新旧を分ける
マタイ13章51〜52節
【聖句】
51「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。
52そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
                       【注釈】
【講話】
■三つの力
 今回で、一連のマタイの御国の譬えを終わります。イエス様は一般の群衆には譬えで語りました。しかし、弟子たちにはその譬えを解き明かしました。そして「あなたがたは、これらの譬えが分かったか?」と尋ねられた。弟子たちは「はい、全部分かりました」と答えました。イエス様は、一般の群衆と直弟子たちとをお分けになったとありますが、それなら、イエス様の教えは特別なエリート向けのものでしょうか? そうであるとも言えるし、そうでないとも言えます。では、これはどういうことなのか?この辺のところを今日は考えてみたいのです。
 52節で問題にされているのは「学者」です。これは宗教的な分野を扱う専門家たちのことです。人間の世界は、政治的な権力と学問的な知力と宗教的な霊力という三つの「力」によって支配されています。人を支配できるこれらの力は、だから、多くの人たちがこれを求めます。ところが、これらの力には難しい問題が潜んでいるのです。どこが難しいのかを考えてみましょう。
■国家権力
 私がある大学に勤めている時に、入試問題の作成にかかわったことがあります。その際に、「理想の国家とは、国家権力が、国民一人一人の生活の隅々にまで行き渡っている国である」という文章に出逢ったのです。私は、このような国は、一人一人が国家の権力に支配された最も恐ろしい全体主義の国ではないかと思い、これはおかしいと、すぐに入試委員長に申し出ました。彼もその通りだと認めてくれましたが、この文を書いた人は、「理想の国家とは、国家権力が、国民一人一人が<自由に暮らしていけるために、それとは気がつかずに>生活の隅々にまで行き渡っているような国である」という意味で書いたことが分かりました。<自由に暮らしていけるために、それとは気がつかずに>が「ある」か「ない」かで、権力が最も優れた働きから、最も恐ろしい働きへと転落するのです。北朝鮮と韓国とを引き合いに出すまでもなく、これら二つは天国と地獄ほど違います。国家の最高権力が、<人が自由でいながら、それと気づかない状態で>、その国の最低の人にまで及んでいるのが、理想の権力の有り様なのです。でもこれはとても大切なことで、しかも難しいです。
■学問的な知力
 学問的な知力も国家権力と類似しています。コイノニア会のNさんが今度農業の仕事に従事されるそうです。彼はコンピューターのプログラマーですから、ひよっとすると、新しいコンピューター技術による農作物の栽培を手がけることになるかもしれませんね。コンピューターで管理された農作物が、コンピューターのことなど何にも知らない子供やお年寄りが食べることができるんです。その場合に、「これはコンピューター栽培だ」とすぐ分かる作物では、十分とは言えません。食べる人が、コンピューターを全く意識しないで、おいしいと食べるようになった時に初めて、「完全な」コンピューター技術になるのです。ものすごい知識と技術です。これがほんとうの学問の目的なのです。ほんものとは、その恩恵に与る人たちが気がつかないほどすごいのです。最高の電子技術が、最低の知識さえ持たない人が使う道具の中に組み込まれています。このように、学問的な知力が最高に発達したところでは、そのような知識に恵まれない最低の人たちのためにその知力が活かされていて、しかも人々は「それとは気づかない」のです。
 古代エジプトの天文学、古代中国の科学知識、中世アラビアの科学、これらはすぐれていましたが、その知識によって世界をリードするにはいたりませんでした。一部のエリートだけが独占したからです。高い知識は必要です。知力は大事にしなければなりません。しかし、その知力が産み出す知識が万民に開かれていないところでは、知力が人間の歴史をリードする力にはならないのです。そのような知力は、エリートの特権維持のためにすぎませんから、「人を救う」働きが失われるのです。だから、最高の知力とは、最低の人を救うことのできる力のことです。でもこのような知の在り方は、実はとても難しいのです。
■宗教的な霊力
 次は「霊力/霊威」についてです。ここで「霊力」と言うのは、宗教的な「権威」のことです。イエス様の頃のユダヤ教では、律法学者たちが、このような霊的な権威を保持していました。けれども残念ながら、彼らの律法の知識とその霊的な権威は、民の貧しい人たちを救う働きをしてくれませんでした。イエス様が律法学者たちを厳しく批判されたのはこのためです。
 「一粒の砂に世界を見、一輪の野の花に天国を見る」とイギリスの詩人ウィリアム・ブレイクが歌いましたが、最大の宇宙を創造された神様の霊威は、世界の最小のものにまで顕れています。イエス様が「空の鳥、野の花を見なさい」と言われたのもこの意味です。最高の霊的権威が、最低の存在をも<それと気づかせることなく>護り支えるのです。マタイ福音書のイエス様が、弟子たちに「これらのことが<すべて>分かったか」と問われた<すべて>とはこの意味です。弟子たちは「はい分かりました」と答えていますが、弟子たちはイエス様が「あなたがたの中で最も高い人は、最も低い人に仕えなさい」と言われたことが、ほんとうに「分かった」かどうか、これは難しいです。
■啓新温故
 だからイエス様はさらに弟子たちに言われました、「天国の学者とは、新しいものと古いものとを取り出す人のようだ」と。昔から「温故知新」という言葉があります。「古きを尋ね暖めて、新しきを知る」という意味です。これは「昔の人の知恵を探ることで、新たな道を見出しなさい」という意味ですが、マタイ福音書でイエス様が言われているのは、これとは少し違うようです。イエス様はここで「新しいもの」のほうを先に出しておられます。だから、マタイ福音書は、先ず「イエス様こそほんとうの救い主であることを悟りなさい」と言うのです。そうすれば、「古いもの」がどういう意味を持つのかが見えてくるからです。まずイエス様の御臨在が啓示されて、その御臨在にあって初めて、旧約聖書も、わたしたちの国の過去の宗教も、わたしたち一人一人の今までの経歴も、すべてが「新しく」見えてくるのです。 だからこれは「新たな啓示を与えられて、古いものを再発見すること、「啓新温故」です。
■聖なる王冠
 最高の権力も、最高の知力も、最高の霊的な権威も、最底辺の人たちを救い支えるために存在していること、これが、イエス様がここで弟子たちに「分からせたかった」ことです。神様の「恵み」と言い、「慈愛」と言い、「憐れみ」と言うのは、このようなお働きのことです。これは「人間にはできません」。でも「神様にはこれができる」のです。人間の権力も知力も霊的権威も、神に献げられ、神のものにされて初めて、「聖なる王冠」(ラテン語の"sacra corona"から)を授かるのです。シェイクスピアの『ヴェニスの商人』には、女主人公のポーシャが語る次のような有名な台詞があります。
 
 慈悲こそ力あるものの最大の力、
 王座に座る者に王冠よりもふさわしい。
 王の権力は一時的なこの世の力
 恐れと厳(いか)めしさを伴う。
 だが慈悲は王権の上にあって
 王たちの心の王座に座るべきもの
 慈悲は神御自身に具わるもの
 地上の力が最も神に近づくのは
 慈悲が正義に伴う時である。
 (シェイクスピア『ヴェニスの商人』4幕1場)
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