106章 ゲネサレトでの癒やし
マルコ6章53〜56節/マタイ14章34〜36節
【聖句】
 
■マルコ6章
53こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。
54一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、
55その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。
56村でも町でも、里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
 
■マタイ14章
34こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。
35土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、
36その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。  
 
                        【注釈】
【講話】
 今回のゲネサレトでは、イエス様は病気の癒やしに集中しておられます。食べ物の奇跡と嵐の海での奇跡に続いて、病気癒しを行なわれるのです。イエス様は、ゲネサレトへ着かれてから、周囲の町や村を巡ろうとされたようですが、この頃はすでに、イエス様の病気癒しの評判がガリラヤ中に知れ渡っていたのでしょう。巡るどころか、大勢の人たちがイエス様のおられるゲネサレトへ押しかけてきた。ゲネサレトは湖に面して、背後にかなり広い平野があって、北のカファルナウムからも、南のマグダラやティベリアスからも、ナザレやカナのような内陸からも来やすいところにありますから、ガリラヤ中からイエス様のところへやってきたのでしょう。
 ここでのイエス様は、自分の所へ押し寄せてくる人々の切実な求めに応じて、様々な願い事や悩みを聴いて癒やしてくださるお方です。イエス様が行なわれたのは、現代で言えば、「病気の治療」というよりも「病人を癒やす」ことに近いです。「治療」ではなく「癒やし」です。「病気」ではなく「病人」です。薬漬けにして病気を治療して病人を殺す場合がありますが、イエス様は、祈りによって、病人を身体的だけでなく精神的、霊的に「救う」のです。だからここでの用語には「救う」と「癒やす」の両方の意味がこめられています。原文では「次々に癒やされていった」です。精神的、霊的に解放された人は、病気の回復も早いですから。
 ここに見るイエス様のお姿は、癒しを求めてくる人々の願いに応える言わば最もポピュラーなイエス様像です。先の5000人の集まりでも、人々がイエス様の霊能に熱狂している様子がうかがわれますが、奇跡の場合は、イエス様のほうから弟子たちに命じておられます。しかし、今回のゲノサレトの癒しは、イエス様よりもむしろ人々のほうが積極的に動いて、イエス様に病気の癒しを求めてきている様子がうかがえます。マルコ福音書とマタイ福音書は、一連のイエス様の奇跡の後で、ガリラヤ伝道の後期をこのように「人々の視点から見た」姿でまとめているのです。ここは言わば、イエス様の全伝道活動で最も賑やかで華やかな時期ですから、「ガリラヤの春」と呼ぶのにふさわしい時期です。
 当時のゲネサレトにも、町の中央に広場があったのでしょう。そこは方々から運ばれてきた病人とその付き添いの人たちでいっぱいだったようです。それでもイエス様は、人々の間を歩まれながら、手を置いて癒やしてまわられた。しかしこんなに大勢では、とても一人一人に手を置いて癒やすことができません。とても間に合わないから、病人を連れてきた人たちは、病気の人たちが、歩いておられるイエス様のせめて衣のふさに触れさせてやりたいと願ったのです。衣の「ふさ」と言うのは、主の律法を忘れないためにユダヤ人の男性の衣についている短い紐の束でできたふさのことです。これに「触れよう」と人々が殺到したのです。まさに「ふさをも掴む想い」です。
 信仰を表わすために何かに触れたいという想いは、古今東西の宗教的な行為には付きものです。神からの霊感や恵みに与るために、いろいろな遺物を手でさすったりするのもこれです。神の御霊のお働きは、現代の神学では神の御言葉の働きと同一視される傾向がありますから、それだけに理性的で、ややもすれば観念的な信仰になりやすいです。「物に触れる」という具体的な行為は、感覚に直に働きかけますから、それだけ信仰を体験できます。触れることで、触れた人の内面に閉ざされていた信仰が「解き放たれる」のです。ところが、これが度を過ぎると、与えられた物そのものを拝むことになります。聖遺物崇拝です。こうなると魔術の道具と同じになります。
 「袖振り合うも多少の縁」とあるように、「触れ合い」とは「交わり」のことです。だから、「物」に触れることは、実はこれを通して「者」に触れる(交わる)ことだということを忘れてはいけません。「物」が物で終わらないで、「物」から「者」へ、「物」につながるその「人」と触れ合うところまでつながることが大事です。だから衣の房からイエス様ご自身へです。そして、イエス様ご自身の霊性へです。霊性は「もの」です。「ものすごい」「ものものしい」「もののけ」のように、霊を表わす「もの」です。だから物から者へ、者から「もの」へです。イエス様の霊性とはみ言(ことば)です。言<葉>ではありませんよ。「葉っぱ」ではなく、その根源の「言」です。房をつかむ体験も大事です。でも、そこから根源のみ言へ行くよう祈ってください。「物」にとらわれてはいけません。しかし、「言葉」だけにとらわれても観念的な信仰になります。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、手で触れたもの、すなわち命のみ言」(第一ヨハネ1章1節)とあるでしょう。これはすごい聖句です。手で触れる物から人その者へ、さらにその人のほんとうのもの、命のみ言(ことば)へ、たどりついてください。物を大事に「もの」へ行き着いてください。
  神様から愛されて、せっかくよい贈り物を頂いたのに、神様の<愛そのもの>をいただこうとはしない人がいますが、これでは、神に愛されても、イエス様を通じて与えられる<愛そのもの>をもらい損ねていまいます。「神とは愛」のことだからです(第一ヨハネ4章16節)。だから、神様からの「愛に<とどまる>人」になってください。そうすれば、神様もその人のうちにとどまってくださるとあります。神の愛を宿す人は「いのち」を宿す人です。イエス様がわたしたちに与えようとしておられるのがこの命、<永遠の命>なんです(第一ヨハネ5章11〜12節)。ところが、「物」で済ませて「者」までは求めない人は、それ以上の「触れ合い」は避けて、さっさとそこから離れてしまう。こういう人たちは、イエス様に「触れる」ことがどんなにすごいことなのかが分からない。「永遠の命」という途方もない「もの」に触れていることに全く気がつかないのです。わたしに言わせると実に「もったいない」です。どうか皆さん、神様から頂く「物」だけでなく、神様が遣わされた「者」であるイエス様を求めてください。その霊性を求めて下さい。祈りをそこまでつないでください。そうすれば、あなたは、「もらう」人ではなく「あげる」人になることができます。「受けるよりも与えるほうが幸い人」になるのです(使徒20章35節)。
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