【注釈】
■マルコ7章
 今回は前回の汚れ論争の続きです。しかし、ここからは、食事の際の作法ではなく、食物の浄/不浄の問題になります。レビ記11章には、食用にする生き物について、「汚れた物」と「浄い物」とを区別するよう命じられています。そこには、生き物の死骸が汚れを生じることも記されています。さらに同17章(10~16節)には、殺した生き物の「血を食べる」ことが禁じられています。
[14]【群衆を】ここで学者とファリサイ派は姿を消します。食事の手洗いの問題は決着がつけられたからです。代わりにイエスは「群衆」を呼び寄せます。イエスはこれまでも群衆に語ってきました(マルコ2章13節/4章1節/6章34節)。しかし、わざわざ群衆を「呼び寄せた」とあるのは、ここが初めてです。よほど大事なことを教えようとしているのでしょう。学者・ファリサイ派との論争では、食事の規定について、モーセ十戒を引いて、彼らが神の言葉を無意味にしていると批判しました。ところがイエスは、ここでは、旧約聖書の規定それ自体さえ危うくするほど根本的な視点から、食物規定を解釈し直しています。しかも、それを「譬え」で語っています。「浄」と「不浄」の問題を「よく聴いて、自分で悟りなさい」と人々に注意をうながすのはこのためです(4章1~34節を参照)。
[15]「外から中へ入るもので、人を汚すものはありえない。人の中から出るものこそが人を汚す。」ここに見る「~何一つない、しかし~」"There is nothing...,but..." と対照する言い方から判断すると、ここは、イエスの言葉にさかのぼると思われます。この言い方はヘブライ語独特で、事柄を絶対的に割り切ることをせず、「~よりは、むしろ~」という相対的な関係において両者を比較対照する言い方です。だから、ほんらいのイエスの言葉は、旧約聖書の規定(例えばレビ記11章/同17章)を完全に否定しているとは言えません。浄/不浄は、食物だけの問題ではありませんから、食物規定だけで浄/不浄を割り切ることができないのです(食物規定では使徒15章29節参照)。
【汚す】原語「コイノオー」は「通俗化する」「広く分かち合う」ことですが、このギリシア語動詞は、儀礼的に「汚す」ことをも意味するようになります(第四マカバイ記7章6節「汚食で腹を<汚す>」/使徒10章14節)。ヘブライでは、神に献げた「聖なるもの」と、人が日常用いる「世俗のもの」とが区別されていました(例えばサムエル記上21章5節の「普通のパン」と「聖なるパン」)。七十人訳では「世俗な」にあたるギリシア語は「ベベーロス」(形容詞)ですが、新約では、「コイノオー」(動詞)とこれの形容詞「コイノス」も「ベベーロス」と同様な意味で用いられるようになります。だから、「汚す」とは、ほんらい、神に献げた「聖なる」ものを、世俗の目的に用いることです。
 15節が19節では更に敷衍(ふえん)されて、イエスは「すべての食物は浄い」と言い切っています。これは、旧約聖書の食物規定を完全に破棄するもので、イエスの言葉の中でも「最も過激な発言」と言われるほどです〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)526頁〕。イエスは、ほんらい、律法に対して柔軟な対応の仕方をしていたと考えられますから、19節は、おそらく、イエスの意を汲んだ後の教会が、異邦人キリスト教徒たちの間で、イエスの言葉をさらに徹底させたのでしょう(ローマ14章14節参照)。だから19節は、マルコによる付加的な説明だと考えられます。
 なお、15節に続く16節に「聞く耳のある者は聞きなさい」とありますが、これは有力な諸写本では抜けています。おそらく写筆の際の書き込みか、あるいは7章14節をここに導入したと思われます〔新約原典テキスト批評94~95頁〕。
[17]「群衆と別れて」、「家に入る」、「弟子たちは」とあるように、群衆に語った後で弟子たちに譬えを解き明かすのは、4章11節/同34節と同じです。
[18]~[19]18~19節では、先の15節で語られた譬えをより明確にするために、イエスが弟子たちに説明しています。
【物分かりが悪い】霊的な悟りが鈍いこと。イエスが彼らに御国の奥義を解き明かしているのに(4章11節)、弟子たちの反応が鈍いことが繰り返し語られます(4章13節/6章52節/8章17~18節)。
 19節では、「心」と「腹」(身体の消化機能全体)とが対照されていて、口から入る食物は、消化されて「外へ」(原語は「便所」)出ていくことです。なお、19節の末尾「こうして、すべての食べ物は浄められる」とあるのは、イエスの言葉に含める訳と〔新共同訳〕、構文的に見て、マルコ福音書の作者による挿入/説明と見る訳〔NRSV〕〔岩波訳〕とがあります。「心」とは、ここでは特に、その人と神との関わり方を指していますから、このように、<すべての>食物が、それ自体として祭儀的に「人を汚す」ことがありえないという考え方は、当時のユダヤ教の食物規定を根底から覆すほどの衝撃を与えたと思われます(使徒10章14節参照)。
[20]~[23]20節は「人から出てくるもの、それこそが」と強めています。「もの」は、15節では複数ですが、ここでは単数です。続いてここに、いわゆる「悪徳のリスト」が出てきます。一般的に、ギリシア・ローマから欧米にいたる古典には、美徳と悪徳のリストやカタログが物語にしばしばでてきますが、今回は悪徳のリストだけです。悪徳のリストは、ヘレニズムの哲学者たちが、世の中の堕落を嘆く場合にしばしば引き合いに出しました(ローマ1章29~31節参照)〔Collins, Mark. 357.〕〔Anchor(6)858〕。
 新約聖書では特にパウロとパウロ系の書簡にこのリストが多いようです。その主なものだけを上げると、福音書ではマルコ7章21~22節と並行するマタイ15章19節があります。パウロとパウロ系書簡では、ローマ1章29~31節/第一コリント6章9~10節/ガラテヤ5章19~21節/第一テモテ1章9~10節/第二テモテ3章2~4節などがあり、そのほかには、第一ペトロ4章3節/ヨハネ黙示録21章8節があげられましょう。
 新約聖書の悪徳も当時のヘレニズム世界のものと類似していますから、両者に共通する悪徳が多く見られます。しかし、新約聖書の場合、ヘレニズムの悪徳以外に、例えば偶像礼拝/魔術など、十戒を初めとするモーセ律法の影響が強いのが特徴です。ヘブライの伝統では、「偶像礼拝」と「無軌道な性」と「流血/暴虐」の三つが、神から与えられた大地を汚す最も忌まわしい罪とされています。今回の悪徳のリストは、ほんらい口頭で伝えられたためでしょうか、悪徳の並べ方が一定の構成によって配置されているわけではありません。
【悪い思い】21節の「悪い思い/意図」、「邪念」〔塚本訳〕は、以下の悪徳全体を総称しています。「悪い思い」は七十人訳の創世記6章5節のギリシア語を反映していますから、洪水前の人間の堕落を踏まえているのでしょう。続く六つはいずれも複数で、これに続く六つはどれも単数です。前半(複数)は具体的な行為のことで、後半(単数)は抽象的な悪だという見方もあります。
【淫らな行ない】原語は「ポルネイアイ」(複数)で、「道ならぬ性交」のことです。「淫行」〔岩波訳〕。姦淫・不倫はもとより、父の妻と関係すること(第一コリント5章1節)、兄弟でひとりの女性と関係することなども含まれます(レビ記18章を参照)。
【盗み】これは、旧約聖書の「汚れ」とは直接関係しませんが、ヘレニズム世界では、「盗み」は「殺人」と並ぶ悪とされていましたから、十戒でも禁じられています(出エジプト20章14節)。「盗み」(人間を誘拐することを含みます)と「殺人」と「姦淫」と「貪欲」の四つは、十戒の後半によるものでしょう。
【殺意】原語「フォノイ」(複数)は、「殺人」〔岩波訳〕をも含みます。『第一エノク書』でも流血(暴虐)は、最も忌まわしい罪での一つです(創世記9章5節)。
【姦淫】原語「モイケイアイ」は、先の「淫らな行ない」の中でも、特に婚姻関係での不倫・不義・姦淫のことです。特にイエスは、離婚した男性が再婚しても、もとの妻に対して「姦淫」になると教えています(マルコ10章11~12節)。
【貪欲】原語は「プレオネクシアイ」(複数)で、権力や富などを飽くことなく追求することです。「欲張り」〔塚本訳〕。貪欲は十戒でも最後に重要な戒めとしておかれています。ヘレニズムの哲学も、政治にせよ経済にせよ、身体的な欲求にせよ、このような「過度の」欲求を厳しく戒めています。
【悪意】原語は「ポネーリアイ」(複数)で、悪意/邪心の意味です。この言葉は「美徳」の反対を指す「悪徳」の意味でも用いられますが、ここでは何らかの具体的な行為のことを指すのでしょう。クムラン文書では、この語は「神に反逆する」行為を含みます。
【詐欺】原語は「ドロス」(欺瞞/欺き/策略)で、ここから単数です。「悪巧み」〔塚本訳〕/「奸計」〔岩波訳〕。祭司長や律法学者たちがイエスを逮捕しようと「企んだ」こともこれに入ります(マルコ14章1節)。このようにこの言葉は、特に権力者たちに対して用いられる場合が多く、賄賂を受け取って不正な裁きを行なうことや偽りの証言(レビ記19章15~16節)、行政や取引の際に意図的に不正な計測や計量をする行為(申命記25章15節)など、悪意のある策略をも指します。
【好色】原語は「アセルゲイア」(単数)。「道楽」〔塚本訳〕。金銭や生活での「ふしだら/不潔」を意味しますから、ほんらいは必ずしも性的な行為のことだけではありません。ただし、新約聖書では、ヘレニズム時代の乱れた性関係を指す場合が多いので、新共同訳もこれに従ったのでしょう。だとすれば、先の「淫ら」「姦淫」と三点セットになります。
【ねたみ】原語の意味は「悪意の目つき」です。「嫉妬」〔岩波訳〕。これは「嫉妬/ねたみ/刺すような目つき」を表わします(シラ書14章8~10節参照)。嫉妬に狂って人を呪うことも意味しますから、英語で "evil eye" と言い、禍をもたらす魔女や悪魔の目つきとして恐れられてきました(「嫉妬は緑の目をした怪物」シェイクスピア『オセロ』3幕3場)。
【悪口】原語は「ブラスフェーミア」(悪口/冒涜)。「涜言」〔岩波訳〕。人を中傷したり侮辱するひどい言葉のことで、神について用いられる時には、赦されない「冒涜」の意味になります(マルコ2章7節/14章64節)。ここでは宗教的だけでなく、より広い意味でしょう。
【傲慢】原語は「ヒュペレーファニア」(高慢/うぬぼれ/傲慢)。この言葉は、次の「無分別/愚か」と結びつきます。これも権力者や民の指導者たちに対して用いられる場合が多く、とりわけ、民を扇動して敵に対して無謀な戦争や反乱を仕掛ける思い上がった愚か者をも指します。
【無分別】原語は「アプロシュネー」(愚か)。「愚かさ」〔塚本訳〕。これは物事に正しく対処する「分別」(プロシュネー)の反対語です。「思慮/分別」はヘレニズムの哲学では重要な徳目でした。これが最後に置かれているのは、初めの「悪い思い」と対応していて、様々な悪の出所としての「無思慮な想い」を意味するのでしょう〔Collins, Mark. 362.〕。
 以上を総合すると、ここにあげられている「悪徳」は、必ずしも狭い意味での宗教的な「浄/不浄」に限られていません。それらの内容には、「人の口から出るもの(言葉)」だけでなく種々の行為も含まれています。だから、これらは、神の像に象(かたど)られた人間の人格的な聖性を「汚す」言葉/行為として理解されています。おそらくこれが、イエスのほんらいの発言の意図だったと思われます。したがって、伝承の過程で元のイエスの発言がヘレニズム的に拡大されていますから、どの悪徳がイエスにさかのぼるのかを見分けるのは困難です(マタイ福音書の並行箇所を参照)。なお23節は、今回の箇所全体を締めくくる意味で、まとめてもう一度イエスの主旨を繰り返しています。
■マタイ15章
 マタイ福音書の記事は、マルコ福音書のものを縮めて編集し直しています。マタイ福音書には、ファリサイ派の人たちが手を洗うことへの説明もなく、「すべての食物は浄い」というイエスの言葉もありません。マルコ福音書のこれらの部分は異邦人キリスト教徒向けの内容ですから、ユダヤ人キリスト教徒が多かったマタイの教会の人たち(マタイ福音書の読者たち)には必要なかったのでしょう。
 しかし、マタイ福音書がマルコ福音書を踏まえているのは確かで、そのことは、例えば、「ファリサイ派の人々と律法学者たち」(マタイ15章1節)は、マルコ福音書で用いられている順序で、マタイ福音書では「律法学者とファリサイ派の人々」(マタイ12章38節)です。また、マタイ15章12~14節は、明らかにマルコ福音書からの記事の中へマタイが挿入したものです。また、マタイ15章17節の「口から<入る>(エイスポレウオマイ)」という動詞はマルコ福音書にしばしばでてくるのに、マタイ福音書ではここだけです。
 マタイは彼なりに物語を構成し直して、食事と食物規定の記事全体を、ファリサイ派と律法学者たちからイエスへの詰問(1~9節)、イエスから群衆への教え(10~11節)、弟子たちからイエスへの質問(12~20節)のように、三つに分けています。前回説明したように、マタイは、マルコ福音書でのイザヤ書からの引用とコルバンの教えの順序を逆にして、前半をイザヤ書の引用で締めくくっています。したがって、マタイ福音書15章1~20節全体から見れば、この10~11節の群衆への教えがちょうど真ん中に来ることになり、この部分が、内容全体の中心になります。だからこの部分は、前半のファリサイ派と律法学者たちからの詰問と、これに続くイザヤ書からの引用を受けて、これを弟子たちへの教えに結ぶ役目をしています。その上でマタイは、最後の20節で、洗わない手の問題へ戻り、20節を2節への答えとすることで全体を締めくくっています。
[10]10~11節は、15章1~20節全体の中央に位置して、食事の際の不浄の手から食物の浄/不浄へと問題が移行する糸口になります。ここで相手が、ファリサイ派と律法学者たちから「群衆」(集合的に単数名詞)に移ります。このようにマタイ福音書でも、ユダヤの指導者たちと民衆とが区別されていることに注意してください。マタイは、マルコ福音書にある「再び(呼び寄せる)」と呼びかけの「皆」とを除いています。また「悟る」もマルコ福音書ではアオリスト形命令で(その時の行為を指す)、マタイ福音書のほうは現在形命令です(それ以後も恒久的に継続する状態)。よく「聴く」ことで「悟る」のは、ヘブライの伝統的な信仰理解の方法です(イザヤ書6章9節/マタイ13章9節)。
[11]ここでマタイは、マルコ福音書には出てこない「口」を入れることで、「口の中へではなく、口から外へ」"not..., but..." という言い方で、ヘブライ的な比較/対照を表わしています。だから、マルコ福音書よりもマタイ福音書のほうが、ほんらいのイエスの言い方に近いという見方があります〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)531頁〕。おそらくマルコ福音書7章18~19節のほうは、異邦人キリスト教徒の読者に向けて書かれたものでしょう。マタイは、これを簡略に縮めて、ほんらいのユダヤ的な言い方に改めたのです。
 こういうイエスの言い方は、ユダヤの知恵文学で用いられるスタイルで、前半の「口に入る」よりも、後半の「口から出る」のほうを重視するものです。したがって、前半だけを採りあげて、「どんな食べ物でも浄い」と結論づけるのは、イエスほんらいの意図ではなかったでしょう。だから前半の「口に入るもの人を汚さず」だけから、イエスはユダヤの食物規定を破棄したと考えるのは誤りです。イエスは当時のユダヤの律法に対して、柔軟で幅のある対応の仕方をしていたからです。
[12]マルコ福音書7章15~17節から判断すると、マタイ福音書のイエスと弟子たちとの問答は、15章11節から直接同15節のペトロの質問へつながるはずです。したがって、マタイ福音書15章12~14節はマタイによる挿入です(13節の「天の父」というマタイ独特の言い方に注意)。この部分には、「神に植えられる/抜き取られる木」と「盲目の指導者」と、二つの譬えが出てきます。二つの譬えは、イエスから「偽善者」(7節)だと批判されたファリサイ派の人たちが、怒りのあまり「躓いて」途中から立ち去ったとあるのを受けて語られます。だから12節が、13~14節の導入になります。
[13]「神によって植えられた木」とは、神が選び、神が導く「神の民」のことを指すヘブライの伝統的な言い方です(イザヤ書61章3節/エレミヤ書1章10節)。これに対して、神に反逆した民は、神の手で「抜き取られる」ことになります(イザヤ5章2~6節)。また、ここにあるように、「神が植えたものでない木」のことは、先の毒麦の譬えにもでてきました(マタイ13章27~30節/同38~39節)。そこでは、「植える」のも「抜き取る」のも人ではなく神の御手に委ねられています。
 神が選び植えた木が、神に背いたために役立たなくなって、枯れ木として焼き捨てられることと、初めから神が植えたものでない木が、終末に抜き取られることとは、一見すると別のことのように思われます。しかし、この二つは、それほど判然と分けることができません。イエスが選んだ弟子の中に、イエスを裏切るユダがいたことは、初めから神の導きだったのでしょうか。それともユダは、イエスの弟子たちの中にいながら、初めから弟子では<なかった>のでしょうか(第一ヨハネ2章19節/同3章6~10節も参照)。
 ヘブライの伝統では、「主が植えた木」は、ほんらい「イスラエル民全体」を表わす譬えでした。しかし、クムラン宗団の文書では、「<真の>イスラエルの民」とそうでない「<偽り/偽善の>イスラエルの民」とに分けられてきます。今回の箇所でも、イエスは、同じユダヤ人の間で、偽善なファリサイ派と真の神の民とを区別しているようです(ただしマタイ23章2~4節を参照)。
 イエス以後の教会において、この区別は、モーセ律法とアブラハム契約に守られてきた「ユダヤ人」という「肉のイスラエル」と、それらを持たなかったにもかかわらず、イエス・キリストにあって神に召された異邦人キリスト教徒との関係と重なります(ガラテヤ3章26~29節/同4章21~26節)。特にモーセ律法をどのように守るべきかは、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との間で重大な問題になります(使徒11章1~18節/同15章7~11節)。
[14]この譬えはイエス様語録からですが、イエス様語録では、盲人の譬えと弟子と師の関係とが、並んで一つのまとまりを成しています(イエス様語録とルカ福音書と『トマス福音書』の並行箇所を参照)。イエス様語録では、これら二つのイエスの言葉は、「導く者」と「導かれる者」との関係で共通しているために組み合わされています。しかし、内容的に見て、それ以上の関連性はないようです。おそらく、異なる状況で語られたイエスの言葉が、このように組み合わされて伝えられたのでしょう。この点を洞察したのか、マタイは、二つを切り離して、一方は「迫害された師」に見習う弟子への教えとして、もう一方は人を導く指導者に対する皮肉として、それぞれの内容を活かして用いています。マタイは、師弟関係を迫害への警告に続けて用い(マタイ10章24~25節)、盲人の譬えをファリサイ派とイエスとの論争に続けています。また、疑問文を平叙文に変えたりすることで、独自の編集を加えています。
【道案内】原語は「道」から出た言葉で、「旅の案内をする/旅を導く」ことです。ファリサイ派と律法学者たちは、自分たちこそ「盲人を導く」者であると自負していたのでしょう(マタイ23章15~16節/ローマ2章20~21節)。
【穴に落ちる】人を陥れようとして罠を仕掛けたところが、逆に自分がその罠にはまることを「穴に落ちる」と言います(詩編7篇16節/箴言26章27節)。転じて思いがけない結果になる。あるいは予期しない災厄に見舞われることです(イザヤ24章17~18節)。「穴」は、死者が住まう陰府(よみ)の「暗い穴」をも指していましたから、ここでも、この意味が含まれているのかもしれません。
[15]「譬え」の意味は、先の種蒔きの譬えの所で説明しました。ここで問われている「譬え」は、直前の13~14節の譬えのことではなく、11節の食物のことです(続くイエスの答えを参照)。マルコ福音書では、イエスに尋ねるのは「弟子たち」ですが、マタイ福音書ではペトロただ一人です。マタイ福音書の教会は、シリアのアンティオキアの教会と同じか、あるいはこれと関連が深かったと推定されています。アンティオキアはペトロとのつながりが深いので、このことがマタイ福音書に反映しているのでしょう。ペトロは、後に食物規定について発言しています(使徒言行録10章28節/同15章7~11節/ガラテヤ2章11~14節)。
[16]【まだ】これは「今になっても」「この期に及んでも」を意味する強い言葉で、ここだけにでてきます。
[17]~[18]マタイ福音書では、マルコ福音書に出てこない「口に入る」と「口から出る」が対照されていて、分かりやすくなっています。また、「すべての食物を浄い」(マルコ7章19節)とするイエスの教えを省いています。旧約聖書の食物規定と矛盾すると考えたのでしょうか。
[19]マタイ福音書の悪徳のリストは、マルコ福音書のそれと比べるとほぼ半分に縮められて、しかも「偽証」が加えられています。これはおそらく、モーセ十戒の後半の「殺人/姦淫/盗み/偽証」を念頭に置いていると思われます。
【悪意】原文は「悪い思い」(無冠詞複数)で、マルコ福音書の「悪い思い」(冠詞複数)と対応します。ただし「悪い」の原語が、マルコ福音書の「ポネーロイ」から「カコイ」に変わっています。創世記6章5節には、終末をもたらす洪水の原因として、「人の心に働く衝動が、ただ悪いことばかり」とあります。おそらくマタイは、人類に神の裁きを招いたこの創世記の言葉をここに反映させていると思われます〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)536頁〕。
【悪口】原語は「ブラスフェーミアイ」(英語 "blasphemies" の語源)で、「悪口」「冒涜」のことです。マタイ福音書では、これはモーセ十戒の「主のみ名をみだりに口にしない」(出エジプト20章7節)にあたる「神への冒涜」を意味すると考えられます。
[20]マタイ福音書では、イエスは最後に再び、論争のきっかけとなった「手を洗わずに食事をする」ことへ戻って、これの最終的な結論を出しています。ただしこれは、論争相手のファリサイ派と律法学者にではなく、弟子たちに向けた答えです。
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