98章 畑の真珠
マタイ13章44〜46節
【聖句】
マタイ13章
44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
45また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 
【参照】『トマス福音書』
(109)イエスが言った、「御国はその畑に宝を持っている人のようなものである。それ(宝)は(隠されており)、それについて(彼は)何も知らない。そして、彼が死んだ(ときに)、彼はそれを自分の(息子に)残した。(彼の)息子(もまた)何も知らなかった。彼はその畑を受け取り、それを売った。そして、買い取った人が来て、耕作しているときに、宝を(発見した)。彼はお金を、彼が欲した人々に、利子付きで貸し始めた」
(76)イエスが言った、「父の国は、荷物を持っていて、一つの真珠を見出した商人のようなものである。この商人は賢い。彼は荷物を売り払い、自分のためにただ一つの真珠を買った。あなたがたがまた、衣蛾が近寄って食わず、虫が食いつくさぬ所に、朽ちず尽きることのない宝を求めなさい」〔荒井献訳『トマスによる福音書』講談社学術文庫より〕
                       【注釈】
【講話】
■口頭伝承/口伝について
 今回のところでは、「天国は〜のようなものである」が三つ並んでいて、これは今までもイエス様の譬えでしばしばでてきた言い方です。これらの譬えは、どれもイエス様にさかのぼると考えられます。では、イエス様が実際にお語りになった時に、こんな風に三つ並べて同じ形で語ったのかと言えば、そうではないようです。わたしたちは、イエス様語録だとかマタイ福音書だとかマルコ福音書だとか、とかく書き言葉になっ文書を意識しますが、書かれた文書が重視されるようになったのは、グーテンベルグの印刷機が発明されてからですから、16〜17世紀以降のことです。イエス様の頃は、書き言葉よりも話し言葉、文書よりも口頭での伝達のほうがはるかに重要でした。
 だから、イエス様語録も四福音書も、先にイエス様の御言葉やみ業について、話し言葉で伝えられてきたもの(口頭伝承/口伝)です。これが文書化されるのは、早ければ40年代に始まって(イエス様語録の場合)、70〜90年代に福音書という文書になったというのが正しい見方です。こういうことを言うのは、聞いたり見たりしたことを人々に口頭で伝える場合には、当然伝える人によって少しずつ形が変えられるからです。先のからし種の譬えでも、「庭/菜園」とあったり「土/土地」とあったり「畑」になったりするわけです。学問的に見ると、これは「時代に連れて変わったからだ」と見なされますが、そうではありません。口伝では、イエス様の話が<語られたその時から>、すでにいろいろな形で伝わりはじめるからです。
 同じように、口伝では、イエス様の教えだとか、譬えだとか、癒しの奇跡だとか、それらが実際に語られたり、出来事が起こったりする順番に伝わるのではありません。そうではなく、教えと譬えと奇跡とが、それぞれに分類されて、別々にまとめられてグループ化されて伝わるのです。だから、共観福音書では、山上/平地のイエス様の教えだとか、マルコ福音書の奇跡や癒しの連続だとか、マタイ福音書13章のように譬えだけが「まとまって」でてくるのです。このようにして、イエス様の御言葉とそのみ業とが、ちょうど現在のネットワークのように複雑に入り交じって広がり伝わったのです。
 こう考えてみると、福音書記者たちの行なったことが、逆にどんなにすごいことなのかが見えてきます。また、イエス様の出来事が、驚くほど正確に、イエス様の霊性が驚くほど深く語り伝えられことも分かります。わたしたちたち現代人は、活字に慣れていますから、書かれた文書に頼らないと正確ではないと思い込む傾向があります。しかし人間の口伝能力を軽く見てはいけません。古代の人たちは驚くほど早く正確に言葉や出来事を口伝で伝えることができたのです。
■宝と真珠
 では宝と真珠に入ります。20世紀になって、クムランの多くの洞窟から壺に入った大量の文書が発見されました。よくもあんな所に隠したと思えるほど、崖の真ん中にあって人が近づくことのできない洞窟に、イザヤ書やそのほか貴重が文書が隠されていたのです。クムランには驚くほど立派な図書館があり、そこで貴重な写本が保存されたり写されたりしていました。ところが紀元70年頃にローマ帝国の軍隊がパレスチナに侵攻してきた時に、クムランの人たちはそれらの文書を幾つにも分けて、大きな壺に入れて、あちこちの洞窟に隠したのです。そのお陰で、わたしたちは、キリスト教以前のユダヤ教について貴重な知識をえることができるようになったのです。井上靖の小説にある敦煌の仏典の話と似ていますね。
 イスラエルは、捕囚期時代から、実に様々な民族や帝国に支配されました。敵の軍隊が入ってくる度に、人々は貴重な財産や宝物をあちこちに隠して逃げなければなりませんでした。だから思いがけない所から思いがけない「埋蔵金?」や宝がみつかることがあったのでしょう。第二次大戦が終わって、収容所に入れられていたユダヤ人たちが、もとの自分の家に戻ってみると、多くの家の壁が破られたり天井がはがされたりしていたそうです。これは、ユダヤ人の家には、どこかに宝物が隠されているに違いないと思った人たちによって、壊されたり破られたりしたからです。イエス様は、こういうパレスチナの出来事を背景にして、今回の譬えをお語りになったのです。
■見出す・売り払う・買う
 さて、イエス様が言われる「宝」あるいは「真珠」とはなんのことだろう? 多分皆さんは、こう思っているでしょう。教会の歴史でも、ここの宝についていろいろな解釈がありました。「真理」だとか「罪の赦し」だとか「健康と幸せ」だとか「奇跡としるし」だとかいろいろあります。わたしに言わせると「宝」あるいは「真珠」とは「イエス様の御臨在」のことです。しかしこれは、皆さんがご自分で実際に体験していただかなければどうにもなりません。譬えをお読みになると分かりますが、ここでは、「見出した」「売り払った」「買い求めた」の3段階で語られています。
(1)畑に隠された宝も高価な真珠の譬えも、どちらも<現在この世で>起こることを教えています。このことに注意してください。何かがそこに「現在する」、わたし流に言えば「臨在する」のです。今自分に与えられている神様からのこの恵み、これがどんなにすごい値打ちがあるのかを直感する、見抜く、感じとるのです。パウロは「神様はわたしが生まれる前から、イエス様に導かれるようわたしを選んでくださった」(ガラテヤ1章15節)と言っています。だから、わたしたち一人一人がイエス様に導かれたのは、自分自身の過去と深く関わりがあります。導きを感じとったら、ほかのものは何にも要らなくなってしまう。これができる人は幸いです。これが「見出す」ことです。わたし流に言えば、イエス様に見出されることです。キリストの福音とは出来事だと言うのはこの意味です。自分に何かが起こるんです。「何か」がなんなのか分からなくてもいいのです。神様のことが「分からない」のは当たり前です。神様のところへ来なければ、絶対に分からないのです。自分が求めているのはこれだ、そう直感したら迷わずそれに従う。これが秘訣です。旅と同じで、始めるなら、後はなんとかなります。
(2)「見出した」なら「選ぶ」ことです。神か富か、イエス様かほかの宗教か、御霊か自己か、何かを見つけた人は選ばなければならないのです。「選ぶ」とは「愛する」ことです。この場合、多くの説教者は、イエス様のため福音のために「捨てなさい」と語るようですが、それは少し違います。今回の譬えでは、「捨てなさい」とは言われていませんね。そうではなく、「もっと大事なほうを選びなさい」、こう言われているのです。自分に現在与えられている確かもののほうです。それを「選ぶ」ならば、その人は絶対に「後悔」しません。
 イエス様に導かれて、どこまでも自分が選んだ道を歩み続ける、これが大切なんです。そうすれば、それ以外のものは自然に消えていくのです。「売り払う」とあるのはこの意味です。今まで大事にしていたものでも、イエス様のために思い切って捨てるのです。しかし、自分を他人と比べて、人と自分とどちらが上か下かなどと、互いに品定めをしていては、選ぶことも捨てることもできません。「捨てる」のではない、「求める」のです。「捨てる」とは「求める」ことです。己の道をどこまでも貫く。この覚悟さえあれば、後は任せていけば、自然と「捨てる」ことができます。だんだん分かると思いますが、捨てるのは結局「自分自身」です。得るのもイエス様にある自分自身です。ただし、「イエス様にある」が入ると、ただの自分ではなくなります。そこに人と人との交わりが開けるからです。御霊にあるコイノニアが啓示されるからです。「慰められるよりも慰める人に、理解されるよりも理解する人に、愛されるよりも愛する人に」とアッシジのフランシチェスコが祈りました。こういう人に「なる」ことができる。すごいことなんですよ。ただし、これには時間がかかります。一歩一歩と進んで行くうちに、一つずつ捨てるのです。最後に捨てるものが何にもなくなったら、初めてほんものが見えてきます。かつて小諸のママさんが言っていました。「何もかも捨ててしまえば、すごい悦びが来るよ」とね。だから、捨てることだけを考えないで、求めることを考えてください。それが「捨てる」秘訣ですから。
(3)「買うこと」に入ります。儲けるために「売って」「買う」のは、株か投資信託みたいです。ある投資顧問のプロから聞いたのですが、莫大な投資によって大きな利益をあげるプロというのは、論理や倫理や計算で動くのではない。直感的に利益を感じとって、何かの力に動かされてやると言うことです。要するに直観的に思い切って決心する、そして実行する、これができるかできないかです。妨げの力も働きます。迷いも生じます。疑いも起こります。でもとにかく実行するのです。これにはどうしても祈りが必要です。これも、やってみて初めて分かることですから、やらない人に祈りは分かりません。祈りは「持続させる力」です。どこまでも止めないで祈り続ける、求め続ける、これが祈りの創り出す「時」です。祈りは主観ではありません。客観でもありません。主観と客観が一つになる主客一如の世界です。だから<祈り求め>が「通じる」のです。祈りは、見出して、選んで、捨てて、どこまでも歩み続ける人を導くのです。「求めよ、さらば与えられん」です。
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