105章 水の上を歩く
マルコ6章45〜52節/マタイ14章22〜33節
【聖句】
■マルコ6章
45それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。
46群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
47夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
48ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
49弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
50皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
51イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
52パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
 
■マタイ14章
22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
                               【注釈】
【講話】
■水の上を歩く奇跡
 前回の5000人への供食は「賜物の奇跡」と呼ばれていますが、今回のように自然を支配する奇跡は、「自然の奇跡」と呼ばれます。しかし、呼び方が変わっても、奇跡の本質は変わらないと思います。前回お話ししたように、この奇跡もわたしには「謎」の問いかけです。イエス様が具体的にどのようなことを行なわれたのか? わたしにはちょっと想像がつかないからです。ガリラヤ湖特有の強い風によって、比較的小さな湖が激しく波立つことは事実ですが、イエス様は、弟子たちのことを案じて陸地で祈られたのでしょうか? その祈りが弟子たちの眼前にイエス様のお姿を顕現させた、というのであれば、わたしなりに体験がありますから、これは確かです。しかしそれ以上のことになると、わたしの想像力を超えています。しかし、ここもイエス様が現実に行なわれた奇跡/しるしであり、それゆえに霊的な出来事であって、そこから比喩的な解釈が生じるのはどの奇跡の場合でも同じです。
 この湖の上を歩むイエス様の姿は、しばしば「復活のイエス」を描いていると解釈されています。前回でも言いましたが、ここに「復活のイエス」の姿を重ねるのはそれなりの理由があります。ルカ福音書24章では、弟子たちが復活したイエス様を見た時に、「イエス様の霊」を見ているのだと思ったとあります。おそらく、ルカ福音書がそこで言う「霊=プネウマ」とは、わたしたちが「霊性」とか御霊という場合の「霊」のことではなく、今回のように、嵐の海で弟子たちが見た「亡霊/幽霊」の意味に近いでしょう。ただし、ルカ福音書では、イエス様ご自身が、そのような実在性を持たない「霊=亡霊」ではないよ、ちゃんと現実に存在したナザレのイエス様の御臨在なんだよ、と弟子たちに語っておられます。今回の水上歩行でもこれと同じです。
 このように、ただ「見える」だけでは「思い込み」につながり、思いこみはしばしば現実性を欠いていて、非現実の「幻想」にすぎないことが多いです。ところがイエス様の御臨在は、そのような「幻想」や「思いこみ」ではありません。イエス様は弟子たちに「語りかけ」て、さらに「言われた」と二度同じことが繰り返されていますね。御臨在は力であり、力は「語りかける御言葉」です。ただ「言葉だけ」ではない。あなたやわたしに向かって、その時その場で「語りかけ」実際に働く御言葉です。思いこみでは物事は変わりません。イエス様の御言葉と御臨在は<現実に働く>のです。思いこみと御臨在とはここが違います。
 嵐や困難が直ぐに消えるわけではない。悩みが直ちになくなるわけでもない。けれども、イエス様の御言葉が聞こえる時、イエス様の語りかけが届く時、わたしたちはイエス様の御臨在を「想い出す」ことができるのです。「御言葉」とは、わたしたちに働きかける御臨在です。これがイエス様の御言葉の力です。信仰に基づく口頭の伝承に、誇張や誤りが入り込むのを避けることはできませんが、だからといって、御言葉が働くときに、それを非現実的だと判断するのは大きな誤りです。聖書が伝える奇跡には、こういう深い「御言葉の働き」がこめられています。
 この奇跡から以後、マルコ福音書では、弟子たちの「心が鈍くなった」ことが度々でてきます。これはマルコ福音書に限らず、どの福音書でも、またパウロ書簡でも繰り返されるテーマで、イザヤ書6章4節から来ています。奇妙なことなんですが、弟子たちがイエス様の奇跡に接し、驚いたり感心したりする間に、いつの間にかイエス様の行なわれることに対して「悟りが鈍くなる」のです。「慣れは軽蔑を生む」という格言がありますが、信仰生活に慣れてくるにしたがって、だんだんと逆に「心が鈍くなる」のです。
 イングランド国教会の神学の基礎を築いたエクセターの主教ロバート・フーカーは、パンの奇跡と水上を歩く奇跡との組み合わせを、出エジプトの際のモーセの二つの奇跡、荒れ野で天から与えられたマナの奇跡と、イスラエルの民が、二つに分かれた紅海の水の間を通った奇跡、この二つと比較しています〔フランス『マルコ福音書』273頁(注)73〕。イエス様によるパンの奇跡と水の上を歩む奇跡、この二つの出来事の組み合わせによって、モーセに優るイエス様の御臨在が啓示されているのです。
■ペトロのした事
 マタイ福音書ではマルコ福音書にはない後半の奇跡が語られています。後半のペトロの水上歩行は、マタイ福音書だけの記事です。ここに「信仰の薄い者」など、マタイ独自の言い回しがでていますから、この部分はマタイの編集によるものでしょう。しかも、マタイは、ここでのペトロの状態をイエス様が嵐の海を鎮めた記事と重ね合わせながら書いています。しかし、このようなマタイの描き方にも、「水底で叫ぶ」詩編69篇の言葉が用いられていますから、マタイは、詩編を愛好されたイエス様ご自身の霊性を想いつつ書いているのでしょう。
 ここで「ペトロは水の上を歩いた、しかし彼は〜」という解釈と、「ペトロは水の上を歩こうとしたけれども〜」という解釈とがあります。さあ、どちらなのか?問題です。マタイはどうもペトロが水の上を歩いた奇跡よりも、むしろ、これに失敗して「主よ、どうか助けて!」と叫ぶペトロと、これを直ぐにお助けになったイエス様の救いのほうを描きたかったのではないでしょうか。ペトロがペトロ(岩)である間は、沈むのは避けられませんからね。でもこれはペトロ一人のことではないのです。彼は、こういう失敗の場合、いつもすべての弟子たちを代表しているのですから。
 イエス様がペトロに「来なさい」と言われますね。ペトロはあえてイエス様の「真似をしてもいいですか?」と尋ねます。するとイエス様が「やってごらん」とお許しになった。そこでペトロは、思い切って船から降りたんです。ペトロはイエス様の御言葉を信じて思い切って水の上を歩き始めました。この時、ペトロがどういうつもりでこんなことを試みたのかは、分かりません。イエス様に「見習おう」としたのでしょうか? 自分もやってみたいという単純な冒険心からでしょうか? マタイ福音書はこの点で何も語っていません。
 ところが、イエス様と自分との間には「水しかない」。ペトロは、この水を見て怖くなった。すると「思った通り」沈み始めたのです。当然といえば当然です。『キリストに倣う』"Imitatio Christi" という有名な本がありますが、うっかりイエス様に「見習おう」とするのは危ないです。でも、わたしたちがイエス様に<従おう>とする時には、臆病になったり、ここのペトロのように強気になったりするものです。ペトロはこの意味でイエス様に従う弟子たちの代表なんです。だから、この時のペトロの気持ちをあまり詮索しないほうがいいです。
 わたしたちは直ぐ人をあれこれ詮索したがるからね。動機はいろいろあっていいのです。とにかくイエス様の御言葉を信じて歩み始めた。当然のことながら失敗します。失敗するのが当たり前で、「しない」と思うほうがおかしいのです。神様は全部ご存知だから、たとえ失敗しても、イエス様は「直ぐに」手を述べて支えてくださる。臆病でも乱暴でも、強気でも弱気でも、なんでもいいから、とにかくイエス様の御言葉の通りにやろうと頑張る。クリスチャンならだれでもこんな経験がありますよ。失敗した、またトライした、また失敗した。わたしなんかこれの連続だね。でも、だんだんそうやっていくうちに、イエス様の御手のお働きが実感できるようになるんです。そうなると、「ああ、これは人間がやることではない」、と分かるんです。だからもうなんにもしない。なんにも自分でやろうとしない。うっかり自力でやり出すとかえって危ないからね。
 そこで「救ってください」と言うと、イエス様は「直ぐに」御手をさしのべてペトロを助けてくださった。ペトロのしたこと、と言うよりも、「やろうとした」こと、これは無謀だったのでしょうか? それとも思い切った信仰の行為だったのでしょうか? 両方ですよ。自力で「やろう」ともしない。勝手に「止めよう」ともしない。ただあるがまま、そのまま、子供のように黙ってイエス様の御手にお委ねする。それだけです。まるで風に身を任せているようにです。すると、何となくうまくいく。これが不思議です。なるほど、神様はちゃんとお働きくださって、わたしたちを支えておられるのだ。このことがだんだん実感できるようになるんです。そうすると、これも不思議なんですが、自分の心臓が動いているのが不思議になる。宇宙の森羅万象が不思議に見えてきます。神様の御栄光の顕われだということが分かるんです。有り難いですよ。だから「わたしだよ」とイエス様が来られたことが大事なので、それ以外のことをあまり詮索しないほうがいいでしょう。イエス様の御臨在があればそれで十分です。
 わたしたちの信仰の行為も、このペトロにように、「キリストに見習おう」とするのですが、当然と言うべきか、残念と言うべきか、これは無理です。ところが、子供のように単純になって、イエス様の御言葉の「中を歩む」と、できないことが不思議にできてくる。そうすると、不思議なことに、不思議が不思議でなくなるんです。気がついてみると、周囲の人が驚くような、と言うよりも「理解できない」世界を歩んでいる。ふと、そのことに気がつくのです。世間の人が「亡霊か幻想でも見ているのではないか?」こう思うようなことをいつの間にかやっている。そんな気がすることがあります。
■ペトロの信心
 ペトロのように人間が水の上を歩く話は、聖書ではここしかないけれども、仏典にはあるんです。ウルリヒ・ルツというドイツの神学者が日本にもお出でになって、わたしも彼の講演を聴きに関西学院へ行ったことがありますが、この人の書いたマタイ福音書の注解にその例が出ています〔マルコ福音書の注釈「水の上を歩く」を参照〕。仏典の『ジャータカ』には、これは前3世紀頃に成立したお釈迦さんについての物語集で、日本では『本生譚』(ほんじょうたん)として知られていますが、この『ジャータカ』には、一人の仏陀の信者が、お釈迦さんに会うために川の岸辺に来た。ところが渡し船がないのです。しかしその信者は、お釈迦さんに会えると思うと嬉しさのあまり、川を歩いて渡り始めたそうです。ところが川の真ん中あたりで沈みそうになった。そこでもう一度、釈迦に会う悦びを想い出すと最後まで渡れたそうです。これは紀元前3世紀頃の仏典だから、福音書のこの水上歩行は、この物語の影響を受けているのではないかとルツ教授は述べています。人間の信仰心とはすごい働きをするんです。 
 仏教のほうの話では、彼は釈迦を思い続けているうちに、「いつのまにか」向こう岸まで歩いたことになっています。仏教の話とペトロの話とを比較すると、自己の内面性に拠り頼む心と、人間を超えたお方からの助けを祈り求める信仰心と、この二つの心の有り様が浮かび上がってきますね。釈迦の弟子は、波を見ても一心不乱に釈迦のことを想い続け念じ続けた。すると、いつの間にか向こう岸へ着いた。ペトロは、イエス様の御言葉に応じて歩き始めた。けれども「水を見て」怖くなった。「見るな」と言われても、現実に水が見えるのだからどうにもならない。そこで、イエス様に目を向けて「助けてください/救ってください」と叫ぶと、イエス様は御手を伸ばしてペトロを支えてくださった。
 己の思念か、神の御言葉か。座禅か、祈りか。悟りか、啓示か。信心か、信仰か。内在の救いか、超在の救いか。仏教か、キリスト教か。さあ、こうなると難しい。でも、これは、どちらを捨ててどちらを採るという問題ではないのです。人の心の持ちようも、神の助けを求める心も、一つになって初めて、本当の「信仰の働き」が生じるのです。ほんものの「信心」です。「目に見えぬ神の心に通(かよ)うこそ、人の心のまことなりけれ。」これは明治天皇の后(きさき)であった昭憲皇太后の歌です。だから「信仰」と「心」、この二つはひとつ。「信心一如」です。この問題は、パウロのガラテヤ人への手紙にある「信仰」か、イエス様の弟ヤコブによるヤコブの手紙にある「行ない」か、という問題にもつながります。「信仰」か「行ない」か、そのどちらかではないよ。信行一如です。
 神はイエス様を通じて、人間に最も近く、しかも人間の最も困難な状況のまっただ中で、ためらわずに助けの手をさしのべてくださる。今回の出来事は、このことを証ししています。天地を創造された超越的な神と、イエス様を通して啓示される身近な神の御臨在、その両方がこの湖の奇跡の奥から、わたしたちに顕われるのです。
■人類の霊知
 今回のイエス様の出来事も、本質的には「霊的な」出来事です。だからこそ御復活のイエス様につながります。このような出来事を認知する霊知は、外から見ただけでは分かりません。詩人はこれを霊的な「想像力」と呼ぶでしょう。「想像」"imagination"は「空想」"fantasy"ではないのです。人間の想像力は、物事を実現させる創造力につながるからです。これは一つの例ですが、わたしたち人類は、鶏のように卵を産むのではなく、お腹の中で赤ちゃんを育てるから、「哺乳類」と呼ばれています。イギリスのBBCが制作したテレビの科学番組で見たのですが、生命が、卵生から哺乳類へ進化する過程で、卵を産みっぱなしでは外の動物たちに直ぐに食べられてしまうから、小動物は生き残ることができません。こういう状態に置かれた小さな生き物たちが、何万年とも何十万年ともかかる進化の過程の中で、自分のお腹で胎児として子供を育てる方法へと「進化した」と現在の生物学は説明しています。
 だとすれば、「胎児を育てる」という「思いつき」はいったいどこから出たのでしょう?しかもそれらの動物たちは、何十万年の間、そういう「想い」を与えられ続け、抱き続けていたことになります。その長い期間の間、それらの生き物は「胎生」という幻想なのか想像なのか、とにかくそういうことを想い続けていたことになります。それが、現在の胎生が実現する根源の創造力になったのです。想像は創造の母です。
 卑近な例でも、『アラビアンナイト』や孫悟空の物語にでてくる空飛ぶ魔法の絨毯や呪文で開く扉や自分の髪の毛の束から多くの自分を創り出す術など、どれも現代では、飛行機となり自動ドアとなり、クローン人間の可能性となって現実のものとなりつつあります。人類が抱いた夢や幻想や想像が、実は実現を生み出す根源の力になっているのが分かります。人間と他の動物との間には、考え方について大きな違いが存在するそうです。それは、人間には想像力によって物事を「比喩的に」見たり考えたりする能力が具わっていることです。これは物事を「霊的に」観る能力です。だから、聖書が伝える霊的な信心と、これが生み出す価値観は、人類の存亡に関わる大事な意義を有しているのです。
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