【注釈】
[51]~[52]【学者】13章51節は同36節と対応しています。イエスの譬えを聞く一般の民衆と、譬えを含めてイエスの教えを「全部理解した」(原文)「学者」たちが対照されています。ユダヤ教でいう「学者」とは、聖書に精通した律法学者のことです。共観福音書では、彼らはファリサイ派と並んでイエスによる批判の対象となります。この意味でマタイ23章1~8節とここ51節とは対照的ですから注目されています。ここ51節では、イエスはユダヤ教の権威あるラビ(師)に相当するのです。そして、師の問いかけに「はい」と答えているのはイエスの「弟子たち」です。「学んだ(学者)」とある「学んだ」の原語は、「弟子になる」ことを意味する動詞で、これもマタイの言い方によるものでしょう。マタイ福音書の作者自身が、律法に明るいユダヤ教の律法学者だったのでしょうか。だから、ここ51節で言う「学者」とは、ユダヤ人キリスト教徒であって、「イエスがメシアである」ことを学んで悟っただけでなく、旧約聖書(とその律法)にも精通していたキリスト教の指導者たちのことです(マタイ2章4節を参照)。おそらくこういう「弟子たち」がマタイの教会にいたのでしょう〔ルツ『マタイ福音書』467頁〕。
 ユダヤ教の優れた律法学者は、律法に含まれる「知恵の倉」を開いて、父祖から伝わる「古い知恵」を継承し、そこに「新しい解釈」を盛り込むことができました。だから、マタイが言う「学者」たちも、かつての旧約のすぐれた学者たちのように(エズラ記7章10節)、律法に精通していて、特に黙示思想によって啓示された「終末の訪れ」について学んでいたと考えられます。『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)では、「天に取り去られたエノク」が、黙示を授けられた「義の学者」と呼ばれています(第一エノク書12章3節)。このように至高の律法を授かって、隠された神の知恵に与って預言する者が、ここでマタイの言う「学者」なのです〔デイヴィス『マタイ福音書』446頁〕。
【新しいものと古いもの】イエスの「弟子にされて」天の国(御国)のことを深く学び知った人(原語は単数)は、「自分の家の倉」から客をもてなす(人々に教えを説く)ために古いものと新しい者とを取り出してくるのです。ユダヤ教では、伝統的に「古いもの」とはモーセ律法のことであり、「新しいもの」とはモーセ律法から生まれた後の学者たちの解釈(ハラカーなど)のことです。しかしここ52節では、イエスにある新しい神の国の霊性に基づいて、伝えられてきた古い伝承を吟味して、そこから新しい「教え」を産み出すことです(マタイ9章17~18節)。その際に大事なのは、「イエスにあって与えられた新たな啓示」が先ず優先することであり、この観点から「古い」ユダヤ教の(旧約)聖書を吟味することです。「新しいものと古いもの」とあるように、「新しい啓示」が先に来るのです。旧約聖書は、イエスがメシアであることを証ししており、神の子イエス・キリストを預言するものであるというのが、ここでのマタイの新旧の意味でしょう。イエスが預言されたメシアであることをいかにして聖書によって証しするのか、これがマタイの教会の「学者」たちに求められていたのです。
 だから、51~52節はマタイの編集と思われますが、マタイがここで言う「古いもの」とは、旧約の律法からの啓示、ユダヤ教、隠された啓示/黙示などであり、「新しいもの」とは、イエスの新しい律法解釈(マタイ5章17~48節など)、イエスの教え(譬えを含む)、終末について開示(啓示)された黙示と知恵、これらに基づく福音的な律法解釈、異邦人キリスト教徒の在り方などを指すのでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』447頁〕。
                        戻る