエクレシア
 カトリック教会では、大きく育つからし種の「木」は一本だけだから、カトリック以外に「神の国」は存在しないという解釈もかつてはあったようです〔ルツ『マタイ福音書』〕。カトリック教会=神の国という図式です。このように、神の国と言うと、皆さんは巨大な組織や立派な聖堂を思い浮かべるかもしれません。しかし、わたしの言う意味はそうではなく、全人類をその蔭に覆う「霊的な働き」のことです。見える組織ではなく、見えない霊的な存在のことです。これがマタイ福音書にある「木」です。この木は「世界樹」と言われています。世界樹とは宇宙を支える霊的な木、神様のお働きのことです。お釈迦様が菩提樹の下で悟りを開いたとあるのも、この世界樹が背景にあります。モーセが燃える柴の前でヤハウェに出会って啓示を受けたのも「燃えて輝く木」の前で、この「輝く木」がクリスマス・ツリーの出所です。五重の塔も樹木を象っていますね。あれも世界樹の表象です。神様のお働きは、名づけ難く、語り難く、図り難いです。
 もう一つイエス様の譬えで注意してほしいのは、この譬えでは、主語は「種/パン種」ですが、これらを「大きくする」ほんとうの主語が隠されていることです。主語である神様は、はっきりした姿をお見せにならないのです。これは、御国が人々の間に「密かに人知れず」広がることを意味します。これが真の意味で霊的に成長する「エクレシア」の姿なんです。偉い人ほど自己の存在が人々に気づかないようにするのです。ほんとうに偉大なものは、その偉大さが人の目につかないものです。
■個人に宿る種
 最後に大切なのは、からし種とパン種の譬えが、一人一人の信仰者とどう結びつくのかです。最初の小さなからし種、あるいはごく微量のパン種が、ナザレのイエス様御自身のことだとすれば、そのイエス様が「神の国」、すなわち「神のロゴス」です。神のロゴス(言葉)とはイエス様の霊性です。この種が、それ以後のすべてに人たちに蒔かれることで、一人一人が、イエス様のような木に育つのです。「成長する」のは種に含まれる永遠の命ですから、これは人間が、自分の努力や自力でどうこうすることができません。わたしたち一人一人の内に宿って成長するイエス様の木なのです。「あなた」という一人の人を通して働くイエス様の霊性です。わたしたちはなんにもしない。なんにもできない。ただあるがままそのまま、イエス様の御霊の御臨在にお委ねする。体も心もその奥深い内面もです。そうすれば、イエス様という種が、その人を通じて「自ずから」働いてくださいます。これこそが、「山をも動かすからし種一粒の信仰」(ルカ17章6節)です。どうぞ皆さん、イエス様の御手が触れた一人一人が、この世でかけがえのない大切な存在であることを忘れないでください。
■文化のパン種
パン種の譬えもからし種のそれと同じです。パン種の働きは、初めのうちは外側から全く見えません。あるのかないのかそれさえ分かりません。でも、徐々にその働きが現われるのです。からし種もパン種も終末と関係があると言われています。もしもそうなら、終末は目立つ姿で顕現するのではありません。見えないうちに徐々にいつの間にか訪れていた。こういうことかもしれません。
 パン種で大事なのは、その見えない働きです。大量のパン粉の中に少し混ぜるだけで、いつのまにかパンの塊全体が膨らんできます。食は文化の始まりですから、パンの塊とは文化あるいは文明に譬えてもいいでしょう。エジプトのナイル川流域とメソポタミアのティグリスとユーフラテス河の流域、インドのガンジス河流域と中国の黄河の流域、ここから世界の四大文明が始まったと言われています。
 それ以後、実にいろいろな文明が生まれて文化を育ててきました。けれどもある文明と文化はせっかく生まれても歴史にその足跡を留めることができませんでした。中米のマヤ文明や南米のアステカ文明がそうでした。すごく発達した暦を持っていたのに、最近までそのことが分からなかったのです。
 ところが、アテネのような小さな都市国家が、西洋の思想や文化の中軸となるような文化を産み出しています。イスラエルもそうです。この民は、古代オリエントでは、パレスチナの山岳地帯で、自分たちの神殿を中心に暮らしている弱小民族にすぎないと思われていたのです。このユダヤの民が、世界の歴史と文化を担うような大きな思想と信仰を産み出したのです。釈迦も現在のネパールの近くの「カピラヴァスツ」というところで生まれて、インダス河流域のブッダガヤで悟りを開きました。どれも小さな始まりでしたが、その霊性は次第に広まって、ついに世界の文化を形成するほどの大きな影響力を持つようになったのです。ただし、仏教は悟りを求めるものですから、これは理法的な世界で、直接に時代的(時間的)に左右されるものではありません。これに対して、聖書の神の国は、先に指摘したように「時間の中で」言い換えると歴史の中で「成長する」という特質を有しています。小さなパン種が大きなパンの塊を成長させるのです。3サトンというのは、100人から150人分のパン粉ですから、ごく微量なものがものすごく大きいものを発酵させるエネルギーを秘めているのです。
 宗教は人間の霊性に根ざすものです。霊性には「価値観」というものすごいパン種が入っています。「価値観」の種は小さくても貴重です。特にイエス様の父なる神の霊性は、太陽と同じで、自分の土地を持ちません。だから、国籍や民族性に関わりなく働くのです。どんな民族の文化にも宿ってそこで働くことができるのです。この霊性は目に見えませんから、始めはあるのかないのか分からない。だから「頼りなく」見えます。でも、実はこの見えない小さな始まりが、すごい力を秘めているのです。霊性の種は、文化を成長させ、文明を導く働きをしますから、神の御言葉は「導きの灯火」です(詩編119篇)。
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