110章 聾唖(ろうあ)を癒やす
マルコ7章31〜37節/マタイ15章29〜31節
【聖句】
■マルコ7章
31それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
32人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
33そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
34そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
35すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
36イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
37そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
 
■マタイ15章
29イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。
30大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
31群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
 
                        【注釈】
【講話】
■触れる御霊のお言葉
 マルコ福音書には、今回の聾唖の人へのイエス様の対応が詳しく書かれています。ご自分の唾をその人の舌につけたり、ご自分の指をその人の両方の耳に入れたり、その場の様子が生き生きと伝わってきます。これは、実際にイエス様の癒しを目撃していた人から伝えられたものでしょう。わたしは、マルコ自身もイエス様の御名による癒しの業を行なったと思っています。その上、「エッファタ」とイエス様が実際に使われたアラム語が、そのまま伝わっています。よほど印象深い出来事だったのでしょうね。
 このようにイエス様の指や唾で直接触れられる体験は、その聾唖者にとって体に直(じか)に伝わる体験ですから、安心感と信頼の気持ちが湧いてきたと思います。わたしも、「按手」と言って、人のために祈る時には、手をその人の頭の上に当てて祈ります。これは古来から伝わる教会の伝統的な祈り方ですが、何時の頃からか示されてこのようにしています。
 福音とは、一言(こと)で言えば、かつて地上でお働きになったナザレのイエス様が、今この時に同じように顕われて、わたしたちの間に、あるいは祈る人の前に立たれて、癒しのみ業、救いのみ業をなしてくださることです。ナザレのイエス様がよみがえられて、再びこの地上に御臨在くださり、歩まれること、これがほんとうの意味でのリバイバルです。リバイバルとは、イエス様が「生き返る」ことです。ただし、肉体のイエス様ではなく、御霊のイエス様がわたしたちに触れ、祈り祈られる人の前に立ってくださるのです。こういう霊的な体験、イエス様の御霊が直(じか)に体に伝わる体験、これはとても大事です。ある日本人の牧師さんが、こういう体験を「御霊のお取り扱い」と呼んでいたのを想い出しますが、この「御霊のお取り扱い」です。これが、わたしの場合にも信仰と霊的な成長にとって、とても大事な意味を持っています。舌が御霊の働きに支配されて、異言が出てくるのもこの「御霊のお取り扱い」の一つです。イエス様の御霊は、御復活の御霊ですから、今この現在でも、祈るその人の前に顕われて、祈る人の身体に感じられるよう直に働いてくださいます。
 御霊のお取り扱いは、安心や慰めや力づけのためだけに働いてくださるのではありません。もっと大事なのは、その人の心の乱れや汚れや罪や恐れを取り除いてくださることです。こういう場合に、「御霊のお取り扱い」は、ただの安心だけではありません。鋭く、あるいは厳しく、わたしたちの心の内面に迫り、恐れや罪を切除してくださいます。こういう御霊のお働きを聖書は「御霊の剣(つるぎ)」(エフェソ6章17節/ヘブライ4章12節/なお第一コリント14章24〜25節を参照)と呼んでいます。御霊の剣は、イエス様が実際にお語りになったお言葉と同じで、わたしたちの心の奥深くへ「語りかける」のです。「お取り扱い」とは神からの「語りかけ」のことなのです。教会は、御霊のこういうお取り扱いを受けることを「御霊に砕かれる」と呼んでいます。「御霊に砕かれる」のは、苦しく、時には辛いことでもありますが、その場合でも、安心が与えられ、信頼が湧いてくるから不思議です。
■聖霊体験への批判
 現在の日本でもそうですが、こういう「御霊のお取り扱い」を批判的に見る人たちが、クリスチャンと言われる人の中にも大勢います。特に神学者などには、否定的な見方が強いようです。現代のキリスト教神学は、ともすれば、聖霊による体験を軽視したり、熱狂的だと言って、このような霊験や体験を排除し否定する傾向があります。彼らは、御霊が実際にわたしたちの身体に働きかける体験よりも、聖書の「言葉」そのものを重視する「言葉信仰」を求めるのです。神のお言葉を軽んじるつもりは毛頭ありませんが、こういう言葉志向は、ともすれば観念的で論理的な信仰衰弱に陥る危険があります。聖霊体験へのこういう批判が「学問的な」立場の人に多いのは、困ったことです。
 現代に限らず、キリスト教の霊的な信仰は、古来様々は批判や反対に遭ってきました。2世紀には、グノーシス思想というのがあって、正統キリスト教と厳しく対立しました。近代になると、聖書に基づく信仰は、自然科学によって大きく揺さぶられることになります。神の御子イエス様の復活を信じるキリスト教に対する自然科学からの批判は、先ず、コペルニクスによる発見とガリレオの裁判で有名な「地動説」で始まりました。さらに19世紀には、ダーウィンの唱えた「進化論」が、特に創世記を信じる人たちを揺さぶりました。この傷跡は、今もアメリカに残っていて、アメリカの一部では、今でも進化論を学校で教えることができないでいます。
 けれども、現在では、自然科学が聖書信仰を脅かすことは、もはやなくなりつつあります。科学と聖書が証しする信仰とをどこで区別しどう調和させるのか、これを人々が心得るようになったからです。わたしなどは、自分の霊的な体験から見ても、進化論のほうが、はるかに御霊のお働きと合致すると思っています。
 ところが19世紀に入ると、自然科学ではなく、今度は歴史学が聖書信仰を脅かし始めます。シュトラウスというドイツの神学者が、福音書は事実ではないと批判して、イエスは、神ではなく「ただの人」だと主張しました。これに始まって、現在の聖書神学では、イエス様をただの人として「史的イエス」と呼びます。これに対して、復活して信仰の対象にされているキリストを「宣教のキリスト」と呼んで区別しています。歴史の出来事としてのイエス様のみ業と、御復活以後の教会の信仰とを切り離して考えるのです。現在わたしたちは、こういう「歴史学」からの批判を受けています。
 ナザレのイエス様が神であり、このイエス様が、今もなお変わらずわたしたちの間に御臨在くださって、不思議と救いのみ業をなされていること、これを信じることこそが、真の「リバイバル」信仰です。この信仰は、かつて地上におられたイエス様に始まり、ペトロやパウロなどの使徒たちに受け継がれ、ビザンティンのキリスト教(現在のギリシアやロシアの正教)から、ラテンのローマ・カトリック教会へと受け継がれ、16世紀の宗教改革以後では、このリバイバル信仰は、聖書が証しする御霊のお働きと共に、「リバイバル運動」として現在にいたるまで受け継がれてきています。
 だから、自然科学の場合と同様に、歴史学からの批判も、時が経てば治まってきて、福音書の信仰を脅かすことにはなりません。自然科学からの批判が激しかった時でも、イエス様の御霊のお働きを証しする聖書信仰が揺らぐことはありませんでした。同様に、歴史学的な批判に曝されても、リバイバルの伝統が途絶えることはありません。
 わたしは、科学とキリスト教との間に、もっと真剣な対話が行なわれるべきだったと考えています。同じように、歴史学による学問的な見方とキリスト教との対話も、科学のそれに劣らず大切だと考えます。御霊にある聖書信仰/神学は、自然科学との対話、歴史学との対話を欠かすことがあってはいけません。学問の自由の名の下に、いろいろ勝手で行き過ぎた論や批判が出て来ますが、逆に御霊の信仰の立場から、そういう批判に答えて、批判の元となるものの見方や価値観の誤りをこちらから指摘することが大事なのです(エフェソ4章14節/同5章11節)。
 霊感志向も言葉志向も、どちらにも危険性はつきまといます。お言葉と霊体験、この両方を相互補完的に調和させることこそ、「調和」と「バランス」を導き出すわたしたちの理性の働きです。現代の日本のキリスト教神学では、聖霊体験とお言葉信仰とが、互いに対立しあって、双方の調和が試みられていないのが残念です。
 聖餐とは、「食べる」お言葉であり、「飲む」お言葉です。そうであれば、わたしたちの体に触れるイエス様の御霊のお働きも、大事なお言葉だということが分かるはずです。どうか皆さん、福音書が伝えるナザレのイエス様が、今もなお生きて働いておられることを信じて、恐れずに祈りに没入してください。リバイバルはそこから起こります。
■霊能から霊性へ
 ところで、マタイ福音書の今回の箇所では、聾唖者の癒しが省かれています。イエス様が、ご自分の唾を用いたり、両耳の穴に指を入れたりするようすが、異邦の人たちから見れば、なんだかまじないか魔術を行なっているかのように受け取られかねません。おそらくマタイはこのような誤解を恐れたのでしょう。聾唖者の癒しの部分を省いたのです。
 イエス様もまた、癒しの後で、聾唖の人に行なった業を言いふらさないように、人々に幾度も念を押しておられます。「病気癒し」のイエス様、「霊能の預言者」、「奇跡を行なうメシア」、こういう評判が、ガリラヤだけでなく、その周辺の異邦人の多い地方にも広まっていたからでしょう。こういう霊能信仰、病気癒しの伝道、奇跡信仰は、現代でも同じです。しかも、イエス様とは逆に、現代では、霊能や癒しや奇跡が、伝道活動の主なイベントとして大々的に宣伝されているという印象を受けます。
 繰り返しますが、わたしは霊能や癒しや奇跡を否定したり排除したりするものではありません。けれども、これらが、あまりに強調されて、大々的に宣伝されるのを見ると、イエス様が、ご自分の癒しを言いふらさないように人々に注意されたことを思い起こさざるをえません。もっとも、イエス様が注意されても逆効果で、評判はますます広まったのですが。
 わたしが抱く懸念は、おそらくマタイ福音書の作者にも共通しているのでしょう。マタイは、イエスの行なう霊能の業だけでなく、同時に、イエス様の「教え」をこれに劣らず重視して、イエス様の山上の教え(マタイ5章〜7章)や、イエス様がお語りになった御国の譬え(マタイ13章)を記しています。ヨハネ福音書にも主な奇跡が記されていますが、ヨハネは、これらの奇跡をイエス様の霊性を表わす象徴として描くことで、イエス様が伝えようとしている御国の霊性を人々が見分けるように配慮しています(ヨハネ6章26〜27節)。
 霊能や霊体験は、わたしたちの身体の五感に働きかけるものですから、どんなにすばらしく、奇跡的でも、それは一時的な体験として過ぎ去っていきます。だから、五感信仰は長続きしません。御霊とはイエス様の御霊のことであり、かつて地上におられたイエス様という人格(personality)に宿り、そのお方を通して働いた聖霊のことです。それは、三位一体の第三の位格としての神の聖霊ですから、わたしたちは、御霊を<礼拝する>ことができます。「礼拝する」のは、御霊がわたしたちとは異なる存在だからです。御霊のお働きは、わたしたちの自力を<超えた>働きであり、力です。
 自分では<ない>もの、自分を<超えた>もの、それがどうして、わたしたちの五感に触れる働きをするのか? さあ、ここが難しい。あえて説明すれば、イエス様の御霊とは、そもそもの初めから、「創造する御霊」だからです。「働きかける」と言い、「触れる」と言い、「生じさせる」と言うのは、どれも「創り出す」働き、創造することです。だから、癒やしも救いも奇跡も「新たに創造する」働きとして地上に生起するのです。
 癒しなどの霊体験は、地上に現われる現象です。しかし、風が吹く音と風そのものとが同じでないように(ヨハネ3章8節)、御霊が引き起こす現象と御霊それ自体とは同じではありません。現象は一時的で、つかの間で消えます。しかし、これを生じさせる御霊御自身は、いつまでも変わることなく、永遠に存在し続けるのです。御霊とはイエス様ご自身のことであり、イエス様ご自身の霊性から発する<全人格的な>働きです。だから、御霊はわたしたちを全人格的に包み、働きかけてくださいます。
 イエス様は、父なる神と一つになって、今もなお働いておられます。イエス様の霊性から発する言葉も出来事も、イエス様の霊性と一つです。「天地は過ぎゆく。しかしわたしの言葉は過ぎ去らない」と言われたのはこのことです。だから、どうか、霊能からイエス様の霊性へ、霊的体験からイエス様ご自身へ、現象からこれを成り立たせる創造のお働きそれ自体へと、皆さん一人一人の祈りを深めてください。日本のリバイバルバルは、そこからほんものになります。
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