102章 洗礼者の殉教
マルコ6章17〜29節/マタイ14章3〜12節/ルカ3章19〜20節
                【聖句】
マルコ6章
17実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
18ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
19そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
20なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
21ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
22ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
23更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
24少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
25早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
26王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
27そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
28盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
29ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。
 
マタイ14章
3実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。
4ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
5ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。
6ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。
7それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。
8すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。
9王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、
10人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。
11その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。
12それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。
 
ルカ3章
19ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、
20ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。
 
                        【注釈】
【講話】
■サロメと物語伝承
 今回の話をドラマ化した有名な文学作品があります。19世紀のイギリスの小説家オスカー・ワイルドの『サロメ』です〔ワイルド『サロメ』福田恒在訳、岩波文庫(1959年)。英語の原書は1894年〕。これはオペラにもなっています。この戯曲では、ヘロデ・アンティパス(劇中では「エロデ」)が、自分の義理の娘サロメに色目を使い、サロメは、洗礼者ヨハネ(劇中では「ヨカナーン」で若者に設定されています)に出会って、彼を好きになるのですが、洗礼者のほうは、サロメの魔性を見抜いて激しく批判します。サロメは、「可愛さあまって憎さが百倍」というわけで、王がサロメに踊りを求めると、サロメは、もしも踊ったら、自分の願いをかなえてくれるか? と王に迫ります。王がこれを承知すると、彼女は踊ってから、洗礼者ヨハネの首を求めます。首が銀の皿にのせられて彼女の手元に届けられると、サロメは、その洗礼者に口づけをするのです。
 言うまでもなく、これはワイルドが創作した物語です。実は、この聖書の記事をこのように物語にしたのは、ワイルドが初めてではありません。教会の伝統では、古くから、ここの箇所はいろいろに解釈されて、特に、サロメが王や観客に色目を使い、魅惑的に踊る様子が描き出されて、「魔性の女サロメ」というイメージが創られてきました。
 このように文学的に解釈されて、物語やドラマ化されるのは、それなりのわけがあります。それは、ここの聖書の記事それ自体にも、エステル記(5章3節を参照)や北王国イスラエルの王妃であった異教の魔性の女イゼベル(列王記上16章30〜33節/同19章1〜4節参照)の物語などが入り込んでいると見られるからです。エステル記それ自体もまた、遠くバビロニアの神話に登場する女神イシュタルに由来します。
 このように、ある出来事が、神話や伝説と結びついて物語となって聖書に入り込む場合があります。出エジプト記のモーセの物語や士師記のサムソンとデリラの物語、ダビデと巨人ゴリアテとの戦いの物語など、出来事が、神話や伝説と結びついて語られているのですが、今回の洗礼者ヨハネの殉教も、その一つの例です。だから、たとえ歴史的な事実に基づいていても、それ以前からの伝説が入り込んだ物語になっています。しかし、たとえ神話や伝説が入り込んでいても、それが聖書の御言葉が偽りだという意味ではありませんから注意してください。神話や伝説それ自体を「偽り」だと決めつけること自体がすでに誤りです。それだけでなく、聖書にこれらが取りこまれているそのこと自体も聖霊のお働きによるのです。
■権力とイスラエルの預言者
 こういうわけで、今回の箇所は、どうもサロメのほうに関心が向けられがちで、肝心の洗礼者の殉教のほうが、なおざりにされる傾向があります。言うまでもなく、聖書が語り伝えたいのは、為政者の権力を批判した洗礼者ヨハネの殉教のほうです。
 古代から、イスラエルの統治には、三つの権威がありました。一つはダビデ王に代表される王権です。これは国家権力です。もう一つは幕屋や神殿に関するイスラエルの祭司制度です。これの最高責任者が大祭司ですが、大祭司は、捕囚期以後には、政治権力と合体して、祭政一致になります。この二つと並んで、イスラエルにはもう一つ見逃すことのできない権威が存在していました。それは、エリヤとエリシャ、アモスとホセア、イザヤとエレミヤなどに見る預言者たちです。王と祭司と預言者、イスラエルでは、この三権が、民を統治し導く働きをしていたのです。ただし三権<分立>とまではいかず、例えばソロモン王の時代には、王権と神殿の祭司制とは一体でした。
 イスラエルの預言者たちは、為政者や権力者たちを主なる神の御名によって批判し、時には断罪するという点で、世界の歴史でもまれに見る権能を具えていました。彼は、立派な王や指導者たちを主のみ名によってほめたたえることもしましたが、同時に、権力者たちの府政や圧政を厳しく批判しました。ダビデ王がベトシェバのことで罪を犯した時に、ヤハウェからの断罪の言葉を王に向かって告げた預言者ナタンを始め、北王国のエリヤもエリシャも、南王国のイザヤもエレミヤも、捕囚期以後のハガイやゼカリヤも、当時の政治権力や祭司たちを批判したり断罪したりしました。これは、世界史にも例を見ないイスラエルの預言者の特徴です。イエス様も、この意味でイスラエルの預言者の伝統を受け継いでおられます。だから、当時のサドカイ派の祭司制度やファリサイ派など、ユダヤの政治・宗教権力を厳しく批判されました。
■洗礼者ヨハネ
 洗礼者ヨハネは、イエス様とは異なって、しるしや奇跡などの霊能を発揮しませんでした。しかし、当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの淫らな結婚関係を非難するなど、彼も預言者の伝統を受け継いでいて、この点でイエス様と共通します。
 ヘロデ・アンティパスのやったことは、彼だけではなく、当時のローマ帝国の皇帝たちの生活ぶりを真似たもので、ローマの皇帝たちは、例えばイエス様の時代のティベリウス帝は稚児愛好家で、同時に稚児を虐待したり殺したりしました。カリグラの宮廷は、まるでポルノ映画の世界でした。ネロは母子の近親相姦で有名です。だから、ヘロデ王朝の領主たちや王たちが、近親相姦の結婚をしたり、親や兄弟や息子を殺したりするのも、当時のヘレニズム世界の王室では珍しいことではありませんでした。ヘレニズムでは、立派な公衆浴場がありましたが、そこはワインと性的な享楽の場でもあったのです。人々は、競技場で、人と野獣を闘わせたり、剣闘士同士の闘い、獣に罪人を襲わせる公開処刑など、血なまぐさい場景を楽しんで見ていたのです。
 洗礼者は、自分の領内の統治者であるガリラヤ領主を厳しく批判しました。彼のこのような行為は、ガリラヤだけでなく、当時のパレスチナを覆っていたギリシア・ローマ的な風潮、すなわちヘレニズム世界の倫理的な堕落をも、その批判の中に含めていたと見ることができます。ことは、為政者や特権階級のことだけでなく、彼らの無軌道ぶりが、やがては一般の人たちにも広がることを警告したのです。家族関係の乱れは、社会の乱れにつながり、それがその国の政治的な腐敗と深く関係してくるからです。
■現代の預言者たち
 事情は現代でもそれほど変わっていません。武器や麻薬の密売や、賄賂や性的な虐待など、為政者にまつわる犯罪やスキャンダルはいくらでもあります。政治権力がこのように堕落した場合に、誰がこれを批判し断罪するのでしょうか? 権力への批判が行なわれないところでは、権力の腐敗と堕落が必ず生じるからです。
 ただ現代では、聖書の時代とは違ったところがあります。それは、政治と宗教とが分離されていることです。特に現在の日本では、この二つが憲法によって分離されていますから、宗教的な理由で、権力や為政者を批判したり断罪したすることは許されません。
 一昔前の日本では、野党とマスコミと組合と女性、この四つが、権力批判の柱だと言われていました。女性と組合とは、最近では為政者や権力をあまり批判しなくなったようですが、新聞や雑誌などのマスコミと野党は、今でも政府や為政者への批判を続けています。現在の日本の新聞が、はたして「預言者」の役割を果たしているかどうかは疑問です。しかし、言論の自由は、古代の預言者の伝統を受け継ぐところから生じていることを忘れてはならないでしょう。
 では、わたしたちクリスチャンはどうすべきでしょうか? 戦前・戦中の日本のキリスト教会(無教会派の人たちをも含めて)の中から、軍部や政府を批判して投獄されたり迫害を受けた人たちが出ました。この人たちは、自分が属する教団とか宗派を離れて、個人として行動し語った点で、古代のイスラエルの預言者たちと共通するところがあります。また、戦後の60年安保の時代には、日本キリスト教団系の教会で、クリスチャン学生による政府や教会の指導者への批判が続出しました。この傾向は今でもいわゆる「社会派」と言われるクリスチャンたちの間で受け継がれているようです。イエス様が、当時の革命家であったという聖書解釈なども、こういう社会派のキリスト教を支える力になっています。
■御霊に導かれる
 パウロは「上に立つ権威に従いなさい」(ローマ13章1〜2節)と述べて、当時のヘレニズム世界を統治する為政者を敬い、ローマ帝国や社会の法律に従うのは善いことであり、神の御前に正しいことだと教えています。しかし、洗礼者の場合のように、時には、為政者に対して抗議し、これを批判・非難することも大事です。ただし、現代社会は複雑ですから、特に政治権力に対して抗議したり非難したりする場合には、自分の私的な憎悪や勝手な予断に動かされてやるべきではありません。
 私はここで、イエス様を信じる人たちが、社会的・政治的な問題について発言したり行動したりする場合には、特に祈りが大事であることを強調したいと思います。自分の思いではなく、祈りによって与えられる霊知によって行なうべきだと考えるからです(ルカ21章14〜15節)。霊知の源は、イエス様の御霊にある愛の心です。「愛はすべての罪を覆う」からです(もっともこれは、政治的、社会的な問題だけではありませんが)。政治的な発言や行動に特に祈りが必要であること、この点について、以下に三つほど問題点をあげておきます。
〔政治的に適正か?〕
 人間は「政治する人」です。政治する人は、自分の言動が「政治的に」どのような意味を持つのかを意識して行動します。例えば、私がある政党を支持しているとします。しかし、もしもその政党が議会で絶対多数を占めている場合には、私は業(わざ)と反対党に投票することもありえます。なぜなら、たとえどのような政党でも、絶対多数が長続きすれば、その政党は必ず腐敗するからです。だから、日本の政治のためにも、またその政党のためにも、適当な時期に政権交代することがどうしても必要なのです。
 かつてある善意の若者が、日本の自衛隊が救援活動をしているイラクへ、単独で入り込んで自分の救助活動を行なっていました。ところが、イラクの反米勢力は、その若者を誘拐して、その日本人の命と引き替えに日本の自衛隊のイラクからの撤退を要求したのです。このために、日本政府は、一人の日本人の命を救うのか、それとも日本の自衛隊を撤退させるのか? その選択を迫られる羽目に陥りました。
 おそらくその若者は、自分の判断と善意で、単独行動をとったのだと思います。ところが、たとえ善意であろうとも、彼/彼女は、自分一人の行動が、どのような「政治的な意味」を持っているのかを認識していなかったのです。このように、個人的に正しいと思うことでも、「政治的に」見れば、とてつもない方向に事態を悪化させることがあるのです。善意の人たちの行動が、悪意ある人によって政治的に利用される危険がつきまとうからです。これが「政治する人」の難しいところです。
 このように、個人の行為がどういう政治的な意味を持つのかを予め洞察することが、政治や社会の問題ではとても重要です。このような配慮と洞察に基づく行為や言説のことを「政治的に適正」"politically correct"(略して「PC」)な行為と言います。どのような場合に、どのような行動や言説が「政治的に適正」なのか? これは、自己の勝手な判断では不可能ですから、わたしたちは特に祈りが必要なのです。
〔メディア・リテラシー〕
 もう一つ社会・政治の問題で行動する時に注意しなければならないことがあります。選挙の時に、立候補者の演説を聞いて、これをそのまま鵜呑みにして投票する人は先ずいないでしょう。「この国を悪くする」などと演説する愚かな候補者は一人もいませんから。社会的・政治的な発言は、「他人を自分の思う方向に動かそう」とするための言説です。そこには、嘘も誇張も混じっていますし、本音やほんとうの事実を「言わない」ことも含まれています。
 政治的な問題に限りません。テレビのコマーシャルなどは、その典型的な例で、CMをそのまま信じて買い物をする人はまずいません。CMを作るほうもその辺は心得ていて、どうすればうまく人の心を掴むことができるか、その「キャッチ・フレーズ」を考え出す専門家がいます。現代は、このような「選挙演説スタイル」や「CM流のイメージ戦略」に溢れています。だから、どのような情報が正しく、どれが誤りなのか、これを読み解くことがとても重要になってきます。
 かつては、字が読めること(英語で「リテラシー」"literacy")が、社会や政治を判断する上で不可欠でした。ところが現代では逆に、文字を読んだりテレビを見たり<できる>ことこそが、最も危険なことになりつつあるのです。だから、わたしたちは、政治家の言説やテレビのCMを通して、これらの人たち、これらの映像のイメージが、ほんとうは何をねらっているのか? どこがほんとうで、どこが嘘なのか? これを見抜く能力を養わなければなりません。このように、新聞・雑誌・テレビ・インターネットなどを通して流れてくる情報を正しく読み解く能力のことを「情報読解力」(「メディア・リテラシー」"media literacy")と言います。
 メディア・リテラシーは、ようやく大学などで授業に採りこまれ始めた段階ですから、まだ始まったばかりです。多くのお年寄りたちが、振り込め詐欺にかかったりするのは、メディア・リテラシーの教育を受けていないからです。これからは、字が読めること(リテラシー)だけでなく、これと同時に、情報が読めること(メディア・リテラシー)が、ますます必要になってきます。この点でも、わたしたちは祈りが必要なのです。
〔殉教について〕
 今回は、洗礼者ヨハネの殉教の箇所です。「殉教」は、ステファノスに始まって、初代教会から現在まで続いているキリスト教の伝統です。でも、これは、誰かに、あるいは何かに強制されてやるものではありません。イエス様がゲツセマネで祈られたように、自ら進んで、「自分の意志で」選び取っていくべきことです。ただし、自分の意志で選び取るというのは、自分の信念や生き方が正しいと人々に証明するためにやること、言い換えると「自己の正義を証明する」ために殉教することとは違います(第一コリント13章3節)。私は、このような殉教は自殺に近い誤りだと思っています。イエス様のため、御名のために殉教するのは厳かな聖なることです。しかし、「逆は必ずしも真ならず」で、殉教したから、その人の信仰/信念は正しい、ということにはならないのです。だから、殉教は上から授かるもの、謙虚に戴くべきものなのです。
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