【注釈】 ■「しるし」について
今回の箇所は、先の「ヨナのしるし」と類似しています。「しるし」に関するイエスの言葉は、「ヨナのしるし」と今回の「空模様のしるし」とのふた種類に分けることができますが、文献的にも内容的にも相互に関連しています。「しるしテキスト」は全部で5箇所あり、マタイ12章38~42節/同16章1~4節/マルコ8章11~13節/ルカ11章29~32節/同12章54~56節です。そのほかにルカ11章16節も関係します。マルコ8章11~13節には、ただ「しるし」とあるだけです。マタイ12章38~42節とルカ11章29~32節には「ヨナのしるし」とあります。マタイ16章1~4節とルカ12章54~56節には「空模様のしるし」がでてきます。
共観福音書の「しるしテキスト」に対応して、イエス様語録のほうも、先の「ヨナのしるし」〔ヘルメネイアQ246~55頁〕と、今回の「空模様のしるし」〔ヘルメネイアのQ388~92頁〕のふたつに分かれています。『四福音書対観表』では、このふた種類の「しるし」が、マルコ福音書のテキストと共に同一項目で扱われていますが、わたしたちは二つに分けて、今回は「空模様のしるし」だけを扱います。
■イエス様語録
「時」のしるしを見分ける例としてマタイ福音書は夕焼けと朝焼けをあげ、ルカ福音書は雲行きと風向きをあげています。どちらがほんらいのイエスの例えか確認できませんが、黙示的な性格が強いので、マタイ福音書のほうを採っているのでしょう〔ヘルメネイアQ〕。復元の前半はほぼマタイ福音書からですが、「あなたたちは空模様を見分けることを」以下は、マタイ福音書とルカ福音書とがほぼ共通しています。
「ヨナのしるし」では、神からの裁きを告知するためにニネベへ遣わされた預言者ヨナがでてきますから、イエスはこの「しるし」を、終末での神の裁きが迫っていることを示す「しるし」として語っています。
なお『トマス福音書』(91)のほうには、「あなたがたの面前にある<もの>を知らなかった」とあります。「あなたがた」は群衆を指しますから、この点で、『トマス福音書』はルカ福音書のほうに近いです(ただし相互に独立した伝承から出ています)。
(1)「もの」は「者」ととればイエスを指しますから、群衆はイエスがほんとうは誰なのかを悟らなかったという意味になります。『トマス福音書』の言葉はこの意味でしょう。
(2)けれども、「もの」が、イエスが語っている神の国の言葉/教えのことだとすれば、イエス自身のことだけでなく、神の国の到来と共に終末の神の裁きが迫っている「そのこと」の意味にもなります。
(3)また、『トマス福音書』がグノーシス的な意味で語っているのであれば、イエスの言葉を聞いて人それぞれが「本来の自己」に目覚めて、己の在り方を悟る(覚知する)という意味にもなりましょう〔荒井『トマス福音書』講談社学術文庫257頁〕。
これで見ると、マタイ福音書のほうでは、「時を見分ける」ことが(1)のイエス自身と結びつけられているのに対して、ルカ福音書のほうでは、「時のしるし」が(2)の「神の国の到来」と「終末の裁き」とに結びついていて、このことを悟らない群衆を批判していることになります。
■マタイ16章
[1]【ファリサイ派とサドカイ派】先の「ヨナのしるし」では、質問するのは「何人かの律法学者とファリサイ派」(12章38節)ですが、ここでは「ファリサイ派とサドカイ派」です。このふたつは、宗教的にも政治的にも立場が異なるので、この組み合わせは珍しく、新約聖書中でこの組み合わせは、この箇所と次の16章6節とマタイ3章7節だけです。3章7節の場合は洗礼者ヨハネのもとへ洗礼を受けるために来た人たちですから、立場が異なる人たちでも不自然ではありません(洗礼者はどちら側も批判しています)。しかし、今回のこのような異例の組み合わせは、彼らが地元の人たちではなく、エルサレムから「イエスを試す」ためにやって来た「合同捜査」のメンバーだとすれば理解できます。この組み合わせは、次の「パン種のたとえ」へとつながります。
【天からのしるし】使徒言行録2章22節のペトロの説教では、「奇跡」"mighty works"と「不思議(な業)」"wonders"と「しるし」"signs"が並んででてきます。「奇跡」のギリシア語「デュナミス」は「力」を意味しますから、「奇跡」と訳すよりも英訳[NRSV]のように「力ある業」と訳すほうが適切でしょう。これはイエスが行なった病の癒しや悪霊追放などを指します。これにたいして「不思議としるし/しるしと不思議」は、旧約聖書からの言い方で、二つがセットになっています。使徒言行録2章19節の「上では天に不思議な業を、下では地にしるしを示す」はヨエル書からの引用です。ヨエル書では「終わりの日に」神の聖霊が降る時のことを指す預言ですが、ここの原文は「天と地にしるしを示す。それは血と火と煙の柱である」(ヨエル3章3節)とあって、続いて「太陽は闇に、月は血に変わる」とあります。
出エジプト記4章には「しるし」(ヘブライ語「オート」)が度々でてきます。このヘブライ語は「目印/旗印/祈念碑」「警告/予兆/しるし」を意味します(出エジプト4章8節/同17節/28節/30節など)。特にモーセがファラオに「わたし(神)の民をあなた(ファラオ)の民から区別して贖う」と告げる時に語る「しるし」(出エジプト8章19節)は、「民の贖い」を意味する神からの「しるし」として大事の意味を帯びています。
申命記は出エジプト記のモーセの出来事を受けていて、神は「しるしと奇跡(複数)」(申命記26章8節)をもってイスラエルをエジプトから導き出したとあります(申命記4章34節/6章22節など参照)。ここのヘブライ語は「オート(しるし)とモーフェート(不思議)」(どちらも複数形)です。「モーフェート」は「不思議/驚くべき業/奇跡的なしるし/予兆」を意味しますから、「しるしと不思議」"signs and wonders"[NRSV]と訳すほうがいいでしょう。これで見ると、この二つの組み合わせは、偉大な預言者モーセと彼によって導かれたイスラエルの民の出エジプトの出来事に関連しています。先にあげたヨエル書3章2~4節も、出エジプト記や申命記の出来事を踏まえて、「終わりに日に」モーセのような大預言者が現われることを預言しているのでしょう。
新約聖書は出エジプト記や申命記の用語を七十人訳から受け継いで、ギリシア語「セーメイオン」(目印/しるし)と「テラス」(驚異/奇怪/異常な出来事)の複数形を用いて、「しるしと不思議/不思議としるし」としています(使徒2章22節)。これは終末に現われるメシアとしてのイエスの業を表わすのでしょう。だからイエスはモーセのような、あるいはモーセに優る「預言者」であり「メシア」です。ちなみにパウロも「しるしと不思議と力ある業」(第二コリント12章12節)がその伝道に伴うことを自分の使徒職の証しとしています。
今回の箇所では、ファリサイ派とサドカイ派は、イエスが、ほんとうに終末に現われる「モーセのような預言者」なのか? これを証しするための「天からのしるし」を示すようイエスに求めたのでしょう。イエスを通じてすでに様々な「しるし」が与えられているにもかかわらず、彼らは、それらに目を留めようとせず、さらに「しるし」(単数)を求め続けるのです。
[2]2節の後半から3節までは、かなりの数の写本で抜けています。この脱落は、ルカ12章54~56節の元となる資料から(あるいはルカ福音書そのものから)、後になってマタイ福音書のこの箇所に挿入されたからだとも考えられます。もしもそうだとすれば、空模様の内容がマタイ福音書とルカ福音書とではずいぶん違いますから、マタイはこれを修正したことになりましょう。これに対して、パレスチナ以外の地、例えばエジプトでは朝焼けが悪天候の予兆ではありませんから、内容的に現地の風土に適合しないので、マタイ福音書にあるほんらいの本文から削除されたのではないかとも考えられます〔新約原典テキスト批評41頁〕。どちらとも決めかねるので、2~3節を括弧に入れている訳があります〔岩波訳〕。
【夕焼けだから】昔から「夕焼けは羊飼いの喜び。朝焼けは羊飼いへの警告」という言い伝えがありました。日本でも「夕焼けは(明日)天気のしるし」と言われています。
[3]【雲が低い】原文は「空がどんより曇っていて赤く染まっている」です。なお「嵐」の原語「ケイモーン」は「冬の寒気」や「冷たい雨風」「荒天」「嵐」の意味にもなりますから、「嵐」あるいは「冬の寒気」"wintry"などと訳されています。
【時代のしるし】「時代」の原語「カイロス」(ただしここでは複数)は、日常の時間(ギリシア語「クロノス」)の流れのことではなく、ある特定の「時」、あるいはある出来事が生じる「時」の意味です。ここでは、特に終末における「神の国の到来」とこれをもたらす「メシア到来」の「時」を指す「しるし」のことでしょう。
[4]【よこしまで神に背いた時代】原文は「邪悪と不貞の世代」です。彼らが「しるし」を求めるのは、「イエスを試す」ことで、人々のイエスへの信用を失墜させようとする悪巧みからきているのをイエスは見抜いたのです。特に四千人へのパンの奇跡の後だけに、彼らの要求はいかにも不自然です。
【ヨナのしるし】マルコ8章12節では「しるし」はいっさい与えられないとありますが、マタイ福音書では「ヨナのしるし」だけしか与えられないとなっています。マタイ福音書では、先の「ヨナのしるし」がイエスの復活を示唆していますから(マタイ12章40節)、ここでもその意味でしょう。サドカイ派は「復活」を否定していましたから、そのことを批判する意味もこめられているのかもしれません。
【後に残して】「置き去りにする」ことです。ここで、ユダヤの指導層とイエスとが決定的な対立関係に入り、事実上ガリラヤとその周辺地域での伝道が終わることになります。
■ルカ12章
ルカ福音書では、イエスの一行がエルサレムへ近づいた頃に、「目覚めて主人の帰りを待つ忠実な僕」や「地上に分裂をもたらす火」や「訴える人との和解」、「実らないいちじくの木のたとえ」など、終末の時が近づいていることへの警告として一連の譬え/言葉が語られ、「空模様を見分けるしるし」もこの中で語られます。以下の注釈で分かるように、ルカ福音書の記事は、内容的にマルコ福音書ともマタイ福音書ともかなり違っています。マタイ福音書ではファリサイ派とサドカイ派の人たちからの問いかけに答える形になっていますが、ルカ福音書では、イエスは、差し迫る終末とその裁きに備えて弟子たちに譬えで語った後で、「群衆に向かって」このしるしの例えを語っています。
マタイ福音書では誰がイエスに問いかけたかがはっきりしていますが、ルカ福音書では、イエスのほうから、弟子たちに次いで群衆に語っています。ただしルカ福音書でも、悪霊の頭ベルゼブルについて論じ合う場で、「イエスを試そうとして問いかける人」(11章16節)がでてきます。ルカ福音書のこの記事は、マルコ福音書ともマタイ福音書ともイエス様語録とも違っていますから、おそらくルカ福音書以前のかなり古い伝承から出ているのでしょう〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』999頁〕。
[54]~[55]パレスチナでは、1月~3月の雨期の場合もそうですが、雨は西の地中海から来る雲によってもたらされます。反対に、南の砂漠地帯から吹く熱風は暑さをもたらします。マタイ福音書では、夕焼けと朝焼けの空模様が「しるし」のたとえに用いられていますが、ルカ福音書では、雲行きと風向きが「しるし」になります。イエス様語録では、マタイ福音書のほうを採っていますが、どちらがほんらいのイエスの例えだったのかは確認できません。「ヨナのしるし」と「空模様のしるし」は、イエスによって別々に語られた可能性もあります。
[56]ルカ福音書のこの「偽善者よ」がマタイ福音書のほうに抜けているのが不思議です(これはマタイ福音書にしばしばでてくる用語なので)。「空<と地>」とあって、「地」が加えられているのは、風向きと暑さが地上のことだからでしょう。なお、今の時を見分けることを「知らない」とありますが、これが抜けている異読があります。「知る」「知らない」は知識の問題ですが、ここでイエスが言おうとしているのは、「(気象の)見分け方を知っていながら、しかも(時勢の)見分け方を知らない」偽善者のことでしょうか?「知っている」を省くと、「(気象を)見分けることを知っているのに、時は見分けようともしない」となり、内容的にはっきりします。おそらくこのために、後の版が「知っている」を省いたのでしょう〔新約原典テキスト批評162頁〕。また、マタイ福音書では「時/時代(複数)の<しるしを>見分ける」ですが、ルカ福音書のほうは「時(単数)を見分ける」です。マタイ福音書の「複数の時/時代のしるし(複数)を見分ける」のほうが黙示思想的に見ると適切ですから、イエス様語録では、こちらがほんらいのイエスの言葉だと判断されたのでしょう。
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