73章 十二弟子の派遣
マルコ6章7〜11節/マタイ10章1〜16節ルカ9章1〜6節
 
【聖句】
イエス様語録
 彼(イエス)は弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。見よ、わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の群れの中に羊を送り込むようだ。財布も袋も履き物も杖も持つな。途中でだれにも挨拶するな。どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの平和が彼にも来る。もしいないなら、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に留まり、出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然である。家から家へ渡り歩くな。町に入って、(そこが)あなたがたを迎え入れたら、出される物を食べなさい。そこにいる病人を癒し、『神の国はあなたがたに近づいた』と告げなさい。しかし町に入っても、あなたがたを迎え入れなければ、その町から出る際に、あなたがたの足の埃を払い落としなさい。言っておくが、かの日には、その町よりもまだソドムのほうが耐えやすい。」
■マルコ6章 
7そして、12人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
8旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
9ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
10また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
11しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
1212人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
13そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
 
マタイ10章
1イエスは12人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、
4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
5イエスはこの12人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。
6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。
7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
8病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
9帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。
10旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。
11町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。
12その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。
13家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。
14あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
15はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」
 
ルカ9章
1イエスは12人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。
2そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、
3次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。
4どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。
5だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出て行くとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」
612人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、
至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。

【注釈】
 【講話】

■教員として学んだこと
 わたしは、フィンランドの宣教師さんたちから初めて福音を伝えられて、この人たちのおかげで異言を体験することができました。彼らは、はるばるフィンランドから中国へ伝道に来ていて、毛沢東の率いる中国共産党が政権を握った頃に、難を逃れて日本へ渡って来たのです。彼らが来なかったなら、わたしはこういう福音を知ることができなかったと思います。だから宣教師さんたちは、主がわたしにお遣わしになった方々だと今でも思っています。彼らがはるばるフィンランドから日本へ来て、異言を伴う聖霊の福音を伝えてくださらなかったら、今のわたしは存在しなかったでしょう。わたしは彼らに本当に感謝しています。
 ただ、時々お話しするように、日本の伝統的な文化や宗教(仏教や神道)に対する彼らの偏見にわたしはついて行くことができませんでした。このため、無教会の小池先生との出会いを機に、彼らと別れることになったのです。その結果、職業的な伝道者として歩む道を断念して、高校の教師になり、その後大学に勤めて、教員生活をする傍らで、細々と伝道を続けました。特に甲南女子大学には28年間も勤めることになりました。プロの伝道者としての道を断念したとは言え、教員として勤めていたこの間に、わたしが学んだことが三つあります。
 一つは、テキストを読むこと、すなわち、テキストを「解釈する」とはどういうことか、ということです。わたしの専門は16〜17世紀の英文学でした。文学研究でやることと言えば、とにかくスペンサーやミルトンやシェイクスピアの書いたものを読むこと、これだけです。テキスト解釈の内容と方法についていろいろな説や考え方がありますが、それらがほんとうに適切かどうかは、まず書かれたテキストを読むことに始まって、テキストを読むことに終わるのです。文学では、詩を読むために詩を読むのであって、何かほかのことに役立てたいと思ってやるのではないのです。解釈の多様性、その重層性、隠喩や寓喩の受け取り方、歴史的な解釈、読者を主体にした解釈など、学んだことはいろいろあります。
 二つ目に、恩師の宮西光雄先生のもとで、英文学試論会という仲間に加わって勉強するうちに、注釈をつけることを学んだことです。実は京都大学の文学部には、訓詁学の伝統があって、中国の古典や英文学の古典のテキストに注釈をつける学風があります。宮西先生はこの伝統を受け継いでおられて、はしなくも、わたしはその学風に接することができました。このおかげで、イギリスへ留学したときにも、英文でスペンサーの『祝婚歌』の注釈をつける仕事をすることができました。
 三つ目に、女子大で学生に講義をするときに、分かりやすく話すことを学んだことです。これが今でも集会で講話を語るときに活かされています。このようにして、聖書本文を読むこと、これに注釈をつけること、講話を語ること、この三つがわたしに与えられたのです。ここから、「共観福音書の講話と注釈」や」ヨハネ福音書講話と注釈」などが生まれてきました。

■わたしの使命
 もう一つ、今度は伝道を続けるうちに、御霊のお働きについて分かってきたことがあります。わたしたち夫婦は、55年間も異言で祈る体験を続けていますが、そこから見えてきたのは、学問的な聖書研究と聖霊体験との間のギャップ、あるいはこの二つの乖離(かいり)です。この溝は深く、しかもそれが、わたし一人の問題ではなく、日本のキリスト教の、と言うよりも、グローバルなキリスト教においても、とても重要で、しかも深刻な問題だということが、だんだん見えてきたのです。聖霊の働きと学問的な聖書解釈とをどのように調和させるのか? この問題が、福音を伝えるために、わたしに与えられた使命であることが自覚されてきたのです。これについての考察が、『聖霊に導かれて聖書を読む』という本になって出版されることになったのです。あの本は、思いがけず、三つも書評がでるという自分でも驚くような評価を受けました。
 個人伝道を続けながらこの問題を探るうちに分かってきたのは、聖霊の働きがいかに歪められているか、このためにずいぶん多くの人が、異言やその他の聖霊現象に躓いたり、誤解を抱いたり、いわれのない非難や悩みに苦しんでいることを知るようになったことです。しかも、聖霊派の先生方もリベラルで学問的な教会の先生や学者たちも、この問題に気がつかないか、知らないか、無関心なことです。日本キリスト教学会で、「霊性」の問題が取り上げられたときでも、日本のキリスト教にはこういう問題があることをかろうじて指摘できた程度です。この間も東京のある姉妹が、「聖霊派の教会では、今も、泣いたり苦しんだり、自殺する人までいます。先生、何とかしてください」というメールをくださいました。なんとかしたいと思うのですが、とにかく自分にできることをするしかありません。わたしは今、この問題に自分の使命を感じています。
 聖霊運動に携わる人たちが、学問的な聖書研究を批判するのは、学問的な研究が、従来唱えられてきた御霊の働きを軽蔑したり批判したりするからです。しかし同時に、御霊の働きに携わる方々のほうも、聖書の御言葉を学問的に調べて正しく方向付けることを軽んじておられるようです。溝の原因は、この両サイドにあるのを感じています。
 
■素人伝道
 ところで、イエス様が今回の箇所で語っておられるのは、町から町へ無一物無一文で福音の証しをして伝道するやり方です。このやり方は、今のわたしがやっているように、仕事を持ち、家庭を持ち、普通に生活しながら福音の証しをする方法とは全く違います。けれども、わたしがこの箇所を読んで思うのは、神様の福音をお伝えするという一点では、イエス様もその弟子たちも、今のわたしも全く変わらない。その日その時々に、神様のお働きだけに頼っていくことでは、全く変わらないことです。
 弟子たちは、町や村を巡りますが、誰が彼らの伝える神の国の福音を受け容れてくれるのか? あるいはくれないのか? 全く分からないのです。ただ、主が導いてくださることだけを信じて、町から町へと巡り歩くのです。日本で言えば、円空のような生き方です。彼は、行く先々で、念仏を唱えながら、手近にある木で仏像を彫っていきました。伝道するのは聖なる営みであって、神様がなさるもので、人間がするものではありません。神様の御国の福音ですから、伝道は神様がなさることです。人間は、自分を神に委ねきったときに初めて、人のために何かをしてあげることができる存在になれるのです。
 わたしが伝道を断念した理由の一つは、生活のためというよりも、いったい何を伝えるべきかが分からなくなったからです。その頃わたしは高校の教師をしていました。そこにクリスチャンの若い英語の先生がいて、彼は伝道に献身して今有名な牧師になっています。その方が、高校を辞めて伝道に献身する時、わたしはその人にこのように言ったのを今でも覚えています。「あなたにはちゃんと売る製品があるから、とにかくそれを売ることができるからいい。けれども、わたしには、そもそも売る製品がないのです。何を売るかをこれから自分で考え出して開発しなくてはならないのだから、これができあがるまでは、売ることさえできない。」こう言ったのです。福音を商品にたとえるのは誤解を招きますが、これは比喩として聞いてください。 
■プロとアマの伝道
 「見よ、わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の群れの中に羊を送り込むようだ。財布も袋も履き物も杖も持つな。」これは命がけの伝道です。注意しなければならないのは、ここで、働き人が「報酬」を受けるのは当然だとあるイエス様語録の言葉をマタイが「食物」と言い換えていることです。これは大変なことです。なぜなら、後の教会では、福音を宣べ伝えることに献身する人たちは、その生活に必要な一切の物を「報酬として」受け取ることが当然のことと前提されているからです。パウロは自分で働いて生活しながら伝道しました。しかし彼も、福音のための働き人が、その働きに対して物質的な「報酬を受ける」ことを当然のこととしています。福音の仕事に携わる以上は、そうでなければ、プロ(聖職者)としての仕事が成り立たないからです。
 ところがマタイ福音書では、「報酬」ではなく「食物」だけにしなさいと言うのです。だから、福音のプロは、まさに空の鳥のように、一泊一食のほかは、何一つ人間の側から保証されず、ただ天の父にその身を委ねることになります。これが実行できた人は、アッシジのフランシスコのような人か、円空のような雲水しかいないでしょう。フランシスコの弟子の一人は、さらに徹底していて、上着どころが下着も着けずに、素っ裸で教会堂へは入って、人々の前に立って説教したから、人々はびっくり仰天して、聴衆は目のやり場に困ったという逸話が残っています。
 イエス様語録と共観福音書の伝えるイエス様の伝道スタイルは、福音を伝えるための報酬や報いを一切受け取ることなく、それは天の父に任せなさいということなのです。プロとアマの違いは、その仕事によって「報酬」を得ているかいないかにかかっています。だとすれば、イエス様の教えを厳格に当てはめますと、現在の聖職者たちはプロとしてやっていけなくなります。現在の世の中では、生活を支えられて福音に献身するか、生活は自分で働いて確保した上で、福音のための報酬は一切受け取らないか、どちらかしか道はないのです。
 では、イエス様の教えは現代では全く無意味なのでしょうか? あるいは、これはイエス様の時代だけのことで、十二弟子にだけ許された「1回限りの時代遅れの」方法なのでしょうか? ウルリッヒ・ルツ教授は、その『マタイによる福音書』で、こう問いかけています。イエス様がわたしたちにおっしゃりたいのは、福音は無条件に与えられる天の父の賜だから、福音は無条件で一切の報酬なしで与えなさいということです。これが福音伝道の原点です。プロにせよ、アマにせよ、現実には、それぞれに事情に合わせた生活と方法が、神様から備えられています。プロの人たちは尊敬に値します。彼らの生活を支えるのはその教会の信者として当然でしょう。しかし、彼らを支えることが当然なのは、その人たちが、今述べたイエス様の精神を心に留めているからこそなのです。
 またイエス様の御言葉から判断するなら、アマが、何らかの報いを期待するのはもってのほかでしょう。だから、プロもアマもどちらもイエス様の教えから見れば不完全です。でも、どちらも認め合っていかなければなりません。どちらも、同じキリストの教会の「中で」共生していかなければならないのです。互いに批判し合ったり、分離したりしてはならないのです。神様の目から見るなら、どちらも不完全ながら、相互補完的に働くのですから。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」福音は神の恵みです。これを伝えるのも神の恵みです。イエス様はここで、もう一度神の国を伝える根本精神に立ち返って、そこから現代の伝道を見直しなさいと語りかけておられるのです。
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