109章 カナンの女
マルコ7章24〜30節/マタイ15章21〜28節
【聖句】
 
■マルコ7章
24イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
26女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
27イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
28ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
29そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
30女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
 
■マタイ15章
21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
                        【注釈】
【講話】
■異邦人の地方へ
 今回から、イエス様は、ユダヤ人の住むガリラヤから異邦人の地へと足を運びます。そこで、今日は、マルコ福音書でなく、マタイ福音書のほうから読みましょう。今回の出来事は、ガリラヤの北西に広がるシリア・フェニキアの地域にあるティルスとシドンの近くで起こりました。イスラエル北部のダリアット・カルメルの丘陵地帯から北の方角を眺めると、はるか下に、フェニキアの平原が広がっています。イエス様とその一行は、ガリラヤから離れて、この地域へ来たのでしょう。すると、一人の女性がイエス様のもとへ来て悪霊でひどく苦しんでいる娘を助けてほしいと願い出ました。マタイ福音書のほうでは、彼女は、イエス様の一行が道を歩いていたことになっていますから、彼女は「どうかお願いします」と叫びながら、一行にどこまでもついて行ったのです。ところがイエス様は、彼女に一言もお答えにならなかった。ユダヤ人の男性が、異邦人の女性に口をきくはずがないことは、彼女にも分かっていましたが、彼女はそれでも諦めなかったのです。
 とうとう、弟子たちのほうがたまりかねて、「あの女を追い払ってください」とイエス様に願います。するとイエス様は言われます。「私が来たのはイスラエルの民のためだけなのだ」と。これは異邦人の彼女には厳しいお言葉です。プライドの高い人なら、これでさっさと諦(あきら)めて引き下がるでしょうね。ところがこの人は簡単には諦めなかった。イエス様のこのお言葉は、彼女にも聞こえたのでしょう。しかし彼女は、諦めるどころか、今度はイエス様の<前に>ひれ伏したのです。言わばイエス様の前を体でブロックしたのです! そして、「どうか助けてください」とさらに頼み込んだのです。
■契約の神
 どうして彼女は、こんな冷たい扱いを受けてもなお願い続けたのでしょう? 実はこれにはわけがあります。それは、イスラエルの民は、神ヤハウェと特別な<契約関係>にあったことです。イスラエルの民は主なる神を拝して、この神に付き従う。その代わり、主は自分の民に特別の配慮を持って、これを保護するという契約です。だから、カナンの女に対するユダヤ人イエス様たちのこのような優劣意識の背景には、イスラエルの神の契約思想があったのです。イスラエルの民は、神との契約関係に入ることで、神から特別に救いを約束されているという信仰です。これが、イスラエルと異邦の民とを「分け隔(へだ)て」していたのです。
 例えば貨幣を例に採ってみましょう。現在では円がどの国でもある程度通用します。けれども、この間(2011年)訪れたギリシアでは、地方へ行くと円は使えません。ユーロか、せいぜいドルです。それも、トラベラーズ・チェックではだめで、現金でなければ使えません。これは、ギリシアという国家が、国際的に結んだ契約によって、ユーロ貨幣を使用するという約束事に基づいているからです。言い換えると貨幣に関する<契約>に基づいて、EU全体が、その貨幣の信用をバックアップしているからです。ギリシアは経済が厳しいから、ユーロの現金以外は使い勝手が悪いのです。だから、よほどのことがないと、円は受け入れてもらえません。お金と神様とを一緒にするのは筋違いかもしれませんが、神と契約関係にあるイスラエルの民と、 契約の<外に>いる異邦人とでは、神様の扱い方が異なっているのは当然だという考えが、ここにはあります。女はこのことを知っていたのでしょう。だから、即座に「そうです」と答えたのです。自分の宗教も、先祖代々の宗教も、文化も言語も、何もかもイスラエルとは違います。聖書の神とはほんらい無縁な世界の人間です。
そういう自分が、<外国の神様」にお願いするのだから、断わられても当然だと彼女は思ったのでしょう。
 だから、彼女は、ユダヤ人の男性から拒否されても、それほど驚きませんでした。自分が、主なる神との契約の<外の>人間だと知っていたからです。ところが彼女は、それでもなお、イエス様の進む道の前を遮るように身を投げ出してひれ伏したのです。にもかかわず、イエス様の心は変わりませんでした。イエス様は「子供の食べるパンを子犬に与えるのはよくない」と言われます。「犬」は異邦人のことであり、「子供」はイスラエルの民のことです。「パン」はイエス様が宣べ伝える神の国の救いを表わします。すると彼女は、すかさず「そうです」と答えます。自分は契約に守られているユダヤ人ではないからです。それから、すかさず「しかし、子犬でも、食卓からこぼれ落ちるパン屑はいただくことができるはずです」とイエス様に言い返したのです。 これは驚くべき知恵です。それと共に、多くの学者は、ここに彼女の「謙虚」と「信仰」を読み取っています。
 その時です。イエス様の態度ががらりと変わりました。そして「あなたの信仰は偉大だ」と言われたのです。驚いたのは弟子たちだけでない。彼女自身もびっくりしたでしょうね。それからイエス様は、「あなたが今言ったその言葉によって、娘さんは悪霊から癒やされた」とお告げになったのです。
 ファリサイ派も律法学者も弟子たちも、それまで誰一人として、イエス様のお言葉を変更させることはできませんでした。ところがこの女性は、神の契約だけではなく、イエス様のお言葉をも<変更させた>のです!これがこの女性のすごいところです。いったい何がイエス様のお言葉を変えさせたのでしょう? イエス様に「偉大だ」と言わせるほどの力がどうして彼女に働いたのでしょう?
■イスラエルの神
 ひとつには、主なる神が、イスラエルの民との契約関係にあることだけでなく、同時にこの神は、偶像礼拝を禁止する唯一の目に見えない存在であることも、周辺の民の間に知られていたことがあります。ヘレニズム世界には、エジプト、ギリシア、小アジア、フェニキアなどの様々な神がいて、それぞれ人々の信仰を集めていました。しかし、その中でも、イスラエルの神は、偶像礼拝を禁止する唯一絶対の神であることが、当時の人々の間に広く知られていたのです。だから、彼女は、このイスラエルの神には、娘を救う力がほんとうにあるのだと信じていたのです。イスラエルの神、聖書の神こそ「ほんものだ」と知って、その上で、自分がほんらい聖書の神とは無縁であることを素直に認めること、これが「謙虚」な心です。実は、このような謙虚は、イスラエルの人にこそ必要なのです。神様と人間との隔たりを誰よりもよく知っているのはイスラエルの民ですから。
■イエス様への信頼
 しかし、神への信仰と謙虚さと同時に、彼女には、<イエス様に対する>揺るがない信仰があることに注意しなければなりません。彼女は、イエス様の神がほんものだと見抜いただけでなく、大事なのは、<イエス様なら>、きっと彼女を受け容れてくれるという「確信」があったのでしょう。この確信が彼女を動かしたのです。プライドも何もかも忘れて、ひたすらイエス様にお願いしたのです。イエス様ならきっと聞き入れてくださるという人格的な信頼です。イエス様を信頼し、その信仰をどこまでも曲げなかったのです。こういう理屈抜きの信頼/信仰が、イエス様を動かした。そして、なんと、神様の契約さえも変更させたのです。彼女は、イエス様に宿る神のお働きの霊性を正しく見抜いた数少ない異邦人です。
 イエス様の御復活後に、弟子たちに聖霊が降りました。その時に、ペトロは御霊に導かれて異邦人の所へ行き、そこで異邦人コルネリオたちにも御霊が降りました(使徒言行録10章)。これは救済史において大きな出来事ですが、この女性は、なんとイエス様の<生前に>この驚くべき事を行なったのです。だから、この出来事は、イエス様が宣べ伝える神の国伝道において、一つの転機となる救済史的な意義を帯びていることが分かります。
 彼女の「信仰の祈り」は、イエス様から「偉大だ」という御言葉を引き出します。すると、遠方にいた娘の癒しが起こった。信仰の祈りは、人間の内面的な想念や願望だけではないことがこれで分かります。信仰の祈りは、世界を創造しつつある神の時空を超えたお働きとなって実現するのです。ほんとうの祈りは、このように、「客観的な力」として<現実に>働きます。単なる主観の世界ではない。単なる客観の世界ではない。主観と客観とが一つになる主客一如の世界です。
■私の体験
 私自身の体験を言いますと、私は中学1年の時に敗戦を迎えました。その時まで、軍国主義に染まって、「鬼畜米英」という標語をそのまま受け容れていました。ところが敗戦になって占領軍が入ってくると、世の中がいっぺんに変わり、新聞もラジオも、学校の教育も、全く別のことを言い始め、教え始めたのです。いわゆる「戦後民主主義」の始まりです。それまでは、天皇陛下のために死ぬことが最大の名誉だと教えられ、生きて敵に降伏するぐらいなら、死ぬほうを選べと教えられました。ところが、アメリカの兵隊たちは違っていました。彼らにとって、生きて捕虜になることも、戦場で死ぬことと同じくらい名誉なのです。だからアメリカ兵は、自分から自殺しなかった。これが私には不思議だったのを覚えています。どうして彼らには、自殺するより生きるほうが名誉なのか?これが理解できませんでした。今思えば、この疑問が、私をキリスト教に導いた理由の一つだったのでしょう。
 カナンの女性ほどではありませんが、私も自分なりに敗戦を素直に認めて、かつての「鬼畜米英」のキリスト教を学び始めました。私が通ったのは、幸いフィンランドの宣教師さんたちの教会だったので、「鬼畜米英」から直接聖書を学ぶことはありませんでしたが、それでも、アメリカの宣教師さんたちの集会に参加したり、アメリカの宣教師さんたちの説教の通訳もしました。そんな中で私が知ったのは、「天皇のために死ぬ」ことの代わりに、「わたしたちのために死んでくださった」イエス様なのです。これは驚きであり、不思議でした。とにかく、価値観がまるで逆なのです。死ぬことを自分に求める天皇のほうか?自分のために死んでくださったイエス・キリストのほうか? どちらかを選べと言われたら、自分のために死んでくださった方のほうを選ぼう。こう考えたのです。こうして私はイエス様を信じる決心をして、イエス様を愛するようになり、御霊のバプテスマに与ることができたのです。
■日本人のリヴァイヴァルのために
 私はこのようにして、かつての「鬼畜米英」の神を求めて信仰に入りました。ところが、ここで意外なことが起こったのです。今回の出来事では、イエス様も弟子たちも、カナンの女に対して露骨な差別を示しています。ところが、同じ異邦人の癒しの物語でも、マタイ8章10〜13節の場合は違います。そこでは、イエス様は、なんと神の民であるイスラエルの「御国の子ら」のほうが、外の暗闇に放り出されて、嘆き悲しむだろうと言われています。その上で、世界中の異邦の民が「東から西から」アブラハムの神の所へ来て、宴会の席につくと預言されているのです!ここでは、「御国の子たち」と異邦の民とが立場が完全に逆転するのです。
 私が、若くしてイエス様を信じてから60年経ちました。この間に、私の信仰も、イエス様の御霊に導かれて変わってきました。今私は、日本のリヴァイヴァルのために祈っています。それは、この国がこれから始まろうとするアジアのキリスト教において、大事な役割を果たすと信じているからです。脱白人のキリスト教の夜明けが訪れています。日本には、高度な神学の蓄積と、リヴァイヴァルを祈り求める主の民と、これに16世紀以来迫害に耐え忍んできたカトリック系の人たちを加えると、2000年のキリスト教を受け継いで、これを新たにアジアでよみがえらせることのできる素地が、すでに日本にはできているのです。リヴァイヴァルはすでに始まっています。風はすでに吹き始めているのです。皆さん、心を合わせて、日本のリヴァイヴァルのためにお祈りください。

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