112章  空模様のしるし
                          マタイ16章1~4節/ルカ12章54~56節
                                          【聖句】
■イエス様語録
 (イエスは)言われた。「夕方になると、あなたたちは言う。『晴れだ。空が真っ赤だから』と。明け方には『荒れ模様だ。空(雲)が低く、真っ赤だから』と。あなたたちは空模様を見分けることを知っている。それなのに「時」のほうはできないのか?」
 
マタイ16章
1ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。
2イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、
3朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。
4よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
 
ルカ12章
54イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。
55また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
56偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
 
〔参照〕『トマス福音書』(91)
 彼ら〔群衆〕が彼に〔イエス〕言った、「あなたが誰であるかを私たちに言ってください。そうすれば私たちはあなたを信じます」。彼が彼らに言った、「あなたがたは天地の模様を調べる。そしてあなたがたは、あなたがたの面前にあるものを知らなかった。そして、あなたがたは、この時(カイロス)を調べることを知らない。〔荒井献訳〕
                        【注釈】
                                          【講話】
「しるし」について
 今回のところでは、ファリサイ派やサドカイ派がイエス様に「しるし」を求めています。これは、イエス様が神から遣わされたほんものの預言者か、あるいはメシアか、これを試すためだとありますが、彼らが「しるし」を持ち出したのは、ただイエス様を試すだけではありません。「しるし」は人を惹きつけて信仰へ導く大事な働きをすることを彼らは知っているからです。
 現代でも、「しるし」は多くの人々を動かします。大聖堂や立派な会堂は、人々をキリスト教へ招く立派な「しるし」です。病気癒しやこれに類する霊能の業も多くの人たちを惹きつけける「しるし」です。学問的な業績も知的な人たちを惹きつけます。しかし、何よりも尊い「しるし」は、その人の生き方そのものです。ヨーロッパ中世のアッシジのフランチェスコのような清貧の生活、20世紀のマザー・テレサのような献身的な愛の業、キング牧師のようにこの世の矛盾を告発する預言者、彼らはその模範です。わたしがよく知っている小諸の川口愛子さん、通称「ママさん」もその一人です。彼女の家の交わりにあったものは、愛と信仰と希望だけです。これ以外に「しるし」は何にもありませんでした。キリスト教の歴史には、このような聖人たちが多く、人々を感化し続けています。
 これらの「しるし」は、どれもそれなりに大事ですが、残念ながら、全部が全部ほんものとは言えません。中にはまがいものもあります。大伽藍や教会堂がそこでお勤めする聖職者の霊性の正しさを必ずしも保証してくれません。霊能の働きがあるからと言っても、これを行なう人の教えが全部正しいとは限りません。癒しのような「力ある業」も、神のお働きを啓示する「不思議な出来事」も、人の霊性への益になるために行なわれるべきで、それ以外の意図や目的があってはならないのです。学問的な業績が、必ずしも真理を伝えているとは限りません。何よりも残念なことに、外見的に立派な行ないの人でも、それがほんものかどうか、それだけでは見分けがつかないことです(第一コリント13章1~3節)。これらの「しるし」は、神のお働きから生まれるものですが、残念ながら、人間的な思惑や偽りの動機が忍び込むことも避けられないのです。
イエス様のしるし
 では、ほんもののしるしとは何でしょうか? それはどうやって見分けるのでしょうか?イエス様はファリサイ派やサドカイ派、それだけでなく一般の群衆にも、空模様や風向きから、明日の天気を読み取ることができるのなら、この世の中の時勢から、これから起こることを読み取ることができるはずだと言われています。これを「神の裁き」が近いことを悟れという意味に解釈する説もあります。
 しかし、よく読んでみると、ここはそうではなく、あなたがたの目の前にいる「イエス様というしるし」を正しく読み取りなさい、こういう意味だと思います。イエス様は多くの霊能の業をなさっており、今、彼らの目の前におられます。このイエス様という神からの「しるし」を信じないのなら、外にどのようなしるしを見せても、彼らは信じることをしないでしょう。だからイエス様は彼らの要求に応えてしるしを見せようとはされませんでした。
 では、イエス様を目の前にすることができないわたしたちはどうなのでしょうか? ほんもののしるしをどこに見出せばよいのでしょうか? ヨナ書によれば、神からの命令にもかかわらず、ヨナはニネベ行きを拒んで、別の方向へ逃げようとします。ところが、嵐に出遭って海の中へ投げ出されて、三日三晩鯨のお腹の中にいたとあります。マタイ福音書では、これはイエス様の十字架の死と御復活の出来事を指していると解釈しています(マタイ12章40節)。だからイエス様の言われる「ヨナのしるし」とは御復活のことです。
 イエス様は、イスラエルと人類の救いのために、ご自分を神の祭壇にお献げになりました。神はこのイエス様をよみがえらせて、「御復活のしるし」をわたしたちのお与えになったのです。イエス様の御復活は、どんな人にも分け隔てなく、人類全体に与えられる「しるし」です。このことを表わすために、神はイエス様の御名による聖霊を弟子たちに注いで、イエス様の御復活と御臨在のしるしとされたのです。これがほんとうのリヴァイヴァルのしるしです。
 けれども、この「しるし」は、見分けることができる人とできない人とがいます。だから、「しるし」は誰にでも見えるとは限りません。ここでも、「見分けようとする人」と「見ようともしない人」とが出て来ます。「しるし」が先にあって信じる心がこれに続くのではありません。先に信じる心があって、御復活を見分けることが、これに続くのです。だから、「しるし」とは、人が神様のなさることを判断するためではありません。逆に、神様が人の心を判断するための「しるし」なんです。
祈りの働き
 ではどうすれば、神様からの「しるし」、御復活のイエス様のことです、これを正しく見分けることができるでしょうか? 誰にでもできて、しかも正しく見分ける方法があります。それは「祈り」です。<イエス様の御名による>祈りです。「イエス様!」と呼びかけること、これができることが、もうそれだけで御霊のお働きのしるしなんです(第一コリント12章3節)。祈りそれ自体が御霊のお働きです。祈りを通じて働くイエス様の御霊は、人の想いをはるかに超えて働いてくださいます。
 もう一つ祈りについて言えるのは、せっかく祈りが聴かれて、祈り求めていたことが与えられても、それがはたして祈りによるのか、それとも自分の努力だとか、才能だとか、何か別の原因からだとか、そういうふうに考えて疑う人がいるのです。自分の祈りが聴かれたことを「見分ける」人と、これが分からない人とがいるのです。
 では「祈る」のはどうすればいいのでしょうか? わたしたちは祈る時に二つの誤りを犯しがちです。ひとつは「やり過ぎ」の誤り、もう一つは「やらない」誤りです。しかし、この二つの誤りにはそれなりの理由があります。なぜなら、私たち自身の内面でも、わたしの周囲の世の中でも、<祈りを妨げる>様々な力が働くからです。この力に負けて、祈らない、祈れない、こういうことになりがちです。これが「やらない」過ちです。
 もう一つは、これと逆に、「やり過ぎる」過ちです。これは少し難しいです。でも、やってみた人は分かると思いますが。祈ると、あるいは祈ろうとすると、自分の内に様々な妨げや罪や欠点が見えてきます。そこでわたしたちは、何とか自分の欠点や妨げを克服したいと「やっきになって」祈ろうとするのです。このこと自体は決して<悪い>ことではありません。やり過ぎるほうがやらないよりもいいのです。しかし、祈っても祈っても、自分の内面の罪や妨げは、なくならないどころか、ますます激しく抵抗する、ということが生じるのです。こうして、祈り疲れて無力になり、なんにもできなくなったその時に、不思議に御霊の働きが来て、外から自分を包み支えてくださる聖霊の力を感じとることができる。こういう体験をされた方々がけっこういると思います。
 そうなんです。人が自力で祈ろうとして、いくらもがいても、ほんものの祈りに到達することができません。祈りとは、イエス様の御霊にある祈りとは、神から来る御霊のお働きだからです。わたしたちの祈りは、<願いごと>の祈りです。そうなればいいという願望の祈りです。けれども、御霊にある祈りは「必ず聴かれる」という確信の祈りです。その確かさは、人から来るのではなく、主の御霊にあって神から来るのです。
 だから「しるしを見せてくれたら信じるのに」と言う人は偽り者です。信じない人は、実際にしるしを見ても信じません。心から「信じよう」としない人は「見よう」とはしないからです。逆に、信じる人は「しるし」をすぐに見分けます。ノアが空に虹を見たようにそれが「しるし」だと分かるのです(創世記9章12~17節)。
 このように「信じる心」は、自分の日常に神のお働きを敏感に見分けることができます。祈りは、今の時勢のしるしを見分けます。これから起こることを見分けます。それだけでなく、<新しい自分を創り出す>働きをするのです。昨年のクリスマス集会でお話ししたように、「新しい自分」に出会い、これを求めるのが祈りです。これはイエス様の御名によって神が与えてくださる大事な賜物です。「祈ること」そのことが、クリスチャンであることの「しるし」です。クリスチャンとは祈りで成り立つ存在なのです。クリスチャンは「祈りでできている」のです。"Prayers are the stuff Christians are made of ."
わたしの祈り
 昨年から今年(2012年)にかけて、わたしはどういうわけか日本のリヴァイヴァルのために祈らされています。わたしは中学1年生の時に終戦を迎えました。昭和20年8月15日を境に、それまで正しいと信じていたことが一挙に崩壊して、全部誤りで偽りだったと言われる。こういう体験をした世代です。
 だから、大学に入ってからキリスト教を知った時にも、いったいこのキリスト教はほんものなのかどうか、このことが何よりも気になりました。まだ独身で大津で伝道していた頃、井上さんという預言の賜物を与えられている人がいて、彼から「あなたはほんとうに真理を求めているから、今にきっと真理を見つける」と預言されたのを覚えています。
 わたしには、先ず自分自身が心から納得できなければ、福音を人に伝えることができないという思いがずっとありました。(1)自分でほんとうに納得できること。(2)自分が実際にやってみて実行できること。(3)その結果、信じて本当に善かったと思えること。この三つがなければ、福音を人に語ることができないと思ってきたのです。
 今年は80歳で、この歳になって、やっとこの三つがかなえられるものに出合えたかな。こんな想いがします。ところが、出合えたものの、今度はこれがなかなか伝わらないのです。わたしの見出したイエス様の御霊の福音は、言葉に出せばクリスチャンなら誰でも知っていることなんですが、わたしにはこの福音が、知れば知るほど不思議で、とても人間業でお伝えすることができない。そんな気がするのです。「クリスチャンというのは、一般の世の中の人から見れば、夢でも見ているのではないかとしか思えない存在だ」とキェルケゴールという人が言っていますが、ホントにそんな感じがします。
主の祈り
 それでも、遅蒔きながら、これからの余生をイエス様を伝えるみ業に励みたい。こう思うようになりました。イエス様の御霊の御臨在は、分かる人には分かるけれども、分からない人にはどうにも理解できない。そういう性質のものです。だからこれは、自分の力や能力でとうてい伝えることができない。神様が伝わらせてくだらなければ、どうにもならないのです。「伝えるより伝わる御霊」です。
 だから、「どうぞ御霊の御臨在を伝わらせてください」こう祈るんです。気がつくとこの祈りは、「あなたの御名が崇められますように」という祈りに通じる心です。この祈りに続けて、「どうかイエス様の御霊の御臨在が広まるように、日本全国にリヴァイヴァルを送ってください」と祈ります。コイノニア会のようなミニ集会が、日本中に無数に芽生えてくることです。現在、コイノニア会に関係する方々で、Sさん、Iさん、Aさん、その他にも、ささやかな祈り会や聖書集会をやって折られる方々が、日本のあちこちにおられます。ほんもののリヴァイヴァルは、こういうところから起こるのです。この祈りは、「御国が来ますように」という祈りに通じる心です。それからもう一つ、「イエス様の御臨在に心から従う人」です。そういう人たちをお与えください。こう祈るんです。先ず自分のために祈る人、集会の人たちとの交わりのために祈る人、もっと広く人々のために祈る人、こういう祈りを求めてください。これは「御心が地にも行なわれますように」という祈りに通じる心です。主の祈りに通じるこの三祷が、今のわたしの祈りです。
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