ルカ福音書によれば、5000人への供食はベトサイダで起こったことになります。ベトサイダはガリラヤ湖の東北にある町ですから、西岸のガリラヤとはちょうど正反対の東側になります。ベトサイダは当時、ヘロデ・アンティパスの領土ではなく、異母兄弟フィリポの領土でした。ルカ福音書の記述と併せると、マルコ福音書で言う5000人への供食が起こった「人里離れた所」とは、ルカ福音書のベトサイダのことになりましょう。ところが、マルコ福音書6章45節には、5000人への供食の<後で>、「イエスは弟子たちを船に乗せて<向こう岸のベトサイダへ>先に行かせた」とあるのです。だから、ルカ福音書のほうは、ベトサイダへ着いて、そこで食事の奇跡が起こりますが、一方、マルコ福音書では、食事の奇跡の<後で>「向こう岸のベトサイダへ」(45節)へ向かうのです。マルコ福音書では、ベトサイダへ向かった後で、イエスの水上歩行が語られて、その後で西岸のゲネサレトへ着いたとあります(53節)。
したがって5000人への供食の奇跡は、ルカ福音書では東岸のベトサイダで起こり、マルコ福音書では、西岸にある「人里離れた所」で起こったことになります。ルカ福音書とマルコ福音書を一致させるためには、ルカ福音書の言う「ベトサイダ」とは、東岸ではなく、西岸にある<もうひとつ別のベトサイダ>のことだとするか、あるいは、東のベトサイダと西岸のどこかの二つの異なる場所で、二度同じ5000人への供食の奇跡が起こったことにしなければなりません。この問題は、マルコ福音書6章45節の「向こう岸<のベトサイダ>へ」の「ベトサイダ」を削除すれば、一行は船に乗って「人里離れた所=ルカ福音書の言う東岸のベトサイダ」へ行ったことになり、そこから45節で「向こう岸」、すなわち再びガリラヤ湖の西岸(ゲネサレト)へ着いたことになりますから、矛盾は解消します。
このように見ると、ルカ福音書かマルコ福音書かのどちらかが、ここの供食の出来事の地理関係を誤認していると考えられます。マルコ福音書の地理関係を認めるとすれば、ルカ福音書のベトサイダのほうが誤りになります。しかし、東岸のベトサイダは間違いなく存在しますから、この場合、ルカの誤りと見るよりは、マルコの地理関係のほうに誤認があると見ることもできます。現行の共観福音書のままでは、ガリラヤ湖の西と東と二つの場所で5000人への供食の奇跡が起こったことになります。ただし、マルコが「意図的に」5000人への供食をガリラヤ湖の西岸、すなわちガリラヤ領内に設定したとも考えることができます。それは、8章1節以下の4000人への供食との対比です。7章31節では、イエスはデカポリス地方を通ってガリラヤ湖畔へたどりつきます。ここは、ガリラヤ湖の東岸で、ユダヤ人の領地ではありません。これで見ると、マルコは、5000人への供食が<ガリラヤのユダヤ人たち>のための奇跡と見てこれを意図的に西岸に設定し、これと対照させる意味で4000人への食事のほうを<異邦の民>のための奇跡として、これをベトサイダに近い東岸に置くように編集したとも考えることができます。これはあくまでひとつの推定ですが。
マルコ福音書の5000人への供食(マルコ6章32~44節)と、イエスの水上歩行(同45~52節)とは、ほんらい別個の伝承だったと思われます。二つの伝承の分かれ目が6章45節です。マルコ8章22~26節では、ベトサイダで盲人の癒しが行なわれます。マルコに伝えられた資料では、この癒しが、水上歩行の奇跡の後に続いていました(6章52節は8章22節につながる)。ところがマルコは、水上歩行と盲人の癒しとを切り離して、水上歩行を供食の奇跡に続けたのです。供食と水上歩行の二つの奇跡を結びつける際に、マルコの「手違いで」、ほんらい8章22節につながるはずの45節の前半「~向こう岸のベトサイダへ先に行かせた」をそのまま残してしまったと考えられます〔Collins,
Mark.333.〕。したがって、45節後半「その間にご自分は群衆を解散しておられた」は、供食と水上歩行とをつなぐためのマルコの挿入です。だから、5000人への供食の結尾(44節)は、ほんらいは53節の「ゲネサレト」へつながっていたことになります。だとすれば、32節の「人里離れた所」は、西岸のどこかになるか、あるいは、ルカ福音書に従って、はるか東北のベトサイダのことか、どちらの可能性もあります。
五千人への供食へ