99章 魚を選り分ける
マタイ13章47〜50節
【聖句】
マタイ13章
47また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
48網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
49世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、
50燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
 
【参照】『トマス福音書』(8)
 そして、彼が言った、「人間はその網を海に投じた賢い漁夫のようなものである。彼はそれを小魚で満たして、海から引き上げた。それらの中に彼は、一匹の大きな良い魚を見出した。つまり、賢い漁夫がである。彼は小魚を全部海に投じた。彼は大きな魚を選び出して、苦労するところがなかった。聞く耳ある者は聞くがよい」(荒井献訳)
                        【注釈】
【講話】
■人間の値打ち
 イエス様が語られた地引網/底引き網の譬えでは、無数の魚が網にかかります。しかし、終末には、「善い魚」と「悪い/要らない魚」とにより分けられて、要らないものは捨てられるのです。魚市場の業者さんたちは見る目が肥えているから、魚が善いか悪いか一目で分かります。「いいもの」には当然「いい値」がつきます。悪いものは値打ちがない。魚の値段はその魚の「値打ち」です。では、人間の「値打ち/価値」は何で決まるのでしょう? イエス様と父なる神から観た「その人の値打ち」によるのです。人間は人格です。では、人格の「価値」とはなんでしょう?
■キリストにある「わたし」
 パウロは、「わたしは主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(フィリピ3章8節)と言っています。なんと彼は、エフェソの牢獄で、明日死ぬかも知れない状況の中でこの書簡を書いているのです。ここには、わたしたち「人間の値打ちとはなにか?」が、はっきりと語られています。
 そうです。わたしたちの内にいて下さるイエス様、これのすばらしさに勝る者がありません。それは全人格的に働く「愛」であり「悦び」であり「平安」です(ガラテヤ5章22節)。わたしのように歳をとると、このことがいっそうよく分かります。この歳になると、人は、過去に自分がした業績のことや、自分の息子や孫のことを自慢したがります。それ以外に、ほんとうに自分の値打ちを見いだすことができないからです。でも、年寄りの値打ちはそういうものではないでしょう。自分が現在どのような霊性に「ある」のか? 今までのことでも、これからのことでもない。今現在のこの日この時に、自分がどういう自分に「なっているか」、これが一番大事なんです。復活のイエス様とは、これすなわち、「あなたがたの内にいますキリスト、栄光の希望」(コロサイ1章27節)です。
■創造する神
  聖書の神様は、土地を持ちませんから、どこのどんな民でも平等で対等に扱われます。その代わり、アマテラスなどの日本のカミガミのように、自分たちの先祖の神ではありませんから、まあ、これぐらいは大目に見てもらえるだろうという「甘え」が許されないのです。でもね、聖書の神は、天地の創り主だから、わたしたちの体をお造りになり、わたしたちの心臓を動かしておられるのです。だったら、わたしたちは聖書の神と親子以上に深い関係があるはずです。神様とわたしたちとの関係は、造り主と造られた者との関係です。神様は宇宙を造り続けておられる。わたしたちは宇宙の一部であって、造られているほうです。だから天地の創造主であられる神は、わたしたちの心臓を動かしてくださっています。
 「あるがまま、そのまま」でいいのです。だからと言って、「あるがまま、そのまま」のわたしたちを神様は甘えさせてはくれませんよ。なぜなら、わたしたちの心臓の鼓動のように、イエス様の父なる神は、わたしたちに刻々と働きかけていてださるからです。そもそも、命そのものが、神様から「与えられている」ものなのです。
■自己中の人間
 「あるがままそのまま」で甘えさせてもらえないとは、どういうことなのか?皆さんはそう思うかもしれません。親子関係は「自然な」血縁関係から生じたからと言って、この関係を無制限にどこまでも延長するとおかしなことになりますよ。甘い物が好きなのは自然な要求だからと言って、甘いものに甘えていたら、体を壊しますよ。自分が自分を愛するのは自然だと言って、この「自然」を無制限に拡大すると奇怪な自己中心の化け物に変わるのです。自然な人間でも「不自然」なものに転落するんです。だから「自然」は、注意しないと「不自然」に陥るのです。「あるがまま」はうっかりすると「わがまま」につながるのです。自然な自分を放置すれば自己中心に陥りやすいのです。自己中心が過ぎると、体だけでなく心も病気になります。こんな例、今の日本にいっぱいあります。
■隣人愛
 聖書の神はわたしたちをお造りに「なった」だけではありません。創造の神は常に創造「し続けて」おられます。わたしたちの心臓は宇宙の鼓動とつながっているのです。だからわたしたちは、この神のお働きに<合わせて>生きるように神のお言葉であるイエス様を通して、「働きかけ」を受けています。わたしたちの一部ではない、わたしたちの全人格的な有り様においてイエス様の御霊の働きかけを受けているのです。だからわたしたちはそのお働きを自分のほうから「受け入れる」のです。これを「信じる」と言います。
 イエス様は言われました。「自分を愛してくれる者を愛しても、どれだけその人の値打ちになるだろうか」と。動物でも生まれつきの人でも、それぐらいはするでしょう。イエス様は、「むしろ善人をも悪人をも隔てなく愛しなさい」と言われました。あるがままの自然な人間は「自己中心」に陥りやすいです。イエス様の父なる神が求めておられるのは、そのような自己中心的な人間ではありません。これとは正反対の「隣人愛」の人間です。
 アッシジの聖フランチェスコは、キリスト教の歴史の中で、最もイエス様に近い人だと言われています。この聖フランチェスコはこう祈りました。
 
 主よ、わたしをあなたの平和のために
          用いてください。
 憎しみのあるところに愛を
 害悪のあるところに赦しを
 疑いのあるところに信仰を
 絶望のあるところに希望を
 暗闇のあるところに光を
 悲しみのあるところに悦びを
 蒔く者にしてください。
 
 主なる神よ、どうかわたしに
 慰められるよりも慰めることを
 理解されるよりも理解することを
 愛されるよりも愛することを
 かなえてください。
 なぜならわたしたちは
 与えることによって受け
 赦すことによって赦され
 死ぬことによって永遠に生きるからです。
 
 これが甘えの自己中の正反対にあたる隣人愛の祈りです。けれども、これは当たり前(ナチュラル)の人、自然(ナチュラル)な人ではありません。しかし、不自然(アンナチュラル)な人でもありませんよ。不自然は自然の延長上に生じるからです。そうではなく、これは超自然(スーパーナチュラル)な人です。「超」というのは、人格的なペルソナの神から来るという意味です。だから「超」を「聖」と言い換えてもいいです。これを人間のする業で喩(たと)えるなら、野生の花々はそれだけでも美しいです。しかし、これを採りだしてその人独自の美の世界を創り出すのが活け花です。他の動物にはできないことです。このようにあるがままの自然の中から、自分の独自の世界を創造すること、そうすることで自然そのものから「人格的な価値を」創り出すこと、このように「自然を超えようとする」能力が人間には具わっています。「自然」な状態は動物の世界です。これを活かして、「信仰」「希望」「愛」のような人格的な価値を創り出すのが「超自然」の働きなのです。イエス様の御霊がわたしたちにあって創り出そうとお働きになっているのが、こういう「新しい人格」です。人間の価値は神様のお姿を宿した人格にあるのです(創世記1章27節)。イエス様の父なる神が「善い」か「悪い」かを見分ける人間の「値踏み」の基準はこれです。
■働きかける神
 さあ、大変。「それではいったいだれが救われるのですか?」弟子たちはおそるおそるこうイエス様に尋ねました。するとイエス様が言われた、「それは人間にはできない。しかし神様にはできる。神様は何でもできるんだよ」と(マルコ10章27節)。だからわたしは思うのです。イエス様が復活されて、今も生きて働いてくださっておられるから、そんな不思議な「超自然」が可能になるのだとね。そうでなかったら、わたしたちは絶対に救われません。神様が存在するかどうか? 皆さんは、そんなことを考えておられるかもしれません。でも、わたしたちがそんなことを考えているその間にも、神様はちゃんと働いていてくださるのです。
 「知らない」「気がつかない」ということは恐ろしいことで、わたしたちは、自分が神を知らないこと、分からないこと、先ずこのことに気づかされなければなりません。気づくこと、それさえも、神ご自身のお働きです。これを気づかせてくださる方、そして日々わたしたちを導いてくださる方、これが御復活のナザレのイエス様です。イエス様の御国は、イエス様によって始まりました。ただ始まっただけではない。終わるまで、神様が働き、神様がわたしたち一人一人を通して、ご自身の御業を完成して下さるのです。大丈夫です。父なる神がイエス様を通して遣わされる御霊は、わたしたちをちゃんと導いてくださいますよ。だから安心してください。そしてこう祈りましょう。
 イエス様、どうかご自身をわたしたち一人一人に顕わしてください。どうかあなたの御霊にある御臨在をこの場にお与え下さい。わたしたちの交わりにあなたが御臨在下さい。わたしたちはなにもできません。ただ、あなたの御霊のお働き、ナザレのイエス様の御臨在にあるお働きにお委ねするだけです。どうか、わたしたち一人一人にあなたが宿り、あなたのご人格を顕わす者としてください。あなたは、絶対無条件の恩寵によって、あなたご自身をわたしたちにお与え下さいました。どうかその神のみ心をわたしたちに成就させてください。
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