【注釈】
マルコ福音書の「パン種」
 マルコ福音書では、「パン種」の記事の直前に置かれたファリサイ派の「しるし」の求めに対して、イエスはきっぱりとこれを拒否しています。イエス様のこの厳しい態度と、続いて彼らから「立ち去った」とあることが、そのまま今回の「ファリサイ派のパン種」に対する警告へつながります。マルコ福音書のこの箇所と並行するルカ福音書12章1節は、全く異なった文脈の中にでてきます。だから、「ファリサイ派のパン種」の言葉は、ほんらい、これだけで独立した伝承だったと考えられます。ルカ福音書はイエスの言葉だけを伝えていますが、マルコ福音書は、イエスの「パン種」についての言葉を、これを核に形成された物語として伝えています〔コリンズ『マルコ福音書』385頁〕。
 ところで、マルコ8章15節のイエスの問いかけを省いて、14節から16節へつないで読むと、弟子たちが「一つのパン」しか持っていないために、パンが足りないのではと心配している様子がうかがわれます。これに対してイエス様が、先のパンの奇跡を弟子たちに思い出させて、パン一つさえあれば、12名そこそこの人数が食べるのに十分ではないかと、弟子たちの不信仰と悟りの鈍さを戒めている様子が見えてきます。
 もしもこれがほんらいの物語であったとすれば、マルコはここに15節の「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種」についてのイエスの言葉を挿入したことになります。このために、「偽善のパン種」という全く異なる内容が、ほんらいの物語に入り込む結果になり、弟子たちの不信仰とファリサイ派の偽善という、二つの異なる主題が重ね合わされることになった。このように分析されています。
[14]内容から判断して、舟にはイエスと十二弟子が乗っていたと思われます。パンを忘れたとあるのは、続くイエスの言葉と、弟子たちの誤解を引き出すための設定になります。
【パン】ここでは、「パン」が先の四千人へのパンと関係していることが続くイエスの言葉から分かります。それだけでなく、ここにでてくる「パン」の譬えは、マルコ6章52節とも対応しています。6章52節は、イエスが嵐の湖の上を歩いた不思議な出来事の結びに置かれていて、弟子たちが「パンの出来事」を理解していないことを警告しています。だから「パンの出来事」は、供食の奇跡だけでなく、それ以外の奇跡をも含むイエスの不思議な業に対して、弟子たちが無理解で「心が鈍い」ことを表わすものです。このように見ると、今回のパン問答は、ファリサイ派だけでなく、群衆も、そして弟子たちをも含めて悟りのない「かたくなな心」の人たちに警告を発しているのが分かります。なお、原文ではイエスの言葉が「注意し、警戒せよ」と同義語を重ねています。このように同じ意味の言葉を二重に用いるのはマルコ福音書の特徴です。
[15]【パン種】イエスは、当時の人たちがよく知っている格言や諺(ことわざ)を用いて語ることがありますから、今回の「パン種」の譬えも、よく知られている諺だったのかもしれません。そうだとすれば、「パン種」の譬えは、少数の人たちでも、多くの人々に影響を及ぼすことができることを表わす諺であって、諺それ自体は必ずしも悪い意味ではなかったはずです。だからファリサイ派の人たちは、自分たちの教えを「パン種」にたとえて、「聖なる残りの者たちがイスラエル全体を聖なる民にする」と考えていました。
 ただし新約聖書では、「パン種」は、腐敗・堕落を引き起こす「汚れの素(もと)」とされています(第一コリント5章6節の不道徳のパン種/ガラテヤ5章9節の律法主義のパン種)。「パン種」が悪い意味を帯びるのは、過越で用いる「種を入れないパン」から出ていて、「パン種」は「汚れ」「不純」を象徴するからでしょう。「パン種」は比喩ですから、多種多様な内容に当てはめることができます。上あげたファリサイ派の「教え」の比喩もその一つです。もしもイエスが、ファリサイ派の言う「パン種」の比喩を知っていたとすれば、イエスの言葉は、ファリサイ派に対する鋭い皮肉になっているのが分かります。
【ヘロデのパン種】ヘロデとヘロデ派のことはマルコ3章6節と6章14節以下にでてきます。ヘロデ・アンティパスは、ヘロデ大王の息子で、当時のガリラヤの領主で、洗礼者ヨハネを牢に閉じこめて処刑した人物です。彼は、イエスをも同様に処刑しようとしていたのかもしれません(6章16節参照)。ヘロデは、父の遺志を受け継いで、ローマ帝国の支配を受け容れる政策を採っていました。ここで言う「ヘロデのパン種」は、この意味で、メシアの到来によるイスラエルの独立ではなく、ローマ帝国からの外部支配を借りてイスラエルに民族的な自治王国を建設する路線を指すという説があります〔コリンズ『マルコ福音書』386頁〕。
[16]弟子たちの無理解がここで暴露されますが、それは譬えを<字義どおりに>解釈する誤りから生じた誤解です。イエスの敵対者たちや、イエスの一行の「外の者」たちの無理解だけでなく、ここではイエスの「弟子たちの」無理解が露わになります。このように、今回のパン種問答は、<弟子たちによる誤解と無知>というマルコ福音書独特の主題を明示しています。弟子たちはイエスの譬えを正しく理解することができず、譬えの解釈への無知をさらけ出しています。弟子たちの「誤解と無知」というこの主題は、マルコ4章の「譬えの解釈」、特に4章10~12節へつながるものです。
[17][18]イエスが言う「分からないのか?」は、7章18節で民衆が「(食物のことを)分からない」こととつながっていて、「悟らない」は、6章52節で弟子たちが「(パンのことを)悟らない」を受けています。このようにマルコは、これまでの弟子たちと民衆とファリサイ派との無知と無理解をまとめて、今回のパン種の譬えで総括しています。
【心がかたくな】原文は「(あなたがたは)固くされた心を持つ」です。このギリシア語動詞「ポ-ロー」は「石のように固くする」という意味です(ここでは完了受動態分詞形)。彼らの無知・無理解の元にあるのは「かたくなな心」です。この「かたくなな心」は、イザヤ書6章9~10節「見るは見ても悟るな。聞くは聞いても分かるな。この民の心を肥え太らせよ。その耳を重くし、その眼(まなこ)を覆え」とあるところから出ています。イザヤ書のここの命令形は反語的な用法で、逆の意味です。イザヤは「悟らない」こと「分からない」こと「肥え太る心」を非難しているのです。イザヤ書6章10節の原語「シャーマン」(肥え太る)は命令形ですが、飽き足りて傲慢になり、霊的に鈍い状態を指します(エレミヤ書5章21~25節を参照)。なおマルコ4章12節も、譬えの解釈についてイザヤ書のここを受けています。
[19][21]イエスが、畳みかけるように二つの奇跡の例をあげているのは、弟子たちの理解の鈍さにほとほと困り果てている、という印象を受けます。マルコ福音書が強調する「弟子たちの無理解」が、ここに最も明確に示されています。イエスはここで、パンの奇跡を想い出させることで、弟子たちにパンのことを心配するなと言おうとしている、とこのように受け取るなら、それこそ、イエスから「悟りのなさ」を批判されるでしょう。「心がかたくな」で「悟りが鈍い」ことは、5千人へのパンの奇跡だけでなく、イエスが湖の上を歩いた奇跡の後でも指摘されていますから(6章52節)、「悟りが鈍い」のはイエスの奇跡全体についての彼らの「悟りのなさ」を責めているとも受け取れます。しかし、「悟りのなさ」は、はたして、イエスの奇跡の業への弟子たちの無理解だけでしょうか? 問題はそれよりもさらに深く、イエスの存在そのもの、イエスの霊性の意義それ自体に対する人々の、特に弟子たちの理解のなさを指しているのです〔コリンズ『マルコ福音書』388頁〕。
 マルコ福音書では、弟子たちの無理解が、最後の十字架の場においてイエスのほんとうの姿が弟子たちに顕わされる(マルコ15章39節)まで続きます。マルコ福音書は、言わば、イエスが誰であるのか? 言い換えるとイエスの霊性について弟子たちが真の理解に到達するまでの長い「教育課程」であるという見方があります〔フランス『マルコ福音書』314頁〕。なお、篭の数、(12)と(7)については、それぞれの奇跡の箇所を参照してください。
マタイ8章
 マルコ福音書の物語では、弟子たちのパンについての不信仰と、これに挿入されたファリサイ派のパン種(偽善)への注意、すなわち、パンが足りないことへの心配と、偽善に陥ることへの警戒との二つの異なる主題が重なって、物語の主旨が分かりにくくなっています。
 これに対してマタイ福音書のほうでは、マルコ福音書の「一つのパン」を省き、弟子たちがパンを忘れたという状況の中で、イエスのパン種の言葉が語られます。弟子たちがイエスの言葉を誤解しているのを知って、イエスが先のパンの奇跡を思い出させると、弟子たちは、イエスの言う「パン種」の真意を悟ることができます。マタイ福音書では、このように、イエスの言う「パン種」についての弟子たちの誤解と、その誤りを正すイエスの教えとが一つながりなって、物語が一貫した内容になっています。また、マルコ福音書では、弟子たちは最後まで「悟らない」状態で終わっているのに対して、マタイ福音書では、一時的な誤解の後で、イエスの言葉の意味を正しく認識することで終わっていますから、この点でも、マルコ福音書とマタイ福音書とは異なっています。
 マルコ福音書とマタイ福音書とは、この出来事が置かれている前後関係も、でてくる用語も、多くの点で共通しています。このことと、上に述べたことを考え併せると、おそらくマタイのほうが、マルコ福音書を踏まえてこれを整理して内容を首尾一貫させたと考えられます。
[5]マルコ福音書では、この問答は舟の中で行なわれましたが、マタイ福音書では「向こう岸」へついた後のことになります。マタイ福音書では、弟子たちが「一つのパンしか持ってこなかった」(マルコ8章14節)ことが省かれていますから、弟子たちがパンを忘れてきたことだけが、続くイエスの言葉を誤解する原因として語られることになります(「一つだけ」を入れると、弟子たちはパンの数が気になっていたことを示唆することになります)。なお、マタイは「向こう岸へ」を加えて、イエスの一行が、ガリラヤ湖東南の沿岸から、舟で北のベトサイダへ向かったことがはっきりします。
[6]マタイは、マルコ福音書の「ヘロデのパン種」の代わりに「サドカイ派のパン種」を入れています。これは、「<ヘロデの>パン種」の意味が偽善とどのように関係するのかが分かりにくいからでしょう。また、ここをマタイ16章1節(この節の注釈を参照)と一致させることで、イエスの頃のユダヤ教の指導層(とその偽善)を指していることをはっきりさせています。その上でマタイは、「パン種」を彼ら指導層の「教え」と結びつけています。またマルコ福音書では「注意し、警戒せよ」と同義語か重なっているのを「注意しなさい」だけにしています。
[7]マルコ福音書では「互いに論じ合っていた」ですが、マタイ福音書では「彼らの内で論じ合う/推論していた」です。「彼らの内で」を「彼らの間で」の意味に採れば、マルコ福音書と同じ意味になりますが、彼らがその「心の内で」の意味に採れば、弟子たちは内心で、イエスの言葉を推理していたことになります。もしも後の場合であれば、イエスは弟子たちの心を「見抜いて」言われたことになりましょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)590頁〕。
[8]【信仰の薄い者】原語は1語で、マタイ福音書だけの用語です。マタイ7章26節では、ペトロが周囲の嵐の海に恐れを抱いたのですが、今回の箇所では、弟子たちがイエスの言葉を聞いて不安になったのです。なお、マルコ福音書では、「パンを持って<いない>」ことが不安の種になりますが、マタイ福音書では「パンを持って<こなかった>」ことが心配になります。
[9][10]マタイ福音書では、マルコ福音書8章17~20節の部分が大幅に縮小されていますが、用語はマルコ福音書と同じです。最大の違いは、マタイ福音書には、マルコ福音書にある「弟子たちのかたくなな心」に対する批判と、これを強調するイザヤ書からの引用が抜けていることです。マタイ福音書では、先にイエスの弟子たちと「外の人たち」とを区別して、外の人々は「御国の秘密」を悟ることが許されていないが、弟子たちにはそれが許されているとあります(マタイ13章10~16節)。同様に今回の箇所でも、ファリサイ派とサドカイ派は、しるしを求めても得られないが、弟子たちは、パン種の比喩を通じて、イエスの教えを悟るよう導かれるのです(16章12節)。
[11]マルコ福音書では、イエスの問いかけに対して、弟子たちは「十二です」「七つです」と応え、これを受けてイエスが「まだ悟らないのか」と注意をうながします。しかし、マタイ福音書では弟子たちの答えも省かれていて、イエスはパン種の譬えがファリサイ派たちの「教え」であることを悟らせます。マタイ13章の「譬えの解釈」がここでも大事な課題になるのです。
[12]マルコ福音書では、「ファリサイ派の<パン種>とヘロデの<パン種>」とあって、ファリサイ派とヘロデ党とは、それぞれ違った性質の誤り(パン種)を抱えているように受け取れますが、マタイ福音書では、ファリサイ派とサドカイ派とが一まとめにされて、「彼らのパン種」になっています。性質が異なる二つの党派をこのようにまとめるのはおかしいという説がありますが、ここではこの二つの党派がユダヤ教の指導者全体を表わしていて、イエスは、ユダヤ教の指導者たちの教えに注意することを求めているのです。おそらくここには、マタイの教会がその当時行なっていたユダヤ教の指導層との論争が背景にあります。マタイ福音書の集会には、ユダヤ教の会堂に所属していた人たちがいたのでしょう。また、マタイ自身もユダヤ教の指導層との論争に携わった経験があるのでしょう。ちなみにここでも、「ファリサイ派とサドカイ派のパン種」が、何を意味<しない>かを悟ることが大事です。なぜなら、この譬えは、彼らの教えや言うことがことごとく誤りだとして退けて<いない>からです(マタイ23章2~3節参照)〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)593頁〕。
ルカ12章
[1]ルカ福音書でのイエスのこの言葉は、ルカ11章でファリサイ派と律法学者たちに一連の「禍(わざわ)いだ」を告げた後に続きます。だからルカは、パン種の譬えが「偽善」を意味すると、彼の解釈を明確にしています。用いられている用語はマルコ=マタイ福音書と共通する部分も異なるところもありますから、これはルカだけの特殊資料から出ていると思われます(12章は一連のルカだけの伝承に基づいています)。マルコ福音書とルカ福音書の特殊資料とのこの一致は、ルカ福音書のここの言葉が、イエスにさかのぼる真正性を持つことを意味しています。
【まず弟子たちに】大勢の群衆に取り囲まれながら、「先ず」弟子たちに語ったとありますが、原文は「弟子たちに語り始められた。<まず>。注意しなさい~」ですから、「先ず」を後にかけて、「先ず何よりも警戒しなさい」の意味に採ることもできます。
【偽善】ルカ福音書だけがパン種を「偽善」と解釈しています。マタイ福音書では「(ファリサイ派やサドカイ派の)教え」です。マタイ福音書では偽善/偽善者が14回ほどでてきますが(マタイ23章3~4節は今回の「偽善」の意味を説き明かしています)、ルカ福音書では4回でそれほど多くありません(ルカ6章42節/12章56節/13章15節)。それだけにここの「偽善」が、マタイ福音書にはなくてルカ福音書にあるのが注目されています。ファリサイ派の偽善についてはルカ18章9~14節をも参照してください。
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