【注釈】
■マルコ6章
 マルコの今回の記事は、これに続く6章17節以下で語られる洗礼者ヨハネの殉教の出来事への序文としてでてきます。とは言え、時間的な順序では、洗礼者ヨハネの殉教が先にあって、今回のヘロデによるイエスへの言及がその後に来ることになります。だから、殉教は、言わばヘロデの話からの「回想」として語られています。
 マルコ福音書では、この記事が、これに先立つ十二弟子の派遣と、イエスと5000人の食事の出来事と、これら二つの間に置かれています。だから今や、イエスの名声は、ガリラヤの統治者ヘロデの耳に届くほどになったのです。ヘロデは、先に洗礼者ヨハネが行なったように、今度はイエスが、再び民衆を「扇動して」騒ぎを起こすのではないかと疑ったのでしょう。このヘロデの懸念は、その後エルサレムの指導者たちの懸念となって、イエスも洗礼者ヨハネと同じ殉教の道をたどることがここで示唆されています。ヘロデの懸念が、そのまま回想の形で洗礼者ヨハネの殉教へとつながるのは、このようなマルコの構想からです。マルコ福音書で、弟子たち以外の一般の人たちのイエスへの評判がでてくるのは、ここだけですから、その意味でこの箇所は注目されています。
[14]【ヘロデ王】ヘロデ大王の息子たちの一人ヘロデ・アンティパス(在位前4年~39年)のことで、その母はマルタケです。大王の死後(前4年)、その領土は大きく四つに分割され、異母兄弟である3人の息子たちが統治することになりました。しかし、ユダヤの統治を任されたアルケラオスは失脚して追放されましたから、イエスの頃には、(1)サマリアとユダヤはローマ帝国の属州に組み込まれており、(2)ガリラヤはヘロデ・アンティパスの統治に、(3)ガリラヤ湖の東一帯のバタネアとガウラニティスはフィリポの統治に、(4)ヨルダン川の東岸地域ペレアはヘロデ・アンティパスの統治に任されていました。
 父ヘロデ大王が亡くなり、異母兄弟たちが領土を受け継ぐと、アルケラオスはローマに赴いて自分にも「王位」を授けてくれるよう皇帝に願い出ます。ところがこれを聞いたガリラヤの領主アンティパスも、直ちにローマへ駆けつけて、自分のほうこそ王冠を受けるにふさわしいと陳情したために、ユダヤとガリラヤとの領主二人がローマ皇帝の前で王冠の争奪を演じる結果になったのです〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』17巻11章4節〕。結果はどちらも願いがかなえられませんでした。しかしアンティパスは、支配下の領土では「事実上は」王であるかのように振る舞っていたようです。「ヘロデ<王>」とあるのはこのためでしょう。
 ヘロデ・アンティパスは、ヘロデ大王の遺志を継いで親ローマ政策を採り、2代目のローマ皇帝ティベリウス(在位14~37年)の「友人グループ」に加わることができました。彼はガリラヤ湖畔に町を建設し、これを皇帝の名にちなんで「ティベリアス」(ギリシア名)と名づけ、この町に、湖畔を見下ろす王宮を建て、また貨幣を鋳造しています〔Anchor(6)547〕。その親ローマ政策は功を奏して、兄アルケラオスよりもはるかに長く政権を維持することができ、領土を息子に受け継がせることができました。このように抜け目のないアンティパスのことをイエスは「狐」と呼んでいます(ルカ13章32節)。
 アンティパスは、死海の東方ナバテアの都市ペトラの王アレタスの娘と結婚しましたが、アンティパスの異母兄弟ヘロデ(母はマリアンメ2世)の妻ヘロディア(彼女もまたアンティパスの異母兄弟アリストブロス4世の娘)と恋に落ちて、アレタス王の娘を離別してヘロディアに求婚したのです。ヘロディアもまたこれに応じて夫を取り替えます。これで見ると、ヘロディアは、アンティパスの姪になりますから、この「不倫と近親結婚」は、洗礼者ヨハネの厳しい批判を受けることになりました。このために洗礼者は捕らえられ、牢に入れられて、ヘロディアの恨みをかって殉教することになります(28年?)。マルコ福音書では、ヘロディアの前夫の名が「ヘロデ」ではなく「自分の兄弟フィリポ」(マルコ6章17節)とありますが、前夫の名の「ヘロデ」は父の名にあやかる公称で、個人名が「フィリポ」だったのでしょうか、それともガリラヤの東方を支配したアンティパスの異母兄弟フィリポのことだと間違えたのでしょうか? ヨセフスによれば、アンティパスは、洗礼者ヨハネの周囲に集まる人たちが政権を揺るがす革命を起こす前に、「先手を打って」ヨハネを殺害したとあります。
【人々は言っていた】原文はヘロデから突然「(人々が)言っていた(複数)」に移行しますから、やや不自然な感じがします。このためにこの動詞を「彼(ヘロデ)が言っていた(単数)」に改めている異本があります。おそらくこれは後の書き換えで、複数の「言っていた」がほんらいの読みでしょう。だから、主語の出てこないこの「言っていた」が、イエスへの評判の最初の例で、これに「そのほか」の人々の例が続き、さらに3番目に「昔の預言者」という評判が続くことになります〔『新約テキスト批評』89頁〕。
【洗礼者ヨハネ】
 洗礼者ヨハネは、下級祭司の出であったと推定されています(ルカ1章)。当時の祭司は、エルサレム神殿を中心とする貴族的祭司階級と地方の農村に住む下層の祭司階級とに分かれていて、両者の関係は、当時のパレスチナの支配層と被支配層との関係を反映していました。洗礼者ヨハネは、以前からクムラン宗団となんらかのつながりがあると言われてきました。それは、エルサレム神殿の祭司制度やファリサイ派に対立する彼の姿勢が、クムランのエルサレムに対する姿勢と重なるだけでなく、彼が洗礼を宣べ伝えた場所が、クムラン宗団の建物があった場所でエッセネの人たちが多かった土地と重なるからです。クムラン宗団と彼とは、終末の裁きが迫っているという信仰において、また「主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」(イザヤ書40章3節)と呼びかける点で共通していました。
 洗礼者ヨハネは「荒れ野の預言者」とも呼ばれていますが、彼の洗礼活動はヨルダン河の東岸で、死海からやや北の東岸に住んでいたと思われます。彼はここで、商人、駐屯の軍人、その他の人たちに悔い改めを説いていたのです。ヘロデ・アンティパス(在位前4~後39年)は、ガリラヤとペレアの領主でしたから、洗礼者ヨハネがいた川の東岸は彼の支配下にありました。だから、ユダヤの律法に背く「不倫と近親相姦」として、洗礼者から厳しい非難を受けた時、洗礼者は、ヘロデヤの差し金によって捕らえられ、死海の東にある砦マケルスの牢獄に閉じこめられて、そこで処刑されました。彼の殉教の時期は、はっきりとは分かりませんが、28年?でしょうか。
 なぜ洗礼者ヨハネは、わざわざアンティパスの領地であるヨルダンの東岸で伝道したのでしょうか? 西岸あるいはエリコに近い場所であれば、アンティパスの結婚を非難したとしても、彼の支配地域外ですから、比較的安全ではなかったかと思われます。この謎を解く鍵は、エリコに近いヨルダンの東岸という場所それ自体にあります。そこはかつて、ヨシュアがイスラエルの民を率いて、長い荒れ野での放浪から、約束の地へ足を踏み入れたまさにその境界の場所だったからです(ヨシュア4章13節)。洗礼者ヨハネは、イスラエルが約束に土地に入る<以前の>イスラエルの民の<荒れ野での生活>を再現しようとしたのです。彼のこの生活のスタイルは、「大食漢で大酒飲み」(マタイ11章19節)と言われたイエスのそれとは対照的です。
 洗礼者ヨハネの身なりには(マルコ1章6節)、預言者エリヤの姿がこめられていました(列王記下1章8節/ゼカリア13章4節)。イエスが洗礼者ヨハネを「預言者以上の者だ」(マタイ11章7~9節)と呼んだのはこの意味です。洗礼者自身は、自分の活動をイザヤ書40章3節/マラキ3章1節に基づくものと見ていました。それは「火による裁きと悔い改め」(マラキ3章19節)で、このモチーフが、エリヤと洗礼者とを結びつけています。エリヤもまたエリコから出てきて、ヨルダン川の東岸で「つむじ風に乗って昇天した」(列王記下2章1~18節)からです。洗礼者がエリヤであるという伝承は(ルカ1章17節)、洗礼者ヨハネ宗団にまでさかのぼると見ることができます。エリヤは祭壇を先ず水で浸し、その後で祭壇に「主の火」が降るのを祈り求めました。この「火」は「裁き」というより「主の臨在」を意味するから(士師記6章21節)、洗礼者の言う「火と霊」もこれに近いものではなかったかと考えられます。
 洗礼者ヨハネが祭司の出であることは、彼の洗礼にとって不可欠な要素でした。祭司だけが神の権威を帯びて、洗礼を授ける儀礼を執り行なうことができたからです。しかし彼は、人々をヨルダン川の岸辺<までしか>連れて行くことをせず、そこで洗礼を授けたのです。ヨルダン川の向こう側へは裁きと救いの時に初めて到達できるからです。だから、ヨルダン川は、裁きと救いが表裏をなす終末へいたる<渡しの場>であったことになります。洗礼者ヨハネの洗礼が「死」を意味する「悔い改め」が目的であるというのは、後の新約聖書の解釈です。彼の洗礼は、ほんらい「命」が、裁きを経て救いにいたる洗礼であったと見るべきでしょう。新約聖書では、この命にいたる洗礼は、イエスに帰せられることになり、イエス自身もこの意味で洗礼を受けたのです(マルコ1章9~11節/マタイ3章13~17節/ルカ3章21~22節/ヨハネ1章29~34節)。
クムラン宗団は加入者に一定の条件を課していましたが、洗礼者はこのような制限を一切もうけませんでしたから、洗礼者のもとには、庶民や下層の人たちだけでなく、知識階級の人たちもその呼びかけに応じた可能性が大きく、彼の周りには「社会を変革できる立場にいる人たち」が相当数いたと考えられます。この意味で彼のメッセージは、社会の体制を変革しようとする意図を含んでいたと言えます。そうであればこそヘロデは、民衆が彼を指導者として暴動を起こすことを恐れたのでしょう〔詳しくは、コイノニアホームページ→聖書講話→四福音書補遺→「洗礼者ヨハネについて」を参照〕。
【生き返った】ここで「復活」という言葉がでてきます。ここでは、この言葉が洗礼者ヨハネについて用いられていますから、これを直ちに後のイエスの「復活」と同じ意味に理解するのは適切でありません。人々の中には、あるいは死んだ洗礼者ヨハネがイエスとなって「生き返った」と思った人たちがいたのかもしれません。ただし、これを「輪廻転生」だと受け取るのは誤りです。こういう噂(うわさ)は、当時のパレスチナの人たちの素朴な民間信仰から出ているのでしょう。イエスが洗礼者から受洗して、洗礼者ヨハネとイエスとが<同時に>生きていた時期があることを知っている人からは、このような話は生じません。
 ここの原語のほんらいの意味は「目覚めさせる/起こす/立ち上がらせる/生き返らせる」ことですから、原語を直訳すれば「(洗礼者ヨハネが)死から目覚めて生き返っている」です。このすぐ後でエリヤがでてきますから、ここの「生き返った」は、エリヤの弟子であるエリシャが、師のエリヤにどこまでも従っていくことによって、「天にあげられる」エリヤから2倍の霊的な力を受け継いだという伝承から来ています(列王記下2章1~15節参照)。この伝承から判断すると、イエス(エリシャ)は洗礼者ヨハネ(エリヤ)の「弟子」であったことになります。確かにイエスは、ヨルダン川で洗礼者ヨハネによって洗礼を受けています(マルコ1章9節)。また、マルコ福音書によれば、イエスは、洗礼者ヨハネが捕らえられた<後に>伝道を始めています(同14節)。
 しかし、マルコ福音書は洗礼者ヨハネについてこれ以上語ることはせずに、受洗したイエスは、直ちに荒れ野へ導かれて誘惑を受け、それから宣教を開始します。イエスは悪霊追放や病の癒しなど「力ある業」を顕わし人々を惹きつけます(「奇跡を行なう力」と訳してあるのはこのような霊的な働きのこと)。しかし、それ以上に大事なのはイエスの霊的な人格を通して働く「神の国」です(マルコ1章15節/10章13~16節)。だから四福音書では、洗礼者ヨハネはイエスの「先駆け」になり、後から来るイエスへの「道を備える」ことになるのです(マルコ1章2~3節)。この点を最もはっきり言い表わしているのはヨハネ福音書です(ヨハネ3章29~30節)。
 ただし、主としてユダヤ系の学者から、イエスと洗礼者ヨハネとの関係は、実際はもっと深かったのではないか?という説も提起されています。イエスとその十二弟子たちと、さらにイエスの家族までが、受洗の後かなりの間(一年ほど?)、洗礼者ヨハネの洗礼運動に同行していたという説もあります〔Tabor, The Jesus Dynasty. 138-142.〕。このように、洗礼者ヨハネおよび彼の宗団と、イエスとこれに続くキリスト教会と、両者の関係は複雑で、歴史的にまだ解明されていないことがあるようです。
[15]14~15節では、イエスについて人々の三つの「名声」が記されています。(1)イエスは洗礼者ヨハネの生き返りだ。(2)イエスはエリヤの再臨だ。(3)イエスは「昔の預言者」だ。この三つです。(1)はすでに説明しました。(2)のエリヤは、終末に再臨すると信じられていました(マラキ書3章23~24節)。なお、マルコ福音書9章12~13節では、洗礼者もまた「エリヤ」であることがイエスの口から語られています。(3)の直訳は「昔の預言者たちの一人のような預言者」です。洗礼者ヨハネの説明で述べたように、洗礼者はイスラエルの民を率いてヨルダン川まで連れてきたモーセにも比せられています。モーセも終末に再臨すると伝えられていましたから(申命記18章18節参照)、後にイエスがタボル山で変貌する時にエリヤとモーセが顕現します(マルコ9章4節)。「預言者たち」とありますから、イエスは預言者だと信じられていたのですが、いったい「どのような」預言者なのか? 人々の間でいろいろと語られていたのです。
[16]ヘロデ・アンティパスも人々のうわさを聞いて、彼なりに「洗礼者ヨハネの生き返り」を信じたようですが、彼の場合は、そのことが直接の脅威になります。マルコはヘロデがイエスに危害を加えようとしたとは述べていませんが、ルカはこのことに触れています(ルカ13章31節)。ただし、マルコ福音書では、これ以後、イエスの一行はヘロデの領土内に留まることはなるべく避けて、ガリラヤ湖の東北のほうや地中海沿岸のティルスのほうを巡回しています(マルコ6章45節/7章24節)。
 
■マタイ14章
[1]マタイは、この出だしの部分をマルコ福音書の記事に基づきながら、これを大幅に縮めて、訂正を加えています。マルコ福音書の「ヘロデ<王>」を「<領主>ヘロデ」に変えて、彼が正式の「王」ではなかったことを明確にして、「ヘロデ大王」と混同されるのを避けているのでしょう。
[2]マルコ福音書では、ここはヘロデが言ったことではなく、人々が噂していたことに含まれていますが、マタイ福音書では、はっきりとヘロデ・アンティパスが言ったことになっています。マルコ福音書の「言っていた」とある動詞の主語がはっきりしないために、マタイはこのように訂正したのでしょうか? それとも、マタイの用いたマルコ福音書では、複数の「言っていた」が単数動詞だったのでしょうか?
【奇跡を行う力】マルコ福音書と同じ言い方ですが、マタイは、実際に様々な「奇跡を起こす力」というよりも、信じられないほどの「奇跡的な力/驚くべき力」の意味で用いているのでしょう。
 
■ルカ9章
 ルカのヘロデの言葉に対する扱い方は、マルコ=マタイのそれとは全く異なっています。マルコ=マタイでは、この部分が、ヘロデの命令による洗礼者ヨハネの殉教と結びついて、言わばその序の部分となっています。ところがルカ福音書では、洗礼者の殉教とは別に、ヘロデのイエスに対する言葉だけが独立してでてくるのです。このことは、ルカの手元には、この部分だけが独立して伝えられていたことを示すものです。おそらく、これがほんらいの伝承であり、「ヘロデの懸念」の話は、マルコ福音書よりも、ルカ福音書よりも、さらに早い時期に属する共通の口頭伝承から出て来たと思われます。このように、ルカ福音書には、マルコ福音書やマタイ福音書には見られない、古い伝承がそのままの形で現われる場合がしばしばあります。
 では、洗礼者ヨハネとヘロデの言葉とは、ルカ福音書ではどのように関連してくるのでしょう。ルカ福音書では、ヘロデが洗礼者ヨハネを牢に閉じこめたことが、3章19~20節で語られています。しかも、ここ9章では、洗礼者ヨハネは<すでに>殉教しています。しかも、どういうわけで殉教したのかを語る「サロメの踊り」の物語はでてきません。洗礼者ヨハネの殉教は、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』(18巻5章1~2節)に詳しく語られています。これによれば、ヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネの大きい影響が、騒乱を招くのではないかと懸念して、先手を打って彼を逮捕・監禁し、処刑したとあります。その頃、アレタ王の妻を離別して、姪のヘロデヤと「不倫と近親相姦」の結婚をした結果、アレタ王からの攻撃を受けて、ヘロデは敗北し窮地に立たされます。人々はこれを見て、ヘロデは、洗礼者ヨハネを処刑した「祟(たた)り」を受けたと噂(うわさ)したとあります。どうやらこれが、洗礼者ヨハネの殉教とサロメの踊りの物語とが結びついた背景にある真相ではないかと思われます。
 これで分かるとおり、ルカ福音書では、イエスに対するヘロデの言葉は、「イエスはいったいだれなのか?」という問題を読者に提示する働きをしています。ヘロデのこの疑問は、これまでも問題にされてきましたが、ルカ福音書では、ここから以後のイエスの物語を一貫する大事な主題になります。ルカ福音書では、この部分が、十二弟子の派遣と5000人とイエスとの食事の記事の間に挟まれていますが(この構成はマルコ福音書と同じ)、そこから直ぐにペトロの信仰告白へつながり、そこでも、ヘロデが語ったのと同じ言葉が、弟子たちの口から繰り返されます(9章18~20節)。それ以後は、イエスの受難予告が続き、イエスの殉教の影がだんだんと濃くなります。イエスの一行は、この辺りから、エルサレムへ向けて、最後の旅に入るのです(9章51節)。だから、ヘロデの言葉は、イエスがガリラヤからエルサレムへ向かう「転換」として重要な意味を持っています。ちなみに、マルコ福音書では、洗礼者ヨハネの殉教の出来事以後も、いろいろな出来事が語られていますが(マルコ6章30節~8章26節)、ルカ福音書ではこれらが抜けています(ルカの手元にあったマルコ福音書にはこの部分が抜けていたのでしょうか?)。
[7]ルカは、マルコの「ヘロデ王」と異なり、マタイと同じように「領主」ヘロデとしています。「出来事すべて」とあるのも、マルコ=マタイの「奇跡を行なう力」とは異なって、より漠然とした言い方になっています。また、人々のうわさが、三種類であることが、はっきり分かるように構成されています。
[8]ここではイエスが、エリヤに匹敵する預言者であることが語られています。なお洗礼者ヨハネとイエスとの関係については、ルカ7章18~35節に詳しく語られています。
[9]ルカ福音書では、イエスが洗礼者ヨハネの生き返りだとは、ヘロデの口から語られません。また、ヘロデがイエスに会いたがっていたとありますが、これは、ルカ23章8節でのイエスとヘロデの出会いの場となって語られます。ルカは、ヘロデ・アンティパスについて、ほかの福音書記者が持っていなかった伝承を持っていたのかもしれません(ルカ8章3節/13章31節参照)。
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