【注釈】
■からし種とパン種と譬え
 今回は、からし種の譬えとパン種の譬え、それに譬えを語るわけと、この三つを扱います。からし種の譬えは共観福音書に揃ってでてきますが、パン種のほうはマルコ福音書にありません。また譬えを語るわけは、ルカ福音書にありません。だから、マタイ福音書では三つ揃って今回の順番ででてきますが、マルコ福音書ではパン種が抜けて、からし種の譬えに続いて譬えを語るわけがきます。ルカ福音書では、からし種の譬えにパン種の譬えが続きます。
                     【からし種の譬え注釈】
■イエス様語録
 からし種の譬えがイエス様語録(Q)にあったのかどうか疑問があります。マタイとルカとは、この譬えをマルコ福音書から採ったとも考えられるからです〔ヘルメネイアQ400頁〕。しかし、ルカは過去形(「成長した」/「(大きく)なった」)を用いていますが、マタイは現在形です。だから、ルカがイエス様語録に基づいているのに対して、マタイはイエス様語録とマルコ福音書との両方を採用していると見ることができます。
 正確な語句はともかく、この譬えもイエスにさかのぼると見ていいでしょう。イエス様語録の中では、からし種とパン種の二つの譬えは一つのまとまりとして、訴える者との和解(マタイ5章25~26節)と、狭い門の譬え(ルカ13章24~25節)との間に置かれています〔ヘルメネイアQ〕〔マックQ〕。なお、マタイは、イエス様語録と同時にマルコ福音書からも採用しているので、からし種の復元はほとんどがルカ福音書からです。ただし、選択肢としてマタイ福音書からの復元も可能です。例えば、「庭に蒔く」(ルカ)→「畑に蒔く」(マタイ)/「成長して」(ルカ)→「成長する時」(マタイ)などです。
 からし種の譬えは、神の国/支配の始まりはごく小さいけれども、次第に成長して全世界の諸民族(空の鳥たち)を支配するにようになると告げています。ただ、この譬えをいわゆるキリスト教の拡大あるいは宣教と直接結びつけるのは必ずしも正しいとは言えません〔ツェラー『Q資料注解』157頁〕。そうではなく、神の働きは、人間の及ばない力によって、また人の企みで阻止することができない不思議な働きによって、確実に成長を続けるという意味です。だから、この譬えは先の「成長する神の国」の譬えと内容的につながります。
【からし種】原文は「からし(ギリシア語「シナピ」)の種/粒(単数)」です。これは旧約聖書にはでてこないようです。イスラエルで「からし」というのは一般に「クロガラシ」のことだと言われていて、これはイズレル平原やガリラヤ湖畔などの一部に見ることができます。クロガラシの種は直径1ミリほどですが、背丈は2メートル近くなります。葉は根元のほうに多く、種は細長い円柱形の果実の中にたくさん入っています。しかし、現在、イスラエルのガリラヤ地方で多く見られるのは「シロガラシ」のほうです。クロガラシとシロガラシとは、花の付け方が少し違うようですが、どちらも3月中旬から4月にかけて小さな黄色い花をたくさんつけて、野生の野原を黄色に彩ります。イエスの時代に、クロガラシとシロガラシとどちらのほうが多かったのかは分かりません。おそらくそのような区別つけずに譬えに用いたのでしょう。ちなみに日本のからしは、クロガラシとアブラナとの交配でできたカラシナです。からしからは、からし粉だけでなく油もとれます。また、葉は煮て食べることもできるし、クロガラシ粉を練ったものを塗り薬として使うこともできます。
 いつ頃からかは分かりませんが、南米産のキダチタバコがイスラエルにもたらされて、これが「からし」だと説明されているようです。キダチタバコはナス科のダバコの仲間ですが、これは2~5メートルくらいの「木」になります。種が小さく、成長が早く、「木」のようになり、鳥がとまることもできますので、イエスの譬えによく合います。しかしこのキダチタバコは南米産ですから、イエスの頃にはまだイスラエルになかったはずです。ガリラヤ地方にもあまり見かけません〔廣部千恵子著『新聖書植物図鑑』(教文館)134~36頁〕。
【空の鳥】ダニエル書(4章7~9節)に新バビロニア王国の王ネブカドネツァルが見た夢がでてきます。大地の真ん中に木が生えていて、それが天にとどくようになると、野の獣や空の鳥がその木陰に宿ったという夢です。ダニエルは王のこの夢を解いて、その木は王自身のことで、王の権力は偉大になり世界を支配するようになると告げました(同17~19節)。これは新バビロニア王国の譬えですが、イスラエルでは、預言者エゼキエルがイスラエルの王権をレバノン杉に譬えて、「あらゆる鳥がその木陰に住む」(エゼキエル書17章23節)とあります。このように大樹と空の鳥は、王国の成長と偉大さが世界の諸民族に及ぶことの譬えとして伝承されていました。イエスが、ごく小さな始まりから神の国が大きく成長して「空の鳥たち」が宿ると言ったのも、父の神の支配がやがて全世界に及ぶことを見通して預言したのです。
 
■マルコ4章
[30]イエスは、神の国を何に「比べようか」、「譬えようか」と繰り返して、神の働きの不思議なことを強く提示しようとしています。
[31]~[32]【どんな野菜】伝承では王国を「大樹」や「レバノン杉」に譬えて、その偉大さを言い表わしています。マタイ福音書でもルカ福音書でも、種が「木」になると述べていますが、これに対して、マルコ福音書でイエスは「家庭菜園の野菜」の仲間と御国とを比べています。「家庭菜園」では、神の偉大な働きの譬えとして少し見劣りがしないか、と見る向きもあるようです。当時のガリラヤの人たちの多くは、職業のいかにかかわらず、生活のために住まいの周囲で野菜をつくっていましたから、イエスは、誰でも知っているからし種とほかの野菜とを比べたのです。
 
■マタイ13章
[31]イエス様語録とマルコ福音書では「似ているか」「たとえようか」と繰り返し問いかけていますが、マタイは、これを一つにしています。また、イエスは「<別の>譬えを<提示した>」とあって、イエス様語録(とルカ福音書)の「<また>イエスは<言った>」とは用語が異なります。ここでは、「成長」よりも、むしろからし種の小さなこととそれが大きくなること、この二つの「対照」が強調されています。マタイは先の「種蒔き」と「毒麦」の譬えとは少し視点が異なる譬えをイエスが語っていると考えたのでしょうか。
【これを取って】この句はイエス様語録からです。「天の国」もマタイ福音書だけです。
【畑】これはマルコ福音書の「地」ともルカ福音書の「庭」とも違います。ミシュナの規定には、からし種は「家の庭」ではなく「畑」に蒔くように指示されています。イエス様語録はイエスの語った言葉にさかのぼるものですが、それはイエスが語ったその時から、聞いた人たちによって違った伝わり方をします。口頭伝承(口伝)とは、このように、そもそもの初めから違う伝わり方をするのです。だから、マタイ福音書の「畑」は、マタイがユダヤ教の規定を意識して、イエス様語録あるいはマルコ福音書の用語を変更したのかもしれませんが、このように文書による編集や訂正を重視すると、人々の口を通して繰り返し語られる口伝の本質を見誤ることになりますから、注意してください〔Dunn; A New Perspective on Jesus.〕。また、口伝はイエスが語ったその段階で、すでに霊的な意味を帯びていますから、からし種の成長がダニエル書にでてくる王国の象徴である「木」の意味に理解されたとしても、それはコジツケでも誤解でもありません。口伝はこのように生きて動き働くからです。この意味で口伝は霊伝です。
[32]【どんな種よりも小さい】原文は「どんな種よりも小さな<存在である>」と現在形で種の小さなことを強調しています。
【成長すると大きくなり】原文は「成長するその時に」で、イエス様語録の「成長する」とマルコ福音書の「~する時に」とを合わせて構成しています。
【巣を作った】マタイ福音書の原語はマルコ福音書と同じ「宿る」〔現在不定詞〕です。しかし、マルコ福音書の「宿ることが<できる>」ではありません。またイエス様語録(とルカ福音書)の「宿った」〔過去形〕とも違います。「宿る」とあるのは、小鳥が「とまる」ことではなく、そこに「巣を作る」ことです。ただし、イエスの時代のからし種は「小鳥が巣を作る」ほどの「木」にはなりません。この点ではマルコ福音書の「どんな野菜よりも大きくなる」のほうがイエスの譬えに合致しています。だから、イエスの譬えを聞いていた人たちは、イエスの神の国が「ほんとに、そんなに大きくなるのだろうか?」と疑問を感じたかもしれません。しかしイエスは、あえて誇張とも思われるこの譬えを用いて、今始まったばかりの「神の国」が、将来どんなに大きな姿になるのかを人々に語ったのです。
 仮にマルコ福音書に含まれる伝承のほうがイエス様語録よりも以前のものだとすれば、ほんらいのイエスの譬えは「どんな野菜よりも大きくなるんだよ」で終わっていて、「木」も「鳥」もでてこなかったことになります。しかし、ここではイエス様語録のほうがマルコ福音書に含まれる伝承よりも「古い」と考えられています〔ルツ『マタイ福音書』422頁〕。だとすれば、イエスの語った譬えには、「木」も「空の鳥たち」も含まれていたことになります。後者の場合、問題になるのは、はたしてイエス自身は、ダニエル書4章の王国の樹木と小鳥の物語を意識していたのかどうかです。この点は確かでなく、イエス以後のユダヤ人キリスト教徒(イエス様語録の担い手たち)によってイエスの譬えがダニエル書の表象と重ね合わされて解釈され、それがマタイ福音書に取りこまれているという見方もあります〔ルツ『マタイ福音書』422頁〕。しかしイエスが、誇張とも思われる「木」と「鳥たち」を譬えで用いているのは、イエス自身がダニエル書4章の物語を意識していた可能性があると言えましょう。おそらくガリラヤの民衆もダニエル書の「木」と王国との話を知っていたからです。だからイエスは、聖書のダニエル書の物語を踏まえながら民衆に分かりやすく語った〔ルツ『マタイ福音書』428頁〕。こう考えるほうが適切です。イエス様語録を編集したユダヤ人キリスト教徒たちも、イエスのこの真意を汲んで、御国が諸国民に広がることをはっきりさせようとしたのでしょう。マタイは、このように、イエスの譬えにほんらい含まれていた意味と、その含みをよりはっきりと引き出すためにこれを解釈したイエス様語録の伝承とを踏まえて、マタイ福音書の譬えを記述しているのです。
 
■ルカ13章
 ルカ福音書では、からし種とパン種の二つの譬えの後に、狭い戸口から入る譬えが続きます。これはそのままイエス様語録に準じた順序です。ルカはイエス様語録の動詞の時制もそのまま、「蒔いた」「成長した」「(木に)なった」とアオリスト形(過去形)を用いています。譬えの内容はイエス様語録やマルコ福音書と変わりませんが、ごく小さなものが想像できないほどに大きくなる、その<成長過程>に目を留めています。イエスは終末的なメッセージを語ったのだから、種の「成長」などという時間的な経過に注目するはずがない。だから、「成長過程」のほうは、終末意識が薄れた後のルカ福音書の時代の見方を反映している、という解釈もあります。しかし、こういう先入観は、共観福音書の資料に対する誤解であって、「成長する過程」もまたイエス自身の神の国に含まれていたと見るべきです〔マーシャル『ルカ福音書』〕。
 ルカ福音書の「からし種を蒔く男性」と「パン種を入れる女性」の二つの譬えは、ルカ福音書9章に始まるイエスのエルサレムへの旅の途中で語られいて、これらの譬えの後には、イエスがエルサレムのために嘆く場面が来ます。おそらくルカは、この二つの譬えで、イエスの御国の福音が、エルサレムを超えて広く諸国民にも広がることを視野に入れているのでしょう。
[19]【庭に蒔く】ここの「庭」と「蒔く」という二つの原語は、マルコ福音書ともマタイ福音書とも違っています。
 
【パン種の譬え注釈】
■マタイ13章
 パン種の譬えも先のからし種のそれと類似しています。しかしこの譬えはマルコ福音書にはありません。マタイもルカもイエス様語録から採ったので、両者の違いはほとんどありません(ただし「天の国」と「神の国」)。二つの譬えは、イエスの口から語られた時からペアになっていたという見方もありますが、『トマス福音書』では二つが別個になっていますから、この二つの譬えは、イエス様語録で組み合わされたと考えられます。
[33]【似ている】ルカ福音書では「何に似ているか?パン種に似ている」ですが、マタイ福音書では「パン種のようだ」です。
【パン種】酵母、イーストのことです。伝統的には、ここの「パン種」は、聖霊、御霊の知恵、聖母マリア、教会などに解釈されてきました。しかし、パン種の譬えは、もともとは「悪い影響」を意味していたと考えられます(マタイ16章6節/マルコ8章15節/第一コリント5章6節)。だから、今回の箇所も、からし種は善いことの譬えで、パン種は悪いことの譬えではないか、という見方もできなくはなさそうです。しかし、イエスの譬えはしばしばそうですが、通常の譬えを全く逆転させて用いることがあります。イエスが「神の国」をパン種に譬えたのは、御国の成長とそこに秘められた神の力をわからせようとしたのでしょう。だから、この二つの譬えがイエス様語録で組み合わされているのです。
【三サトン】ヘブライ語の「セア」から出た単位で、1セア=約13リットルで、3セア=1エファです。「セア」のユダヤ・アラム語が「サーター」で、「サトン」はこれのギリシア語訳です。ヨセフスの『ユダヤ古代誌』(9巻85節)に「1サトンは1イタリア・モディオス(約13・5リットル)」とありますから、ここの譬えで言う1サトンは約13・5リットルで、3サトンは約40リットルです。これは100~150人もの人たちが食べる量のパンにあたります。イエスはおそらく神の国を大きな宴会に譬えて、そこで用いられる祝祭日用の大きなパンの練り粉の塊のことを指したのでしょう。
【混ぜた】原文の意味は「(パン種を)取ってそれを(パンの塊に)仕込んだ」です。マタイは「仕込む」と「発酵する」という正しい用語に改めています。
 
■ルカ13章
[20]~[21]マタイ福音書とルカ福音書とで、使われている語句が微妙に違います。ルカ福音書の語句のほうがもとのイエス様語録に忠実です。違いは、「別の譬えを語った」(マタイ)→「また言われた」(ルカ)。ルカ福音書の「何に似ているか? ~に似ている」の繰り返し。「(パン種を)仕込んだ」(マタイ)→「(パン種を)隠した」(ルカ)などです。また、発酵は一晩で起こったという説もあります〔マーシャル『ルカ福音書』〕。なおルカ福音書では、この譬えに続いて、「イエスは町や村をめぐって教えながら、エルサレムへ向かって進んでいた」(13章22節)とあり、二つの譬えが、イエスの一行がエルサレムへ向かう途中で語られたことを表わしています。
 
■『トマス福音書』(96)
『トマス福音書』では、パン種の譬えが独立しています。またここでは、譬えられているのはパン種のほうではなく「女」のほうです。ここには「3サトン」が抜けているのが注目されます。悪いことの譬えとしてパン種がでてくるマルコ8章15節/ガラテヤ5章9節にも「3サトン」がありませんから、イエスは、もともと悪影響の譬えであったパン種を御国の譬えとして良い意味に転換させたことが分かります。
 
【譬えで語る注釈】
■マルコ4章
[33]~[34]【御言葉を語られた】ここで、一連の譬えが締めくくられます。原文は「彼らに言葉を語っていた」で、「言葉」は冠詞付きの単数です。「語っていた」と不定過去形になっているのは、「このようにいろいろな譬えで」とあるように、ほかにも譬えがいろいろあって、イエスがその時々に語ったこと指します。「彼らに言葉を語る」は、ここでは単に「彼らに話した」という意味だけにもとれますが、「言葉」"the word" は、この譬えでは特に「神の国の言葉」を指し、使徒言行録になると「御言葉 (the Word) を語る」は、イエス・キリストの「福音を伝える」という意味になります。
【ひそかに】原文は「自分(イエス)の弟子たちには自分たちだけで」です。4章33~34節は同10~12節と内容的につながります。譬えは、多くの人たちに分かりやすく語るためだとしても、そこに含まれている霊的な深い意味は、なかなか理解されません。だから、「自分たちだけで」その解き明かしが必要なのです。「解き明かす」とは、特に譬えなどの「謎」を解くことです。イエスの霊性は、人それぞれに語りかけますが、それをどこまで「自分のもの」にするかは、人それぞれに委ねられているのです。ただし、ここで言う「自分に属する弟子たち」を十二弟子に限定して解釈するのか? それとも、もう少し広げて解釈するのか? この点が問題にされています。
 
■マタイ13章
[34]マタイ13章でイエスは、種蒔きの譬えを群衆に語りますが(同1節)、その後で譬えの意味を弟子たちだけに解き明かします(同17節)。それから再び群衆に(同36節を参照)、今度は「別の」毒麦の譬えを語り、続けてからし種とパン種の譬えを語ります。それから再び弟子たちだけに毒麦の譬えの解き明かしに入ります(同36節以下)。だから13章34~35節は、毒麦の解き明かしの直前に置かれていて、毒麦とからし種とパン種の譬えを群衆に語ってきたことを締めくくり、ここから、弟子たちだけに解き明かしをする段階に切り替わることを示しています。
 この34節は、マルコ4章33~34節を短くまとめたものです。イエスが一般の人たちに譬えで語ったのは、大勢の人たちそれぞれの「聞く力に応じて」悟らせるためだとマルコ福音書にあります。マタイは、マルコ福音書のこの言葉を踏まえていますが、マルコ福音書とはややニュアンスが違って、譬え以外には「何ひとつ語らなかった」と、強い否定で締めくくっています。「これらすべて」と「群衆」は、マタイ福音書にしばしばでてくる言い方ですが、マタイは「これらすべての」譬えを聞く群衆と、その解き明かしを聴くだけの霊的な理解力のある弟子たちとを区別しているのです。
[35]ここには、マルコ福音書にない旧約聖書の引用がでてきます。引用はこの場合、聖書で預言されていたことが成就したという意味で、ここは詩編78篇2節からです。この部分のヘブライ語原典は「わたしは、譬え(マーシャール)によって、わたしの口を開こう/わたしは太古からのお告げ(ヒーダー)を語り明かそう」です。「マーシャール」(単数)は「比較/類比/譬え/諺」などの広い意味で、新共同訳では「箴言」です。また「ヒーダー」(単数)は「謎/譬え/神からの託宣/歌」の意味です。七十人訳のギリシア語では、この引用は77篇からで、「わたしは譬え(パラボライス)によってわたしの口を開こう/初めからの言い伝え(プロブレーマ)を語り出だそう」です。「パラボライス」は「パラボレー」(譬え)の複数形で、「プロブレーマ」は「申し出/課題/言い伝え」のことです。この35節は、おそらくマタイ自身による編集でしょう。マタイの引用は、七十人訳からですが、後半の「言い伝えを語り出そう」では、ヘブライ語原典に照らして自由に訳しています。
【隠されていた】詩編78編はイスラエルの歴史を語り伝えていて、新約聖書においても重要な箇所です(ヨハネ6章31節でも引用)。だからマタイは、イエスが、イスラエルの歴史全体を通して神によって預言されていた「メシア」であること、このイエスこそ、天の国を支配する者であると証ししているのです。マタイの引用では、特に「天地創造の初めから隠されていたことを告知する」が問題になります。「隠されている/きた」という言い方が詩編78編とは異なるからです。マタイは、イエスの譬えが、単に旧約聖書以来の「言い伝え」や「譬え」を受け継ぐものではなく、それよりも深い神の「奥義/神秘」を民に告知し、またこれを解き明かしてくれることを言おうとしているのです。「隠されていた」ことが、「解き明かされ」「告知される」というのは、イエス以前からのユダヤ黙示思想から来ているもので、イエス自身も以後の教会も、この黙示思想の影響を強く受けています。マタイは、イエスの復活の出来事をイエスの神の国の譬えに結びつけて、この神/天の国こそ、世界の初めから神によって定められていた計画に基づくことを語りたいのです。
【天地創造の時】原文は「世界の初め」です。「世界の」が抜けている異本がありますから、「世界の」は、おそらくマタイ25章34節から来ている後からの付加でしょう。しかし、この付加は内容的に見て正しい解釈だと考えられます〔『新約テキスト批評』〕。
                        戻る