103章 使徒たちの帰還
マルコ6章30〜32節/ルカ9章10節/マタイ14章12〜13節
【聖句】
 
マルコ6章
30さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
31イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
32そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
 
ルカ9章
10使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。
 
マタイ14章
12それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。
13イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。
 
【参照】ヨハネ6章
1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
                        【注釈】
【講話】
■霊能の伝道について
 今回は、ごく短い「つなぎ」の部分にあたりますが、それでも、いろいろと大きな問題に出遭うことになります。マルコ福音書もマタイ福音書も、ここをイエス様が5000人と食事を共にする奇跡への導入にしています。マルコ福音書では、これの前に、洗礼者ヨハネの殉教が来ていて、その前には、十二弟子の派遣が置かれていました。今回のマルコ福音書6章30節では、派遣されていた弟子たちが自分たちのしたことをイエス様に報告しています。つまり、ヘロデのイエス様に対する警戒と洗礼者ヨハネの殉教の回想をサンドィッチみたいに挟み込んで、弟子たちの派遣と報告が語られているのです。
 弟子たちはイエス様に自分たちが「行なったことと教えたこととをイエスに報告した」とあります。「行なった」とあるのは、6章13節にあるように、「悪霊を追い出す」ことと病気を癒やすことです。これに対して、「教えた」とあるのは、「悔い改める」ことです。ルカ福音書では、ここが「行なった」だけになっていて、どう見ても「行為」のほうが「教え」よりも重視されているという印象を受けます。
 現在でもそうですが、霊能的な癒しや悪霊追放は、大勢の人たちを惹きつけます。だから、これに基づく弟子たちの宣教は、急速に人々の間に広がりを見せるようになったのでしょう。そうなれば、当然、為政者の目につくようになりますから、為政者の警戒心を呼び覚ます結果になって、ヘロデの圧迫を招く恐れが出てきたのです。イエス様たちは、休息の意味もあって、「人里から離れた」場所を得ようと、ガリラヤ湖の東北の沿岸地帯へ向かったのです。ここは、ガリラヤの領主の手の届かない所だったからでしょう。
 このように聖霊のお働きが広がり、多くの人々が信じるようになるほどに、「人里離れた所へ」退いて、安らぎと祈りを求めることが大切になるのです。だから、たとえ日本でリヴァイバルが起こっても、このコイノニアの交わりのように、ごく少人数の集まりと祈りがますます大切になります。と言うよりも、真のリヴァイバルは、こういうミニ集会が無数に出てくるところに始まると言ってもいいのです。
 霊能が働くと人々が集まり、伝道が急速に広がり始めます。お隣の韓国で起きてきたのもこれです。韓国では、日本の占領が終わると、キリスト教が急速に広がり始めます。その上、朝鮮動乱時代に大勢の殉教者が出ました。こういう体験を通して、霊能的なキリスト教が盛んになり、人々から尊敬を受けるようになったのです。でも、わたしは密かに信じています。そのうちに日本でも、韓国のようにリヴァイヴァルが起きて、大勢の日本人がキリスト教を受け容れる時がきっと来ると。それはいいのですが、その結果、キリスト教は為政者たちを含めて、日本の政治や社会に影響を及ぼすようになるでしょう。これは聖霊の霊能的な働きによるところが大きいと思いますが、この場合に、その霊能がどのような性質を具えているのか? これが、とても大切な意味を帯びることになります。御霊のお働きと、霊能と、教会とがどのような宗教、どのような霊性を具えるのか? これが大事なんです。この時に備えて、福音の霊性の有り方を今から考えておかなればならないのです。
 福音的な霊性が霊能的に働く時に注意しなければならないことが二つあります。
(1)聖霊運動が、学問的な聖書解釈をどのように取り込むのか?です。後で話しますが、これは決して易しいことではありません。かつて、18〜19世紀のヨーロッパでは、自然科学が発達して、このために聖書が、科学的に見ると必ずしも正しくないことが分かってきました。ダーウインの進化論などがそうです。アメリカでは、今でも進化論を拒否して、創世記に書いてあるとおり、宇宙は七日間で創られた。こう信じている人たちがいるそうです。
 皆さんは、聖書が科学の本でないことはもう心得ていますから、科学と聖書とが矛盾するとは思わないでしょう。しかし、今度は、歴史学が発達して、文献批評などによって聖書が必ずしも史実ではないことが分かってきたのです。このために、ちょうどかつて、科学の進歩がキリスト教の信仰を危機に陥れたように、現代では、歴史学的な批判が進むと聖書の史実性が失われて、信仰的な危機を招くのではないかと恐れる人がいます。しかし、科学でも歴史学でも、わたしたち主にある者は、真理を探究する学問を恐れる必要はありません。イエス様の霊性は真理ですから、科学も歴史学も、その霊性の内に取り込んでいくことができるのです。
(2)神道や仏教などキリスト教以外の宗教に対してどのような態度を取るのか?という問題です。このことは、昨年(2010年)の夏期集会でもとりあげました。聖霊運動が盛んになり、霊能のみ業が顕われると、キリスト教の人たちから、神道や仏教などの古来の宗教を否定して、これらを「排除」しようとする動きが出るかもしれません。だから今から、他宗教に対して寛容な霊性とはどういうものかをきちんと学んでおかなければならないのです。学問的な批評を伴わない聖霊運動は危険です。他宗教への寛容を持たない聖霊運動は恐ろしいのです。
■多様の中の一致
 今回の注釈をお読みいただければ分かるとおり、四福音書は、それぞれの福音書の内部において矛盾があるだけでなく、四福音書相互の間にも様々な食い違いや矛盾が見つかっています。これは特に20世紀になって、聖書への文献批評が発達した結果です。こんなに矛盾があるのなら、聖書は信じるに値しない。こう考える人がいるかもしれません。ところが、事実はこれとは逆です。もしも、判で押したように、四福音書が一致していたら、それこそ何らかの政治的、あるいは宗教的な権力の働きかけがあった証拠になります。ところが四福音書は、幸いにして多様でありながら、不思議な一致があるんです。多様であるのなら、そこには何らかの真実な出来事が潜んでいると見なすことができます。その出来事をいろいろな人間が伝えるのですから、そこに多様性が生じるのは当たり前です。しかも、その多様の中にも一致するところが多々あるのですから不思議です。「こんなに違うのか」と驚くよりも、「こんなに一致しているのか」と驚くことのほうが多いのです。だから、記事が多様だということは、起こった出来事が本当であったことを指し示しています。
■未知の聖書
 最近『宇宙は何でできているのか』〔村山斉著、幻冬舎新書(2010年)〕という本を読みました。現在の素粒子物理学は、20世紀の終わり近くに大きな発展をとげましたが、それでもまだ、分からないことが多いそうです。未知の「暗黒物質」や「暗黒エネルギー」は、宇宙を構成している物質とエネルギーのなんと70%以上を占めているそうです。その上に「消えた反物質」など、宇宙はまだまだ謎に包まれています。ほとんど分かっていないと言ってもいいほどです。
 同じことが、わたしたちの読んでいるこの聖書の世界についても言えます。現在の神学や聖書学では、「祈りがなぜかなえられるのか?」さえも解き明かされていないのです。ジョージ・ミューラー(1805〜98年)という牧師さんは、イギリスのブリストルで孤児院を開きましが、彼は大勢の孤児たちを<ただ祈りによって>与えられるままに養い続けました。日本でも石井十次(1865〜1914年)という人が、岡山に孤児院を設立して、ただ祈りに頼って孤児院の費用を与えられたと伝えられています。でも現在の聖書学でも神学でも、このような「ジョージ・ミューラー現象」は解明されていないのです。イエス様の霊能のみ業は言うまでもなく、使徒言行録に記されているパウロが行なった神癒の業を解き明かしてくれる注解書は、まだどこにも存在しないのです。
 これはほんの一例ですが、聖書が伝えている霊的な世界のことは、まだまだ分からないことが多いのです。発達した文献批評や考古学や歴史学などによっても、ほとんど分かっていないと言ってもいいほどです。でも、「分かっていないことが分かる」ようになったのは、素粒子物理学や聖書学が発達したお陰ですから、学問的な研究をおろそかにしてはいけません。
 わたしたちは謎に包まれた宇宙の中で生きています。同じように、わたしたちは、聖書の伝える未知の霊的な世界の中で、御言葉を信じて生きています。謎が多くても、分からないことが多々あっても、不思議な神のお働きによって「生かされている」のです。「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。彼らは何にも知らないのに、天の父はちゃんと養ってくださる」とイエス様が言われたのはこの意味です。わたしたちは、神に「許されて」生活し「赦されて」日々を生きているのです。
■聖書記者の間違い
 「過ちは人のもの、赦しは神のもの」とは、イギリスの詩人ポウプ"Alexander Pope" (1688-1744)の言葉です。聖書の記者たちは、それぞれ異なる時期の異なる環境に生まれ育った人間です。しかも人間は間違いを犯します。だから、これらの人たちによって書かれた聖書にも、様々な間違いや思い違いや不正確さが残るのは当然です。今回の場合でも、マルコ福音書の記述には「間違い」とまでは言えませんが、どうも事実誤認があるようです。それでも御霊は働いてくださるのです。間違っていても、その奥から赦しの御霊が働いて、作者を支えておられるのです。幸い福音書は四つありますから、一人の間違いでも、ほかの記者のものと比較することで訂正したり、補ったりすることができます。ただし、マルコ福音書の編集上の手違いも、マルコの責任かどうか分かりませんよ。なぜなら、マルコに伝えられていた伝承が、すでに誤認を含んでいた可能性があるからです。五千人への供食の地理的な関係は、四福音書で驚くほど共通していますが、最終的な一致にはいたっていません。でもわたしたちは恵みの中にいるのですから、できるかぎりやればそれでいいのです。
■伝承の確かさ
 では伝承とは、そんなに頼りないものか。皆さんはこう思うかもしれません。ところが事実は全くその逆です。人間が記録された文書によって出来事を伝えるようになってから5000年ほど経ちます。しかも、現在のように文書を比較検討して事実を確かめるやり方は、ほんの400年ほど前からです。ところが人類は、どんなに遅くても10万年前には、火と道具と言語と宗教を持っていました。だから、なんと9万5000年の間は、口で伝える伝承によって生きてきたのです。だから、現代のわたしたちが、神話や伝説を含めて、口頭で伝えられた伝承が「あてにならない」「価値がない」などとうぬぼれたら大変ですよ。
 伝承は、過去の出来事を未来に伝える大事な働きをしてきましたし、現在でもしています。遠い遠い過去の出来事を現在のわたしたちに伝えてくれるのは、このようにして語り継がれてきた伝承なのです。だから伝承は、「それに頼って原点にたどり着く」ための最も重要な道であり手がかりであって、その逆ではないのです。福音書は、<イエス様の出来事>を現在のわたしたちに伝えるための伝承の記録です。だから、四福音書は、わたしたちがイエス様の出来事へたどり着くための唯一の手がかりなのです。
■恩寵の聖書解釈
 大事なのは、福音書の記者たちが、自分の使命を果たそうと祈り求めて書き記す行為が、神の御霊にあって「許されている」ということです。それぞれが、与えられるままに書いたのですから、そこには手違いもあり誤りもあるでしょう。でも手違いをも許し、誤りも赦す御霊のお働きが、彼らを背後で支えておられるのです。
 彼らの書いたものを聴き取り読み取ろうとするわたしたちもまた、彼ら以上に、間違いや誤りを犯す者たちです。しかし、たとえ間違いを犯す人間同士でも、福音書記者たちの証言に信頼を置き、彼らが信じていたその同じ信仰に自分も導き入れられることが、わたしたちに「許されている」のです。伝える側も聞く側も、それぞれ同じ程度に時代の制約を受けているのは当然です。それでも、わたしたちは、聖書を通じて伝承の原点にたどり着こうとすることが「赦されている」、これが最も大事なのです。伝承を通じて働く聖霊の働きとはまさにこのことにほかなりません。これは神様からの恵みであり恩寵です。イエス様の十字架の贖いによってわたしたちの罪が赦され、神の恩寵に与ることが福音です。恩寵の福音は、恩寵に与る聖書記者たちによって書かれました。これを読むわたしたちも、恩寵に与って解釈するのです。だからこれは、恩寵の聖書解釈なのです。
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