111章 四千人への供食
マルコ8章1〜10節/マタイ15章32〜39節
【聖句】
■マルコ8章
1そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
2「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
3空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
4弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」
5イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。
6そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
7また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。
8人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七篭になった。
9およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。
10それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
 
■マタイ15章
32イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」
33弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」
34イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。
35そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、
36七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
37人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの篭いっぱいになった。
38食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。
39イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。
                       【注釈】
【講話】
■供食物語の起源
 マルコ=マタイ福音書で、五千人と四千人への供食が語られますが、それぞれの前に一連の癒しや奇跡が起こります。供食は、言わばその締めくくりとして置かれています。イエス様が地上で行なわれた一連の癒しや奇跡に御復活直後に弟子たちが守ったパン裂きが、「供食の奇跡」として伝えられているのです。だからパン裂きが、供食の奇跡物語の起源だと考えられます。
 この出来事は、イエス様の在世当時に行なわれた「イエス様との食事」に基づいています。イエス様は村々を巡り、どこかの家に入られると、そこで村の人たちと共に食事をし、癒しや悪霊追放を行なわれた。会食とは「交わり」(コイノニア)のことです〔エレミアス『イエスの聖餐のことば』183〜84頁〕。大勢の人たちがイエス様のもとへ押しかけてきました。そんな中で、イエス様が人々と共にわずかなパンと魚を分け合って食べたことが、御復活以後のキリスト教徒たちに覚えられていて、「パン裂き」の「主の食事」が行なわれたのです。だからこれは、単なる食事会ではない。イエス様が御復活されて、その場に御臨在くださることを祝う祭儀です。五千人・四千人とイエス様との会食の奇跡物語は、ここから生じたのです。
■イエス様の御復活
 イエス様は、地上におられた時に、様々な癒しや悪霊追放や奇跡などを行なわれました。ところがイエス様が十字架にかけられてお亡くなりになった。もうこれでお終いかと思ったら、女性や弟子たち、その他いろいろな人たちに顕現された。パウロもその顕現に与って迫害者からイエス様を信じる側に転換しました。なぜ彼らはイエス様の御復活を信じることができたのでしょう? それはパウロの場合を見れば分かります。彼らはイエス様を「見た」からです。ではどうやって見たのか? 「見た」のではない「見えた」のです。どうしてだか分からない。パウロの場合などは、全く訳(わけ)が分からない。とにかく「見えた」のです。彼らにイエス様が「顕われて」くださったのです。御復活は「顕わされて」初めて分かる。「見えてくる」「顕わされる」のです。だから、こちら側から見れば漠然としている。それでいいのです。
 わたしたちは、分からないところがあっても、神と主を信じることができるのです。神はわたしたちに完全を求めておられません。大切なのは、顕われてくださった「現在」から、その過去へ目を向けることです。するとそこにイエス様の十字架がある。その直前の「最後の晩餐」がある。最期の晩餐で主様は、お体とその血をパンとぶどう酒にたとえて、使徒たちにお与えになった。それは使徒たちを通じてわたしたちに与えられるためです。わたしたちが、自分の罪、自分を取り巻くこの世の罪から解放されるためです。わたしたちが贖われるために、イエス様はご自分を神への犠牲としてお献げになった。これが「過越の小羊」であるイエス様の最後の晩餐からのメッセージです。
■神のお言葉
 神のお言葉は<出来事>です。しかもその出来事は、過去の一回限りの出来事ではありません。過去の出来事を思い起こして語る時、それを聞く時、それを書き記す時、その時その場で、かつての出来事が再現するのです。それだけではありません。語られたり聞かれたりしているその時から、さらに未来においても、同じことが新たな姿で生じるのです。神がお語りになったということは、このように過去のお言葉/出来事が、それが語られ聞かれる現在においても再現し、かつ未来にも新たな姿で生じることです。
 お言葉は、このように過去と現在と未来を結びますから、聖書に書かれている出来事は、過去のことだから現在には通用しないというのは誤りです。逆に、現在の霊能的な出来事だけに目を奪われて、その出来事を聖書が伝える過去のイエス様のお言葉や出来事の霊的な意義から切り離すのも誤りです。現在は過去と結びつかなければ、未来は見えません。
■パン裂きの祭儀
 イエス様の御復活は、聖霊降臨によって原初教会の人たちの「現在」に実現しました。同時にそれが「始まったけれども、未来に向けてまだ終わっていない」ことをも知るのです。彼らは御復活のイエス様を「見た」人たちです。最初期のクリスチャンたちは、イエス様の御復活の直後に、少し前まで地上におられたイエス様が再び御自身を顕現して、自分たちと共に御臨在くださる、こう信じて行なったのが「パン裂きの祭儀」です。これが後のキリスト教の聖餐の起源です。だから、このパン裂きは、言わば、イエス様を再び現在によみがえらせる「イエス様リヴァイヴァル」の祭儀です。聖餐は、イエス様を再び現在に活かすリヴァイヴァルの原点です。わたしは、これが聖餐のほんとうの意義だと思っています。
■リヴァイヴァルの起源
 「リヴァイヴァル」と言えば、「信仰覚醒」などと訳されて、何か過去の<わたしたちの>信仰を再び呼び覚ますかのように受け取られています。リヴァイヴァル運動と言えば、なんだか、偉い先生のキャンペーン運動のようにも聞こえます。けれども、ほんとうの意味での「リヴァイヴァル」は、そんなことではありません。かつて地上に生きて働かれたナザレのイエス様が、現在の時に、再びそのままのお姿で現臨されて、かつての時と同じみ業をわたしたちの間にリバイブすることを言うのです。これこそ、これからの日本にふさわしいリヴァイヴァルです。
 リバイバル神学の核心は、このナザレのイエス様を「覚える」こと、祈りによって、聖餐によって、イエス様の御臨在を覚え、これに与ることです。これができるのは、イエス様が神から遣わされた御子であり、イエス様ご自身が神のお言葉、神の出来事だからです。だから、「イエスは人なり。イエスは神なり」です。これが「イエスは人なり。イエスは神ならず」になりますと、現代の文献批評が言う「史的イエス」に近くなります。わたしはここで、正統キリスト教と異端とを区別したり、学問的なことを否定しようとは思いません。いろいろな考え方や信仰の有り様があっていいと思っています。しかし、いわゆる「史的イエス」からリヴァイヴァルは生じません。だから、事、御霊の御臨在によるリヴァイヴァルになると、「イエスは人なり。イエスは神なり」のこの信仰から来る祈りこそ、正しいリヴァイヴァルをもたらすのです。
■イエス様の御臨在
 どうぞ皆さん、イエス様との交わりを大切にして、ナザレのイエス様の御臨在を祈り求めてください。その祈りの場から離れないでください。イエス様のパンを食べ、イエス様の血を飲んで、罪の赦しと贖いを味わってください。「ナザレのイエス様、どうぞわたしの罪を赦してください。わたしのいたらなさを覆い、わたしの欠点を取り除いてください」と祈ってください。そうすれば神は、イエス様の御臨在をお与えくださって、あなたと共にいてくださいます。あなたの弱いところも、欠点も、イエス様の御霊が取り去ってくださいます。こういうすばらしい神の出来事が、皆さんに実現するのです。ナザレのイエス様の出来事が、皆さん一人一人に起こるのです。この神の出来事が、わたしたちを通して起こること、これが日本のリヴァイヴァルにつながるのです。これ以外にリヴァイヴァルはどこからも来ません。どうぞ皆さん、このナザレのイエス様の御臨在を自分で体験し、イエス様のパンとぶどう酒を味わってください。
■パン屑のリヴァイヴァル
 大切なのは、一人一人のリヴァイヴァル、たった一人のリヴァイヴァルです。大勢の群衆が集う大集会が悪いとは言いませんが、大事なのは、その大集会が終わった<その後の>一人一人の歩みです。大集会でイエス様の御霊が働いて、大勢の人たちそれぞれに御復活の主様が顕われてくださった。そのことを大切にするかどうかが一番重要です。散らばったパン屑こそリヴァイヴァルの要(かなめ)だからです。ほんとうのリヴァイヴァルは<そこから>始まるのです。
 だから、大集会がなくても、二人三人イエス様の御名によって集まるところ、そこに主は御臨在くださるのです。そういう<パン屑集会>が、日本中に無数に広がり、イエス様の御臨在を祈り求める時に、ほんものの日本のリバイバルが始まります。カトリックであろうとプロテスタントであろうと正教であろう、宗派宗団は何の関係もありません。家庭であろうと教会であろうと職場であろうと学校であろうとクラブであろうと、場所は問いません。5人いれば十分です。10名ならもう立派な教会です。50人、100人なら、その町にリバイバルが起こります。一人一人のリヴァイヴァルを持ち寄ったら、五千人、四千人どころか、何万という人たちに霊の食べ物を与えることができるのです。
 御復活のナザレのイエス様の御臨在を祈り求めるところ、そこがリヴァイヴァルの苗床です。そういうリバイバルしかわたしは信用しないのです。ある特定の人物が崇められ、ある特定の組織が尊ばれる、そういうリヴァイヴァルを信用しないのです。なぜなら、リヴァイヴァルとは<人間>ではなく、復活された<イエス・キリスト>が働かれることだからです。たった一人のリヴァイヴァルは、御復活のイエス様のお働きなしに決して生じません。だからこそ尊いのです。「山高きがゆえに尊からず。人多きがゆえに真(まこと)ならず」です。どうか御復活のナザレのイエス様に自分を委ねて、祈りを絶やさないで、どこまでも祈り続けください。
                共観福音書講話へ