【注釈】
■マタイ13章44〜52節について
 13章44〜48節までには、畑に隠された宝、高価な真珠、魚を捕る網の三つの譬ええが並んでいて、どれも「(また)天の国は次のように譬えられる」で始まります。これに続く49〜52節は、イエスと弟子たちとの対話を通して、13章の始めからこれまでの様々な譬え全体を締めくくる働きをしています。
 これら三つの譬えは、四福音書では、マタイ以外に並行記事がありません。したがって、これらの譬えは、マタイ福音書だけのものです〔ただし『トマス福音書』(8)/(76)/(109)を参照〕。だからと言って、マタイが自分で作った譬えだと考えてはなりません。福音書の記事全体について言えることですが、マタイ13章に限ってみても、これら様々な譬えは、イエスにさかのぼり、聞いた人たちによって、それぞれ少しずつ形を変えながら伝え広められています。こういう口頭伝承(口伝)の場合は、そもそも始めから、少しずつ違う形で始まりますから、どれが「真正の」イエスの言葉かは容易に見分けがつきません。口伝の場合は、ここ13章のように、譬えだけがひとまとまりになったり、イエスの奇跡だけが幾つかまとまったりする「分類化」が起こります。このように、三つが同じ言い方で始まるのも、分類化によるためで、このほうが口頭での伝承としては正確に伝わりやすいのです。ただし、マタイの手元に「書いた文書」としての伝承資料が<なかった>のではありません。口伝伝承から文書伝承へ編集されたものも当然ありました。
 三つの譬えを内容的に見れば、始めの二つが御国を見出して手に入れる話ですから、これは<この世において>起きる出来事です。しかし三つ目は少し違います。ここには、この世の終わりに行なわれる<選び>が語られていますから、これは終末的な出来事です。しかも、前の二つのように良い出来事ではなく、悪い者たちに起こる裁きのことです。こういうわけで、これら三つを2回に分けて、始めに二つの譬えを読み、次回に三つ目と、イエスと弟子たちとの対話を読むことにします。
 これでマタイ13章の一連の譬えを終わることになりますが、ちなみに、13章の始めから52節までは、全体を三つに分けて、1〜23節/24〜43節/44〜52節のように見ることができます〔デイヴィス『マタイ福音書』370〜71頁〕。マタイに限らずイエスもパウロもそうですが、ユダヤ文学には、共通した内容を少しずつその意味をずらして並べて語る並列法が浸透しています。13章を三つの分けて、それぞれの構成を見ると、譬えがありこれについての問答があり、解釈がありますから、三つが並列して構成されているのが分かります。ただし、三つ目では、解釈が先に来て問答が最後に来ますが。
■マタイ13章
[44]【畑に】イスラエルは歴史的に度々よその国や民族から侵略されました。このために、人々は自分の財産や貴重品をいろいろな所に隠して逃げましたから、思いがけない場所から「宝」が出てくることがあったのです。だから、ここで「畑」と訳されているのは、原野でも田舎でも園庭でもいいのです。見つけた人はなんとしてでも手に入れたいと思いますから、他人の畑だからとか、隠すのはずるいとか、そういう法的あるいは倫理的なことは、この際問題になりません。譬えは、細々した点にとらわれては、その本質を見失います。ここの譬えも次の高価な真珠の譬えも「売り払って」から「買った」とあります。これは、何かを獲得するためには、何かを犠牲にしなければならないことを表わしているとも言えます。しかし、ここは「捨てる」ほうより「得る」ほうに重点が置かれています。ヘブライの考え方によれば、「より値打ちのある物」を「より値打ちのない物」で手に入れるやり方です。こういう賢いやり方が、比較対照の方法で語られているのに注意してください。
【隠されて】原文は「それまで隠されたままになっていた宝」です。見つけた人(単数)は、それを再び「隠した」〔アオリスト/過去形〕のです。続く「帰る」「売る/交換する」「買う」は現在形です。「発見した人」はここで「思い切って買う決心をする」こと、すなわち「選ぶ」ことが求められるのです。この「宝」を発見した人はおそらく貧しい人ではないでしょうか。続く「高価な真珠」の譬えは金持ちの人についてでしょう。
【売り払う】マルコ10章21節のイエスの言葉を参照。
[45]〜[46]原文は「天国は上等の真珠を探し歩いている商人のよう」です。譬えは、「真珠」のほうよりも、むしろ「探し求めた商人」のほうに目を向けています。
【高価な真珠】「とびきり上等の真珠一つを見つけた〔アオリスト〕」とありますから、やっと探していたものに「出逢った」体験をしたことが分かります。だから、続くのは「出かけた」「売り払った」「買った」と思い切って決断したことがアオリスト(過去)形で語られています。真珠は当時インドから輸入されていたきわめて貴重な品でした。だから商人とは貿易商のことでしょう。見つけた真珠が<とびきり上等の一つだけ>とあるのがポイントです。「一つ」とあるのは、ほんらいのアラム語では「ある上等の」くらいの意味だということですが〔デイヴィス『マタイ福音書』439頁〕、教会の伝承もマタイもここでは「一つ」を意識して強めていると見ていいでしょう〔ルツ著『EKK新約聖書註解・マタイによる福音書』454頁〕。
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