113章 ファリサイ派のパン種
         マルコ8章14~21節/マタイ16章5~12節/ルカ12章1節
 
                                   【聖句】
マルコ8章
14弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
15そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
16弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
17イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
18目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
19わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった篭は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
20七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった篭は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
21イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
 
マタイ16章
5弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
6イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。
7弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。
8イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。
9まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾篭に集めたか。
10また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾篭に集めたか。
11パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
12そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。
 
ルカ12章
1とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」
 
                       【注釈】
                                         【講話】
不信仰のパン種
 今回のパン種(だね)の話をマルコ福音書で読む場合に、マルコ8章15節のイエス様のパン種の譬えを省いて、14節を直接に16節へ結びつけて読むなら、弟子たちはパン一つしか持ち合わせていなかったので、これでは足りないのではないかと心配し合っている様子が見えてきます。「パン」とは食べ物のことだけではありません。食べ物、着物、生活の全部のことです。イエス様と共にいれば生活はイエス様が見てくださる。心配要らないのです。
 これに気づいたイエス様が、先の四千人と五千人へのパンの奇跡を思い出させて、弟子たちの不信仰を戒めておられる。このように受け取ることもできます。弟子たちは、七つのパンで四千人を食べさせることができたのなら、パン一つさえあれば、12人ほどの人にとって十分だ、ということに思いいたらなかったようです。だからイエス様は、このような彼らの不信仰を嘆いておられるのです。
 このように読むと、神によって弟子たちの生活が護られていることが、イエス様の奇跡の業によって啓示されているのに、このことを弟子たちが忘れているわけで、この物語は、イエス様とイエス様をお遣わしになった神への不信仰を戒めていることになります。イエス様が、神から遣わされたお方であることを忘れて、自分たちの食べ物が心配になるのです。だとすれば、ここは、「食べ物着物のことで思い煩うな」(マタイ6章25節以下)と言われたイエス様のお言葉とも結びつくことになりましょう。
偽善のパン種
 ところが、マルコ福音書は、弟子たちのこのような「食べ物への不安」の上に、「ファリサイ派とヘロデのパン種」という譬えを重ねたのです。このために、話が複雑になります。ルカ福音書には、「パン種」が「偽善」のことだとあります。「偽善」とは「言葉だけで実行しない」ことです。だから、生活への不安と偽善の譬え、この二つが重なり合うことになります。では、イエス様への不信仰と偽善、二つはどのように関連するのでしょうか。
 イエス様は神から遣わされた御子であり、イエス様を通して神御自身が働いてくださる。イエス様が御復活されて、今もなおわたしたちと共にいてくださる。これがわたしたちクリスチャンの信仰です。だから、「イエス様を通して働かれる神」への信頼を失うなら、クリスチャンの生活はその根底から崩れます。これが崩れると、わたしたちの生き方が「偽善」になるのは避けられません。日々の祈りが大切なのはこのためです。
 弟子たちはパンのことが気になっていた。その不信仰に加えて、イエス様から「パン種」の譬えを聞かされた。これがパン種の意味を誤解した原因です。神を信頼しない/できない心で、イエス様のお言葉やイエス様の譬えを聞いたり読んだりしてみても、その意味を正しく理解することができないのです。信仰が前提になって語られている御言葉を、不信仰な心でいくら読んでも、聖書のお言葉の真意が伝わらないのは当然です。だから、パンのことが心配な弟子たちが、イエス様のパン種のお言葉を聞いて、なおいっそうパンのことが心配になったのも分かります。イエス様が彼らの不信仰を厳しく戒めておられるのはこのためです。パン一つしか持っていないことが心配の種なら、そこへイエスの譬えが加わると、なおいっそう不安を感じて、イエス様が語られる譬えを誤解するのです。お言葉への悟りは信仰から生まれますが、不安はどのようなお言葉をも不安の種にします。
信仰の薄い者
 ところで、マタイ福音書のほうは、イエス様の戒めが「信仰の薄い者たち!」となっています。弟子たちは、「悟りのない者」とは言われず、「信仰の薄い者」と言われているのです。イエス様が「信仰の薄い者」と言われたのは、これが初めてではありません。先の湖での嵐の時にも、ペトロが波の上を歩き始めると、すぐに沈み始めた。そこでイエス様に助けを求めると、イエス様は「信仰の薄い者」と言われてペトロを支えてくださった(マタイ14章31節)。
 四千人、五千人へのパンの奇跡と言い、水の上を歩く奇跡と言い、人間業ではとても不可能なことをイエス様は行なわれます。これで見ると、イエス様の奇跡を信じることができない者は、全員「偽善者」であり、「信仰の薄い者」だということにもなりましょう。わたしをも含めて、日本の多少とも知的なクリスチャンは全員落第です。
奇跡とは?
 こうなると、そもそも「奇跡とはなんぞや?」ということになります。わたしは「奇跡」という訳語があまり好きではありません。この言葉には、なにか自然の力に逆らう「不自然」で「非科学的」で「反知性的」な意味がこめられているからです。「奇跡」はギリシア語の原語で言えば「デュナミス」で、これは「力」のことです。だから、使徒言行録2章22節では「力ある業(わざ)」〔口語訳〕と訳されています。英訳では "mighty works" あるいは "deeds of power"[NRSV]です。
 わたしは聖書の神のみ業を現代風に合理化したり、科学的に説明できる現象だと言うつもりはありません。ただし、聖書の「力ある業」は「不思議」と結びつくだけでなく、「しるし」とも結びついていることに注意してほしいのです(使徒言行録2章22節)。青/赤の信号は、歩いて道路を渡ってもいい/悪いを意味する「しるし」です。だから「しるし」とは、字義どおりに「色」のことを指すのではなく、何か「別のもの/事」を指しています。しるしの言葉は、これを文字通りに受けとってはいけません。今回の話で、弟子たちはこの誤りを犯しているから、イエス様の言われる「パン種」のほんとうの意味を悟ることができなかったのです。
創造の「しるし」
 イエス様が行なわれた「力と不思議としるし」は、霊的な出来事/事象を表わします。目に見えない力が働くのです。神のお働きは結果として見える形で現われますが、そこに働く力そのものは、目に見えない霊的な力です。神の力ある業は不思議です。なぜ不思議なのでしょう? 「不思議」とは「創り出す」ことだからです。植物が種から生長して花を咲かせる。今までどこにも存在しなかった一人の人間が赤ちゃんとなって生まれてくる。これが不思議なのです。神の御霊のみ業とは「創造する働き」です。奇跡や不思議は「創造のしるし」なのです。
 だから、イエス様の言われる「信仰の薄い者」とは、イエス様にあって働く「神の創造の力」〔ルツ『マタイ福音書』(2)578頁〕を信頼しないことです。「イエス様に働く創造の力」ですから、「不信仰」とは、イエス様の譬えやお言葉だけでなく、イエス様ご自身にかかわること、イエス様ご自身を信頼するかどうかにかかってきます。イエス様を通して<神が働いてくださる>、このことを信じない者、これが「信仰の薄い者」です。
 奇跡/力ある業を信じないことが「信仰の薄い者」だと言われていますが、これを奇跡は「信じるべきで、悟るべきでない」という風に受け取ってはなりません。奇跡、すなわち力ある業は、霊的な出来事であり、神の御霊にある創造の出来事ですから、奇跡は<神が働かれた>ことの「しるし」なのです。だから「しるし」としての奇跡は、イエス様を通じて神が働かれること、つまり、イエス様というお方を<信じる>ことで、その奇跡の意味を悟ることができます。この方を信じて初めて、その「しるし」が表わす出来事の本当の意味を知ることができるのです。聖書にでてくる<超自然>の出来事の意味を洞察することができるのです。
譬えの解釈
 マタイ福音書16章11節でイエス様は「パンのことでは<ないよ>」と注意した後で、もう一度「ファリサイ派とサドカイ派のパン種に注意しなさい」を繰り返しておられます。先の御国の譬え/比喩でお話ししたように、ここでも比喩の解釈がとても重要な意味を持ってきます。その際、イエス様は、譬えが何で<ある>かを説明しないで、それが何を意味<しない>かを教えています。これは、比喩を解釈する際にとても重要です。比喩は、聞く人によっていろいろな意味合いを帯びてきます。判断されるのは比喩のほうではなく、これを理解する/しない人たちのほうです。譬え/比喩は、聞く人によって様々な解釈を生みますから、その意味が何であるかを告げるのは難しく、むしろ、その譬えを誤って解釈しないように、それが何を意味<しない>かを説明するほうが適切なのです。
「パン種」とは、字義どおりの意味ではない。ではそれは「教え」なのか? 単なる「教え」でもない。ではそれはファリサイ派やサドカイ派の「偽善」なのか? それだけでもない。「偽善」だからと言って、彼らの言行の<すべて>が誤りだとは限らないのです。彼らの言うことには、正しいところがあるからです(マタイ23章2節)。
 このように、譬えだけでなく、聖書のお言葉を理解する時に、あるいは、聖書にでてくる出来事を判断する際に、わたしたちは「~である」と同時に「~でない」を組み合わせて考えなければなりません。霊的な言葉や出来事は、それ自体の内にいろいろな意味を含みます。ある単語の意味をとってみても、その解釈が一つとは限らないのです。これを無理にどれか一つに限定しようとするなら、ほかの意味を切り捨てる危険があります。
おぼろな理解
 だから、幾つかの意味、幾つかの異なる解釈がある場合は、それらを含む全体の範囲内に、ほんとうの解釈が潜んでいると考えて、それ以上突き詰めて定義したり限定したりしないほうがいいのです。そんなあいまいなことではダメだ。もっと明確にしなければ、と思うのも理解できますが、できる場合は明確にするのもいいでしょう。しかし、できない場合に、無理に明確を求めるのは危険です。誤りです。なぜなら、霊的な言葉、霊的な出来事とは、そもそもその本質において、わたしたち人間の感覚から見れば「あいまい」な事態だからです。「霊的」は「あいまい」と同義語だとさえ言えます。だから「おぼろ」なことを軽く見てはいけません。雷は、そのままでは人間を感電で殺します。しかし、その電気を「おぼろ」にし、弱くすれば、わたしたちにとても大事な恵みになるのです。太陽をまともに見るなら目がやられます。しかし、その光を弱くすることで、美しい光として差し込むのです。奇跡は、宇宙を創造した神の驚くべき力と威力を、わたしたちに 適度な霊的な比喩の出来事として見せてくれるのです。
 わたしたちは、自分の身体に働く命をも含めて、日常生活において「あいまいな世界」に生きているのです。それが「命」(いのち)というものです。人間とは、とらえどころのない生き物だからです。時空も主客も分けられないのが、霊性の世界です。そういうあいまいさの中で、わたしたちは初めて、イエス様の人格性に触れ、イエス様の御臨在に導かれて歩むことが可能になるのです。人には、ものすごい知力と能力が具わっています。だからこそ、その知力と能力を超えるあいまいな世界を謙虚に受けとめて、そこから漏れる恵みの光明に導かれることが、人間にとってとても大事なことになるのです。
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