【注釈】
■十二弟子派遣の記事
 十二弟子派遣の記事は、マルコ福音書6章6節後半~13節とマタイ福音書10章5~15節とルカ福音書9章1~6節にあります。弟子たちの派遣は、これに先立つ12人の選びと関連しますが、選びと派遣との関係が、3人の記者の間で異なっています。マルコ福音書では、まず十二弟子の選びがあり(3章13節以下)、その後、イエスはガリラヤを巡り、ゲラサへ渡ってからナザレに帰り、それから12人の派遣が語られます(6章7節以下)。マタイ福音書では、イエスのガリラヤ巡回の後で、十二使徒の選びと彼らの派遣とが一つながりになって語られています。ルカ福音書では、マルコに準じて、先に十二使徒の選びが語られ(6章12節以下)、その後、イエスのガリラヤ伝道があってから、12人の派遣が来ます(9章1節以下)。ところがルカは、これに加えて、イエスがエルサレムへ向かう途中で、72人の派遣を語っています(10章1~12節)。したがってルカ福音書では、二つの派遣記事がでてくることになり、その二つが、内容的にも重なるところがあります。ただし、マルコ福音書にも、イエスは派遣を「始めた」(6章7節)とあって、派遣は1回限りのことではなく、継続して行なわれたことが示唆されています。
 このようなわけで、共観福音書を見比べますと、マルコとルカの記事は、一見すると全部マタイから来ているようにも見えます。だから、『四福音書対観表』(99番)に基づいて、マタイのまとまった記事を基準にして見るならば、マルコ福音書では、12人の選びと使徒のリスト(3章13~19節)の後に、6章7節以下が続くことになり、ルカ福音書では、9章1節と2節の間に12人の選びとリスト(6章12~16節)が入ることになります。使徒たちの選びとそのリストについては、「12人を選ぶ」の項ですでに見てきました。そこで今回は、その部分を省いて、イエスの派遣命令を中心に見ていくことにします。
 
■イエス様語録と共観福音書
 今回のイエス様語録(Q文書)の復元はルカからですが、ルカ福音書9章1節以下の12人の派遣からではなく、ルカの72人の派遣記事(10章2~11節)のほうに基づいています。イエス様語録とマルコとは、内容的に共通するところがありますが、マルコが保持していた伝承は、おそらくイエス様語録とは別に伝えられたものでしょう。彼の記事は、杖と履き物を認めるなど、イエス様語録以後の伝道状況を反映しています。しかし共通性も見逃すことができません。イエス様語録もマルコの保持していた伝承も、それら以前の同一の伝承にさかのぼるもので、その内容はイエス自身の実際の伝道から来ていると思われます。マタイは、マルコ福音書(6章)とイエス様語録(ルカ10章)とを組み合わせることで、派遣記事を一つにまとめています。また彼は、イエス様語録の「狼の群れの中に羊を送り込む」たとえをイエス様語録からはずして、派遣命令に続く迫害の記事の冒頭に置いています。ルカの12名の派遣も、マルコの記事を踏まえています。しかし彼は、イエス様語録をこれに反映させて、マルコの記事に訂正を加えたり省略したりしています。その上でルカは、イエス様語録のほうを72人の派遣で用いています。だから、マルコの記事とイエス様語録とをそれぞれに使い分けて二つの派遣を記していることになります。おそらくルカは、ガリラヤでの12名の派遣とユダヤ全土への72名の派遣とを区別して、前者をイエスによる伝道の原型と見なし、後者をその伝道がさらに拡大されて、全ユダヤとパレスチナへ広がったものと見ているのでしょう。72人のほうは、使徒言行録へとつながり、さらに、ルカたちの教会の伝道もこれに重なります。
 さらに一つ注目してほしいのは、ここのイエス様語録の伝道命令とパウロとの関係です。伝道者が食べたり飲んだりする権利(第一コリント9章4節)、福音を伝える者の権利(同14節)、出されたものをなんでも食べること(同10章24節)、これらは、パウロが置かれている状況に応じて解釈し直されていますが、彼とイエス様語録とのつながりを示しています〔デイヴィドとアリスン『マタイ福音書』〕。
 なお、英訳のイエス様語録〔バートン・マック『失われた福音書』〕では、「あなたがたの足の埃を払い落としなさい」の後に「『しかし、神の国が近づいたことを知れ』と言いなさい」が加えられています。なお、ここのイエス様語録の注釈は、後の72人の派遣記事と重なりますので、その項で扱うことにします。
 
■イエス様語録の人たち
 イエス様語録は、イエスが生前語った言葉に比較的近いと見ることができますから、イエス様語録で語られているイエスの派遣への指示も、イエス自身が実際に行なった伝道に基づいていて、十二弟子たちがこれを見習ったと考えられます。ただし、弟子たちがイエスの伝える御国の福音をどこまで理解していたかについては疑問があります(マルコ4章13節)。このような伝道の形態は、パレスチナのしかもガリラヤというごく限られた地域において初めて実践できたことを知る必要がありましょう。しかし、イエスの伝道スタイルとその精神は、以後の教会に受け継がれ、例えばアッシジのフランシコの伝道にも見られるように、ヨーロッパの中世でも、さらに現在でも、心ある人たちによって実践されています。
 イエスの伝えた伝道の原型で、スタイルと同時に注意しなければならないのは、その内容です。イエス様語録にあるとおり、それは「神の国」を伝えることで、しかもこれの到来が「近づいて」いること、すなわち、神の国は、現在すでに「始まっている」という終末的な信仰に支えられていることです。マルコの記事の結び(6章13節)にあるように、神の国は、言葉によるだけでなく、病の癒しと悪霊追放を伴うものでした。弟子たちが神の国を伝える「教え」にも、イエスにならって、言葉と同時にこれらの「しるし」が伴ったのです。ここには、「終末的な時場」で行なわれる神の国伝道の実体がはっきりと描き出されています。
 では、彼らの語った教えの言葉は、どのような特長を帯びていたのでしょうか? 今まで見たイエス様語録から分かるとおり、イエス様語録のイエスの言葉の多くは、諺あるいは格言のスタイルで語られています。このように知恵に富む格言的な語り口は、律法とこれの解釈を軸にした正統派のユダヤ教の指導者の語り方とは異なっていて、箴言などの知恵文学に属するものです。ここには、律法的な教条主義にとらわれずに、現実を鋭く洞察する視点があります。しかも、これらの格言は、必ずしも宗教的とさえ言えないほどに現実の生活に根ざしていて、宗教や人種を超えてだれにでも納得できる普遍性を帯びています。
 このような独特のスタイルは、ガリラヤの風土と関連づけることができます。ガリラヤは、古来「文明の四辻」と呼ばれるように、東西の文明がパレスチナに入る通路になっていましたから、現実に対処する強(したた)かな政治性と鋭い知性に支えられた独特の文化が育っていたのです。ガリラヤの人々には、繰り返し外国の支配にさらされることで鍛えられた「異人種の混交した人々の持つ慧眼と自信」〔バートン・マック〕が具わっていました。ガリラヤでは、従来考えられてきたよりも、はるかに急速なヘレニズム化が進行していて、エルサレムの政治的宗教的な支配は弱体化されていたのです。ギリシア語はほとんどバイリンガルと言えるほどにこの地方一帯に浸透しており、民衆のエルサレムへの宗教的忠誠心もそれほど強くはなかったようです。要するにガリラヤは、エルサレムを中心にしたユダヤとは別個の存在として、従来考えられてきたよりはるかに独立した精神的土壌を形成していたのです。
 先に述べたように、イエスのイエス様語録は、現段階ではイエスの言葉伝承を最も正確に伝えていると考えられます。しかし、わたしたちがこのイエス様語録をそのままイエスの実像に当てはめるのはためらわれます。なぜなら、イエスのイエス様語録の段階で、すでに「イエス様語録の人たち」としての共同体が形成されており、文書として編集されたイエス様語録は、この人たちの生き方、すなわちその「生活の視座」を反映しているからです。
 イエス様語録を生み出した人々は、「イエスの人たち」〔マック〕と呼ばれるイエスの信奉者たちで、彼らは、イエスの受難直後から、彼に見習う生き方を志して、ある程度まとまった共同体を形成していたようです。その最初期の段階がどのようなものかを推定するのは難しいのですが、パレスチナの社会基盤が揺れ動いている中で、家族や部族や既成の会堂制度などにとらわれない個人的な性格の強い人たちによる「交わり」が散在していたと考えられます。これが、時期的にイエスの生前に最も近い、いわば生前のイエスの教えに直結するグループと推定されます。なおわたしは、イエス様語録の人たちのこのような最初期の集いを「イエス様語録の諸集会/Q諸集会」と呼んでいます。
 イエスの受難と復活体験の直後から、イエスの伝道スタイルに見習う「霊能の預言者」と言われる人たちが現われました。引用したイエス様語録とルカ福音書(10章8~9節)から判断すると、交わりを指導していたこれらの人々は、預言的な霊能を有する巡回伝道者たちで、彼らは、イエスの行なったように、村や町を巡り歩いて、受け入れてくれる人たちの家で集会を持ち、病人のために祈り、悪霊追放を行ない、食事を共にしていたようです。これら巡回の伝道者たちのスタイルは、それまでのユダヤ教の教えのスタイルとは全く異なっているので、「放浪のラディカリストたち(急進的な人たち)」と呼ばれています。もっとも、イエス様語録の諸集会の頃でも、このような巡回伝道者たちの中には、批判を招く者もいたようで、『十二使徒の教訓(ディダケー)』(早ければ50~70年?)には、訪れた伝道者が、もし三日留まるようならそれは偽預言者であり、金銭を要求するならそれも偽預言者であると記されています。
 バートン・マックによれば、「イエスの人たち」は、その初期の段階では、イエスを賢者あるいは教師と見ていましたが、彼らにとって、イエスはまだ「神の子」ではなく、「十字架による贖い」も「終末の裁き」もその教えの中には含まれてはいなかったとされています。賢者とは、己の内面を正しく律することができる者であり、そのような人こそ、「己の心を征する王」であると考えたのです。日本で言う「克己」の精神に近いでしょうか。マックは、このようなスタイルの背後にギリシア哲学の犬儒派(the Cynic School)の影響を読み取っています。彼は、「知恵の人」としてのイエスをギリシア哲学の系統において見ているのです。
 イエス様語録の人たちは、次の段階で、そのネットワークを通じて、神の国思想へとその信仰を発展させていくことになります。しかし、彼らの「神の国」は、政治的・社会的な性格を帯びた運動ではなく、また新約聖書に現われる終末的な裁きを伴う未来志向のメシア王国でもなく、ある意味できわめて現実的な日常生活の倫理的な理想を生活原理とする信仰の域を出てはいなかったとマックは見ています。したがって、マックの見方によれば、イエスの人たちの生き方には、二つの矛盾した考え方、すなわち個人の内面の自律性を尊ぶギリシア的な精神と神の王国という東方的な(この場合はベルシア王国の)思想とが混在していたことになります。
 しかしながら、マックのこの見方には問題があります。イエス様語録の人たちの思想の二段階発展説とギリシア的な個人思想と東方の王国思想との矛盾する複合という彼の説明では、イエスとその弟子たちの霊性を正しく理解することができないと思われるからです。
 その理由の一つは、個人の倫理性を主眼として己を支配する「心の王国」思想は、ストア哲学に限らず当時の世界に広く存在していましたから、マックの言うある特定の学派(犬儒派)、あるいは特定の哲学と結びつける必要がないと思われることです。ギリシア思想が当時のパレスチナに浸透していたのは事実です。しかし、様々な思想・宗教が混在している状況は、ガリラヤだけでなく、東地中海全域において、多かれ少なかれ共通していました。もしも、犬儒派の流れを汲むストア哲学の影響があるとすれば、それは当時広く流布していた価値観それ自体の中にすでにそれが組み込まれていたという意味であって、特定の学派がイエス様語録の人たちの信仰に影響を与えたと考えるのは適切でないでしょう。
 この状況は、現代で、「人権と民主主義」が世界的な価値基準として共通する状態と似ています。人々は、もはや、それがどの学派の思想から生じたのかを特定する必要を感じないのです。興味深いのは、現代の人権と民主主義の思想と同じく、イエス様語録の思想は、きわめて「個人」的な生活の特徴、常識や通念に束縛されない自立性の高い個人の倫理性を映し出していることです。
 アレクサンダー大王による東方の征服がヘレニズム世界の基礎を形成したと見るのは正しいでしょう。しかし、大王の征服の結果は、パレスチナなど当時の東方世界のギリシア化を促すと共に、ギリシアを含む西方世界へのペルシア的な東方文化の流入をもたらしていたのです。東方による西方へのこのような「逆流」は、東方遠征にもかかわらずにではなく、東方遠征の成功の結果として生じたもので、これが紀元1世紀頃の東地中海圏の状況であったと言えます。したがって、この時代のパレスチナの「ヘレニズム化」とは、まさに東方と西方との融合であって、決して一方による他方の征服ではなかったのです。これこそが、東西の狭間に位置していたガリラヤで生じたことです。
 マックの見方の根本的な誤りは、イエスとその弟子たちの霊性をギリシアのそれも特定の学派の思想へと系統づけたことです。東方的な古代王国の伝統は、パレスチナ民衆のうちに深く根を下ろしていたと考えられますから、イエスとその弟子たち、これを受け継いだイエス様語録の人たちの神の国は、ギリシア的な哲学の伝統からではなく、むしろ、ダビデ王朝のソロモン時代の知恵思想(例えば箴言の原型)へと系統づけられるべきです。この知恵は、捕囚期の後にも受け継がれて、コヘレトの言葉やシラ書や知恵の書、さらにダニエル書などの黙示的な知恵思想へと発展しました。
 だから、イエス様語録の人々の神の国は、政治・社会的な支配を意図するものではなく、また、マックの言うような個人の「心の王国」と対立するものでもなかったのです。イエスの伝えた神の国の霊性は、ヘレニズム化されたとは言え、アブラハム以来のヘブライ的な霊統へさかのぼるもので、イエスとその弟子たちが伝えた神の国は、捕囚期以後に形成されたユダヤ的な霊性に基づくものです。したがって、弟子たちも、これを受け継いだイエス様語録の人たちも、何ら矛盾を感じることなく神の国の信仰を受け容れたのです。イエス様語録の人たちは、病気癒しや悪霊追放を行なう伝道者を受け容れ、霊能を体験する人たちでしたから、復活したイエスの御霊の臨在を信じて、イエスをメシアと信じて、その言葉を神の教えとして遵守することができたのです。
 ごく初期の「イエスの人々」は、イエス様語録をいわば「神の規則」として、それぞれの家の集会を中心にお互いの交流を深めていたようです。現在の聖書学の段階では、これらの諸集会が具体的にどのような状態であったかを立証することは難しいのですが、集会はだいたい月に一度くらいだったようです。このような家の集会のネットワークが、交わりを形成して、その過程の中で「イエス様語録」が編集されていったと推定されます。
 
■マルコの十二弟子の派遣
 マルコ福音書のイエスは、弟子たちを選ぶにあたって、彼らを「自分の側に置く」ため、「派遣して宣教させる」ため、「悪霊を追い出す」ためであると述べています(3章14~15節)。12人の召命以来、彼らはイエスに付き従って、ガリラヤの町や村を巡回してきましたから、ついに彼らが派遣される時が来たのです。これが、「悪霊追放のため」とあるのが注目されます。後の弟子たちの報告に、彼らが「行なったことと教えたこと」(6章30節)とありますが、彼らの宣教は、病の癒しと悪霊追放と言葉による教えとが一つになっていたのが分かります。
 ところが、イエスの派遣命令に続くのは、弟子たちの活動ではなく、ヘロデ・アンティパスによる洗礼者ヨハネの殉教なのです。使徒たちの宣教の報告は、その後に来ます(6章30節)。マルコは、弟子たちの伝道の中に洗礼者ヨハネの殉教を挟み込むという独特の「サンドイッチ方式」をとっているのです。洗礼者ヨハネの殉教が、人の子イエスの受難を予告しているのは間違いありません(9章31節)。ヘロデと同調するように、ファリサイ派もイエスとその一行を警戒し始めます(7章1節)。マルコは、弟子たちの派遣と伝道が、洗礼者ヨハネの殉教をもたらしたその同じ状況の下で行なわれていることを示そうとしているのです。弟子たちもまた「ファリサイ派とヘロデ」の警戒のもとにいることを知らなければならないからです(8章15節)。弟子たちへの指示は、とにかく軽装で次々と移動しながら、全ガリラヤを巡るためです。そこにはすでに始まっている終末的な「神の国の訪れ」があったからでしょう。イエス自身は、おそらくカファルナウムで彼らを指揮していたのでしょうか。なお、マルコの使徒のリストを他の記者のと比較すると、ゼベダイの子たちを「ボアネルゲス」と呼び、それが「雷の子ら」の意味だとあるのが特徴です。
 
マルコ6章
[7]【12人】ここでは冠詞がついていて「十二弟子」"the Twelve"のことです。イエスは彼らを「遣わし始めた」とあるので、派遣は1回限りのことではなく、以後も継続的に行なわれたのでしょう。なおマルコは、彼らが帰還した際に「使徒たち」と呼んでいますが(6章30節)、この場合の「使徒」には、ここ7節にあるとおり「遣わされた者たち」というほんらいの意味が込めれていると見ていいでしょう。「使徒」という称号はイエスの在世当時にはまだ使われていませんから、マルコは「使徒」を称号として用いているのではありません(3章14節に「12人を任命し<使徒と名付けた>」とあるのはルカ福音書6章13節にならった後からの挿入と考えられます)。
 「12」という数は、終末の時に集められるイスラエルの12の部族から来ていると考えられます(マタイ19章28節)。イエスがこの数を定めたことを疑う説もありますが、これはイエスに始まり、復活以後の教会へ受け継がれたと見ることができます(第一コリント15章5節)。ユダが十二弟子から欠けたために一人を補充しなければならないとあるのも「12」がイエスの受難以前からであることを示すものです(使徒1章25~26節)。「12」はこのようにイスラエル全体を象徴する意味を持つのですが(数にこういう象徴的な意味を持たせることを「数秘」と呼びます)、使徒言行録からも分かるように、実際の教会の伝道活動は、必ずしもこれらの12人を中心に行なわれたのではありません。このことも「12」が教会の創出ではなくイエスにさかのぼると考えられる理由の一つです。
【汚れた霊に対する権威】マルコがここで言う「遣わす」は、イエスの代理としてその権威を帯びて赴くことですから、イエスの霊能をも分かち与えられることです。「汚れた霊に対する権威」とは、弟子たちがイエスの霊能に感じて悪霊追放を行なうことです。汚れた霊どもを「支配している」のはサタンのほうですから、ここでマルコの言う意味は、サタンそれ自体をその手下どもと共に「追い出す」ことになります。使徒たちの悪霊追放は、イエスの受難を経て、聖霊降臨以後に初めて可能になったと考える人たちもいますが、ここで語られる12人の派遣が、後の「イエスの弟子たち」のモデルになったのは確かです。たとえ弟子たちの悪霊追放が、イエスの復活以後に本格化したとしても、そのことが、イエスの聖霊の働きが、その在世当時にすでに弟子たちにも働いていたことを否定する根拠にはなりません。逆に、イエスの霊性が、その弟子たちにも感化を及ぼしていたと見ることができます。
【二人ずつ】イエスは、助け合って物事に対処するために、伝道に限らず「二人ずつ」遣わしています(11章1節/14章13節)。こういう慣習は旧約聖書には述べられていませんが、ユダヤ教でも行なわれていました。律法に、何事も二人以上の証言によらなければ裁いてはならない(申命記17章6節)とあることから来たのでしょうか。この慣習は、以後のキリスト教会にも受け継がれます(使徒13章2~3節)。
[8]~[9]ここで述べられていることから、逆に当時の旅人の姿を再現すると、手に長い杖を持ち、腰にはかなり幅のある革の帯を締め、肩から革製の袋をかけて、足には革製の履き物を履いている姿が見えてきます。この旅装は、古くからの決まりに基づくものでした(出エジプト12章11節を参照)。
【杖】これは、体力を維持するだけでなく、盗賊や獣や蛇などから身を守るために欠かすことができませんでした。杖なしの旅は考えられませんでしたから、マルコ福音書では、イエスはこれと履き物とを例外として認めています。ところがイエス様語録とマタイ福音書とルカ福音書では、杖も履き物もいっさい認められていません。マルコは、杖を「持参する」としているのに対してマタイは杖を「手に入れる」としていることから、マタイ福音書では、イエスは、すでに所有している杖の代わりに旅のためにわざわざ新しい杖を買う必要がないという意味に解釈することもできます。しかし、ルカはマルコと同じ「持参する」を用いていますから、マタイ福音書とルカ福音書では、杖の携帯も禁じられていることになります。
【パンも、袋も】ここで言う「袋」は、肩からかけるためのバンドがついた革製の鞄で、大きさは今のハンドバックくらいから、さらに大きな物もあったようです。これはパン(大きくて丸い)などの食料を入れたり、寒さを防ぐために予備の下着を入れるためでした。しかしここで言う「袋」は、単に食料を携帯するための袋ではなく、行く先々で、奉仕に対する施しを受けるためのものですから、日本の雲水姿の僧の乞食(こつじき)の頭陀袋(ずだぶくろ)に近いでしょうか。このほかに、さらに小さな袋で、口を紐で締めて帯に吊るすものもありましたが、これは銅貨などを入れるためです。
 この種の「袋」は、古代ギリシアで、ソクラテスの弟子アンティステネスに始まる哲学の一派の人たちが携帯していた物です。この派の人たちは、禁欲を重んじて質素な生活を尊び、社会通念を蔑視していました。彼らは、自然に与えられたものだけで生きる「犬のような」生活を実行しましたから、「犬儒派」(ギリシア語で「キュニコス=犬」)と呼ばれました。マルコがここで描く旅装は、犬儒派のそれに近いので、イエスは当時の犬儒派のような哲人ではなかったかという説があります〔バートン・マックなど〕。しかしイエスの知恵は、ダニエル書や箴言に由来するヘブライの伝統に基づくものですから、ギリシア的な知恵思想と言うよりも、神の霊から来る「御霊の知恵」と見るべきでしょう。
【帯】これはかなり幅のある革帯で、中に金貨や銀貨などを入れるためのものです。日本の昔の「胴巻」に似た使われ方をしました。
【履き物】マルコの原語は「サンダル」です。マルコはこれを「足に付ける」と述べていますので、日本の草鞋(わらじ)のようにつま先を出して、後ろを足首に結びつける履き物です。マタイとルカの原語はマルコのとは異なっていて、革の「靴」を指しています(現在でもギリシアの履き物専門店に「イエスのサンダル」と呼ばれるものがあります)。このことから、サンダルを付けるのはいいが、靴を履くのは禁じられていると解釈することもできますが、そのような区別ができるかどうか疑問です。なお、予備の下着を持たないことは、共観福音書で共通しています。下着は寒さをしのぐためにも必要でした。
[10]8~9節では、マルコはマタイやルカと異なっていますが、イエスの意図ははっきりしていて、その日その時の神の導きに一切を委ねて、福音を伝えるために専心するように指示しています。旅人をもてなすことは、ユダヤに限らずオリエントの古くからの慣習でした。特にイエスの頃には、死海のほとりのクムラン宗団を中心に、エッセネ派と呼ばれる人たちが、エルサレムを含むユダヤ全土に散在していて、彼らの間では、教える者の一切の世話をすることが当然のこととされていました。ヨセフスは、エッセネの人たちについて次のように述べています。
 
 この宗派の人はどこから来ても、すべての財産をあたかも自分自身のもののように自由に用いることができる。また一度も会ったこのとのない仲間の家に、あたかも親友であるかのように出入りする。したがって、彼らが旅行するときは、何一つたずさえることをしない。ただ盗賊に備えて武器を持っていくだけである。この宗派のある町にはかならず旅行者の世話をする役目の人が任命されていて、衣類やその他の面倒を見る。
       〔ヨセフス『ユダヤ戦記』2巻124~26新見宏訳〕
 
  エッセネ派は洗礼者ヨハネと関係があったことから、イエスの受難以後のイエスの信者にはエッセネの人たちも多かったと思われます。彼らの間では、教える人たちの一切の面倒を見ることが当然のこととされていたのでしょう。ただし、マタイとルカによれば、イエスは「杖」さえも携えるなと命じていますから、ギリシアの犬儒派やエッセネの人たちよりもいっそう徹底していたことが分かります。イエスの神の国の教えは、エッセネのこれらの人たちからの援助さえもあてにできない状況の中で伝えられなければならなかったのです。このイエスの心得は、以後の信徒たちに受け継がれていて、先に述べた巡回の預言者たちも、イエスの指示とスタイルに見習ったのです。
 マタイとルカは、イエス様語録を踏まえていて、イエスのほんらいの指示を保持しています。ところがマルコの記事では、杖と履き物が認められています。マルコの教会は、ガリラヤとユダヤの地域だけでなく、周辺の異邦人や異教の地域へも福音を伝えるために伝道者を派遣していましたから、彼らには、この二つが欠かせなかったからだと思われます。
[11]【そこを出ていくとき】10節は「その土地から旅立つまで」と訳されていますが、原文は「そこから出て行く」です。11節の原文も単に「そこから出て行く際に」です。10節の「そこから」だと、逗留していた家のことになりますが、実際は個々の家を指すのではなく、弟子たちを受け入れるかどうかは、共同体としての町全体の意志によるものでした。一つの家に逗留するようにとありますが、イエスの復活以後には、この日数も制限されるようになったようです。
【足の裏の埃を】当時のユダヤ教の伝道者たちは、異邦人が教えを受けいれないときには、出がけに足の埃を払う慣例がありました。ここを「上着の埃を払う」と解釈する説もありますが(ネヘミヤ5章13節/使徒18章6節)、どちらも意味は同じで、その土地が「異教」の土地として神の裁きに逢うことを証しする象徴的な行為です。ここでも、弟子たちを受け入れない土地を異教の地と見なして、以後、一切の交わりを絶つという意思表示でしょうか。ただしここでは、差し迫った終末のもとで宣教が命じられていますから、福音が伝えられたにもかかわらずこれを退けることは、神の裁きを招くことで、しかもその責任は、伝えた側にではなく、これを拒んだ人たちの上に臨むことを警告するためと思われます(6章1~6節のナザレの場合を参照)。
[12]~[13]これがイエス在世の時に行なわれた弟子たちの最初期の伝道です。これに続いて洗礼者ヨハネの殉教が語られます。洗礼者ヨハネは終末が近いことを告げ、イエスは神に国の到来を告げました。ここでマルコは「出かけていって、悔い改めるよう宣教した」と述べていますが、弟子たちも「神の国は近づいたから、神のもとへ戻りなさい」(1章15節)とごく簡単に宣教し、聴く側もこれに反応して「悔い改めた/戻った」のです。伝える側も聴く側も単純な信仰だったのでしょう。イエスの霊性と「御国の力と栄光」は、弟子たちにも聴衆にも、まだ十分に理解されていなかったのでしょう。なお12~13節は、『四福音書対観表』では省かれていますが、ここは派遣記事の締めくくりですから続けて扱いました。
【油を塗って】ここでもマルコは、悪霊と病気とをはっきりと区別しています。悪霊は「追い出し」、病気は「癒す」のです。マルコは「オリーブ油を塗油した」と二重の言い方をしています。「油」(オリーブ油)は医療のためにも用いられました(ルカ10章34節)。マルコはここで「塗油する」という動詞を併せて用いています。これがでてくるのは新約聖書ではこことヤコブへの手紙5章14節だけで、「塗油」はどちらも病人に行なっています。ヤコブの手紙では、集会の長老が塗油を行ない、主のみ名によって按手の祈りをするのですから、これは単なる医療ではなく、病人の癒しと救いを願い、神の特別の恵みを求めることです。塗油は医療だけでなく、喜びや神の祝福をも象徴する行為だからです。旧約では「油注ぎ」は、神からの霊の注ぎを表わし、王の即位の際にも行なわれています。ただし「塗油する」のギリシア語には、「アレィフォー」と「クリオー」の二つがあり、一般に前者は実際的な意味に、後者は象徴的に遣われます。「クリオー」は「キリスト」の語源となる動詞です(ここでは「キリスト」を意味するとは考えられませんが)。二つの動詞は、必ずしも区別されていませんでしたから、ここマルコ福音書でも、塗油は病人への神の癒しと救いの祝福を象徴すると考えられます。このように神の国は、病の癒しと悪霊追放と一つになって、神の愛の「しるし」を現わす「不思議」であり「セーメイオン」を伴うのです。「なぜなら、彼らはイエスから『病気は・・・・・命を欲し、死を欲しない創造神の救いの意志に』矛盾すること」を学んでいるからです〔ウルリッヒ・ルツ『マタイによる福音書』〕。
 
■マタイの十二弟子の派遣
 先に述べたように、今回の箇所で、わたしたちは、マタイのまとまった記事を基準にして見ています。マタイは、10章全体を通じて、十二弟子の選びと派遣とこのための指示をまとめて語っていて、そのイエスの指示は、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」(10章15節/同23節/同42節)を繰り返すことで区切られています。10章全体では、伝道の方法と(5~15節)人々からの敵対や迫害に対処する心得(16~25節)、恐れるなという励ましと慰め(26~31節)、イエスを告白すること(32~33節)、家族同士の対立(34~39節)、伝道者を受け入れる者への報酬(40~42節)が語られています。
 マルコやルカとマタイとを比較すると、その最大の違いはマタイのイスラエル中心の視点で、これはマタイ10章5~6節と同15節にはっきりと表わされています。イエスは弟子たちに、イスラエル以外の地域に足を向けてはならないと厳しく戒めていて、このイエスの姿勢はカナンの女に対する態度にも表われています(15章24節)。ところがイエスは、マタイ28章18~19節では、全世界の諸民族に福音を語るよう命令するのです。互いに対照/対立するかに見えるこのふたつの命令が注目されていますが、これについては、以下のような説明がなされています。
(1)ここで語られているのは霊的な「真のイスラエル」のことであって、イエスの時代のイスラエルのことではないという「霊的な」解釈です。この霊的な視点それ自体は決して誤りではありませんが、ここの場合のように、歴史的な問題を説明するのに霊的な解釈を採り入れるのは飛躍であって、適切な方法とは言えません。
(2)これに対して、マタイの置かれた歴史的状況から考察を試みて、マタイの教会には、ユダヤ中心主義のユダヤ人キリスト教徒たちと彼らよりも自由なユダヤ人キリスト教徒や異邦人キリスト教徒たちがいたために、マタイは、最終的に後者の自由な立場を採るようになったという解釈です。聖書のテキストをこのような作者の歴史的な状況(その置かれた生活の視座)から判断する方法は、それなりに大事な視点です。しかし、今度は(1)の場合とは逆の意味で、そういう「著者/作者の置かれた歴史状況」をイエスの語る言葉の意義それ自体と混同する、あるいは置き換えることにもなりますから、これも正しい方法とは言えません。
(3)マタイ福音書の語るイエスの派遣記事は、イエスの在世当時のパレスチナにおいてのみ意味を持つことであって、このことは、ここで語られる派遣命令が、イエスが実際にその在世中に行なった方法からくるものであり、マタイは、まさにこの意図を持ってこの派遣記事を記している。このように解釈することによってのみ、ここで語られるイスラエル中心の視点が納得できます〔ルツ『マタイによる福音書註解』〕。
(4)ここで問題になるのは、イエスが、異邦人とサマリア人とを除外していることです。これは当時の差し迫った終末思想によるもので、イエスは、自分の在世中に、「全」イスラエルに神の国の福音を伝えなければならないと考えていたのでしょう。これこそ、マタイがこの派遣記事を通して語ろうとしていることです。だから彼は、復活「以前の」イエスの弟子たちの伝道とその意味とをここではっきり跡づけようとしているのです〔ジョン・ノゥランド『マタイ福音書』〕。
(5)では、10章と28章との整合性はどうなるのでしょうか? イエスがイスラエルの内部で始めた伝道が、その復活以後に、異邦の諸民族へと拡大されていくのです。このように10章を核として、28章をこれと同心円を描く神の国の福音の拡大として復活以後に啓示されたのが28章の宣教命令です。
(6)この見方に対して、このような同心円ではなく、イスラエルは福音を拒絶したために、神の裁きによって捨てられたから、その代わりにイスラエル以外の異邦人へと福音が「転移された」という見方があります。確かに、イエスはここで、福音を拒む民への裁きを告げています(10章15節)。この解釈は、一見、パウロの言う「ユダヤ人から異邦人への福音の転移」と通底するようにも見えます。
 現在、「エスニック・ジュー」と呼ばれているユダヤ人のキリスト教徒たちがいます。彼らが、現在のキリスト教に対して抱く批判はまさにこれなのです。旧約聖書で証しされているユダヤ教の信仰をあたかも偽善的な律法主義であるかのように決めつけて、これに対してキリストにある恩恵の福音を「置き換える」やり方を「置き換え神学」と言いますが、この「置き換え神学」こそ、現代のユダヤ人キリスト教の人たちが批判する「キリスト教」の独善です。
(7)したがって、単なる福音の「拡大」も、福音の「転移」も、それだけでは十分とは言えません。パウロがローマ人への手紙11章33節以下で語るように、ここには深い知恵に基づく神の摂理が隠されているからです。
 マタイの描くイエスの十二弟子派遣は、終末のイスラエルのみに向けられた宣教であり、この意味で、「イエスは放浪のラディカリストたちの運動の創始者」です〔ルツ『マタイによる福音書』〕。しかし同時にマタイは、ここで語られるイスラエル向けの神の国の福音が、同時にそのまま全世界へと向けられていくことをもはっきりと意識しています。しかも彼の脳裏には、10年ほど前(70年)にイスラエルを襲った亡国の出来事があったことでしょう。ただしその出来事は、ユダヤ人から異邦人への福音の転移を単純に意味するものではなく、イスラエルに臨んだその同じ神の裁きが、全世界の諸民族にも全く同じ条件において起こりえること、このことを想起させるためなのです。この意味で、イエスがイスラエルにおいて開始した伝道と、復活以後にマタイの教会の「イエスの弟子たち」が行なう伝道とが重なるのです。福音の宣教とこれに伴う不信仰への裁き、これがマタイ福音書の「御国の福音」が(この用語はマタイだけです)、全世界に向けて発信している救いと警告です。
 終末意識と伝道様式とは密接に関係しています。イエス様語録とマタイ福音書の伝える伝道様式は、イエスに直結していて、ここでは終末が「すでに始まって」、御国を伝える者は、すでに終末に「入っている」状態で伝えているのが分かります。そうでなければ、ここに述べられている福音伝道は、あまりに無謀すぎて理解できません。それだけ、当時のイスラエルにとって、イエスの伝える神の国が強い衝撃となっていたのです。マタイ福音書に比べると、マルコ福音書のほうは、やや終末意識が後退しています。ここでは、終末は、「差し迫って」はいますが、「まだ来ていない」状態にあることをうかがわせます。マルコ福音書は、エルサレム滅亡前後の教会の終末観を伝えていると言えましょう。ルカ福音書では、終末意識はさらに遠のいて、教会を通じて福音が世界に広がる救済史的な視野に立っています。
 
マタイ10章
[1]【十二弟子】ユダヤでもヘレニズム世界でも、師に従う弟子たちのリストをあげることが様式化していました。マタイは、その福音書の冒頭にアブラハムからイエスまでの系図を置いて、イエスを旧約聖書と結んでいます。マタイはここで、イエスの十二弟子のリストを通して、イエスを復活以後の教会と結ぶのです。マタイのリストは、二人ずつペアになっているのが特長です。そのリストに「まず/第一にペトロ」とあるように、教会におけるペトロの指導的な地位が確認されていることも大事な点です。マタイたちの教会はシリアのアンティオキアで形成されたと考えられます。アンティオキアの教会はペトロと関係が深かったことから(ガラテヤ2章11~13節)、マタイの教会の人たちは彼を知っていて、マタイ福音書それ自体もペトロからの伝承を受け継いでいるとも考えられます〔デイヴィスとアリスン『マタイ福音書』〕。もしペトロが、この教会でなんらかの特別の職責を果たしていたとすれば、これが主教制へと発展して、アンティオキアの主教イグナティオス(35年頃~110年頃)へと引き継がれたと思われます。このように、マタイのペトロ観には教会制度と救済史的な意味がこめられていますが、この問題は後の「ペトロの告白」(マタイ16章13節以下)の項で取り上げる予定です。
[5]【異邦人の道】ガリラヤにはセフォリスやティベリアスなどヘレニズム様式の都市があり、またユダヤ人から見た「異邦人の町」が散在していましたから、これらの町へ通じる道路には「入るな」という意味です。
【サマリア人】ここはマタイ福音書で唯一「サマリア」あるいは「サマリア人」がでてくる箇所です。マタイ福音書には、イエスがサマリア地方へ赴いたことは記されていません(ルカ17章11節/ヨハネ4章4節と比較)。サマリアは北イスラエル王国の領土でしたが、前722年にアッシリアに滅ぼされてから、住民の移動が行なわれて、多くの人たちが東方へ強制移住させられました(アッシリア側の記録によれば一時に27920名)。代わりに東方からサマリアへの移民が行なわれて、その結果サマリアはユダヤ人と異邦人との混合の民と見なされるようになったのです。ユダヤとサマリアとの関係は、紀元前3世紀頃から悪化して、両者の交わりが絶たれた状態が続いていました。サマリアがエルサレムとは別にゲリジムの山に神殿を建てたこともその原因の一つと考えられます。
 いったいサマリア人は、ユダヤ人なのか? それとも異邦人なのか? マタイはこの問題に対して、ユダヤ教のラビたちと同じ立場をとっているのでしょうか。ただし、福音書によれば、イエスは決してサマリア人を排除してはいません(ルカ10章25節以下の「善いサマリア人」のたとえ/ヨハネ4章のサマリアの女との出会いを参照)。では、この派遣記事の厳しい制限はなぜでしょう? 先に述べたように、イエスはなによりも「イスラエルの家」の民に神の国を伝えることを優先させたからだと考えられます。ルカによれば、イエスの復活以後、福音は、エルサレム→ユダヤ→サマリア→異邦世界へと広がります(使徒2章8節)。しかしここでマタイは、逆に、異邦人→サマリア→イスラエルの家へと弟子たちの派遣地域を絞っているのが分かります。ルカの福音がエルサレムから始まって「拡大する」のに対して、マタイの福音は、ナザレのイエスの時へと「さかのぼる」のです。
[6]【イスラエルの家の】原文の意味は、「失われた羊たち、(すなわち)イスラエルの家」と訳すほうが分かりやすいでしょう。イエスは、とにかくまずイスラエルの人たち全部に神の国を伝えることが急務だと考えているからです(マタイ10章23節)。イエスの派遣命令では、「するな」と「せよ」とが交互に語られます。否定と肯定のこの組み合わせで、挨拶「するな」とあるのは急いで「する」ためです。否定はただ否定するためではありません。異邦人やサマリア人を排除するためではないのです。
【失われた羊】「羊」は「羊の群れ」のことです。民が失われたのは、イスラエルの敵のためだけではありません。民の指導者たち(羊飼い)が民を「迷わせた/滅ぼした」(原語の意味)からです(エレミヤ50章6節)。「イスラエルの家の」とあるのは「イスラエルの中にいる」貧しく差別された人たちという意味と「イスラエルの民全体=イスラエルの家」の意味と両方に受け取れますが、ここではイスラエル全土のことが視野にあると思われます。前者(特に貧しい者たち)を含みつつも、どちらかと言えば後のほうでしょう。
 この6節は、後の時代の教父たちを困らせました。なぜなら、2世紀以降、福音は「異邦人の世界」へと広がることによって、「異邦人への道」しか行くところがなくなったからです。聖書の言葉が語られた歴史的な状況を無視して、ただ字義どおりに解釈するとこういうおかしな問題が生じることになります。
[7]【天の国】マルコとルカの「神の国」に対して、この言い方はマタイだけの用語です。マタイは「神の国」も用いていますから、どちらも同じ意味です。
[8]命令文を並べて構成されたこの節は、マルコにもルカにもありません。ここには、メシアに期待されていることがすべてあげられていて、それがイエスを指すことがはっきり分かるように語られています(らい病を癒した例はイエスだけです)。弟子たちは、イエスのするとおりにすることが求められているのです。ただし、「ただで受けたからただで与える」のです。この部分はマタイの編集でしょう。弟子たちに求められているのは、人間の業ではなく、神の御業です。だからこれは神からの賜としてしか与えられないものです。人の力や才能はここでは役に立ちません。神の御霊の働きだけが神の業を行なうことができるからです。絶対無条件の神の恵みは、太陽や空気のように、絶対無条件で与えられます。しかもこのような業が「イエスの弟子たち」を通して起こること、これがここでの大事な点です。
[9]~[10]金貨を持たないことは、マタイだけにでています。銀貨はマタイとルカ、銅貨はマタイとマルコ、サンダルと杖を持たないことはマタイとルカ、パンはマルコとルカ、財布はルカだけです。マタイが「金貨、銀貨、銅貨」をあげたのは、旧約聖書の言い方を採り入れているからでしょう。「働く者が」以下はマタイだけで、これはイエス様語録からです。イエス様語録では「報酬を受ける」とあるのをマタイは「食べ物を受ける」に変えています。食事以外に金銭などいっさいの「報酬」を受けとることを避けるためでしょうか。その上で、イエス様語録にある「出される物を食べなさい」をマタイは省いています。マタイは、ユダヤ人キリスト教徒の伝道者が、異邦人を訪れた際に、「出される物を食べる」のを避けようとしたのかもしれません。「働くものが報酬を受ける」はパウロにもでてきますが(第一コリント9章14節)、彼もこれをイエス様語録から受け継いだのでしょう。ここで述べられている伝道者の姿は、旅装と言うよりも、むしろ聖なる場所、例えば神殿に参る際の身なりに近いという指摘があります。御国を伝える伝道の行為は、神の御臨在を伴う聖なる御業と見なされたのかもしれません。
[11]【町や村に】11~14節までは、イエス様語録とマルコの記述を組み合わせたものです。マタイはマルコの「家」を「町や村」に変えています。9章35節のイエスの伝道に合わせたのでしょうか。村落共同体では、一戸の家だけが宗教的に自由な行為をするのは許されなかったと思われます。次の「ふさわしい」との関連で見ると、マタイの念頭には、すでにある程度福音が伝えられているマタイの地域内での巡回があったのでしょう。
【ふさわしい人】「だれがふさわしいかを注意深く調べて探し出す」ことで、これはマタイだけにでてきます。「ふさわしい/価値がある」は、マタイの好む言葉で、10章だけで5回はでてきます(10/11/13/37/38節)。ここでは性格的に「価値がある/善良だ」という意味よりもむしろ福音を進んで受け入れる姿勢を持つ人のことでしょう。マタイの考えでは、福音に、「救い」と「裁き」の両面がありますから、それだけ滞在先を慎重に選ばなければならないのです。
【とどまりなさい】できるだけ一カ所にとどまる理由としては、移動には時間と手間がかかること、弟子たちが選り好みをしていると思われないこと、家と家とを比較することで生じるかもしれない不必要な摩擦を避けることなどが、その理由としてあげられます。
 [12]~[13]【挨拶しなさい】「シャローム」(平和があれ)というのがイスラエルでの通常の挨拶ですが、ここでは「あなたがたの平和がその家にあれ!」です。ユダヤでもヘレニズム世界でも、「挨拶する」は、抱き合って頬に口づけをするなど日本語にはない交わりの深さを表わす言葉と行為を表わします。特に、ここで言う「平和」が、イザヤ書52章7節で預言されている「福音を伝える者の平和」を意味する場合は、終末的な意味を帯びた神の国の霊的な「平安と平和」を表わすと考えられます。このような「福音する者の平安と平和」は(使徒10章36節/ローマ10章15節/エフェソ6章15節)、イエスの伝える神の国に具わる新約聖書独自のものです。
【受けるにふさわしい】直訳すれば「その家がふさわしいなら」です。弟子たちはその家から好意を「受け取る」のではなく、逆にその家に平安と平和を賜として「もたらす」のです。だからこの挨拶は、好意を乞うためではなく、神の賜を与えるためです。弟子たちが与える平和の賜は、それ自体が人の手によらない神の賜ですから、これを受け入れるなら、賜はその家のものになります。ただし、もしもそれを拒むなら、贈られた平和は、贈った側に戻りますから、弟子たちがこのために平和を失うことはありません。失うのは受け取りを拒む側にあって、贈る側ではないからです。なおここは平叙文ではなく、「平和を受けるにふさわしければ、平和は彼らに与えられるように」〔岩波訳〕のように祈願文に取ることもできます。
[14]マタイはほぼマルコに準じていますが、「迎え入れる」や「埃」や「出て行く」は、マルコと違う言葉を用いています。ちなみに、マタイとルカは、マルコと異なって、弟子たちは履き物を履かず素足です。また、マルコにはない「家」を加え、「出て行く」に「外に」を加えています。注意したいのは、「あなたがたの<言葉に>耳を傾ける」と「言葉」を挿入している点で、「言葉による教え」は、ユダヤ教のラビの姿を思わせます。マタイはマルコにはない15節を加えていますから、マルコの「彼らに対する(抗議の)証しとして」をここでは省いています。次の15節と併せて、マタイはここでも「神の裁き」を強く印象づけるのです。
[15]
【ソドムやゴモラ】ここでマタイは語録集を採り入れていますが、「アーメン」を加え、ソドムの他に「ゴモラ」を加えています。「ソドムとゴモラ」は、その罪のために神の裁きに逢った町として定型句(決まり文句)になっていました。ソドムは死海の南岸で、現在のエンボケクのやや南にあった町です。ここは、古代では貴重なアスファルトの産地で、そのために町ができました。死海は、北と南の逆方向に動く二つの断層に挟まれています。このため古来しばしば地震に襲われました。アスファルトの粘土質は、地震の際に液状化するので、このためソドムは、湖の中へ引きずり込まれたと考えられます。なお、粘土質の深い所にはメタンガスの層があり、地震の際に、これが火柱となって噴き上げたと思われます。二つの町は特に男色と獣姦の罪(sodomy)で知られていますが、これは後の伝説でしょう。ゴモラは死海の北にあった町です。
【裁きの日には】これはマタイが加えた句で、神の裁きの降る終末の日のことです。預言書では「主の日」あるいは「かの日」などと呼ばれていますが、新約では「その日/それらの日」(マタイ24章36節/マルコ13章19節)、「終わりの日」(ヨハネ11章24節)などです。マタイは「御国の言葉」の意味を悟らず、これを軽々しく拒む者たちに警告すると同時に、裁きの際には、これを伝えた側には責任がないことを言いたいのです。おそらくマタイの念頭には、「神の民」と呼ばれながらもローマ帝国によって滅ぼされたイスラエルのことがあったでしょう。神の選びは神の裁きと裏表ですから(アモス3章2節)。ただし、「裁き」と訳されたヘブライ語には、「断罪/処罰」だけでなく、正しい者の「正義を明らかにする」こと、さらには、罪を悔い改める者への「赦し/憐れみ」をも含んでいることも大切で、この点を見逃すと誤解を招きます。神の「裁きを待ち望む」という言い方はこのようなヘブライ語の意味からでています。
■ルカ6章
[1]ルカ福音書では、十二弟子派遣(9章)と72人の派遣(10章)との間に、イエスについてのヘロデの戸惑い、5000人への供食、ペトロの信仰告白、イエスによる受難予告(2回)、山上の変貌、弟子たちの比べ合い、サマリアでの出来事、弟子となる覚悟などが置かれています。これらは、ガリラヤ伝道を終えてエルサレムへ向かうイエスの覚悟とこれに伴う弟子たちへの啓示的な出来事として語られています。だから二つの派遣記事の間で、ガリラヤからユダヤ全土へとイエスの神の国宣教もまた移動するのです。イエスの伝道活動に大きな転換が起こったことが分かります。ルカは、このイエスの歩みの延長にユダヤから異邦世界へと拡がる「神の国」の宣教の流れを観て、その流れに、神の救済史を読み取っているのです。だからここでの弟子たちの派遣は、使徒言行録へとつながります。
 ルカはマルコに準じていますが、これをルカ流に再解釈して縮めています。「力」と「権威」は、病気癒しと悪霊追放のための聖霊の働きです。しかしルカは、マルコと違って、神の国が切迫しているという終末をそれほど強く意識していません(17章20節)。その代わり9章全体は、イエスがキリストであることを証ししようとしているのです。語録集とマルコとマタイとルカとを比較すると、マルコと語録集は杖と履き物(サンダル)を認めて、それ以外は「携帯するここと」を禁じており、マタイは、旅に必要な物を「獲得する」ことを禁じており、ルカは、それらの物を「所有するな」と言っています。ルカにとって、ここは「イエスの在世当時」の伝道であって、以後の教会の伝道のいわば原点です。だからルカは、以後の教会も今の自分たちの教会も、このままの規則を遵守することができないことを意識しているのです(22章35~38節/使徒18章3節/第一テモテ5章15節)。ルカはここで、袋と杖を持ち、上着をまとって巡回を続けた当時のギリシアの知恵の教師たちとイエスの弟子たちとを比較しているのかもしれません。なおここで「金(かね)」とあるのは銀貨のことです。
[5]この習わしはパウロの頃でも行なわれていました(使徒13章51節/同18章6節も参照)。
[6]ここでルカは、弟子たちの伝道の成功を印象づけていますが、ここにはイエスの復活以後の使徒たちや弟子たちの伝道の拡大も重ねられています。「至る所で」はルカの挿入で、ヘレニズム世界のルカたちの教会の働きもこれに含まれてくるのでしょう。なお「福音を告げ知らせ」とある原語は「福音しながら(巡り歩いた)」です。
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