【注釈】
■マルコ6章
 マルコ福音書もマタイ福音書もヨハネ福音書も、5000人への供食の奇跡に続いてイエスが水の上を歩んだ奇跡を語っています。この組み合わせは共観福音書とヨハネ福音書とが共通する伝承から出ているからでしょう。ルカ福音書にはこの奇跡が記されていません。ただし、嵐の海を鎮めた出来事のほうはでています(ルカ8章22~25節)。ルカ福音書では、4000人への供食も省かれています。ルカ福音書では、マルコ福音書のここ6章45節から8章26節までが完全に抜けていますから、5000人への供食から直接ペトロの信仰告白(マルコ8章27節)へつながります。これがルカによるマルコ福音書からの「大省略/省筆」"Great Omission"と呼ばれるものです。
 マルコ福音書の「湖の上を歩く」奇跡は、同4章35~41節の「嵐の湖を鎮める」話と共通することが指摘されていますが、弟子たちの反応など、違う点もあります。どちらにせよ、今回の「水上歩行」も前回の奇跡と同じように合理的な解釈を拒むもので、イエスの神性を顕わすための奇跡と見なすべきです。
 
[45]【強いて舟に】5000人の群衆が、何らかの政治的(革命的?)な目的を抱いて集まったとすれば、イエスが自分の手で彼らを「解散させ」、弟子たちを「大急ぎで」船で出立させた行為も理解できます。
【ベトサイダへ】この句が前回と今回の奇跡の地理的な関係を混乱させる基になっています。これについては「弟子たちの帰還」ですでに述べましたのでここでは控えます。
[46]【別れて】原語は「放棄する」「捨て去る」を意味する強い言い方です。しかし群衆から離れたのは、彼らを「見捨てた」からではなく、イエス自身が「一人で祈る」ために山のほうへ向かったからです。
[47]~[48]【夕方になると】マルコ6章35節にあるように、5000人への供食が始まったのがすでに夕暮れだったので、その後の経過から判断すると、弟子たちが船出したのは夜遅くであろうと思われます。したがって、「夕方になると」は、事実上「真夜中近く」のことになりましょう。したがって、弟子たちがイエスの姿を水上で「見分けた」のは「夜明け前」のことになります。
【漕ぎ悩んで】ガリラヤ湖を船で横断するのに6~8時間程度ですから、10時間近くもかかることは、通常では考えられません。弟子たちは、よほど逆風に「苦しめられて」(原語の意味)いたのでしょう。マルコ福音書では、この奇跡のところから、弟子たちの無力や無知が強調されるようになります(6章52節参照)。
【通り過ぎようと】原語は「通り過ぎようとする」で、イエスが弟子たちの船の側を通過そうになったように見えますが、語法的には「今にも通り過ぎそうに見えた」という意味です。マルコは、イエスが弟子たちの側を「通り過ぎる」ことを言おうとしているのではなく、むしろ弟子たちに「近づいて来た」ことを言いたいのでしょう〔フランス『マルコ福音書』272頁〕。なお、ヨハネ福音書では、復活したイエスがティベリアス湖畔で弟子たちに顕現しますから、彼らはマルコ福音書の場合よりも自然な(?)状態でイエスの姿を見分けます。ヨハネ福音書では、ペトロは船から降りて岸にいるイエスに向かって駆け出しますが、マタイ福音書では、ペトロの水上歩行が加わります。だから、この出来事の奇跡的な性格がいっそう強く印象づけられます。
[49]~[50]【湖上を歩いて】海や水を支配する例は、旧約聖書に神の働きとして紅海の水を分けた例(出エジプト記14章)やヨシュア記3章14~17節のヨルダンの渡河があり、またエリヤの例もあります(列王記下2章8節)。これらは自然を支配する神の業を表わしますが、四福音書では、その神の業が人間イエスを通して働いていることが重要です。ここで注意してほしいのは、人に宿る「神の知恵」もまた自然を支配できることです(シラ書24章5~6節)。なお、仏典の『ジャータカ』には、こことよく似た例が出ています〔ルツ『マタイ福音書』(2)528頁〕〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)500頁〕。
【幽霊だと思い】「幽霊」の原語は「ファンタスマ」(化け物/幽霊)です。これは英語"fantasy"の語源で「有りもしない空想/幻想」の意味にもなります。ここの場合とは異なりますが、ルカ福音書24章36~39節で復活したイエスが弟子たちに顕われた際に、彼らは「(イエスの)霊(プネウマ)を見ている」と思ったとあります。これは、「幽霊/幻想」を意味する「ファンタスマ」ではなく、その人固有の「霊」(プネウマ)が顕われたようにも受け取れますが、そうではなく、ここでルカ福音書が言う「霊」も、実体のない「亡霊/幽霊」の意味に近いでしょう。だからイエスは、弟子たちのこの思い違いを訂正して、「霊」ではなく「骨肉」を具えたイエス自身であると告げるのです。マルコ福音書のここの記事にも、復活のイエスが反映しているのは確かです。しかし、それは、なんらかのイエスの生前の出来事を復活後に想起することで与えられたものだと考えるべきです。
【おびえた】原語は「気が動転する」ことです。これに対してイエスは直ぐに「語りかける」のです。弟子たちが復活したイエスに出会う場面では、このような「おびえ」は語られません。イエスは、「元気を出しなさい」「怖がるな」と、弟子たちへ<語りかけ>ます。これが彼らを勇気づけるのです。
【わたしだ】原文は「わたしである」(エゴー・エイミ)"I am." です。このギリシア語はヘブライ語の神名「ヤハウェ」の語源からでていて、ヨハネ福音書では、神の御子であるイエスを通じて臨在する神自身を表わす言い方です(出エジプト記3章14節/イザヤ書41章4節/同43章10節の七十人訳と同じ)。ただし、ここでは、弟子たちがイエスを見分けることができなかったので、イエスはそれが自分であることを告げているのであって、それ以上の意味ではないという解釈もあります〔フランス『マタイ福音書』570頁〕。
[51]~[52]【心が鈍くなって】ここはイザヤ書6章4節を踏まえています。イザヤ書6章4節は、福音書でもパウロ書簡でも重要な引用箇所です(マタイ13章15節/ルカ24章25節/ヨハネ12章40節/使徒28章27節/ローマ11章8節)。マルコ福音書ではこれまで、一般の民衆と弟子たちとを区別して、弟子たちには「神の国の奥義」が語られてきました。ところが、ここを境に、弟子たちもまた「心が鈍くなった」と語られるようになります(特にマルコ8章18~21節)。
 
■マタイ14章
 マタイ福音書の水上歩行は、マルコ福音書に比べるとかなり長く、イエスの水上歩行、弟子たちの驚き、ペトロの水上歩行、結末という構成を採っています。イエスは「直ぐに」弟子たちを船に乗せ、「直ぐに」弟子たちに声をかけ、「直ぐに」ペトロに手を伸ばして助けたとあるように「直ぐに」が、鍵語の一つになっていて、「安心しなさい、わたしである」(27節)を中心にして前後が対称形に構成されています(このような対応関係を「カイアスムス」"chiasmus" と言います)。
 マタイ福音書の記事はマルコ福音書のそれを踏まえていますが、問題はペトロの水上歩行の場面です。この部分はマタイだけからの伝承です(ルカ福音書に水上歩行はでてきません)。「主よ、命じて」「信仰の薄い者よ」などのマタイ独自の言い方や、「イエスは弟子たちのところへ行かれた」(25節)と「ペトロはイエスのほうへ行った」(29節)とが対応していることなどから判断すると、マタイはこの部分を独自に編集し直しています。なお、ここのペトロの水上歩行は、ヨハネ福音書21章7節で、ペトロが復活のイエスと出会う場面と似ていることから、マタイのこの伝承は、ほんらいイエスの復活顕現物語から出ているのではないかと言われています。だとすれば、マタイはこの伝承をマルコ福音書の「水上歩行」の記事に加えることで、全体の構成をまとめたことになります。
[22]~[23]【向こう岸へ】マルコ福音書には「ベトサイダへ」とありますが、マタイはこれを削除しています。5000人への食事の奇跡の後でベトサイダへ向かったとすれば、嵐の後で一行が到着したゲネサレトとは、ガリラヤ湖を挟んで正反対になりますから、マタイはこの矛盾に気づいたのでしょう。
【群衆を解散】イエスは、ここで群衆を自分で解散させ、弟子たちを急がせて船に乗り込ませたようです。群衆の中に、イエスを指導者にして、なにか不穏な行動を起こそうとした人たちがいたのでしょうか(ヨハネ6章15節参照)。解散の理由は何も述べられていませんが、23節から判断すると、「一人山で祈るため」とあります。マタイ福音書では、サタンによる誘惑の場面を除くなら(4章1節)、イエスが一人だけになるのはここだけです。ここでイエスには、何が重大な決意が求められたとも考えられます。「山に登る」とあるのは、モーセがシナイ山に登ったこと(出エジプト記19章2節)を重ねているという解釈もあります〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)502頁〕
【夕方になっても】14章15節に「夕暮れになって」とあることから判断すると、23節のここは「夜も更けて」"well into the night" 〔フランス『マタイ福音書』565頁〕と訳すほうが適切でしょう。
[24]【何スタディオン】ここは「何スタディオン<か>」〔新共同訳〕ではなく「何スタディオン<も>」〔岩波訳〕のほうが適切です。1スタディオンは185mです。マルコ福音書では「湖の真ん中に」とあり、ヨハネ福音書では「25~30スタディオン」ですから、平均の27スタディオンとしても約5キロ岸から離れていたことになります。「逆風のため」とありますから、弟子たちが身の危険を感じているよりも、船が「先に進めない」状態にあることを言おうとしているのです。
[25]【夜が明ける】原語は「見張りの第四の刻」というローマ式の言い方です。夜間の見張り役の交替を四つに分けると、その「第四の刻」は午前3時から6時までです。
【湖の上を歩いて】合理的な説明を拒否する超自然の業を表わすものです。水上歩行の伝承は、ヨハネ福音書(6章16~21節)のものが最も古く単純です。マルコ福音書は、ヨハネ福音書とも共通する伝承から分かれたものを受け継ぎ、マタイは、さらにマルコ福音書の伝承にペトロの歩行を加えたのでしょう。この伝承が仏典にさかのぼる可能性があることは先に指摘しました。
[26]~[27]【歩いておられる】マルコ福音書では「通り過ぎようとした」とあるのを、マタイは「歩いておられる(姿)」と言い換えています。
【幽霊】原語は「ファンタスマ」(英語の"fantasy" の語源)で、有りもしない幻想や亡霊を意味します。湖にはおぼれ死んだ人たちの亡霊や悪霊が住むと言われていたからです。
【安心しなさい】「海」は象徴的に「無秩序/混沌/動乱」の状態を意味します。旧約聖書では、この意味での「海」を鎮めたり水を支配できるのは神お一人だけですから(詩編107篇23~30節/知恵の書14章3~4節)、ここでも、イエスを通して神の力が働いたことを指すのです。「わたしだ」についてはマルコ福音書の注釈を参照。
[28]【ペトロが】29~33節は四福音書でもここだけで、ここには、復活した神の子イエスの臨在が強く反映しています。イエスが弟子たちに語りかけると、ペトロが代表して答えるのはマタイの描き方です(15章15節/16章16節など)。
【あなたでしたら】「主よ」とあるのは、「わたしである」(エゴー・エイミ)という神の御臨在を表わす言葉に応答して、自然をも支配する神の御子「主イエス」の意味で呼びかけているのです。だとすれば、「もしあなたなら」ではなく、「あなたなのだから」の意味にとることもできます。
【水の上】ここで「海」から「水」に変わります。イエスは「海(湖)の上」を歩いて来たのに対して、ペトロはイエスと自分との間に横たわる「水」を見てこのように言うのです。
[29]【来なさい】この命令は、イエス自身が水を支配してその上を歩くことができるだけでなく、同じ神的な力/霊威を弟子たちにも授与できることを表わしているのでしょうか。ヨブ記で、神がサタンに「お前は<海>の湧き出る源まで<来た>ことがあるか?深淵の底を<歩いた>ことがあるか?」(ヨブ記38章14節)〔七十人訳直訳〕と問いかけますが、マタイのここの記事にも、神ヤハウェのこのような権威が反映しているのでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』〕。続く文章は、「ペトロは水の上を歩いた、そしてイエスのほうへ来た」で、これは25節の「イエスは海の上を歩いた、そして弟子たちのほうへ来た」と対応しています。「元気を出しなさい。わたしだ」を中心に、その前後がこのように対応して構成されています。
[30]~[31]【怖くなった】「怖くなる」「主よ、助けてください」「信仰の薄い者」などは、マタイ8章27~28節でイエスが嵐の海を鎮めた時にでてくる言い方と共通します。
【助けてください】原文は「わたしを救ってください」です。この言い方を始め、「海の深みにはまる」「叫ぶ」などは、どれも詩編69篇の七十人訳(68篇)1~3節にある言葉です。また、「神よ、わたしを救ってください」「水がわたしを<沈み込ませ>て溺れさせる(滅ぼす)ことがないようしてください」(同篇14~15節)にも、ここ30節の言葉がでてきます。「叫んで言う」とあるように、同じ内容を言い換える表現は、アラム語の特徴です。「(手を伸ばして)捕(つか)まえる」とある「捕まえる」は、ここだけにでてきますから、これらから判断すると、マタイはここで詩編を想起しているのでしょう。
[32]~[33]32節からマタイは再びマルコの記事に戻ります。
【風は静まった】海は混沌を象徴しますが、これを鎮めるのは神の力のみです(詩編65篇8節/同89篇10節/同107篇29節)。「二人」は原文にはありませんが、内容的に見てペトロがイエスと一緒に船に乗ったことが分かります。
【イエスを拝んだ】マルコ福音書では、弟子たちが驚いたことと、彼らの無理解が強調されていますが、マタイ福音書では、弟子たちがイエスの前に「ひれ伏して拝んだ」とあります。彼らはイエスが「神の子」であることが分かったのです。マタイはここで、かつてイスラエルの民が、紅海の水の間を通り抜けた奇跡の後で、主なる神を畏れてモーセを信じたように(出エジプト記14章31節)、弟子たちもイエスを信じたことを伝えたいのでしょう。
【神の子】マタイ福音書では、イエスが「神の子」であることは、その誕生(2章15節)、聖霊の降臨(3章17節)、サタンの口から(4章6節)、悪霊憑きの口から(8章29節)、それぞれ告げられています。しかし、弟子たちがイエスを「神の子」と認識するのはここが初めてで、これが16章16節でのペトロの告白へつながります。5000人への食べ物の奇跡の後と、湖での奇跡の後で初めて、弟子たちは、マタイ福音書の<読者と同じレベルで>イエスの霊性を知ることになるのです。先ず神御自身がイエスの神性を証しし、サタンや悪霊がこれを見抜き、最後に弟子たちがこれを信じたのです。33節はこの物語の結びですから、ここで語られているのは、イエスが超人的な奇跡の実演者であることよりも、イエスが旧約聖書で証しされている神の僕に優る「神の子」であって、聖書の神自身が彼を通して働いていることなのです。
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