【注釈】
■マルコ6章30~32節
 マルコ福音書では、6章6節以下で十二弟子の派遣があり、続いて洗礼者ヨハネの殉教が語られ、5000人へのイエスによる供食の出来事が来ます。続いて水の上を歩く奇跡が語られます。出来事のこの構成は、マルコ福音書とマタイ福音書で共通しています。ヨハネ福音書でも、5000人への供食の後にイエスの水上歩行が来ますから、供食と水上歩行の組み合わせは、ルカ福音書を除いて三福音書共通です。ところが、出来事が起こる地理的な位置関係では、四福音書の間で食い違いがあります。
 マルコ福音書の今回の箇所は、5000人とイエスとの食事の奇跡の導入部になっています。この構成で見ると、十二弟子派遣と彼らの帰還が、洗礼者ヨハネの殉教を挟み込む形になっていて(サンドイッチ型)、さらに弟子たちの帰還が、5000人への供食を導入しているのが分かります。弟子たちによる伝道の結果、イエスの評判が広まり、そのことがヘロデの不安をかき立てる結果になったのでしょう。洗礼者の殉教は、回想の形で語られていて、イエスの身にも同じ危険が迫っていることを知らせています。
 イエスと弟子たちの働きが人々の注目を集めたので、一行は「食事をする暇もない」(30節)ほど、人々への対応に追われることになります。このためイエスは、弟子たちに休みを取らせるように配慮し、自分も「人里離れた所/荒れ野」で祈ろうとします。この「人里離れた場所」こそ、マルコ=マタイ福音書の今回の記事の焦点になります。なぜなら、休みと祈りのための「引きこもり」が、逆に5000人もの人たちが一行の下へ押しかけてきて、休息のはずその場所が、大勢への奇跡の場面に変わるからです。
 しかも、たとえ食事のためとは言え、5000人もの群衆がイエスの指導の下に動いたとあれば、為政者(ヘロデ・アンティパス)の目に、イエスが「危険人物」だと映ったとしてもおかしくありません。こうして、弟子たちによる伝道と活動が広がるにつれて、イエスのガリラヤ伝道が終わりへ近づくことになります。
[30]ここで弟子たちが、「自分たちが行なったことと教えたこと」をイエスに報告したとありますが、それらの内容には全く触れていません。6章12~13節から判断すれば、弟子たちは悔い改めを伝え、悪霊を追い出し、病人を癒やしたことになります。悪霊追放と病気癒やし、これと神の国を受け容れる悔い改めとが、ここでセットになっています。マルコ福音書のこの記事から見れば、悪霊追放や神癒の「霊能の業」のほうが主な働きで、御国の「教え」は、いわばこれに「付随」している印象さえ受けます。これは「悔い改め」が、通常の人間の訓戒や説得によって与えられるものではなく、人の力や理解を超えた働きかけ、「神からの働きかけ」によって初めて、御国という霊的な事態への人々の目が啓かれることを意味します。
【使徒たち】ここで初めて「使徒」という言葉がでてきます。マルコ福音書では「使徒」はここだけです。「使徒」のギリシア語は「アポストロス」(英語の"apostle" の語源)で、王や司令官から「派遣された者」の意味です。マルコ福音書の用法の段階では(70年前後)、この語は、まだ「派遣された人」という元の意味に近く、後の教会で用いられる「十二使徒」のような称号ではありません。
[32]【人里離れた所へ】マルコ福音書には「人里離れた場所」がどこかについて何も記されていません。イエスはそれまで、主としてガリラヤ湖の北から西にかけての沿岸地方、すなわちカファルナウムからティベリアスにいたる地域の村々町々を巡回していたと考えられます。マルコ福音書で出来事の地理関係を見ますと、6章32節で「船に乗って人里離れた所」へ向かい、着いたところで供食の奇跡が起こり、そこから45節で「向こう岸〔湖の東北岸〕のベトサイダへ」向かい、嵐に出逢いイエスの水上歩行の奇跡が起こり、そこから、53節でガリラヤ湖西岸のゲネサレトへ着きます。ちなみに、カファルナウムに近いガリラヤ湖の西北に、パンの奇跡を記念する教会堂が古くから遺されていて、イスラエル観光の訪問地になっています。これは、マルコ福音書6章45節に基づいて、供食の奇跡が、カファルナウムの近くの「人里離れた場所」で起こったことを意味します。おそらくマルコは、ヘロデからの圧迫の手を逃れるためもあって、イエスの一行が「人里離れた所」へ退いたという言い方を6章32節で用いたのでしょう。地理関係については次の章「五千人への供食」の注釈「地理関係」をご覧ください。  
ルカ9章10節
 ルカ福音書では、12人の派遣と、ヘロデがイエスに懸念(けねん)を抱いたことと、5000人への供食の奇跡というマルコ福音書の構成をそのまま受け継いでいます。ただしルカは、マルコの記述を簡約にまとめて、「(使徒たちが)集まる」を「帰還する」へ、「報告する」を「詳しく説明する」へ変えるなど、マルコの言葉遣いを修正しています。またルカは、弟子たちの「行なったこと」だけに注意して、その「教え」を省いています。
[10]【使徒たち】ルカ福音書の場合、ここで言う「使徒たち」は、先のマルコ福音書とは異なって、「十二使徒」を意味する称号です(ルカ6章13節)。この意味での「使徒」が、使徒言行録へつながることになります(使徒1章26節)。
【ベトサイダ】ルカ福音書の場合も、十二弟子の派遣に続き、洗礼者ヨハネの殉教が語られ、5000人への供食がでてきますから、マルコ福音書の構成と同じです。ただし、ルカ福音書には、これに続くイエスの水上歩行の奇跡はありません。だらか、ルカ福音書9章10節によれば、イエスの一行は、ガリラヤ湖の西岸の<どこか>から、湖を横切り、東北の沿岸にある<ベトサイダ>へ渡り、そこで5000人への供食が起こたことだけが、はっきりしています。水上歩行がでてきませんから、ベトサイダからどこへ向かったかは分かりません。
 ヘロデ・アンティパスの領土ガリラヤに隣接して、彼の異母兄弟フィリポの領土が、ガリラヤ湖の東北一帯に広がっていました。ベトサイダは、ちょうどその領土とガリラヤとの境にあって、フィリポの領土に入ります(現在のゴラン高原の西側の麓に近い)。フィリポは、ガリラヤ湖東北の沿岸から少し北に入った所にローマ風の町を建てて、これを皇帝ティベリウスの娘ユリアの名前にちなんで「ティベリアス・ユリアス」と名づけました。ヨハネ福音書によれば、ここが使徒ペトロとアンデレとフィリポの出身地だとされています(ヨハネ1章44節/同12章21節)〔詳しくは共観福音書講話と注解→ガリラヤの町々を叱る→イエス様語録→「ベトサイダ」の項を参照〕。なお、「ベトサイダの<町>」とありますが、これは、城壁で囲まれた「都市」(ポリス)と対照される城壁のない田舎の町や村のことです。だからルカがここで言うのは、ベトサイダに近い田舎の方を指しています。この辺りは、山が沿岸から遠く離れていて、比較的広い平野になっています。
【退かれた】ルカは、マルコ福音書にある「食事する暇もないほど」の弟子たちの状態を省いて、一行が群衆から離れたことだけを伝えています。イエスの一行は、ヘロデの手を逃れる目的もあったと考えたのでしょう。
■マタイ14章
[12]~[13]マタイ福音書は、マルコ福音書の出来事の構成をそのまま受け継いでいます。しかしマルコ福音書のかなり長い「つなぎ」の部分をほとんど削って、洗礼者の殉教から、直ぐに5000人への供食の場面に移ります。だからここでは、イエスのことだけが語られて、弟子たちのことも弟子たちへのイエスの配慮も語られません。
 マタイ福音書では、マルコ福音書同様に、イエスは「船に乗って人里離れた所へ退きます」(14章13節)。しかし、供食の後では、マルコ福音書の「ベトサイダへ」を削除して「向こう岸へ」と言い換えています。イエスの水上歩行の奇跡の後で一行が着くのは、マルコ福音書と同じゲノサレトです(34節)。だから、マタイ福音書をルカ福音書と併せると、ガリラヤ湖の西岸からベトサイダへ向かい、再び湖を渡って西岸のゲノサレトへ着くという地理関係を描くことができます。
■ヨハネ6章
 ここでヨハネ福音書の供食の奇跡の場所が問題になります。ヨハネ福音書では、「イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の<向こう岸に>渡られた」〔共同訳〕とあります。「向こう岸」とあるので、この訳だと湖の反対かそれに近い場所ととるのが自然でしょう。しかも「ティベリアス湖」という言い方からすれば、出発したのは西岸のティベリアス近くであったことになります。また、ここでルカ福音書に合わせるなら、ヨハネの言う「向こう岸」とは、ガリラヤ湖の東北の沿岸にあるベトサイダのことになりましょう〔キーナー『ヨハネ福音書』(1)664頁〕〔シュヴァイツァー『マルコによる福音書』186頁〕〔バルト『ヨハネ福音書366頁』〕。原文は「ティベリアスのガリラヤの海の反対側へ」"to the other side of the Sea of Galilee of Tiberius" です。実はヨハネ福音書のこの部分には、違った読み方があって、「ガリラヤ湖を横切ってティベリアスの地方へ」"across the sea of Galilee to the regions of Tiberius"という異読があります。これだと現行の訳とは方向が逆になり、イエスの一行は、ガリラヤ湖のどこかからティベリアスへ来て、そこで奇跡が起こったことになります。これがほんらい読みであったのが、後で、ルカ福音書に合わせるために曖昧に書き直されたのでしょうか〔新約テキスト批評211頁〕。この異読によれば、ヨハネ福音書の5000人への奇跡は、ガリラヤ湖西岸のティベリアス湖の岸からさらに西の方へ入った人里離れた所で起こったのでしょう〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)232頁〕〔エヴァンズ『マルコ福音書』(1)WBC〕〔『新共同訳新約聖書注解』(1)195頁〕〔ゲリッチ『マルコ福音書』6章32節注釈〕。だから、この読み方によれば、ヨハネ福音書はマルコ福音書に近く、ガリラヤ湖の西岸で奇跡が行なわれたことになります。
 ただし、ヨハネ福音書では、供食の奇跡の後で、弟子たちは船で「湖の向こう岸のカファルナウムに」(ヨハネ6章17節)向かいますから、この点でマルコ=マタイ福音書の伝承(ゲネサレト)とは異なります。結局、現行のヨハネ福音書では、ガリラヤ湖の東岸(ルカ福音書)なのか西岸(マルコ福音書)なのか、はっきりしません。やや西岸説のほうに部がありそうですが。
 さらにヨハネ福音書では、イエスの一向がカファルナウムに着いた時に、ベトサイダ?/ティベリアス?で取り残された群衆のところへ、ティベリアスから数艘の小舟に乗った人たちが来ます(6章22~23節)。この人たちは、おそらくベトサイダ/ティベリアスでイエスの行く先を知っていたので、イエスに会うために追いかけてきたのでしょう。そこで落ち合った人たちが、今度はカファルナウムへ来たのです(同23~24節)。
■地理関係の結論
 ヨハネ福音書とルカ福音書と併せて考えるなら、イエスの一行は、西岸のティベリアスから東北のベトサイダへ渡り、そこでの供食の奇跡の後で、そこから船で(途中でイエスの水上歩行があり)北岸のカファルナウムへ来たことになります。しかし、マルコ福音書とヨハネ福音書とを併せるなら、西岸のティベリアス近くで供食が行なわれて、それからガリラヤ湖の東岸のベトサイダへ向かい、そこで嵐に遭って引き返す途中でイエスの水上歩行の奇跡が起こり、カファルナウム(ヨハネ福音書)あるいはゲネサレト(マルコ福音書)に着いたことになります。イエスと一行の行程から見ると、わたしには、どうもルカ福音書とヨハネ福音書とを併せるほうが自然なコースのように思われます。もしもヨハネ福音書の供食の奇跡の場所が、西岸にあるティベリアスの近くだとすれば、今度は、ルカ福音書のほうの「ベトサイダという町」を削除しなければ整合できません〔フランス『マルコ福音書』264頁〕。もっとも、ベトサイダが二つあれば別ですが、ガリラヤの西岸に「ベトサイダ」と呼ばれる場所が存在した記録はどこにもありません。また、ルカ福音書の9章10節に「ベトサイダ」を削除した有力な異本もありません〔フランス前掲書264頁〕。もっとも「ベトサイダ」(漁の家)は、ありふれた地名ですから、ベトサイダが2か所に<なかった>とも言えませんが、この推論は無理でしょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(1)354頁注(7)〕。
 以上を見たとおり、供食はルカ福音書の証言通りベトサイダだとすれば、この点では、マタイ福音書もヨハネ福音書(読み方に問題がありますが)も矛盾しません。ただし、水上歩行の後で到達する場所は、マルコ=マタイ福音書ではゲノサレトですが、ヨハネ福音書ではカファルナウムです。しかし、両者の距離は、ガリラヤ湖の北西の沿岸と北の沿岸なので、それほどの違いはありません。供食が東岸だとすれば、マルコ6章32節の「人里離れた所へ」と同45節の「ベトサイダへ」とを交換すれば問題は解決します。したがって、わたしは、供食の奇跡は東岸のベトサイダ近くで起こったと考えて、マルコ福音書の側に手違いが入り込んだと見ています(先に述べたようにマルコが意図的に西岸に設定した可能性もありますが)。マルコ福音書のほうが「手違い」だと見る理由は、以下の通りです。
(1)ルカ福音書のベトサイダは確かに東岸に存在していたこと。
(2)二つのベトサイダが存在したとは考えられないこと。
(3)5000人への供食が二つの場所で2回起こったとは考えられないこと。
(4)マルコ福音書の地理関係は必ずしも正しくないこと〔シュヴァイツァー『マルコによる福音書』21頁参照〕。
(5)イエスの一行は、ヘロデの圧迫から逃れるために、東岸のベトサイダへ赴いたと考えられること。
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