104章 五千人への供食
マルコ6章32〜44節/マタイ14章13〜21節/ルカ9章10〜17節
【聖句】
■マルコ6章
32そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
33ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
34イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
35そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
36人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
37これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
38イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
39そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
40人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
41イエスは5つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
42すべての人が食べて満腹した。
43そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の篭にいっぱいになった。
44パンを食べた人は男が五千人であった。
 
■マタイ14章
13イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。
14イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
15夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
16イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
17弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
18イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、
19群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
20すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の篭いっぱいになった。
21食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
 
■ルカ9章
10使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。
11群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
12日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れたところにいるのです。」
13しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
14というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
15弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
16すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
17すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二篭もあった。
                        【注釈】
【五千人への供食の地理関係】
【講話】
■賜物の奇跡
 今回扱う奇跡は、今までの奇跡とは性質が異なっています。この奇跡は、だれからも依頼されたり求められたりしないのに、イエス様のほうから言い出しておられます。また、奇跡がどんなふうに起こったのかが全く語られていませんから、具体的に想い描くことができないのです。もう一つ、これだけ大きな奇跡なのに弟子たちもそのほかのだれも驚いたり喜んだりした様子が描かれていないのです。このように「天から降ってきた」ような奇跡のことを「賜物の奇跡」 "gift miracles" と呼びます。「賜物の奇跡」と言うと、何か大きな賜物を戴いたように聞こえますが、しかし、よく考えてみると、これは奇跡それ自体が大きな賜物だという意味にも受け取れますから、そうなると「奇跡の賜物」と言ってもいいでしょう。この奇跡がいったいどういう意味で賜(たまもの)なのか? これをこれから考えてみたいと思うのです。
 五千人/四千人への供食と類似した奇跡には、カナの婚宴で水をぶどう酒に変えた奇跡(ヨハネ2章)や153匹の大漁の奇跡(ヨハネ21章)があります。わたしはこれにラザロの復活(同11章)とイエス様が水上を歩かれた奇跡(ヨハネ6章)を加えてもいいと思います。どの場合も、イエス様のほうから自発的に行なっておられますから。お気づきと思いますが、「賜物の奇跡」は共観福音書にもありますが、ヨハネ福音書に全部揃っています。これは偶然ではないでしょう。ヨハネ福音書では、この五つのほかに、ベテスダの池で足の萎えた人を癒やした奇跡(5章)と生まれつきの盲人の目を癒やした奇跡(9章)があって、ヨハネ福音書の七大奇跡になります。
■幾つかの解釈
 皆さんは、今回の五千人への供食の奇跡をどのように受けとめておられますか?
(1)荒唐無稽な作り話、こういう受け止め方もあるでしょう。この場合、事実無根の話というだけではなく、イエス様を信じた教会が、有りもしない作り話をこしらえたことにもなります。イエス様はメシアである。もしもメシアなら、これこれしかじかの奇跡が起こるはずだ。「それゆえに」起こったに<違いない>と、まあ、このように思い込むわけです。だとすれば、イエス様が実際行なってもいない事実無根の作り話です。
(2)今述べた解釈の変形として、この奇跡物語は<復活のイエス様>のことを語っているという解釈があります。これは正しいのですが、必ずしもそのままで「正しい」とは言えないところがあります。なぜなら、イエス様の御復活以後に、イエス様を復活したキリストと信じた教会が、生前のイエス様の出来事に<当てはめて>この物語を<創出した>というふうにも受け取れるからです。今回の奇跡に限らず、「賜物の奇跡」の記述には、御復活のイエス様が反映しているのはその通りです。けれども、福音書が御復活のイエス様<を>描いているとは、御復活以前の<生前のイエス様の出来事>を描いていることと同じではありません。イエス様の御復活をキリストとして信じた教会が、御復活以後になって創り出した話を生前のイエス様のこととして描いているのであれば、これもまた、イエス様が現実に行なってもいない事実無根のこしらえ事になるからです。イエス様を通して<実際に起こった出来事>を語る際に、福音書の記者たちが、復活されたイエス様のみ霊の導きを受けていることと、全くの事実無根の事柄を、後の教会が、イエス様の復活信仰から創りだしたこととは、視点が全く違うからです。だから、福音書は御復活のイエス様<を>描いているとは、私に言わせると一文字違っています。福音書は御復活のイエス様<が>描かせておられる、あるいは書かせておられるのです。<ご自分が生前行なわれた>出来事だからです。
(3)イエス様がお語りになったり、実際行なわれた事が基になって、そこからこのような作り話が出た、という説もあります。シュトラウスという19世紀のドイツの神学者は、イエス様が、五千人に向けて実際にお語りになった「永遠の命のパン」(ヨハネ6章)についての教えを後の教会が誤って伝え聞いて、五千人への奇跡物語が生じたと考えました。だからこれは教会の誤解です。
(4)イエス様御自身が奇跡を信じて、かつその信仰に基づいて実際に行動されたと見ることもできます。この場合、人々の願いや弟子たちの求めではなく、イエス様のほうから言い出されたことになりますから「賜物の奇跡」の内容と合います。だから、この奇跡は、イエス様が実際に行なわれた出来事に基づいていて、しかも<イエス様御自身の信仰>を後のエクレシアが受け継いだことになります。
(5)マルコ=マタイ福音書では、イエス様による一連の癒しや奇跡の後に五千人への供食が来ています。その後で、再び一連の奇跡が行なわれて、四千人への供食が来ます。先の五千人への供食は、主としてユダヤ人の間で行なわれ、後の四千人への供食は、主として異邦人の間で行なわれたと見ることができます。この奇跡は、どちらもパンによる聖餐と関係します。これは、イエス様御復活<直後>の教会で、イエス様が生前に行なわれたいろいろな奇跡が、御復活<以後>でも、パンとぶどう酒の聖餐の場に、生前のイエス様が顕現して、一連の癒しや奇跡を行なわれたちょうどそのように、今もそのままに行なわれるという<顕現の祭儀>としてパンを割く行事を行なったと見ることができます。ここでは、<生前のイエス様と御復活以後のイエス様とがそのまま連続して>、信じる人たちと共にいて下さるのです。生前のイエス様と復活後のイエス様とのこの連続は、キリスト教の根本ですから、心に留めてください。聖餐の意義もここにあります。この問題については、コイノニア会ホームページ→聖書講話→四福音書補遺→「供食の奇跡と聖餐」をご覧ください。
 筆者私市は、この(5)の場合が、五千人への供食の解釈に最も適切だと考えています。だからこれは、(2)と(4)とを一つにした見方です。大切なのは、これらの奇跡は、どれも旧約聖書にこれと類似の話があることです。例えば、今回の五千人への供食は、モーセに率いられたイスラエルの民が、荒れ野で食べ物がなくなると、モーセの祈りによって天からマナが与えられた話が先ず思い浮かびます(出エジプト記16章)。また、預言者エリシャの所へ、ある人が大麦パン20個を持ってくると、エリシャはこれを100人の人たちに与えたところ、それでもパンが余ったという話があります(列王記下4章)。
 ヨハネ福音書の七大奇跡は、どれも旧約聖書に先例があるだけでなく、例えばカナの婚宴、ベテスダの池、シロアムの池、ベタニアのマルタとマリアの家など、それぞれの奇跡が行なわれた場所が、はっきりと特定されています。ただし前回述べたとおり、五千人への供食の奇跡だけは、四福音書で6回もでてきますから、場所がはっきりしません。言うまでもなくイエス様は、旧約聖書を熟知しておられただけでなく、これをだれよりも深く信じておられた。しかも、語られている出来事の場所が特定されていることから判断すると、これはイエス様御自身が信じて行なわれた出来事から生じた「奇跡物語」だと受けとることができましょう。
 これを要するに、イエス様を通して<神様が働かれた>ということです。自然か超自然か、非科学的か合理的か、事実かそうでないか、これらの問いかけよりも、もっと根源的に「神様が働く」ことこそが「奇跡/力ある業」の本当の意味です。「神様が働いた」とは、人間の意思や思惑で生じた出来事では<ない>という意味です。だから、逆に見れば、一見、自然で合理的で、人間が行なった結果だと思われるようでありながら、実は神様が働いていた「奇跡」もあるのです。クリスチャンならだれでも、日常体験している<奇跡>があるのです。
■革命のための集まりか?
 実は、今回の五千人への供食の奇跡でも、これはある種の革命運動ではなかったか? という解釈があります。「男だけ」とあるのや、人々の行動や、組み分けの組織を見ると、これは軍事的な行動に似ているからでしょう。モーセに率いられてエジプトを脱出した故事にちなんで、イエス様をリーダーにして革命を起こそうとした人たちが集結したのではないかと見るのです。イエス様のメシア性を信じた人々の間で、イエス様を担ぎ出して政治的な革命運動へつなげようとする動きが生じた。このように見るのです。パンに飢えた民衆が、イエス様の霊性に促されて反乱を企てたことになりましょう。
 ただし、このような軍事的革命的な解釈は、マルコ福音書から出たもので、マタイ福音書では、「女と子供を別にして」とありますから、男だけでなく、女性や子供もいたのですから、そのような政治色は消えています。ヨハネ福音書では、イエス様はさらにはっきりと「朽ちるこの世のパンではなく、朽ちない永遠のパンを求める」(ヨハネ6章27節)ように語っておられます。この奇跡の後で、人々がイエス様を王にしようとしたとありますが、イエス様はこれを知って退かれました(ヨハネ6章15節)。このように見るなら、モーセに率いられてエジプトを脱出した故事にちなんで、イエス様をリーダーにして革命を起こそうとした人たちに対して、イエス様がパンを与えてこれをお鎮めになったと見ることもできましょう。
 この奇跡は、最初期の教会の頃から、モーセに率いられたイスラエルの民が、荒れ野でマナを与えられた奇跡を反映していて、これを受けて、イエス様がモーセに優る預言者として、終末の再臨の時に、主の民と交わりの宴会を開く悦びの前触れであり、その「しるし」とされてきました。またイエス様は終末に開かれる天での宴会のしるしとして、パンのかけらを五千人の人たちに与えることで彼らを聖別したとも言われています。これが、後の聖餐の制定につながったと見るのです。
■パンの争いからパンの交わりへ
 福音書をこのように総合して解釈すると、この奇跡はとても重要なことを語ってくれます。人々の間にイエス様のメシア性を信じて、これを政治的な革命運動へつなげようとする動きが生じたこと、ところが神は、イエス様から出た深い憐れみと信仰に応えて、争いを求めて集結した民衆に食べ物をお与えになって、その場を愛の交わりの場へと奇跡的に転換させたことが見えてくるからです。「闘いから交わりへ」のこの転換は、神がイエス様を通して備えてくださった食べ物によって起こりました。これが五千人への供食が伝えてくれる「奇跡の賜物」の意義です。だからわたしはこの奇跡を「五千人とイエス様との会食」と呼ぶほうがいいと思います。この奇跡が、最後の晩餐と同一に解釈され、後にエクレシアの「交わり」(コイノニア)を現わす聖餐と一つにされたのはごく自然な成り行きでしょう。世界的に食糧が不足し、アメリカの大企業が、世界の食糧を買い占めたり、中国が、アジアの水資源を買い占めようとしていることが、報じられています。水と食料と空気、これらをめぐって争いが生じる恐れが現実味を帯びています。こんな時に、みんなにパンが与えられ、争いが平和に変じるこの奇跡、この謎は、人類の生存に関わる大事な問いを含んでいます。
 このように考えると、この奇跡は、弟子たちも人々も気づかなかったけれども、イエス様のメシア的な霊性は、この世的な権力や組織に依存するものではないこと、たとえ「革命」と呼ばれるものでも、そのような人間同士の争いに依存するものではないこと、奇跡はこのことを証しする「しるし」だったと考えられます。大事なのは、この「しるし」が、奇跡として生前のイエス様によって起こったことです。そして、この「しるし」の真の意義が、イエス様の御復活以後になって初めて、イエス様のエクレシアに啓示されたことです。決してこの逆ではありません。このような不思議なしるしは、これを後の教会が「創出」し、これをイエス様の業だと言い立てたと思ってはいけません。生前のイエス様が、自らの信仰をかけて実現してくださらなかったとすれば、だれがこのような「大それた」奇跡を思いつくでしょうか? だから、この奇跡は、イエス様のメシア性が、当時の民衆の期待とは異なることを証しする大きな転換となる「しるし」だったことになりましょう。どちらにせよ、ここで大事なのは、この奇跡が、イエス様の御復活「以前」の出来事から発した伝承に基づいていることです。
■パンの奇跡の意義
 聖書は歴史ではなく、自然科学の書でもありません。聖書は、徹頭徹尾<霊的な>書です。だから、聖書の語ることは霊的な分野に属しています。<霊的>と言えば、事実でない、想像の生み出す現実性を帯びていないことを語っていると思われがちですが、<実は>そうではありません、霊的な出来事はわたしたちの肉体と同じく、きわめて具体的で、現実味を帯びています。霊体と言い肉体というのはこのことです。
 五千人のパンの奇跡は、どうにも理解のできない不可思議な奇跡ですから、これを合理的に説明して、教会で行なわれている聖餐のことを言い表わそうとしているという解釈があります。この解釈は、一見合理的ですから、これでこの奇跡の説明は済んだと思っている人が大勢います。しかし、この説明は、どうも少しおかしいのです。「間違い」とまで言わなくても違っています。どこがおかしいのかと言えば、五千人のパンの奇跡は、そもそも人間には<到底理解>できないことが起こったことを伝えようとしているからです。人間には<理解できない>不可思議な出来事を<理解できるように>説明しても、理解したことにはなりません。ほんらい理解できないことなのに、それがだれにでも理解でき納得できる内容に<すり替えられた>だけでからです。理解できないことは、理解できないこととして観るときに初めてその霊的な意味が見えてきます。不可解で不可思議なこと、理解できない出来事であることが初めて<理解できる>のです。
 では、この奇跡はどういう霊的な出来事をわたしたちに伝えようとしているのでしょうか?
(1)まずこの出来事は人間業ではなく、神ご自身の御業であることです。人には絶対にできないことを神はイエス様を通して実現された。このことを伝えています。
(2)次にここで行なわれている神の御業とは、何もないところから<創り出す>こと、この創造の御業をイエス様を通じて行なわれていることです。
(3)だから、この出来事は、イエス様ご自身が神であり、神がイエス様と一つになって行なわれている御業であることを伝えています。
(4)その上で、この出来事は、6章全体が証ししているように、イエス様が、わたしたち人間に<命のパン>をくださることを告げています。わたしたち一人一人にです。
(5)この命のパンは、<何時までもなくならない>パンとなって、わたしたちの「からだ」に働きかけてくれます。だから、このパンは、わたしたち一人一人にイエス様が下さる「霊の体」であり、わたしたちの肉体に対応する霊体のことなのです。
(6)ここまで来て初めて、このパンが、現在も教会で行なわれている聖餐のパンを意味することが分かります。
(7)だから、わたしたちが頂く聖餐のパンは、イエス様が今もなお生きておられて、わたしたちはこのイエス様からわたしたちの霊体を日々いただくことができること、それによってわたしたちの肉体もまた、その日一日を支えられ護られてこの地上にありながら命のパンに与ることができることを証ししているのです。
 これで分かるように、上にあげた七つのことは、現在の日本の自由プロテスタント型の合理的で理知的な解釈と相容れないものです。なぜなら、ここにあげた七つのことは、どれ一つとっても、現在の日本の自由プロテスタント型の神学では<絶対に>理解できないことだかです。彼らから観れば、この解釈は人間の妄想として映らないはずです。自分たちの理性で納得しないことを受け容れないという猿から発達したホモサピエンスの賢しらな知恵が邪魔立てして、創造の神の御業を<見落と>すと言うより<見えなく>しているからです。
 
  ここでわたしたちに問われているのは、どのように解釈するべきか? ということよりも(答えはそれぞれが置かれた状況に応じて無数にあります)、人々をしてこのように信じさせ、そうすることで「不思議な愛の交わりの場」が生まれたのはなぜなのか? という問いのほうです。これこそ、この奇跡が、わたしたちに提起してくれる最も大事な問いかけです。ある人には見えてある人には見えないもの、ある人には分かって、ある人には分からないもの、ある時には不思議が生じて、ほかの時には何も起こらないこと、これはいったいなぜでしょうか? 不思議といえば不思議ですが、そうでないと思えば、そうでなくなります。そもそも「信仰」とはなにか? さらに言えば、「宗教」とはなにか? どうやらこの奇跡は、わたしたちにこのように問いかけているように思われます。
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