【注釈】
■マルコ6章
[53]「湖を渡りゲネサレトへ」については問題があります。マルコ福音書の記事をそのまま読むと、イエスの一行は、会食の奇跡の後で東岸のベトサイダへ向かい(マルコ6章45節)、その途中で風のために難航して、やむをえず引き返して西岸のゲネサレトへ着いたことになりましょう。マタイ福音書では、会食の奇跡が行なわれた場所は特定されていませんが(マタイ14章13節)、その後で「向こう岸へ」向かって、嵐の後でゲネサレトへ到着したことになりますから(同14章34節)、どこか東岸(ベトサイダ?)から西岸へ向かったのでしょう。マルコ=マタイ福音書のここでの「渡る」は、端から端まで「横切る」"cross over" ことを意味していると思われます。
 ルカ福音書では、一行が向かったのは「ベトサイダ」と特定されていますが(ルカ9章10節)、そこでの供食(共食/会食)の奇跡の後でどこへ向かったのかは述べられていません。ちなみにヨハネ福音書では「ティベリアス湖の向こう岸」(ヨハネ6章1節)で供食が行なわれたとあるだけで、その場所は特定できません(東岸のベトサイダとも考えられますが)。一行はそこから嵐の後で北岸のカファルナウムに来ています(同6章24節)。ここの地理関係については、先の「弟子たちの帰還」の注釈を参照してください。
【ゲネサレト】ガリラヤ湖の西岸のやや北よりにあって、湖に面した町で、現在は「ギノサル」と呼ばれています。「ゲネサレト」を「ゲネサレ」と読む異本もあります。ここは、北のカファルナウムと南のティベリアスとの中程にあり、カファルナウムからゲネサレトにかけては、イエスの伝道の根拠地でした。背後にかなり広い平野を控えていますから、野菜や果物が豊富で、これは現在でも変わりません。現在のギノサルには、「ガリラヤ人の博物館」があって、近くの沿岸で発掘された船が展示されています。これは1世紀頃のもので、イエスの時代の船だと推定されています。なお、福音書で「ゲネサレト」と言う場合、町のことだけでなくその地域全体を指すこともあります。
[54]~[55]ここでのイエスの業は「病人の癒やし」に集中していて、教えも悪霊追放もでてきません。イエスが人々に「教えた」ことも(マルコ1章14~15節/4章1~2節)、悪霊追放も(同1章33~34節/3章10~12節)すでにでてきたので、マルコは、これらを繰り返す必要がないと考えたのでしょうか。ここでは、イエスよりもむしろ周辺の人々が主役になって、イエスに病気癒しを求めて集まっています。ゲネサレトからカファルナウムにかけてはイエスの福音伝道の根拠地ですから、イエスの「病気癒やしの伝道」は、この地方一帯の人々に知れ渡っていたことが分かります。
[56]【服のすそに】「すそ」とあるのはユダヤ人の男性の衣についている「ふさ」のことです(民数記15章38~39節/申命記22章12節)。大祭司がまとう紫の衣の下の裾には、小さな鈴とザクロの実を交互に並べた「縁取り」がしてありました。これは例外的に豪華な縁取りですが、衣の足回りの裾に紐で編んだような縁取りを付けるのは、通常、祭司やラビたちに限られていたようです。一般のユダヤの男性は、縁取りのある外衣を着ることはありませんでしたが、律法に定められた通り、短い数本の紐を付け根で束ねた「ふさ」が、衣の下に一つあるいは二つついていました〔Hezser, The Oxford Handbook of Jewish Daily Life in Roman Palestine. 371. 〕。ただし、単女共に、肩掛けに用いるショールなどには、紐状に編んだ縁取りのあるものが用いられていました。
 イエスの衣にも、通常の男性の衣と同じように、紐を束ねた「ふさ」がついていたと思われますから、人々は、せめてこの「ふさ」にでも触れようとしたのです。出血の女性がイエスの服に触れて癒やされたとありますが(マルコ5章27節)、そこには「ふさ」はでてきません。今回の箇所でも、「ふさ」に特別な意味があるわけではなく、「ふさ」が最も触れやすかったからでしょう。とにかくイエスの衣に「触れる」だけで癒やされるという信仰が、人々の間に働いていたのです。
 
■マタイ14章
洗礼者ヨハネの殉教→5000人との会食→水上歩行→ゲネサレトでの病気癒やし、この構成はマルコ福音書とマタイ福音書で共通しています。
[35]マルコ福音書では、「イエスがおられるところはどこへでも」とあって、イエスがゲネサレトの地域を巡り歩いていたように聞こえますが、マタイ福音書は、この部分(マルコ6章55節後半と同56節前半)を省略しています。だから、マタイ福音書では、人々のほうから「ゲネサレトにいるイエス」の所へ集まってきたことになります。マタイ福音書には、「具合の悪い人たちを<ことごとく>イエスのところへ連れてきた」とあって、人々が、様々な病気や悩みを抱えてイエスのところに押しかけてきたこと、イエスが、人々のいろいろな求めに応じている様子が描かれています。
[36]【いやされた】マタイ福音書の動詞はマルコ福音書の「癒やされていった」(不定過去形)それとは少し違った原語で、「完治した」(アオリスト形)と強い言い方になっています。
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