107章 汚れ論争
マルコ7章1〜13節/マタイ15章1〜9節
【聖句】
■マルコ7章
1ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
3(ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。)
5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』
8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
9更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
10モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
11それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
12その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
13こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
 
■マタイ15章
1そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。
2「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
3そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。
4神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。
5それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、
6父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。』」
7偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。
8『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
9人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」
                        【注釈】
【講話】
■創造と変容
  今回は、イエス様とファリサイ派との論争です。これを通じて、「変容」ということを考えてみたいと思います。 宗教は変わります。それは人間の価値観が変化するからです。人間の価値観が変化するのは、人間が自然に属しているからです。自然に属しているとは、この大宇宙の一部に属していることです。大宇宙それ自体もまた変わりつつあります。常に常に動いています。宇宙を動かしているこの力、これをヘブライの人は「エール」(神)と呼びました。この「エール」は、今もわたしたちの内に働き続けています。だから、わたしたちも、この宇宙の働きかけに応じて変化し変容し続けます。宇宙が変わるのは、そこに創造する力が働くからです。「創造」は、それまでの姿形を保ちながら、しかもこれを変えていくことによって、今まで存在しなかったものを「創り出す」営みです。
 宗教にも同じように、変わろうとする力と保持しようとする力と、両方が働きます。だからキリスト教も変わります。その他の宗教も変わります。キリスト教は、2千年前に生まれて以来、変わり続けてきました。今も変わり続けています。神のお力は、永遠に変わることなく働き続けるからです。
■キリスト教の変容
 キリスト教は、パレスチナのユダヤ人の間からイエス様によって始まりました。キリスト教は、パウロの時代に(40〜50年代)、エフェソを中心に小アジアへ、ギリシアのコリントへ、エジプトのアレクサンドリアへと、ギリシア語圏の異邦人の間にも広まりました。このギリシア語圏のキリスト教が、東ローマ帝国を通じて、現在のギリシア正教やロシア正教(日本のハリスト教会)の基になっています。その後、3世紀の半ば頃から、次第にギリシア語からラテン語のキリスト教への移行が始まります。、4世紀末にキリスト教がローマ帝国の国教になる頃には、キリスト教は、西方のローマを中心にラテン語で語られるようになります。ただし、シリアのアンティオキアやエフェソやアレクサンドリアではギリシア語が用いられました。
 後に、ローマ帝国が分裂し(395年)、それからほぼ100年後の5世紀の終わり頃に、コンスタンティノープルの主教とローマ教皇とが教会を二分する事態が起こり(484年)、この状態が35年ほど続きました。これが結果として、西方教会と東方教会との分裂につながります。
 ローマ教皇を中心とするラテン語の西方キリスト教は、中世カトリック圏を形成しヨーロッパを支配します。これが、現在に続くカトリック教会です。しかし、16世紀の初期に(1517年)、ドイツを中心に宗教改革が起こり、これが北欧全体のキリスト教へ広がり、キリスト教は、南欧のラテンのキリスト教(カトリック)と、北欧の民族/国家を主体にするキリスト教(プロテスタント)とに分裂します。この頃、キリスト教はそれぞれの国の言語で語られるようになります。さらに18世紀以降には、イギリスとアメリカを中心とする英語圏のキリスト教が北アメリカを支配し、オーストラリアとインドを植民地にします。現在では、アメリカから太平洋を渡った東アジアの地域で、新たなキリスト教が始まろうとしています。これが脱白人(ポスト・ホワイト)のキリスト教です。このように、キリスト教は、過去を遺しつつ、しかも常に変わり続けています。
■守旧する宗教
 他方において、宗教には変わることを拒もうとする力も働きます。変わろうとする力と同じくらいに、それを拒否する力、従来の伝統やしきたりを固守する力が働くのです。この力が強いと変化と変容が妨げられます。例えば、キリスト教とイスラム教とを比較すると、イスラム教のほうが、はるかに拒否する力が強いようです。ただし、12〜13世紀の頃に、イスラム教はものすごい早さで勢力を拡大していました。イスラムの自然科学、イスラムの文化は、西欧世界をはるかに凌いでいたのです。わたしたちが使うアラビア数字がこの証拠です。だから、その頃十字軍遠征に出かけたドイツのある皇帝が、イスラム文化に逆に影響されて、八角形の宮殿を建てたほどです。
 けれども、現在のイスラム教は、キリスト教に比べると、変化を拒否する姿勢が強いようです。モロッコにあるフェタの町は、500年前とほとんど変わらない町並みと生活様式を遺しているそうです。女性の教育の面でも、イスラム世界はキリスト教圏よりもはるかに遅れています。同じことは、インドのヒンズー教にもあてはまります。
■イエス様とファリサイ派
 今回の箇所でイエス様は、律法学者やファリサイ派の人たちと、「汚れ」について衝突します。「あなたたちは、自分たちの言い伝えにこだわって、神の御言葉を無意味にしている」とイエス様は言われた。この汚れ論争でも、創造の働きと守旧する力とがはっきりと対立しています。ファリサイ派の人たちは、イエス様に向かって、「あなたの弟子たちは、なぜ食事の前に手を洗わないのか」と詰問します。食事の前に手を洗うかどうか、こんなささいなことが、彼らには大問題だったのです。イエス様はこの問いかけに直接お答えにならなかった。その代わり、イザヤ書を引用して相手を厳しく弾劾されます。イエス様が彼らの質問に直接お答えにならなかったのは、食前に手を洗うかどうかよりも、はるかに根源的なところに問題があったからです。
 神からの御言葉/御霊は、「創造する御霊」"Spiritus Creator"です。神の霊がイエス様を通して働くところには、新たな創造が起こります。これは、人間の力を超えた啓示によるお働きです。この御霊は、従来の殻を破って働きます。しかし「破る」ためには、そこに殻があるはずです。「型(かた)より入りて、型より出でよ」という言葉があります。ある型がそこにあって、その型にまず入る。入ったなら、その型を破って出るまで、型に従って歩み続けるのです。その歩みの中から、その人なりの独特の型が生まれてきます。新しい型の創造です。だから「型どおり」と「型破り」とは裏表で、この二つが、創造の営みの中で起きるのです。型どおりと型破りとは裏表と言いましたが、ファリサイ派の人たちは、決して守旧派でもなければ、保守派でもありませんでした。彼らも彼らなりに、常に新しい事態に対処しようと努力していたのです。だから、紀元70年のエルサレム滅亡以後でも、生き残ってラビ的ユダヤ教を存続させたのは、ファリサイ派の人たちでした。
■初めに立ち帰る御霊の啓示
 ところが、イエス様を通して与えられる御霊の啓示によるお働きは、当時のファリサイ派の人たちのしきたりや規定をはるかに超える根源的な革新の力でした。ファリサイ派の人たちは、自分たちのやり方で、言い換えると「人間的な」思考によって近い未来を予測して、自分たちの宗教をこの新しい事態に適合させようと努力していました。でもこれは、言わば、「調整型の」対応です。今あるもの、従来のしきたりや伝統を人間的に見て、適度に調整したり修正したりすることで、何とか新たな事態に合わせようとするやりかたです。
 ところが、イエス様の御霊にある啓示的な変革はそういう修正や調整を超えるものでした。イエス様は、モーセの十戒へ、すなわち聖書の御言葉を通して与えられる神からの啓示そのものへさかのぼられた。現在の些末な「汚れ」問題をも、これをモーセ十戒に<さかのぼって>、そこから見るのです。「人の教えによって神の御言葉を破っている」というイザヤ書からの引用は、この意図から出たものです。ファリサイ派は<近い将来>を見通して人間的な判断でこれに対処しようとしました。しかしイエス様は、祈りと啓示によって、<はるか昔の原点にさかのぼられた>のです。だからイエス様は、「あなたの父と母を敬え」を引いて、イエス様とファリサイ派との違いをはっきりさせます。イエス様の御霊は、根源にさかのぼって新たに創り出そうと啓示しますから、御霊のお働きとファリサイ派の人間的な宗教との衝突の原因がここにあったのです。
 これは、パウロの場合にもあてはまります。パウロは、アブラハムの信仰に、それもアブラハムがまだ主なる神に従う以前のアブラムへさかのぼったのです。アブラムがまだ信仰を持たなかった頃の「異邦人アブラム」に戻って、<そこから>アブラハムの信仰がどのようなものであったのか、これをモーセ律法との関係で解き明かしたのです(ガラテヤ3章1〜20節)。割礼を受ける前のアブラムを洗礼を受ける前の異邦人キリスト教徒たちと重ね合わせることで、「信仰によって義とされる」ことを説明しようとしたのです(ローマ4章1〜12節)。こういうパウロの律法観は、彼に与えられたイエス様の御霊にある啓示から出ています。
 先ほども言いましたが、わたしたちは現在、アジアのキリスト教の黎明期に生きています。キリスト教は今、根底から変わろうとしています。このことは、人間的な目論見から、日本人向けにキリスト教を適合させることでもなければ、アジア向けのキリスト教へ修正することでもありません。今までのキリスト教の教義を現代的に修正しても、ほんとうの意味で、御霊にあって創造するキリストの福音は生まれてきません。キリスト教をそのレベルでとらえていては、御霊にあるほんとうの変容は生まれません。イエス様は「人の教え」を神からの啓示と対照させました。ところが現代では、「人の教え」を別の「人の教え」によって新しく対応させようとするのです。知識も大事ですが、祈りはそれよりはるかに大切です。
 今求められていることは、イエス様にあるエクレシアが一致することです。このためには、新約聖書がわたしたちに伝えようとしている福音の根源にさかのぼることがどうしても必要なのです。ナザレのイエス様の霊性へとさかのぼることを通じて初めて、エクレシアの一致が創り出され、このことを通して初めて、キリスト教が全く新しい時代を創り出していくことができるのです。御復活のイエス様の御臨在こそ、人に働きかけるほんとうの創造の力です。このような力は、人からではなく、宇宙をお造りになり、今も造り続けておられる神のお働きによるのです。新約聖書が伝えるナザレのイエス様の霊性にある創造のお働きです。
■通時的と共時的
  再び神の創造の御業に戻りましょう。人類は、ホモ・サピエンス(英知の人)と呼ばれて、生物の進化の最も発達した段階にあると言われています。地球が誕生してから45億年です。その間に微生物が太陽の光を受けて光合成を始めてから、十数億年か経過して、現在の人間ができてきました。だから、これをタイムラインで眺めると、生命は、最初の微生物から人間まで、一つながりの歴史を持っているかのように見えます。このように、時間の軸に沿ってみることを「通時的な」"diachronic"見方と言います。
 ところが、現在のこの地球は、こういう通時的な世界ではありませんね。なぜならここには、人類よりもはるかに昔から存在した微生物もいれば、シイラカンスもいれば、恐竜の子孫である空の鳥もいれば、ネズミもチンパンジーもいます。だから、神様の創造の世界は通時的ではありません。今まで存在したものが、全部現在、それも同時的に共存しているからです。これは「通時的」ではなく「共時的」"synchronic"な世界です。だから、わたしたち人類は、自分たちこそ進化の頂点にいるからと言って、うぬぼれてほかの生物を見下してはいけません。謙虚になって、今地球に存在しているほかの生命体をも大切に見守りながら、これらと調和して共存していかなければならないのです。最も新しいものが最も優れているといううぬぼれは禁物です。このように全生命を共時的に見る謙虚さこそ、まさにホモ・サピエンスの特徴ですからね。「弱肉強食」、「食うか食われるか」、「生きるか死ぬか」という生存闘争、これを進化の過程だと見る人もいるようですが、第三イザヤが観た「新天新地」のヴィジョンはそうではありませんでした(イザヤ書65章17〜25節)。
 同じことが宗教の世界でも言うことができます。人類の宗教は、20万年とも、15万年とも言われていますが、キリスト教はその中で、比較的新しく、しかも進化し続けてきました。しかし、現実の世界には、原始的な宗教から、進んだキリスト教までが、今この世界に共存しているのです。キリスト教の内部だけ見ても、先ほど言いましたように、古いものから新しいものまでが、いろいろな宗派宗団が現在共存しています。
 だから、人類の宗教を通時的ではなく、共時的な視野から見なければなりません。学問的に最も新しいものこそ、最も優れているなどとうぬぼれたら、大変な誤りを犯すことになります。生物界と同じように、宗教世界でも、原始的なものからごく最近のものまでが、共時的に存在するからです。古いからダメだ。新しいから善いなどと思ったら大変ですよ。「共時化する」"synchronize"とは「総合する」ことです。共時的な観点から見れば、どんな宗教も、何かほかにはない特徴や真理を具えていますから、全体を総合して観ていかなければいけません「通時」と「共時」とを併せると時間と空間が一つになります。「時空一如」です。
 これはキリスト教圏にもあてはまります。キリスト教の諸宗派も、新しいとか古いとかではなく、共時的に総合的に見る視点が大事です。ギリシア正教、カトリック、プロテスタント諸派、その中にも古いものと最近のものとがあります。でも、何がほんとうに正しくて価値があるのかを、通時的な時間軸で判断してはいけません。共時的に見ると、それぞれのキリスト教には、ものすごい神秘や真理が伝えられています。わたしなんかは、新しい美術よりも、ギリシア正教の聖堂に入って、そこに描かれている壁画や天井画を見て、ものすごいと思うことがありました。だから、学問的に新しい、時代的に新しいとうぬぼれたら大変な間違いを犯します。祈りによる御霊にある啓示によって、ほんとうに大事なこと、イエス様の福音のほんとうの価値を共時的に読み取ることが大切です。
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