108章 浄と不浄
マルコ7章14〜23節/マタイ15章10〜20節/ルカ6章39節
【聖句】
■マルコ7章
14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。
17イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
18イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
19それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
20更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
21中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
 
■マタイ15章
10それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
11口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
12そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。
13イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。
14そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」
15するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。
16イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。
17すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。
18しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。
19悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。
20これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」
 
■イエス様語録
盲人が盲人の道案内をできようか?
二人とも穴に落ちこまないだろうか?
 
弟子はその師にまさる者ではない。
弟子がその師のようになれ/であれば十分である。
〔マックQ84頁〕〔ヘルメネイアQ76-79.〕
【注】これら二つのイエスの言葉は、どちらも導かれる者と導く者との関係について語っていますが、イエス様語録では、これら二つが、並んで一つのまとまりを成しています。ルカ福音書6章39〜40節でもイエス様語録と同じ組み合わせてでています。盲人の譬えではルカ福音書の疑問文のほうがイエス様語録に近く、弟子と師の関係でも、ルカ福音書のほうがイエス様語録に近いです。
 
■ルカ6章
39イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」
[39]ルカ福音書では、この言葉は、イエスの平地での説教(ルカ6章)の中に組み込まれていて、弟子たちに「人を軽々しく裁いてはならない」ことを戒める言葉の中に置かれています。したがってルカ福音書では、盲人の譬えは、マタイ福音書のように、ファリサイ派と律法学者たちへ向けられた批判の言葉ではありません。ルカ6章の教えは、弟子だけでなく、さらに広く一般の民衆をも対象に語られていますから(ルカ7章1節)、ルカはこのイエスの言葉をルカの教会のクリスチャンたちに宛てていると考えることができます。イエス・キリストの救いに与った者が、まだ福音を知らない者たちに対する場合に、思い上がった姿勢で接することは、「盲人を手引きする盲人」になりかねないからです。ただし、このイエスの言葉は、マタイが正しく洞察したように、おそらくほんらいは、ユダヤの指導者たちへの批判の言葉だったと思われます。
 
■『トマス福音書』(34)
イエスは言われた、「もし盲人が盲人を導けば、二人とも穴に落ちこむだろう。」
【注】ヘルメネイアQでは「言われる」と現在形です。『トマス福音書』のほうは、マタイ福音書に近いです。ここでは、グノーシス的な視点から、正統派の指導者への皮肉がこめられているのでしょう〔荒井献『トマスによる福音書』177頁〕。
 
                        【注釈】
【講話】
■専門家とは誰か?
 始めに、現在わたしたちに起こっている身近な問題について考えることから始めたいと思います。東日本大震災とこれにつづく放射能汚染の問題が、3月11日以降、あれこれと話題になっています。しかしわたしの見るところでは、援助「する側」の気持は伝わってきても、援助「される側」の実際の言葉は聞こえてこないのです。わたしが放射能被害者の生の声を聴くことができたのは、NHKのテレビで放送された「飯舘村の100日」(2011年7月23日放映)を見た時です。先祖代々営々として営んできた農業や牧畜の成果を根こそぎ奪われて、現在の生活だけでなく、将来の希望さえも奪われた人たちが口にした言葉、それは「悔しい」「耐えられない」でした。災害援助に携わったある人が、罹災者の中には、お見舞いを必ずしも快く思わない人もいると聞きました。当たり前だと思います。誰だって、援助<する>側、感謝<される>側に立ちたいに決まっています。だれだって、援助される側、同情される側、お礼を言う側には、できれば立ちたく<ない>のです。彼らはほんとうに「悔しい」のです。「耐えられない」のです。
 震災のひどさや汚染の被害を伝える新聞記事を読みながら、わたしの頭から離れなかったことは、被害の事実や汚染の実態だけでなく、かくいうわたし自身をも含めて、これらの出来事についてコメントしたり評論したりする学者・知識人・政治家・官僚・マスメディア人たちの姿勢です。これらについて具体的な例をあげませんが、新聞や雑誌からの切り抜き以外に、次の本が参考になります。広瀬隆『福島原発メルトダウン』朝日新書(2011年5月)。/武田邦彦『原発事故残留汚染の危険性』朝日新聞社(2011年4月)。/『原発の深い闇:東電・政治家・官僚・学者・マスコミ・文化人の大罪』 宝島社(2011年8月)。
 こういうことを考えながら新聞や雑誌を読んでいる時に、ある人の発言が目に留まりました。水俣病と50年間取り組み、その中から「水俣学」を創り出した原田正純(はらだまさずみ)というお医者さんです(「インタビュー:3.11:水俣から」『朝日新聞』2011年5月25日号)。彼は、「もしもほんとうの意味でその道の専門家なら」、水俣病の原因になった有機水銀の被害を予測できたはずだと考えたのです。まだ誰も予測できない災害を前もって予測する人、出来る人、そういう人こそが、「真の意味での」専門家でなければならない。ところが「その道の専門」と称する人たちは、被害を予測するどころか、予測しようとする人たちを排除したのです。しかも、彼ら「専門家」たちは、実際に被害が起こった<その後>でさえも、水銀の被害を認めようとはしませんでした。水銀被害の実態を見破ったのは、これらの専門家ではなく、実際に被害にあった母親であり、窒素の工場で働いていた労働者たちのほうです。言うまでもなくこの人たちは、被害者であって、被害の<外にいた>専門家ではありません。原田さんは、学問的な視点から、いったいこの場合、水俣水銀被害の「専門家」とは誰なのか? こう問いかけたのです。
 水銀被害について、その実態を知り、被害の本質を見抜くことができたのは、実際に被害にあった人たちのほうです。彼らは、水銀については「素人」(しろうと)です。だとすれば、知識においては専門家である人たちが、現実の出来事の本質を見抜くことができず、逆に知識において素人のはずの人たちのほうが、事の本質を見抜く洞察力を持っていたことになります。
 このこと、知識を持つ専門家が、現実の出来事を正しく洞察できる人たちだとは限らないこと、これに対して、出来事の当事者であり体験者のほうは、知識においては素人でも、いわゆる「専門家」と称する人たちよりも、その出来事の本当の意味を正しく洞察することができること、原田さんは、<このこと>に目を向けたのです。出来事をほんとうに正しく見抜くのは、その出来事の当事者たちだったのです。だから、水俣病という有機水銀被害は、「知識/知見の専門家」と、当事者として「出来事をほんとうに知る専門家」と、ふた種類の専門家がいなければ、正しい判断を下すことができなかった。こういうことが原田医師に分かったのです。そこで彼は、彼独自の「水俣学」をこのような「二種類の専門家」から成り立たせました(「患者こそが専門家だ」『朝日新聞』2011年6月29日号)。実は、原田さんのこのような視座には、先例がありました。それは、足尾銅山の鉱毒事件の際に、実際に被害にあった谷中村の人たちと共に、この出来事を考えようとした田中正造の「谷中学」です。
 今度の東日本大震災と、これに伴う原子炉破壊と放射能汚染の問題を考える際にも、「この出来事」のほんとうの意味とその実態を正しく把握して正しい判断を下す「専門家」とは、いったいだれなのか? これがとても大切な問題になってきます。原子炉と放射能に多くの知見/知識を持つ「専門家」たちは、出来事それ自体の実態とこれの真の意味を洞察する以前に、自分の地位や権威など、あまりにいろいろな思惑に影響されて、その知識も知見も、彼らなりの限られた視野の中でしか通用しない意見や論になります。だから、<福島の出来事>を学ぶためには、実際の被害に遭った人たち、すなわち「放射能汚染の実態を体験している専門家」たちの視座と、放射能の知識を持つ専門家のそれとが、複眼的に併された「福島学」が要求されてくるのです。
■コイノニア学
 わたしたちが祈り求めている「御霊のお働き」とは「出来事」です。放射能汚染という「悪い出来事」を神の御霊のお働きという「善い出来事」と比較するのは、おかしいと思うかもしれません。しかし、そこに含まれる問題点は、「善い」「悪い」にかかわらず、共通すると思います。ある「出来事」を正しく判断するためには、その出来事に関する知識/知見の専門家だけでは十分とは言えません。なぜなら、彼らは、出来事それ自体の体験者でもなければ、当事者でもないからです。出来事を最もよく「知っている」のは、その当事者たちです。彼らは、その出来事に関する最も信頼できる「専門家」なのです。
 だから、このような視座は、「聖書学」と「信仰」との問題を考える場合にも大事な示唆を与えてくれます。聖書学者は、聖書に関する知識/知見を有する専門家たちです。ところが、この人たちは、実際の信仰生活の中で生じる様々な出来事、例えば、病気の癒しとか鬱状態から信仰によって立ち直った体験だとか、異言、預言、幻、その他の霊体験や霊能現象に関しては、ほとんど知らず、関心も持たないのです。そういう実際の信仰生活に伴う出来事は、非常に限られた範囲内でしか、学問的な方法論に採り入れることができないからです。彼らの関心は、学識とこれを求める方法論にあるのであって、現実の信仰生活には直接関わらないのです。
 信仰生活の実態を一番よく知っているのは、聖書学の知見を有する専門家ではなく、信仰生活を日々歩み実践している「ただのクリスチャン」のほうです。彼らこそが「信仰の専門家」です。だから、聖書を学び、これに基づいて正しく信仰生活を送るためには、聖書の知見を有する「聖書学の専門家」と、実際に信仰生活を送り、その中で体験を深めている「信仰の専門家たち」と、ふたとおりの専門家が必要になります。コイノニア会の集会で、わたしたちは「聖書学のプロ」ではないけれども、「クリスチャンのプロ」です、とわたしが言うのはこの意味です。聖書学や牧会については、「タダノ信者」でも、こと信仰と祈りについては「プロの信者」なのです。
 では、「出来事の専門家」とは、いったい何を意味するのか? それは、(1)何を選ぶのが善い/正しいのか? (2)何を信じればよいのか? (3)その結果将来どうなるのか? この三つです。出来事に関して、この三つを判断することを「出来事を解釈する」と言います。放射能汚染に襲われた人たちが、一番知りたいと思っているのは、この三つです。
 「出来事」で要求されるのは、自分との関わりにおいて、その出来事を「解釈する」ことです。機械で数値を測るだけなら、専門家でなくてもやれます。しかし、責任を持って解釈するのは、専門家しかやれないのです。出来事に関する知識を持っている専門家、出来事を体験する当事者としての専門家、このふた種類の専門家が、上に述べた3点について、「解釈」しなければならないのです。ただし、これらふた種類の専門家は、対立したり反目したりするべきではありません。難しい手術を前にした医者と患者の間のように、相互に補完しあって初めて、ほんとうに正しい霊性に導かれて、信仰の道を歩むことができるからです。だから、わたしは、イエス様の御霊にあって正しく歩むために、これらふた種類の専門家に聴かなければならないと思っています。わたしが推奨したい「コイノニア学」の基点がここにあります。
■プロの聖書学者
 今回の「浄と不浄」の出来事を見ても分かるように、イエス様は、律法の専門家であるファリサイ派や律法学者たちからの問いかけに対して直接お答えになりませんでした。彼らが提起した問題それ自体が、民衆の生活に密着した信仰の実体験から見れば、完全に的外れだったからです。なぜでしょうか? それは彼らが、知識と権威を誇るあまり、上からの目線で、人々を支配し、自分たちの神学と自分たちの宗教制度に服従させることだけにとらわれていたからです。彼らは、自分たちの形成した神学にとわられて、その神学が、どれだけ実際の信仰生活に即しているのかを見落としていたのです。
 だからイエス様は言われました、「彼らは盲人の道案内だ。盲人が盲人の手引きをすれば、二人とも穴に落ちる」と。ただし、これはファリサイ派や律法学者たちの言うことは全く無意味だとか、彼らは間違った聖書解釈をしているという意味ではありませんから、注意してください。それどころか、彼らの聖書知識は正しく、その解釈もそれなりによく考え抜かれていました。彼らは、聖書が伝える律法の専門家だからです。イエス様が、「彼らの言うことには従え。しかし彼らの行ないには従うな」(マタイ23章2〜4節)と言われたのはこのためです。
 イエス様のこの盲人の譬えは、ヨハネ福音書9章の出来事によく表わされています。生まれつき目が見えなかった人が、イエス様に命じられてシロアムの池の水で目を洗うと、見えるようになります。すると、これを知った人々は、彼をファリサイ派のところへ連れて行きます。こういう場合には、律法の専門家であり教師である人たちに知らせるのが義務だったからです。そこでファリサイ派の人たちは、癒やされた男にいろいろ問いただします。その不思議を行なった人が、イエス様だと分かったとたんに、彼らの態度が変わります。なぜなら、これら律法の専門家たちは、イエス様のなさる出来事が理解できず、逆に、彼らの律法解釈に照らして、イエス様が「罪人」だという判断を下していたからです。彼らは、実際に生起した出来事とこれによって救われた人のことよりも、その出来事を<自分たちの神学と解釈>に基づいて処理しようとしたのです。
 その結果彼らは、その人の目が癒やされたこと自体を否定しようとします。先ず、その出来事それ自体を本人に否定させようとします。本人がどうしても納得しないので、今度はその両親を呼んで、彼らに否定させようとします。両親は、ただおろおろするばかりで、何が何だか分かりません。業を煮やした律法の専門家たちは、イエスは罪人だ。だから彼が神からの救いを与える<はずがない>と恫喝(どうかつ)して、その癒やされた人を会堂から追放するのです。
 ヨハネ9章には、イエス様が厳しく批判する律法の専門家の正体が、みごとに描き出されています。彼らは起こった出来事それ自体を否定しようとします。なぜなら、現実に生じたその出来事を認めるならば、自分たちの神学的権威の失墜を招く恐れがあるからです。だから、せっかく神から与えられた救いのみ業を「あってはならない悪いこと」として処理しようとする、おかしな結果になります。まさに「いいは悪い。悪いはいい」です(シエイクスピア『マクベス』冒頭の魔女の言葉)。イエス様に目を癒やされたその人は、宗教制度の要(かなめ)である会堂から追い出されて、行き場を失いますが、イエス様に再び巡り会います。そこで、イエス様こそが、ほんとうの救い主であることを発見するのです。
 ヨハネ福音書が描くこのファリサイ派は、宗教的な権威を持つ人たち特有の考え方を代表しているように見えるかもしれません。しかし、必ずしもそうではないのです。なぜなら、人間は、誰しもこういう「宗教的な傾向」を持つからです。この意味で、人は誰でも「宗教する人」なのです〔私市『これからの日本とキリスト教』5章「宗教する人」を参照〕。だから、ここに描かれているファリサイ派の思考様式は、権威主義的な人間なら誰でも陥る思考の罠です。人は権威や権力を帯びると、自分の権威に照らせば、そんな「はずがない」と考えるようになります。こういう人は、「はずがない」ことが<はずれる>ことに気がつかないばかりか、「はずがない」が目の前で<はずれて>も、なかなかこれを認めようとはしないのです。こうして、権威/権力にとりつかれた者は、現実を「意図的に」無視して、実態とかけ離れたことを行なったり、命令したりする傾向を持つようになります。このように、彼らは、神学や聖書学のプロではあっても、決して信仰のプロではありませんから注意してください。もしも、こういう人たちが、自分たちこそ「信仰のプロだ」、こう思い上がったなら、その時、「自分が神の国に入らないばかりか、入ろうとする者をも入らせない」(マタイ23章13節)存在になります。
 ここまで来ると、わたしが、なぜ水俣学や福島学を持ち出したのかがお分かりいただけたと思います。宗教にせよ、政治にせよ、経済にせよ、科学技術にせよ、いわゆるその道の専門家と称する人たちは、「想定外」が起こっても、言を左右にしてなかなかその事実に向き合うことができない人たちです。彼らは、その専門知識の権威に幻惑された結果、「盲人を手引きする盲目」であることに気がつかず、「落とし穴」に陥るのです。だからイエス様は、彼らにこう言われました。「(あなたたちが)見えなかったのであれば、罪はなかっただろう。しかし、今なお『見える』と言い張るところにあなたたちの罪がある」(ヨハネ9章41節)。
■プロの信仰者
 わたしたちは、神学や聖書学のプロでもなければ、その知識に精通しているわけでもありません。だから、その道の専門家と言われる人たちから、知識を学び、これに助けられて聖書を読むことになります。けれども、クリスチャンならだれでも、聖書学のプロではなくても、イエス様を信じる「信仰の専門家」になることができるのです。日々の生活の中で、実際に生起する霊的な出来事を信仰的に受けとめて、これを伝えることができるのです。わたしたち一人一人が、例外なく、そのような信仰の専門家になること、新約聖書がわたしたちに求めているのは、まさにこのことです(エフェソ4章13〜16節)。人は、イエス様を信じてその一生を貫くならば、その人は立派な信仰の専門家です。その一生は、どのような聖書学の専門家にも劣らない大事な遺産になります。英単語のような断片的な知識の真理は、一度覚えるならそれで知識は伝わります。しかしイエス様が伝える真理は、これを「生きる」ことによって初めて伝わる、そのような真理なのです。
 特にこれからの時代は、一人一人が、自己の責任において福音を受けとめていく、そういう時代になると思います。自己の責任において信仰を生きるというのは、自由で楽だと思うかもしれませんが、実はその反対で、その自由には人それぞれに神から与えられている使命を伴うことを忘れてはなりません。これからのクリスチャンには、ひとりひとりが、それぞれの分野で「宣教師」になる「プロ意識」が求められます。聖書学のプロでなくても、教会を指導する牧会のプロでなくても、「信仰者のプロ」となる覚悟が求められるのです。
 「信仰のプロ」と言えば、わたしにとって一番身近な方は、「石垣会」の川口愛子さん、通称「小諸のママさん」です。この方のことは、ホームページの講話欄に載せましたのでここでは繰り返しません。この方は、最後の最期までイエス様に従い抜いて、しかも、最後に、この地上には何一つ遺しませんでした。この方が召された後で、その遺稿集が出ましたが、ママさんが遺されたものは、それだけです〔『落穂』川口愛子姉遺稿集。石垣会(1974年)〕。わたしが小諸のママさんの家で見たものは、信仰と希望と愛の三つだけでした。それらはどれも、目に見える姿で遺るものではないのです。
 いつぞや、わたしが川口愛子先生のもとを訪れた際に、先生に、「信仰を貫く秘訣は何ですか?」とお尋ねすると、先生は、ちょっと考えて、「我に従え」と一言おっしゃいました。イエス様のこの御言葉が、小諸のママさんの一生だったのです。彼女こそ、「信仰のプロ」の模範です。
                  共観福音書講話へ